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第七章・二転三転
第45話 幕長戦争(後編)
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西郷との会談の三日後、パークスは長崎に戻った。
そして長崎に来ていたロッシュがパークスに会いに来て、二人は日本の国内問題について話し合った。
ロッシュは幕府(老中)からの依頼を忠実に守り、パークスの鹿児島訪問に対して警告を発した。
「我々外国人が大名と交流するのは悪くないことではあるが、現在のような状況下で将軍と不仲な藩主をイギリス公使が訪問するのは、いらぬ誤解を招きかねず、将軍を苦境に立たせるおそれがある」
そして話し合いの争点は「下関をどうするのか?英仏が幕長間の調停をするのか?」という話に移った。
幕長戦争が始まる直前にパークスが下関へ行った際に「帰路、立ち寄った時に藩主と面会する」と高杉に話していた。
またロッシュも先日下関へ行った際に「帰路、長州が幕府と講和するかどうか、返事を聞きに来る」と高杉に言ってあった。
二人とも帰路、下関へ立ち寄る予定になっているのである。
それで、この長崎で話し合っていても埒が明かないので、とにかく二人して下関へ向かうことになった。
六月二十四日、パークスとロッシュはそれぞれ自国の船に乗って下関海峡へやって来た。
下関海峡の戦況は、十七日に高杉が小倉側に攻撃をしかけて以降、特に戦況に変化はなく、膠着状態が続いていた。
パークスとロッシュはそれぞれ個別に、幕府と長州の代表と面会することにした。
幕府の代表は小倉城にいる小笠原で、長州の代表は木戸である。
木戸はこの時、英仏代表と会うために下関へ出て来ていた。
そして木戸の補佐役として俊輔も随行して来ていた。
まずパークスは下関で木戸と会談した。もちろん俊輔も同席して通訳にあたった。
パークスはロッシュと違ってこの戦争に深入りする気はなかったので、幕長間の調停にも消極的であった。
そしてこのパークスの姿勢こそが、木戸の望むところでもあった。
パークスはこの会談で長州藩の現状を確認することに専念したのだった。
木戸はパークスに対して長州の正当性を主張した。
「我々は幕府からの不当な要求を受けいれるつもりはなかったし、戦わずに屈服するつもりもなかった。しかるに幕府は大島を攻撃して無辜の民を殺し、また略奪もした。それゆえ我が軍は幕府軍を攻撃して各地で撃破した。我々は独力で戦わねばならないことを承知しているが、藩内は一致団結しており、必ず国土を守りきれると確信している。我々は外国に援助を求めるつもりはなく、ただこの戦争に対して干渉しないことを望むだけである」
木戸や西郷などはかなり古い時代から政治活動に参加しており、政治的な修羅場を何度も経験してきた。
だからこそ、こういった場面でもイギリス公使に対して毅然とした態度が取れた。
しかしながら俊輔はまだまだ若かった。
この少し前に俊輔は、木戸に対して次のような意見を具申していた。
「我が藩の海軍は幕府海軍と比べてあまりにも劣勢です。この際、馬関(下関)の防衛をイギリスに頼んでみてはどうでしょう?」
むろん、木戸は即座に俊輔の意見を却下した。
「以前は尊王攘夷に凝り固まっていたお前がそんなことを言い出すなんて、人間、変われば変わるものだな。外国に助けてもらうぐらいなら、そのまま負けて滅びたほうが良い。第一、そんなあからさまにイギリスの助けを借りて、もし勝てたとしても、結局日本中からそっぽを向かれることになるぞ」
実はこのあとパークスが小笠原と面会した際に
「下関のような繁華な町を焼き払うのは商業的損失が大きいので、上陸作戦をやるなら別の場所でやるべきだ」
とパークスは下関の町を守るような発言をして小笠原を牽制するので、俊輔の考えはあながちイギリスの方針から外れていた訳ではなかったのかも知れないが、それでもさすがにこの俊輔の意見具申は勇み足であったと言わねばなるまい。
ところでパークスは藩主・毛利敬親との面会については「ロッシュ公使も一緒なら面会する」と述べて、とりあえずこの件はロッシュの返事待ちということになった。
薩摩藩主ならともかく、幕府と戦争中の長州藩主にパークスが単独で面会するとなると幕府から無用の嫌疑を招くことになりかねず、しかも内政不干渉の方針にも反するおそれがあるので単独で会うことは避けたのだ。
次にロッシュが木戸と会談した。俊輔は、フランス語は通訳できないので木戸の補助役に徹した。
ロッシュは冒頭、長州が田野浦と門司を焼き払ったことに対して強く非難した。そして先日手紙で伝えた「講和勧告」の回答を求めた。
もちろん木戸は「講和勧告」を拒否した。あとはパークスに説明したことをくり返しロッシュにも説明した。要するに「悪いのは幕府である」と。
さらに木戸はロッシュに対して
「もし貴殿が我が主君(藩主)と面会するのであれば、そこで講和勧告の話を持ち出してはならない」
と藩主との面会に厳しい条件を付けた。
結局ロッシュは藩主と面会するのを拒否して、長州に対する説得(というか降伏勧告)もあきらめるしかなかった。そして自動的に、パークスが藩主と面会する話も消滅したのだった。
このあとロッシュは小倉側へ行って、小笠原長行と会談した。
ここでロッシュは物心両面に渡って全力で幕府を支援する姿勢を見せた。
一方小笠原も、まったくロッシュに頼りきるかたちだった。
ロッシュは北アフリカでの軍事経験が豊富なので、長州攻略作戦を具体的に小笠原へ伝授した。
「下関の西側にある彦島を全力で奪取し、陣地を構築する。そうすれば長崎から下関への物流を遮断することができ、長州は武器の密輸ができなくなる」
なるほど理にかなった作戦ではあるが、この作戦が幕府軍によって実行された形跡はない。おそらく防戦一方だった幕府軍としては、そんな攻勢をかける余裕もなかったのだろう。
そして小笠原はロッシュに対して軍艦・大砲・小銃をフランスから送ってくれるように依頼した。
これはこのあとロッシュと面会する幕閣、例えば板倉勝静、本荘宗秀、さらには慶喜も含めて、全員がロッシュに同様の依頼をすることになる。
まあ、俊輔が言っていた「イギリス海軍を頼って」みたいな、フランス軍に直接援助を頼むようなことはさすがにしなかったが(というか、そもそもフランス軍には極東にそれほど頼みになる戦力もなかったが)負け戦が続いて尻に火がついたせいか、幕閣もなりふり構わない姿勢を見せるようになった。
このあと小笠原はパークスにも「極東にあるイギリス軍艦を一隻、幕府に売ってくれないか?」と打診したが、パークスは「軍艦の売却は公使の権限外である」と言ってそれを拒否した。
幕府が、かつては「英仏の援助を断り続けてきた」ということは、この物語で何度か指摘してきた。
幕府のこれまでの方針は
「独力でやれるところまではやる。しかし、もし独力で勝てなくなった場合は、外国の力を借りるしかない」
というものだった(生麦賠償金騒動の時に、外国奉行の竹本正雅がそのように述べていた)。
そしてとうとう、この「独力で勝てなくなった場合」に直面したのである。
いや。そもそも幕府はこれまで「独力で勝った」ことなど一度もなく、常に戦いを避けるか、あるいは諸藩の軍に戦いを丸投げしてきた。
事実この幕長戦争でも、幕府直属の軍はほとんど戦線に投入されておらず、大坂に残ったままだった。何度も実戦を経験してきた薩長の軍とはまるで正反対である。
ともかくも、下関海峡における英仏両公使と、幕長両代表との会談は大体こういった経緯を経て、終了した。
パークスに随行していたウィリスはこの時のことを次のように手紙で書いている。
「下関海峡ではとても愉快でした。フランスとイギリスの公使は策略を駆使して、お互いに相手を出し抜こうとしていました。一方がある場所へ出かけると、他方もまたすぐそこへ出かけ、一方が日本側の役人と面会すると、他方もまたその役人と面会する、という具合でした」
この後、パークスは宇和島藩を表敬訪問するために四国へ向かい、ロッシュは幕閣と面会するために大坂へ向かった。
パークスとロッシュが下関を去り、小倉口での戦争が再開したのは七月三日のことだった。
この時は幕府海軍の主力艦、富士山丸が下関海峡に来ていた。さらに順動丸と翔鶴丸も配備され、強力な艦隊を編成していた。
そこで長州軍はこの日の未明、和船に大砲三台を積み込んで富士山丸に近づき、暗闇の中から撃ちかけた。
この奇襲作戦は一応成功したものの、それほど大きな損害を与えることはできなかった。
このあと丙寅丸などの長州艦隊と彦島の砲台が幕府艦隊に攻撃を開始し、たちまち両者の間で砲撃戦が展開されるに至った。
この間、前回と同様に上陸部隊が小倉側に渡海して、今回は大里(現在のJR門司駅周辺)まで長州軍は進撃した。
そして、やはり前回と同様に熊本藩など諸藩の援軍は小倉城を動かず、今回も小倉藩軍が単独で長州軍と戦うことになった。このような状況で小倉藩軍が長州軍に抗せるはずもなく、結局大里から小倉城へ撤退することになった。
長州軍は大里の町を焼き払い、今回も敵地に残留せず、日が暮れる前に下関へ引き返した。
三回目の小倉口での戦争は七月二十七日におこなわれた。
いわゆる「赤坂の戦い」と呼ばれる、この小倉口で最大の激戦となった戦いである。
この日は高杉が病をおして出陣し、前回陥落させた大里の町に本陣を構えた。
長州軍はここから小倉城へ向かって進軍するのだが、その中間地点にあるのが赤坂である。
この戦いでは初めて熊本藩軍が戦いに参加した。
熊本藩軍は小倉口における幕府軍の主力であり、装備も優秀だった。
この赤坂の戦いでは熊本藩軍が優秀なアメリカ製の大砲を駆使し、長州軍に大打撃を与えた。
長州軍の死傷者数は百名を超え、この幕長戦争で最大の犠牲者を出すことになった。
大損害をうけた長州軍はひとまず小倉城の攻略をあきらめて大里へ退却した。そして一部の兵を大里に残し、高杉を含む大部分の兵は下関へ退却した。
小倉口の戦いも三回目に及んで、初めて長州軍が、いや高杉が負けたのである。
にもかかわらず、小倉城は四日後(八月一日)落城した。
この前日に小倉口の総指揮官、小笠原長行が富士山丸に乗って逃亡した。そのため熊本藩軍を含めた諸藩軍も小倉から撤収して国元へ帰っていった。
孤立無援となった小倉藩軍は城および城下に火をかけ、南の田川郡へと落ちのびていったのである。
この急展開の原因は、言わずと知れた「将軍家茂の死」(七月二十日に死去)が小倉に伝わったからだった。
死因は脚気であった。享年二十一。
この将軍の急死によって幕府軍の敗北は決定的となった。
確かに兵の数では、幕府軍と長州軍には二十倍の兵力差があった。
けれども幕府軍の大半は諸藩の兵で、それら諸藩はそれほど長州に対して悪意を抱いていなかった(ただし下関海峡を挟んでずっとにらみ合っていた小倉藩は別である)。
それゆえ諸藩の兵は士気も低かった。
「なぜ幕府のために憎くもない長州と戦って、我々が犠牲にならねばならないのか?」
言うなれば、彼らは嫌々戦っていたのである。兵の士気が高かろうはずがない。
それでいて、長州軍のほうが「ミニエー銃」と「散兵戦術」で戦いを優位に進めることができたのだから、幕府軍が敗北するのも無理はなかった。
とはいえ、幕府上層部にもう少しまともな人材がいて、さらに幕府海軍をもう少し有効に運用していたならば、ここまで惨敗はしなかっただろう。
以下、余談を少々付け加える。
家茂の死後、慶喜が、将軍職就任を固辞しながらも徳川宗家だけは引き継ぎ、その上で孝明天皇から長州征討の勅許および節刀を賜り、居並ぶ幕臣たちの前で長州への「大討込」を宣言した。
「此度、予が出馬するからには、たとえ千騎が一騎になろうとも山口城まで進入し、戦を決する覚悟なり。その方たちも予と同じ決心なら予に随従すべし。その覚悟がない者は随従するにおよばず」
この慶喜のセリフは、当時家臣だった渋沢栄一が後に手掛けた『徳川慶喜公伝』に書いてある。
そしてこの本には、当時このセリフを聞いた渋沢の気持ちも書かれている。
「今こそ一身を君国に捧げる時であると喜びながらも、以前は自分も尊王攘夷を唱えて長州を慕っていただけに、まさかその長州を征討する軍勢に加わることになろうとは、と非常に複雑な気持ちだった」
渋沢が慶喜の一橋家に仕える前に、横浜襲撃などの攘夷実行計画をくわだてていたことは、この物語で以前少しだけ触れた。この渋沢の複雑な感慨は、そのことを意識してのものである。
そして、これも言うまでもない話だが、慶喜の長州への「大討込」は結局中止となった。
小笠原が小倉城から逃亡し、小倉の幕府軍が解兵になったという情報が届くと、慶喜はあっさりと出陣を取りやめたのである。
この頃幕府が置かれていた状況について、世評では次のように語られていた。
「諸藩は兵を引き、将軍は死に、出兵の名分は立たず、薩摩は京都に兵を置き、英仏の船は西国を徘徊し、そして一揆や打ちこわしが各地で頻発している」
さらに言うと、大坂にいた幕府直属軍の士気も低かった。
この時大坂に滞陣していた幕府御家人の中西関次郎という人物が、当時の大坂での暮らしぶりについて書き残している。
それによると中西は長州での戦争にはほとんど関心を抱かず、物見遊山に出かけたり、連日銭湯へ行ったりして遊興にふけっていた。そして暇を見つけては内職に精を出して小銭を稼ぎ、時には町娘たちにちょっかいを出して遊んでいる、といった様子が記録されている。
もちろん幕府直属軍の全部が全部、中西のような「ごくつぶし」ばかりではなかったであろうが、長州人と比べると、あまりにも危機意識が薄すぎると言わざるを得ない。
幕府を取り巻く状況がこんな風であれば、慶喜としても長州征討をあきらめるしかなかったろう。
この頃、俊輔は長崎にいた。
幕府海軍と比べてあきらかに劣勢な長州海軍を補強するため、再びグラバーから蒸気船を買ってくるよう藩から命じられたのである。最初にこの命令を受けたのは七月初旬のことだった。
そして長崎のグラバーのところへやって来ると、そこにたまたま薩摩の五代がいた。
五代も松木同様、この時すでにヨーロッパから帰って来ていたのである(松木よりも二ヶ月ほど早く帰国していた)。
俊輔が五代と会うのは、この物語の冒頭(第1話)以来である。
生麦事件の直前に東海道の金谷宿で会って以来のことで、四年ぶりということになる。ただし、その時の俊輔は木戸の従者という立場だったから、五代が俊輔のことを憶えているはずもなかった。
けれども、この時二人は意気投合した。
なにしろ二人ともイギリス帰りだったので話が合ったのだ。
(この五代という男は根っからの商売好きのようだ。その点、坂本龍馬と似ているようで、実は似ていない。龍馬も一見商人のように見えるが、むしろ政治家向きの男だ。龍馬が長薩同盟を成し遂げた時、ワシは心底感心した。周旋家を目指すワシとしても、将来龍馬のように大きな仕事がしたいものだ)
五代とグラバーの斡旋もあって、俊輔は蒸気船二隻を購入することができた。
当然今回も薩摩名義での購入である。そして俊輔は七月中旬に長州へ戻った。
ところが、そのあとグラバーから俊輔へ連絡が来た。俊輔が購入した二隻の蒸気船を幕府が強制的に買い上げてしまった、と。
幕府もこの頃には、グラバーが武器や蒸気船を薩摩経由で長州へ渡していたことに気がついたのだろう。長州が蒸気船を入手できないように手を回したのである。
そんな訳で俊輔は七月下旬、再び長崎へやって来た。
(もう一度長崎で蒸気船を購入しても、また幕府に横取りされてしまうかもしれない)
そう考えた俊輔はグラバーと相談して、今度は上海まで足をのばして海外で蒸気船を購入することにした。
さすがに上海では幕府に妨害されることもなく、無事二隻の蒸気船を購入することができた。ただしその二隻が長州へ回航されるのは、どんなに早くても十月になるということだった。
結局のところ、俊輔が購入してきた二隻の蒸気船は実戦投入に間に合わなかった。
九月二日に厳島で、幕長戦争の休戦協定が結ばれたのである。
厳島に来た幕府側の代表は勝海舟で、長州側の代表は聞多たち数人だった。
俊輔が上海から長崎に戻ってきたのは八月中旬のことだった。
いつものように俊輔が薩摩藩邸を訪れてみると、そこに龍馬がいた。
龍馬は俊輔に自身の苦境を語った。
「長州に乙丑丸を渡してから自分たちの乗る船が無くなってしまったのだ。それで泣く泣く水夫たちに暇を出そうとしたら皆が『死ぬまで一緒です』と言って、俺のそばから去ろうとせん。まったくありがたいやら切ないやらで、どうしたもんかのう……」
俊輔は龍馬の顔を見つめながら、つくづく思った。
(ついこの前まで軍船に乗って幕府と戦争していた男が、今は水夫たちの身の振り方に頭を悩ませているとは……。まったく妙な男だ)
そして長崎に来ていたロッシュがパークスに会いに来て、二人は日本の国内問題について話し合った。
ロッシュは幕府(老中)からの依頼を忠実に守り、パークスの鹿児島訪問に対して警告を発した。
「我々外国人が大名と交流するのは悪くないことではあるが、現在のような状況下で将軍と不仲な藩主をイギリス公使が訪問するのは、いらぬ誤解を招きかねず、将軍を苦境に立たせるおそれがある」
そして話し合いの争点は「下関をどうするのか?英仏が幕長間の調停をするのか?」という話に移った。
幕長戦争が始まる直前にパークスが下関へ行った際に「帰路、立ち寄った時に藩主と面会する」と高杉に話していた。
またロッシュも先日下関へ行った際に「帰路、長州が幕府と講和するかどうか、返事を聞きに来る」と高杉に言ってあった。
二人とも帰路、下関へ立ち寄る予定になっているのである。
それで、この長崎で話し合っていても埒が明かないので、とにかく二人して下関へ向かうことになった。
六月二十四日、パークスとロッシュはそれぞれ自国の船に乗って下関海峡へやって来た。
下関海峡の戦況は、十七日に高杉が小倉側に攻撃をしかけて以降、特に戦況に変化はなく、膠着状態が続いていた。
パークスとロッシュはそれぞれ個別に、幕府と長州の代表と面会することにした。
幕府の代表は小倉城にいる小笠原で、長州の代表は木戸である。
木戸はこの時、英仏代表と会うために下関へ出て来ていた。
そして木戸の補佐役として俊輔も随行して来ていた。
まずパークスは下関で木戸と会談した。もちろん俊輔も同席して通訳にあたった。
パークスはロッシュと違ってこの戦争に深入りする気はなかったので、幕長間の調停にも消極的であった。
そしてこのパークスの姿勢こそが、木戸の望むところでもあった。
パークスはこの会談で長州藩の現状を確認することに専念したのだった。
木戸はパークスに対して長州の正当性を主張した。
「我々は幕府からの不当な要求を受けいれるつもりはなかったし、戦わずに屈服するつもりもなかった。しかるに幕府は大島を攻撃して無辜の民を殺し、また略奪もした。それゆえ我が軍は幕府軍を攻撃して各地で撃破した。我々は独力で戦わねばならないことを承知しているが、藩内は一致団結しており、必ず国土を守りきれると確信している。我々は外国に援助を求めるつもりはなく、ただこの戦争に対して干渉しないことを望むだけである」
木戸や西郷などはかなり古い時代から政治活動に参加しており、政治的な修羅場を何度も経験してきた。
だからこそ、こういった場面でもイギリス公使に対して毅然とした態度が取れた。
しかしながら俊輔はまだまだ若かった。
この少し前に俊輔は、木戸に対して次のような意見を具申していた。
「我が藩の海軍は幕府海軍と比べてあまりにも劣勢です。この際、馬関(下関)の防衛をイギリスに頼んでみてはどうでしょう?」
むろん、木戸は即座に俊輔の意見を却下した。
「以前は尊王攘夷に凝り固まっていたお前がそんなことを言い出すなんて、人間、変われば変わるものだな。外国に助けてもらうぐらいなら、そのまま負けて滅びたほうが良い。第一、そんなあからさまにイギリスの助けを借りて、もし勝てたとしても、結局日本中からそっぽを向かれることになるぞ」
実はこのあとパークスが小笠原と面会した際に
「下関のような繁華な町を焼き払うのは商業的損失が大きいので、上陸作戦をやるなら別の場所でやるべきだ」
とパークスは下関の町を守るような発言をして小笠原を牽制するので、俊輔の考えはあながちイギリスの方針から外れていた訳ではなかったのかも知れないが、それでもさすがにこの俊輔の意見具申は勇み足であったと言わねばなるまい。
ところでパークスは藩主・毛利敬親との面会については「ロッシュ公使も一緒なら面会する」と述べて、とりあえずこの件はロッシュの返事待ちということになった。
薩摩藩主ならともかく、幕府と戦争中の長州藩主にパークスが単独で面会するとなると幕府から無用の嫌疑を招くことになりかねず、しかも内政不干渉の方針にも反するおそれがあるので単独で会うことは避けたのだ。
次にロッシュが木戸と会談した。俊輔は、フランス語は通訳できないので木戸の補助役に徹した。
ロッシュは冒頭、長州が田野浦と門司を焼き払ったことに対して強く非難した。そして先日手紙で伝えた「講和勧告」の回答を求めた。
もちろん木戸は「講和勧告」を拒否した。あとはパークスに説明したことをくり返しロッシュにも説明した。要するに「悪いのは幕府である」と。
さらに木戸はロッシュに対して
「もし貴殿が我が主君(藩主)と面会するのであれば、そこで講和勧告の話を持ち出してはならない」
と藩主との面会に厳しい条件を付けた。
結局ロッシュは藩主と面会するのを拒否して、長州に対する説得(というか降伏勧告)もあきらめるしかなかった。そして自動的に、パークスが藩主と面会する話も消滅したのだった。
このあとロッシュは小倉側へ行って、小笠原長行と会談した。
ここでロッシュは物心両面に渡って全力で幕府を支援する姿勢を見せた。
一方小笠原も、まったくロッシュに頼りきるかたちだった。
ロッシュは北アフリカでの軍事経験が豊富なので、長州攻略作戦を具体的に小笠原へ伝授した。
「下関の西側にある彦島を全力で奪取し、陣地を構築する。そうすれば長崎から下関への物流を遮断することができ、長州は武器の密輸ができなくなる」
なるほど理にかなった作戦ではあるが、この作戦が幕府軍によって実行された形跡はない。おそらく防戦一方だった幕府軍としては、そんな攻勢をかける余裕もなかったのだろう。
そして小笠原はロッシュに対して軍艦・大砲・小銃をフランスから送ってくれるように依頼した。
これはこのあとロッシュと面会する幕閣、例えば板倉勝静、本荘宗秀、さらには慶喜も含めて、全員がロッシュに同様の依頼をすることになる。
まあ、俊輔が言っていた「イギリス海軍を頼って」みたいな、フランス軍に直接援助を頼むようなことはさすがにしなかったが(というか、そもそもフランス軍には極東にそれほど頼みになる戦力もなかったが)負け戦が続いて尻に火がついたせいか、幕閣もなりふり構わない姿勢を見せるようになった。
このあと小笠原はパークスにも「極東にあるイギリス軍艦を一隻、幕府に売ってくれないか?」と打診したが、パークスは「軍艦の売却は公使の権限外である」と言ってそれを拒否した。
幕府が、かつては「英仏の援助を断り続けてきた」ということは、この物語で何度か指摘してきた。
幕府のこれまでの方針は
「独力でやれるところまではやる。しかし、もし独力で勝てなくなった場合は、外国の力を借りるしかない」
というものだった(生麦賠償金騒動の時に、外国奉行の竹本正雅がそのように述べていた)。
そしてとうとう、この「独力で勝てなくなった場合」に直面したのである。
いや。そもそも幕府はこれまで「独力で勝った」ことなど一度もなく、常に戦いを避けるか、あるいは諸藩の軍に戦いを丸投げしてきた。
事実この幕長戦争でも、幕府直属の軍はほとんど戦線に投入されておらず、大坂に残ったままだった。何度も実戦を経験してきた薩長の軍とはまるで正反対である。
ともかくも、下関海峡における英仏両公使と、幕長両代表との会談は大体こういった経緯を経て、終了した。
パークスに随行していたウィリスはこの時のことを次のように手紙で書いている。
「下関海峡ではとても愉快でした。フランスとイギリスの公使は策略を駆使して、お互いに相手を出し抜こうとしていました。一方がある場所へ出かけると、他方もまたすぐそこへ出かけ、一方が日本側の役人と面会すると、他方もまたその役人と面会する、という具合でした」
この後、パークスは宇和島藩を表敬訪問するために四国へ向かい、ロッシュは幕閣と面会するために大坂へ向かった。
パークスとロッシュが下関を去り、小倉口での戦争が再開したのは七月三日のことだった。
この時は幕府海軍の主力艦、富士山丸が下関海峡に来ていた。さらに順動丸と翔鶴丸も配備され、強力な艦隊を編成していた。
そこで長州軍はこの日の未明、和船に大砲三台を積み込んで富士山丸に近づき、暗闇の中から撃ちかけた。
この奇襲作戦は一応成功したものの、それほど大きな損害を与えることはできなかった。
このあと丙寅丸などの長州艦隊と彦島の砲台が幕府艦隊に攻撃を開始し、たちまち両者の間で砲撃戦が展開されるに至った。
この間、前回と同様に上陸部隊が小倉側に渡海して、今回は大里(現在のJR門司駅周辺)まで長州軍は進撃した。
そして、やはり前回と同様に熊本藩など諸藩の援軍は小倉城を動かず、今回も小倉藩軍が単独で長州軍と戦うことになった。このような状況で小倉藩軍が長州軍に抗せるはずもなく、結局大里から小倉城へ撤退することになった。
長州軍は大里の町を焼き払い、今回も敵地に残留せず、日が暮れる前に下関へ引き返した。
三回目の小倉口での戦争は七月二十七日におこなわれた。
いわゆる「赤坂の戦い」と呼ばれる、この小倉口で最大の激戦となった戦いである。
この日は高杉が病をおして出陣し、前回陥落させた大里の町に本陣を構えた。
長州軍はここから小倉城へ向かって進軍するのだが、その中間地点にあるのが赤坂である。
この戦いでは初めて熊本藩軍が戦いに参加した。
熊本藩軍は小倉口における幕府軍の主力であり、装備も優秀だった。
この赤坂の戦いでは熊本藩軍が優秀なアメリカ製の大砲を駆使し、長州軍に大打撃を与えた。
長州軍の死傷者数は百名を超え、この幕長戦争で最大の犠牲者を出すことになった。
大損害をうけた長州軍はひとまず小倉城の攻略をあきらめて大里へ退却した。そして一部の兵を大里に残し、高杉を含む大部分の兵は下関へ退却した。
小倉口の戦いも三回目に及んで、初めて長州軍が、いや高杉が負けたのである。
にもかかわらず、小倉城は四日後(八月一日)落城した。
この前日に小倉口の総指揮官、小笠原長行が富士山丸に乗って逃亡した。そのため熊本藩軍を含めた諸藩軍も小倉から撤収して国元へ帰っていった。
孤立無援となった小倉藩軍は城および城下に火をかけ、南の田川郡へと落ちのびていったのである。
この急展開の原因は、言わずと知れた「将軍家茂の死」(七月二十日に死去)が小倉に伝わったからだった。
死因は脚気であった。享年二十一。
この将軍の急死によって幕府軍の敗北は決定的となった。
確かに兵の数では、幕府軍と長州軍には二十倍の兵力差があった。
けれども幕府軍の大半は諸藩の兵で、それら諸藩はそれほど長州に対して悪意を抱いていなかった(ただし下関海峡を挟んでずっとにらみ合っていた小倉藩は別である)。
それゆえ諸藩の兵は士気も低かった。
「なぜ幕府のために憎くもない長州と戦って、我々が犠牲にならねばならないのか?」
言うなれば、彼らは嫌々戦っていたのである。兵の士気が高かろうはずがない。
それでいて、長州軍のほうが「ミニエー銃」と「散兵戦術」で戦いを優位に進めることができたのだから、幕府軍が敗北するのも無理はなかった。
とはいえ、幕府上層部にもう少しまともな人材がいて、さらに幕府海軍をもう少し有効に運用していたならば、ここまで惨敗はしなかっただろう。
以下、余談を少々付け加える。
家茂の死後、慶喜が、将軍職就任を固辞しながらも徳川宗家だけは引き継ぎ、その上で孝明天皇から長州征討の勅許および節刀を賜り、居並ぶ幕臣たちの前で長州への「大討込」を宣言した。
「此度、予が出馬するからには、たとえ千騎が一騎になろうとも山口城まで進入し、戦を決する覚悟なり。その方たちも予と同じ決心なら予に随従すべし。その覚悟がない者は随従するにおよばず」
この慶喜のセリフは、当時家臣だった渋沢栄一が後に手掛けた『徳川慶喜公伝』に書いてある。
そしてこの本には、当時このセリフを聞いた渋沢の気持ちも書かれている。
「今こそ一身を君国に捧げる時であると喜びながらも、以前は自分も尊王攘夷を唱えて長州を慕っていただけに、まさかその長州を征討する軍勢に加わることになろうとは、と非常に複雑な気持ちだった」
渋沢が慶喜の一橋家に仕える前に、横浜襲撃などの攘夷実行計画をくわだてていたことは、この物語で以前少しだけ触れた。この渋沢の複雑な感慨は、そのことを意識してのものである。
そして、これも言うまでもない話だが、慶喜の長州への「大討込」は結局中止となった。
小笠原が小倉城から逃亡し、小倉の幕府軍が解兵になったという情報が届くと、慶喜はあっさりと出陣を取りやめたのである。
この頃幕府が置かれていた状況について、世評では次のように語られていた。
「諸藩は兵を引き、将軍は死に、出兵の名分は立たず、薩摩は京都に兵を置き、英仏の船は西国を徘徊し、そして一揆や打ちこわしが各地で頻発している」
さらに言うと、大坂にいた幕府直属軍の士気も低かった。
この時大坂に滞陣していた幕府御家人の中西関次郎という人物が、当時の大坂での暮らしぶりについて書き残している。
それによると中西は長州での戦争にはほとんど関心を抱かず、物見遊山に出かけたり、連日銭湯へ行ったりして遊興にふけっていた。そして暇を見つけては内職に精を出して小銭を稼ぎ、時には町娘たちにちょっかいを出して遊んでいる、といった様子が記録されている。
もちろん幕府直属軍の全部が全部、中西のような「ごくつぶし」ばかりではなかったであろうが、長州人と比べると、あまりにも危機意識が薄すぎると言わざるを得ない。
幕府を取り巻く状況がこんな風であれば、慶喜としても長州征討をあきらめるしかなかったろう。
この頃、俊輔は長崎にいた。
幕府海軍と比べてあきらかに劣勢な長州海軍を補強するため、再びグラバーから蒸気船を買ってくるよう藩から命じられたのである。最初にこの命令を受けたのは七月初旬のことだった。
そして長崎のグラバーのところへやって来ると、そこにたまたま薩摩の五代がいた。
五代も松木同様、この時すでにヨーロッパから帰って来ていたのである(松木よりも二ヶ月ほど早く帰国していた)。
俊輔が五代と会うのは、この物語の冒頭(第1話)以来である。
生麦事件の直前に東海道の金谷宿で会って以来のことで、四年ぶりということになる。ただし、その時の俊輔は木戸の従者という立場だったから、五代が俊輔のことを憶えているはずもなかった。
けれども、この時二人は意気投合した。
なにしろ二人ともイギリス帰りだったので話が合ったのだ。
(この五代という男は根っからの商売好きのようだ。その点、坂本龍馬と似ているようで、実は似ていない。龍馬も一見商人のように見えるが、むしろ政治家向きの男だ。龍馬が長薩同盟を成し遂げた時、ワシは心底感心した。周旋家を目指すワシとしても、将来龍馬のように大きな仕事がしたいものだ)
五代とグラバーの斡旋もあって、俊輔は蒸気船二隻を購入することができた。
当然今回も薩摩名義での購入である。そして俊輔は七月中旬に長州へ戻った。
ところが、そのあとグラバーから俊輔へ連絡が来た。俊輔が購入した二隻の蒸気船を幕府が強制的に買い上げてしまった、と。
幕府もこの頃には、グラバーが武器や蒸気船を薩摩経由で長州へ渡していたことに気がついたのだろう。長州が蒸気船を入手できないように手を回したのである。
そんな訳で俊輔は七月下旬、再び長崎へやって来た。
(もう一度長崎で蒸気船を購入しても、また幕府に横取りされてしまうかもしれない)
そう考えた俊輔はグラバーと相談して、今度は上海まで足をのばして海外で蒸気船を購入することにした。
さすがに上海では幕府に妨害されることもなく、無事二隻の蒸気船を購入することができた。ただしその二隻が長州へ回航されるのは、どんなに早くても十月になるということだった。
結局のところ、俊輔が購入してきた二隻の蒸気船は実戦投入に間に合わなかった。
九月二日に厳島で、幕長戦争の休戦協定が結ばれたのである。
厳島に来た幕府側の代表は勝海舟で、長州側の代表は聞多たち数人だった。
俊輔が上海から長崎に戻ってきたのは八月中旬のことだった。
いつものように俊輔が薩摩藩邸を訪れてみると、そこに龍馬がいた。
龍馬は俊輔に自身の苦境を語った。
「長州に乙丑丸を渡してから自分たちの乗る船が無くなってしまったのだ。それで泣く泣く水夫たちに暇を出そうとしたら皆が『死ぬまで一緒です』と言って、俺のそばから去ろうとせん。まったくありがたいやら切ないやらで、どうしたもんかのう……」
俊輔は龍馬の顔を見つめながら、つくづく思った。
(ついこの前まで軍船に乗って幕府と戦争していた男が、今は水夫たちの身の振り方に頭を悩ませているとは……。まったく妙な男だ)
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