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第七章・二転三転
第44話 幕長戦争(前編)
しおりを挟む 六月七日、幕府軍が周防大島への攻撃を開始して、幕長戦争(第二次長州征伐)の火ぶたがきられた。
幕長戦争は別名「四境戦争」とも言う。
戦闘があった四つの地域、すなわち周防大島の大島口、広島の幕府軍本隊と戦う芸州口、山陰の石州口、下関が面している小倉口、これら四方面で長州人が郷土を死守した戦争という意味で、これは主に長州人が好んで使う呼び名である。
ちなみに当初は萩を攻撃する萩口も予定されており、四境戦争ではなくて「五境戦争」となるはずだったのだが、萩口を担当する予定だった薩摩藩が出兵を拒否した。すでに水面下で薩長同盟が結ばれていたのだから拒否するのは当然だった。
幕府老中の板倉勝静は大久保一蔵を大坂城に呼び出し、薩摩藩の出兵を強く要請した。
しかしこの時大久保は
「は?聞こえません」
と耳が遠いフリをした。
そこで板倉は少し大久保に近づき、今度はやや声を大きくして薩摩藩に出兵を要請した。
すると大久保は板倉に食ってかかるように言った。
「なんと、幕府は薩摩に対して出兵しようというのか!薩摩に何の罪があるというのか?!」
あわてた板倉は「薩摩ではなくて長州を攻めるのだ」と説明しようとしたところ
「今度の長州征伐は幕府の私闘である。名分のない戦いに兵は出せない」
と大久保は言い捨てて、その場から退出したという。
大久保は完全に幕府をナメている。
大久保と板倉の間にはこれまでも似たようなやり取りがあったが(第24話で紹介したが)、まったく板倉にとって大久保は天敵と言えるような存在だったろう。
実は大久保がこのように言いながらも、結局薩摩は出兵したのである。
ただし長州に対して、ではなくて「幕府に対して」という出兵なのだが。
幕府軍による長州への攻撃が始まると同時に、薩長同盟で約束していた通り、薩摩は京都へ約千名の兵を送ったのである。
それはちょうど、鹿児島でパークスを迎えている頃のことであった(この件については少し後で詳しく述べることになる)。
この京都の薩摩兵が大坂の幕府直属軍に対してにらみをきかせる形となり、幕府は大坂から長州へ援軍を送りづらくなった。
とはいえ、幕府直属軍抜きでも諸藩の兵が長州の四境を取り囲み、その総兵力は十数万人という大軍だった。
一方長州軍の総兵力はせいぜい五千人であり、およそ二十倍の兵力差があった。
これに加えて海軍力でも幕府軍が長州軍を圧倒しており、最新鋭の富士山丸(排水量は千トン)を筆頭に蒸気軍艦七隻を戦線に投入していた。
一方、長州軍の蒸気船は高杉が開戦直前に買い入れた丙寅丸だけで、この船は富士山丸の排水量の十分の一以下という小型艦であった。
あとはほとんど使い物にならないボロボロの帆船が三隻あるだけだった。
一応、頼みの綱としては俊輔が買い入れてきたユニオン号(乙丑丸)もあるにはあるが、これは坂本龍馬と共に鹿児島にいて、このとき下関へ向かっている最中だった。
ただし、この一隻が加わったところで海軍力の差はほとんど埋まらず、実際長州軍はこの幕府海軍に終始苦戦を強いられるのである。
これだけの戦力差があるのだから、幕府軍が負けるなどと誰も考えていなかった。
初戦の大島口の戦いでも幕府陸海軍が長州軍を圧倒し、たった数日で周防大島を制圧した。
ところが六月十二日の夜、高杉の乗った丙寅丸が大島口の幕府海軍に奇襲をかけた。
「夜に船で戦う」という発想は常識外れであり、それだけに幕府海軍は蒸気の火を落として油断していた。そのため反撃が間に合わず、丙寅丸は数発大砲を撃ちかけた後、ゆうゆうと脱出に成功した。
ただし、この奇襲では特にこれといった戦果はなかった。幕府海軍の船にかすり傷がついた程度のことである。
とはいえ、この奇襲によって長州軍の士気は大いに上がり、一方幕府軍は長州軍から「肝を冷やされる」形となって心理的なプレッシャーをうけることになった。
そして六月十四日には芸州口でも戦いが始まった。
戦場は大竹村(現、広島県大竹市)で、幕府軍の先鋒は徳川家の伝統通り井伊家(彦根藩)と榊原家(高田藩)だった。
どちらも「徳川四天王」の流れをくむ武家の名門である。
そしてどちらの兵士も、伝統にとらわれたままの旧式装備だった。
一方、長州軍の兵士は射程距離の長い「ミニエー銃」を標準装備しており、しかも戦術は「散兵戦術」だった。
散兵戦術とは、それまでの密集した陣形と違って、少人数の部隊が広く散開して、各々が遮蔽物を利用するなど地の利をいかして敵を攻撃する戦術である。
以後、この幕長戦争ではすべての戦場において、この長州の「ミニエー銃」と「散兵戦術」が威力を発揮することになる。
散兵戦術を長州に導入したのは大村益次郎(以前の名は村田蔵六)である。
この日の大竹村での戦いは、長州軍の圧勝であった。
しかしながら、この日以降も長州軍が勝ち続けたという訳ではない。
なんといってもこの芸州口は、幕府軍の本隊がいる戦場なのである。
幕府軍のすべてが井伊や榊原のような旧式装備だった訳ではなく、装備の面では長州軍と互角、あるいはそれ以上の部隊もいた。また海からは幕府海軍が艦砲射撃によって陸上兵力を支援した。そして何よりも、兵の人数が長州軍の二十倍いるのである。
以後、この芸州口の戦いは一進一退が続くことになる。
そして大竹村での戦いの翌十五日、長州軍は大島口で反攻作戦を開始した。
詳細は割愛するが、反攻作戦は成功し、幕府軍は船に逃げ込んで退却することになり、長州軍は周防大島を取り返した。
さらに翌十六日からは石州口でも戦いが始まった。
そしてこれも詳細は割愛するが、ここでも長州軍は連勝を重ね、益田(現、島根県益田市)を抜き、ついには浜田城(同浜田市)も陥落させた。
この石州口の軍参謀は大村益次郎であった。
大島口でも、石州口でも、長州の「ミニエー銃」と「散兵戦術」が威力を発揮して勝利を得たのである。
ただし長州としては大島口と石州口で勝ったとしても、一番重要な戦場である「東の芸州口と西の小倉口」で負ければ戦線の崩壊は必至である。
東の芸州口を持ちこたえている内に、何としても西の小倉口で勝利する必要があった。
小倉口の戦いこそが、長州の死命を決するのである。
その小倉口、すなわち下関海峡に六月十五日、フランスのロッシュが船で乗りつけた。
その応接には、小倉口の実質的な司令官である高杉が出向いていった。
高杉は大島で幕府艦隊に夜襲をかけた後、下関に戻って来ていた。
ちなみに俊輔と聞多はこの頃、石州口での後方支援にあたっていたので下関にはいなかった。
ロッシュは高杉に対し、幕府と講和するように勧めた。
そして講和を勧告する書状を渡し、後日返事を受け取りに来ると述べ、長崎へ去って行った。
ロッシュの態度は明らかに高圧的な雰囲気をただよわせていた。
また、その書状の内容もロッシュの態度と同様で、講和とは名ばかりの「降伏勧告」であった。
幕府の意を受けてやって来たロッシュとしては何としてでも長州を屈服させたかったのである。
高杉からすればバカバカしくてお話にならない。
なにしろこれから高杉は、すぐにでも海峡を渡海して小倉へ攻め込むつもりなのだ。
折りも良し、ロッシュが来る直前に龍馬が乙丑丸に乗って下関へやって来た。
高杉は龍馬に会うとさっそく文句を言った。
「遅かったではないか、坂本君。待ちきれずに丙寅丸だけで作戦を開始するところだったぞ。ところで、我々と一緒に海戦をやってみないか?こんなことは滅多に経験できるもんじゃないぞ」
龍馬は即答した。
「おお、やるやる。この船を長州へ渡す前に、最後の恩返しだ。なに、この船の扱いにかけては我々亀山社中の人間が一番慣れている。それと高杉さんにもらったピストルで命が助かった、その礼もせんといかんからな」
この乙丑丸は俊輔が買い付けた時はユニオン号といったが、長州では乙丑丸、薩摩では桜島丸と名付けて薩長間で所有権問題が発生し、両者の間に微妙な確執を作ってしまった船である。
龍馬としては、その仲立ちをした責任もあって長州に「恩返し」がしたかった。
そもそもこの船を買う時に龍馬は
「長州が船を必要とする時まで、薩摩の旗印を掲げて我々亀山社中の人間が運用すれば幕府には長州の船とはバレない」
と言っていたのだから、実際この時まではその通りに運用されてきた訳で、龍馬にとってはこの戦争での運用が最後の仕事ということになる。
一方、小倉側にいる幕府軍の総司令官は老中の小笠原長行(壱岐守)である。
この物語では以前、生麦賠償金問題、外国人追放令、率兵上京の場面で登場した。
小倉口の幕府軍は九州諸藩の連合軍で、総数は約二万数千人の軍勢である。
なかでも熊本藩兵が一万数千人と最も多かった。
ただし最前線で戦うのはやはり小倉藩兵で、その数は約二千人だった。
これに対する長州軍は、山県狂介(有朋)が率いる奇兵隊など約千人である。
余談ながら、小倉の藩主も長行と同じ小笠原氏なので小倉城で指揮を執っている長行を小倉藩主と勘違いしがちだが、小笠原長行は唐津藩主である。そしてこの時の小倉藩主は、まだ五歳の幼君だった。
高杉は龍馬の乙丑丸が下関に到着すると、すぐに小倉側への攻撃作戦を開始した。
現在は関門橋によって下関側と小倉(門司)側はつながっているが、小倉側の、ちょうど橋の辺りに出っ張った半島がある。
下関側から見ると、その出っ張りの左(東)側が田野浦で、右(西)側が門司浦である。そしてその門司のずっと先に小倉城がある。
高杉が計画した作戦は次の通りである。
龍馬の乗る蒸気船乙丑丸が帆船庚申丸を縄で引っ張って、この二隻で門司浦を艦砲射撃する。
同時に高杉の乗る蒸気船丙寅丸が帆船癸亥丸を縄で引っ張り、さらに帆船丙辰丸も加えた三隻の船で田野浦を艦砲射撃する。
これらの船で小倉側の砲台を叩いた後に、奇兵隊などの陸上部隊が小舟に乗って小倉側に上陸する、という作戦であった。
高杉と龍馬は六月十六日の深夜に出撃準備をして、翌未明に船を出発させた。
そして夜が明ける前にそれぞれ戦闘配置につき、日の出とともに砲撃を開始した。
しばらくすると小倉側の砲台も反撃を開始して、たちまち砲撃戦となった。
長州は以前四ヶ国艦隊と砲撃戦を経験したことがある。
ただしその時は逆に、艦隊から砲撃される側であった訳だが。
その時の四ヶ国艦隊、特にイギリス艦隊と比べると、この長州艦隊は大砲の数も威力も、まったく微弱な代物であった。
この時の海戦の様子は、後に龍馬が土佐の家族に宛てた手紙で(しかも図解入りで)詳細に解説しているが、それによると小倉側の砲撃によって龍馬が引っ張っていた庚申丸には二十発、高杉が引っ張っていた癸亥丸には三十発の砲弾が命中した。
もっとも、小倉側の砲弾も弱かったので撃沈されずに済んだ。
さらにその手紙によると、龍馬がいた門司側の、さらにずっと先のほうに幕府軍の軍艦三隻が待機していた。
ところが龍馬の手紙によると
「なぜか分からないが、それらの軍艦は援軍に来なかった」
と書いている。
もしこれらの軍艦が攻め寄せてきたら、龍馬の乙丑丸が長州海軍では一番大きいので楯となって防戦する予定だったのだが、幸運にも攻めてこなかった。
この三隻の軍艦の中に幕府海軍の主力艦である富士山丸はいなかった。
もし、このとき富士山丸がいたら即座に攻め込んできて、苦も無く龍馬や高杉の船を蹴散らしていただろう。まったく二人は運が良かった。
こうやって龍馬と高杉の艦隊が小倉砲台の注意を引きつけている内に、奇兵隊などの上陸部隊が田野浦への渡海作戦に成功した。
龍馬の船に乗っていた長州人は、龍馬に対して嬉しそうに言った。
「この上陸作戦のやり方は、以前我々が戦ったイギリス軍のやり方に勝るとも劣りません」
上陸した長州軍は幕府軍(というか、ほぼ小倉藩軍)を次々と敗走させ、砲台を焼き、田野浦と門司浦の町を焼き、さらに幕府軍の上陸用舟艇数百艘を焼き払った。
ただし、民家の焼き払いについては「戦争が終わり次第、修復する」という触れ書きを残しておいた(一説には、この田野浦と門司浦の焼き払いは、幕府軍が最初の大島の戦いで民家を焼き払ったことに対する報復であったとも言われている)。
この幕長戦争においてはすべての戦線で見られた姿勢なのだが、長州軍は民衆に対する配慮を重視して戦っていた(特に石州口での大村が、その点を重視して戦っていた)。
それは武士階級よりも奇兵隊などの民兵組織を重視する方向にいち早く傾いていた長州軍らしい戦い方とも言えよう。
龍馬は船の上から陸上戦の様子をつぶさに観察していた。
そして長州の奇兵隊が幕府の武士軍団を敗走させるのを見て「武士の時代は終わった」と思った。
龍馬は家族への手紙で次のように書いている。
「小倉の兵は戦を習わず、それぞれ楯を手に取ってあちこちにかたまっていた。海上から見ていると至って見苦しい様子だった」
作戦を指揮していた高杉は、この日の夕方にすべての兵を下関側へ引きあげさせた。
敵の上陸用舟艇を焼き払ったのだから、当分は敵から上陸作戦を仕かけられる心配は無くなった。これだけでも十分な戦果である。
それに敵地で陣地を保ち続けるには、長州軍はあまりにも人数が少なすぎる。
(なに、これから何度でも押し寄せてやるさ。そして必ず小倉城を落としてみせる)
高杉はそう、心の中で誓っていた。
しかしこの頃すでに、彼の体は病みはじめていた。
高杉と龍馬が下関海峡で戦っていたのと同じ日に、鹿児島ではパークスが薩摩藩主の島津茂久、さらにその父久光と面会していた。
長崎でキング提督の艦隊と合流したパークスは、今回の鹿児島訪問をセッティングしたグラバーも連れて長崎を出発し、この日の前日、鹿児島に到着していた。
なにしろ薩摩とイギリスは三年前、この鹿児島湾で戦争を経験している。
そしてその戦争の原因となったのは薩摩藩士がイギリス人を殺傷した生麦事件である。
こういったいきさつからしても、両者の感情は複雑なものがあった。
この鹿児島訪問に参加したウィリスは家族への手紙で次のように書いている。
「私個人の考えでは、この鹿児島訪問は大変なまやかし行為であり、生麦でリチャードソンを斬り殺すように命じたあの悪党、つまり島津三郎(久光)と宴会をともにするのは恥ずべき行為だと思います。私は彼ほど悪党顔をした人物に会ったことがありません。(中略)吐き気がするほど長い宴会でした。魚、海草、きのこ、なまこ、といった料理が四十皿も出る宴会を想像してごらんなさい。これが日本式の宴会なのです」
このようにウィリスは散々な感想を述べているが、パークスやその他の人々の感想からすると、この鹿児島訪問は全体的に和やかな雰囲気だったようである。
藩主を含む多くの薩摩人がイギリス軍艦を訪問する一方、イギリス人たちも鹿児島の各所を訪問した。さらにお互いの兵士たちがそれぞれ演習を披露したりもした。
ところで、言うまでもない話ではあるが、このパークスの鹿児島訪問は単なる「表敬訪問」であり、高杉や俊輔が勘違いしていた「薩英同盟を締結する」などといった大げさなものではない。
以前は戦争するほど敵対していた両者が「お互いに和解したことを確認する」というのが今回の眼目である。
この当時のイギリス政府が基本的に「日本の内政には干渉しない」という方針で、パークスもその方針に従っていたということは以前述べた。パークスはこのあと下関を再訪して、さらに四国の宇和島にも行く予定であり、西国諸藩の動向を探るのが今回のパークスの目的なのである。
パークスが藩主父子と面会した翌日、西郷吉之助がプリンセス・ロイヤル号を訪問し、パークスと会談することになった。
西郷は薩長同盟の約束であった「京都への出兵」を手配している最中だったが、忙しい中わざわざ出向いて来たのだった。
そしてこの会談には薩摩側の通訳として、五月下旬にイギリスから帰国していた松木も参加した。
松木はロンドンで、パークスの上司であるクラレンドン外相に面会していたのだから、この会談の通訳としてはまさにうってつけの存在だった。
西郷はパークスに対して条約勅許と兵庫開港の件について意見を述べた。
「幕府は諸外国に対しては『兵庫開港の勅許を得た』と申しているようだが、国内への通達では『兵庫は開港しない』と述べている。まったく二枚舌もはなはだしい。貴殿はこの点を突いて、幕府を攻めるべきでござろう」
この西郷の意見に対するパークスの答えは、実に素っ気ないものだった。
「我々は日本全体と条約を結んだのであって、朝廷の勅許があろうとなかろうと我々にとっては関係がない。我々は大君政府(幕府)に対して日本を代表する政府として、確実に条約の内容を履行するよう求めるだけのことである」
この条約勅許と兵庫開港の件については条約勅許の章で詳しく述べた。
慶喜の尽力によって条約は勅許されたが、兵庫開港については、朝廷には「開港しない」と言い、諸外国には「早期開港はしないが期限が来れば開港する」と言い逃れをして、老中の本荘宗秀などが独断で(偽造文書で)開港を保証した、と、要約して言えばこういった経緯である。
このパークスの対応をうけて西郷は
(この男はよほど幕臭が強い)
と感じた。幕臭が強いとはつまり、幕府擁護の気配が強い、ということである。
(パークスをなんとか幕府から引き離さねばならん)
西郷は、そう決意した。
このあと西郷は、幕府による兵庫開港は日本人にとって、さらには外国人にとっても不都合である、ということを順序立ててパークスに説明した。
「幕府の役人はその場その場で言い逃れをしてアテにならない、というのは貴殿もご存知であろう。現在のようなかたちで兵庫開港を進めれば、またその直前になってモメることは必至である」
この西郷の発言をうけて、パークスは一つの疑問を投げかけた。
「我々の艦隊が兵庫へ出向いた際、薩摩は兵庫開港に反対していたと聞いている。実際のところ薩摩は兵庫開港をどう考えているのか?」
「我が藩は兵庫開港自体には反対していない。現在のように、幕府が利益を独占するかたちで兵庫を開港することに反対しているだけである。西国諸藩にとって大坂は重要な交易地なので皆そのように考えている。また京都の朝廷も同様な考えである」
「もし大君政府以外のやり方で兵庫を開港するとしたら、どのような方法で開港するつもりなのか?」
「朝廷の勅許のもと、数名の有力諸侯が外交や貿易の実務を担当し、利益の一部を朝廷へ納めるようにする。現在、幕府の役人が賄賂を貪っているようなやり方はこれで改善されるので、外国人にとっても好都合であろう」
こういったやり取りを続けているうちにパークスも少しずつ西郷の考えに理解を示すようになった。
ただし全面的に西郷の考え方を支持するという訳ではなかった。現時点では幕府が正式な日本の政府である、という考えをパークスが変えるには至らなかった、ということである。
とはいえ、西郷から幕府の欠点を詳しく聞かされたパークスが幕府に対する評価を引き下げたのも事実であった。
「大君政府との会談の席で、こういった外国人が知るはずのない話をした場合、それは誰から聞いた話なのか?と問われることもあろう。その場合、薩摩の名前を出すと不都合であろうから伏せておくことにしよう」
「いや、そのような気づかいは無用である。薩摩から聞いた、ということで幕府を追及しても、我々は一向に構わない」
「大いに結構。それでこそ腹を割って話ができるというものだ。大君政府の役人にも少しは君たちのような率直さがあれば良いのだが。とにかく、我々外国人としては早く内乱が終息することを望む」
「外国人に心配をかけて、とんと日本人として面目ない次第である」
この日の西郷・パークス会談はこのような形で終了した。
この会談について西郷は大久保一蔵に宛てた手紙で次のように書いている。
「おおむね見込み通りに事を運んだつもりですが、こちらがだまされていたとしたら仕方がありません。それでも随分、幕府の手から英国を引き離したつもりです。まったく喜ばしいことです」
幕長戦争は別名「四境戦争」とも言う。
戦闘があった四つの地域、すなわち周防大島の大島口、広島の幕府軍本隊と戦う芸州口、山陰の石州口、下関が面している小倉口、これら四方面で長州人が郷土を死守した戦争という意味で、これは主に長州人が好んで使う呼び名である。
ちなみに当初は萩を攻撃する萩口も予定されており、四境戦争ではなくて「五境戦争」となるはずだったのだが、萩口を担当する予定だった薩摩藩が出兵を拒否した。すでに水面下で薩長同盟が結ばれていたのだから拒否するのは当然だった。
幕府老中の板倉勝静は大久保一蔵を大坂城に呼び出し、薩摩藩の出兵を強く要請した。
しかしこの時大久保は
「は?聞こえません」
と耳が遠いフリをした。
そこで板倉は少し大久保に近づき、今度はやや声を大きくして薩摩藩に出兵を要請した。
すると大久保は板倉に食ってかかるように言った。
「なんと、幕府は薩摩に対して出兵しようというのか!薩摩に何の罪があるというのか?!」
あわてた板倉は「薩摩ではなくて長州を攻めるのだ」と説明しようとしたところ
「今度の長州征伐は幕府の私闘である。名分のない戦いに兵は出せない」
と大久保は言い捨てて、その場から退出したという。
大久保は完全に幕府をナメている。
大久保と板倉の間にはこれまでも似たようなやり取りがあったが(第24話で紹介したが)、まったく板倉にとって大久保は天敵と言えるような存在だったろう。
実は大久保がこのように言いながらも、結局薩摩は出兵したのである。
ただし長州に対して、ではなくて「幕府に対して」という出兵なのだが。
幕府軍による長州への攻撃が始まると同時に、薩長同盟で約束していた通り、薩摩は京都へ約千名の兵を送ったのである。
それはちょうど、鹿児島でパークスを迎えている頃のことであった(この件については少し後で詳しく述べることになる)。
この京都の薩摩兵が大坂の幕府直属軍に対してにらみをきかせる形となり、幕府は大坂から長州へ援軍を送りづらくなった。
とはいえ、幕府直属軍抜きでも諸藩の兵が長州の四境を取り囲み、その総兵力は十数万人という大軍だった。
一方長州軍の総兵力はせいぜい五千人であり、およそ二十倍の兵力差があった。
これに加えて海軍力でも幕府軍が長州軍を圧倒しており、最新鋭の富士山丸(排水量は千トン)を筆頭に蒸気軍艦七隻を戦線に投入していた。
一方、長州軍の蒸気船は高杉が開戦直前に買い入れた丙寅丸だけで、この船は富士山丸の排水量の十分の一以下という小型艦であった。
あとはほとんど使い物にならないボロボロの帆船が三隻あるだけだった。
一応、頼みの綱としては俊輔が買い入れてきたユニオン号(乙丑丸)もあるにはあるが、これは坂本龍馬と共に鹿児島にいて、このとき下関へ向かっている最中だった。
ただし、この一隻が加わったところで海軍力の差はほとんど埋まらず、実際長州軍はこの幕府海軍に終始苦戦を強いられるのである。
これだけの戦力差があるのだから、幕府軍が負けるなどと誰も考えていなかった。
初戦の大島口の戦いでも幕府陸海軍が長州軍を圧倒し、たった数日で周防大島を制圧した。
ところが六月十二日の夜、高杉の乗った丙寅丸が大島口の幕府海軍に奇襲をかけた。
「夜に船で戦う」という発想は常識外れであり、それだけに幕府海軍は蒸気の火を落として油断していた。そのため反撃が間に合わず、丙寅丸は数発大砲を撃ちかけた後、ゆうゆうと脱出に成功した。
ただし、この奇襲では特にこれといった戦果はなかった。幕府海軍の船にかすり傷がついた程度のことである。
とはいえ、この奇襲によって長州軍の士気は大いに上がり、一方幕府軍は長州軍から「肝を冷やされる」形となって心理的なプレッシャーをうけることになった。
そして六月十四日には芸州口でも戦いが始まった。
戦場は大竹村(現、広島県大竹市)で、幕府軍の先鋒は徳川家の伝統通り井伊家(彦根藩)と榊原家(高田藩)だった。
どちらも「徳川四天王」の流れをくむ武家の名門である。
そしてどちらの兵士も、伝統にとらわれたままの旧式装備だった。
一方、長州軍の兵士は射程距離の長い「ミニエー銃」を標準装備しており、しかも戦術は「散兵戦術」だった。
散兵戦術とは、それまでの密集した陣形と違って、少人数の部隊が広く散開して、各々が遮蔽物を利用するなど地の利をいかして敵を攻撃する戦術である。
以後、この幕長戦争ではすべての戦場において、この長州の「ミニエー銃」と「散兵戦術」が威力を発揮することになる。
散兵戦術を長州に導入したのは大村益次郎(以前の名は村田蔵六)である。
この日の大竹村での戦いは、長州軍の圧勝であった。
しかしながら、この日以降も長州軍が勝ち続けたという訳ではない。
なんといってもこの芸州口は、幕府軍の本隊がいる戦場なのである。
幕府軍のすべてが井伊や榊原のような旧式装備だった訳ではなく、装備の面では長州軍と互角、あるいはそれ以上の部隊もいた。また海からは幕府海軍が艦砲射撃によって陸上兵力を支援した。そして何よりも、兵の人数が長州軍の二十倍いるのである。
以後、この芸州口の戦いは一進一退が続くことになる。
そして大竹村での戦いの翌十五日、長州軍は大島口で反攻作戦を開始した。
詳細は割愛するが、反攻作戦は成功し、幕府軍は船に逃げ込んで退却することになり、長州軍は周防大島を取り返した。
さらに翌十六日からは石州口でも戦いが始まった。
そしてこれも詳細は割愛するが、ここでも長州軍は連勝を重ね、益田(現、島根県益田市)を抜き、ついには浜田城(同浜田市)も陥落させた。
この石州口の軍参謀は大村益次郎であった。
大島口でも、石州口でも、長州の「ミニエー銃」と「散兵戦術」が威力を発揮して勝利を得たのである。
ただし長州としては大島口と石州口で勝ったとしても、一番重要な戦場である「東の芸州口と西の小倉口」で負ければ戦線の崩壊は必至である。
東の芸州口を持ちこたえている内に、何としても西の小倉口で勝利する必要があった。
小倉口の戦いこそが、長州の死命を決するのである。
その小倉口、すなわち下関海峡に六月十五日、フランスのロッシュが船で乗りつけた。
その応接には、小倉口の実質的な司令官である高杉が出向いていった。
高杉は大島で幕府艦隊に夜襲をかけた後、下関に戻って来ていた。
ちなみに俊輔と聞多はこの頃、石州口での後方支援にあたっていたので下関にはいなかった。
ロッシュは高杉に対し、幕府と講和するように勧めた。
そして講和を勧告する書状を渡し、後日返事を受け取りに来ると述べ、長崎へ去って行った。
ロッシュの態度は明らかに高圧的な雰囲気をただよわせていた。
また、その書状の内容もロッシュの態度と同様で、講和とは名ばかりの「降伏勧告」であった。
幕府の意を受けてやって来たロッシュとしては何としてでも長州を屈服させたかったのである。
高杉からすればバカバカしくてお話にならない。
なにしろこれから高杉は、すぐにでも海峡を渡海して小倉へ攻め込むつもりなのだ。
折りも良し、ロッシュが来る直前に龍馬が乙丑丸に乗って下関へやって来た。
高杉は龍馬に会うとさっそく文句を言った。
「遅かったではないか、坂本君。待ちきれずに丙寅丸だけで作戦を開始するところだったぞ。ところで、我々と一緒に海戦をやってみないか?こんなことは滅多に経験できるもんじゃないぞ」
龍馬は即答した。
「おお、やるやる。この船を長州へ渡す前に、最後の恩返しだ。なに、この船の扱いにかけては我々亀山社中の人間が一番慣れている。それと高杉さんにもらったピストルで命が助かった、その礼もせんといかんからな」
この乙丑丸は俊輔が買い付けた時はユニオン号といったが、長州では乙丑丸、薩摩では桜島丸と名付けて薩長間で所有権問題が発生し、両者の間に微妙な確執を作ってしまった船である。
龍馬としては、その仲立ちをした責任もあって長州に「恩返し」がしたかった。
そもそもこの船を買う時に龍馬は
「長州が船を必要とする時まで、薩摩の旗印を掲げて我々亀山社中の人間が運用すれば幕府には長州の船とはバレない」
と言っていたのだから、実際この時まではその通りに運用されてきた訳で、龍馬にとってはこの戦争での運用が最後の仕事ということになる。
一方、小倉側にいる幕府軍の総司令官は老中の小笠原長行(壱岐守)である。
この物語では以前、生麦賠償金問題、外国人追放令、率兵上京の場面で登場した。
小倉口の幕府軍は九州諸藩の連合軍で、総数は約二万数千人の軍勢である。
なかでも熊本藩兵が一万数千人と最も多かった。
ただし最前線で戦うのはやはり小倉藩兵で、その数は約二千人だった。
これに対する長州軍は、山県狂介(有朋)が率いる奇兵隊など約千人である。
余談ながら、小倉の藩主も長行と同じ小笠原氏なので小倉城で指揮を執っている長行を小倉藩主と勘違いしがちだが、小笠原長行は唐津藩主である。そしてこの時の小倉藩主は、まだ五歳の幼君だった。
高杉は龍馬の乙丑丸が下関に到着すると、すぐに小倉側への攻撃作戦を開始した。
現在は関門橋によって下関側と小倉(門司)側はつながっているが、小倉側の、ちょうど橋の辺りに出っ張った半島がある。
下関側から見ると、その出っ張りの左(東)側が田野浦で、右(西)側が門司浦である。そしてその門司のずっと先に小倉城がある。
高杉が計画した作戦は次の通りである。
龍馬の乗る蒸気船乙丑丸が帆船庚申丸を縄で引っ張って、この二隻で門司浦を艦砲射撃する。
同時に高杉の乗る蒸気船丙寅丸が帆船癸亥丸を縄で引っ張り、さらに帆船丙辰丸も加えた三隻の船で田野浦を艦砲射撃する。
これらの船で小倉側の砲台を叩いた後に、奇兵隊などの陸上部隊が小舟に乗って小倉側に上陸する、という作戦であった。
高杉と龍馬は六月十六日の深夜に出撃準備をして、翌未明に船を出発させた。
そして夜が明ける前にそれぞれ戦闘配置につき、日の出とともに砲撃を開始した。
しばらくすると小倉側の砲台も反撃を開始して、たちまち砲撃戦となった。
長州は以前四ヶ国艦隊と砲撃戦を経験したことがある。
ただしその時は逆に、艦隊から砲撃される側であった訳だが。
その時の四ヶ国艦隊、特にイギリス艦隊と比べると、この長州艦隊は大砲の数も威力も、まったく微弱な代物であった。
この時の海戦の様子は、後に龍馬が土佐の家族に宛てた手紙で(しかも図解入りで)詳細に解説しているが、それによると小倉側の砲撃によって龍馬が引っ張っていた庚申丸には二十発、高杉が引っ張っていた癸亥丸には三十発の砲弾が命中した。
もっとも、小倉側の砲弾も弱かったので撃沈されずに済んだ。
さらにその手紙によると、龍馬がいた門司側の、さらにずっと先のほうに幕府軍の軍艦三隻が待機していた。
ところが龍馬の手紙によると
「なぜか分からないが、それらの軍艦は援軍に来なかった」
と書いている。
もしこれらの軍艦が攻め寄せてきたら、龍馬の乙丑丸が長州海軍では一番大きいので楯となって防戦する予定だったのだが、幸運にも攻めてこなかった。
この三隻の軍艦の中に幕府海軍の主力艦である富士山丸はいなかった。
もし、このとき富士山丸がいたら即座に攻め込んできて、苦も無く龍馬や高杉の船を蹴散らしていただろう。まったく二人は運が良かった。
こうやって龍馬と高杉の艦隊が小倉砲台の注意を引きつけている内に、奇兵隊などの上陸部隊が田野浦への渡海作戦に成功した。
龍馬の船に乗っていた長州人は、龍馬に対して嬉しそうに言った。
「この上陸作戦のやり方は、以前我々が戦ったイギリス軍のやり方に勝るとも劣りません」
上陸した長州軍は幕府軍(というか、ほぼ小倉藩軍)を次々と敗走させ、砲台を焼き、田野浦と門司浦の町を焼き、さらに幕府軍の上陸用舟艇数百艘を焼き払った。
ただし、民家の焼き払いについては「戦争が終わり次第、修復する」という触れ書きを残しておいた(一説には、この田野浦と門司浦の焼き払いは、幕府軍が最初の大島の戦いで民家を焼き払ったことに対する報復であったとも言われている)。
この幕長戦争においてはすべての戦線で見られた姿勢なのだが、長州軍は民衆に対する配慮を重視して戦っていた(特に石州口での大村が、その点を重視して戦っていた)。
それは武士階級よりも奇兵隊などの民兵組織を重視する方向にいち早く傾いていた長州軍らしい戦い方とも言えよう。
龍馬は船の上から陸上戦の様子をつぶさに観察していた。
そして長州の奇兵隊が幕府の武士軍団を敗走させるのを見て「武士の時代は終わった」と思った。
龍馬は家族への手紙で次のように書いている。
「小倉の兵は戦を習わず、それぞれ楯を手に取ってあちこちにかたまっていた。海上から見ていると至って見苦しい様子だった」
作戦を指揮していた高杉は、この日の夕方にすべての兵を下関側へ引きあげさせた。
敵の上陸用舟艇を焼き払ったのだから、当分は敵から上陸作戦を仕かけられる心配は無くなった。これだけでも十分な戦果である。
それに敵地で陣地を保ち続けるには、長州軍はあまりにも人数が少なすぎる。
(なに、これから何度でも押し寄せてやるさ。そして必ず小倉城を落としてみせる)
高杉はそう、心の中で誓っていた。
しかしこの頃すでに、彼の体は病みはじめていた。
高杉と龍馬が下関海峡で戦っていたのと同じ日に、鹿児島ではパークスが薩摩藩主の島津茂久、さらにその父久光と面会していた。
長崎でキング提督の艦隊と合流したパークスは、今回の鹿児島訪問をセッティングしたグラバーも連れて長崎を出発し、この日の前日、鹿児島に到着していた。
なにしろ薩摩とイギリスは三年前、この鹿児島湾で戦争を経験している。
そしてその戦争の原因となったのは薩摩藩士がイギリス人を殺傷した生麦事件である。
こういったいきさつからしても、両者の感情は複雑なものがあった。
この鹿児島訪問に参加したウィリスは家族への手紙で次のように書いている。
「私個人の考えでは、この鹿児島訪問は大変なまやかし行為であり、生麦でリチャードソンを斬り殺すように命じたあの悪党、つまり島津三郎(久光)と宴会をともにするのは恥ずべき行為だと思います。私は彼ほど悪党顔をした人物に会ったことがありません。(中略)吐き気がするほど長い宴会でした。魚、海草、きのこ、なまこ、といった料理が四十皿も出る宴会を想像してごらんなさい。これが日本式の宴会なのです」
このようにウィリスは散々な感想を述べているが、パークスやその他の人々の感想からすると、この鹿児島訪問は全体的に和やかな雰囲気だったようである。
藩主を含む多くの薩摩人がイギリス軍艦を訪問する一方、イギリス人たちも鹿児島の各所を訪問した。さらにお互いの兵士たちがそれぞれ演習を披露したりもした。
ところで、言うまでもない話ではあるが、このパークスの鹿児島訪問は単なる「表敬訪問」であり、高杉や俊輔が勘違いしていた「薩英同盟を締結する」などといった大げさなものではない。
以前は戦争するほど敵対していた両者が「お互いに和解したことを確認する」というのが今回の眼目である。
この当時のイギリス政府が基本的に「日本の内政には干渉しない」という方針で、パークスもその方針に従っていたということは以前述べた。パークスはこのあと下関を再訪して、さらに四国の宇和島にも行く予定であり、西国諸藩の動向を探るのが今回のパークスの目的なのである。
パークスが藩主父子と面会した翌日、西郷吉之助がプリンセス・ロイヤル号を訪問し、パークスと会談することになった。
西郷は薩長同盟の約束であった「京都への出兵」を手配している最中だったが、忙しい中わざわざ出向いて来たのだった。
そしてこの会談には薩摩側の通訳として、五月下旬にイギリスから帰国していた松木も参加した。
松木はロンドンで、パークスの上司であるクラレンドン外相に面会していたのだから、この会談の通訳としてはまさにうってつけの存在だった。
西郷はパークスに対して条約勅許と兵庫開港の件について意見を述べた。
「幕府は諸外国に対しては『兵庫開港の勅許を得た』と申しているようだが、国内への通達では『兵庫は開港しない』と述べている。まったく二枚舌もはなはだしい。貴殿はこの点を突いて、幕府を攻めるべきでござろう」
この西郷の意見に対するパークスの答えは、実に素っ気ないものだった。
「我々は日本全体と条約を結んだのであって、朝廷の勅許があろうとなかろうと我々にとっては関係がない。我々は大君政府(幕府)に対して日本を代表する政府として、確実に条約の内容を履行するよう求めるだけのことである」
この条約勅許と兵庫開港の件については条約勅許の章で詳しく述べた。
慶喜の尽力によって条約は勅許されたが、兵庫開港については、朝廷には「開港しない」と言い、諸外国には「早期開港はしないが期限が来れば開港する」と言い逃れをして、老中の本荘宗秀などが独断で(偽造文書で)開港を保証した、と、要約して言えばこういった経緯である。
このパークスの対応をうけて西郷は
(この男はよほど幕臭が強い)
と感じた。幕臭が強いとはつまり、幕府擁護の気配が強い、ということである。
(パークスをなんとか幕府から引き離さねばならん)
西郷は、そう決意した。
このあと西郷は、幕府による兵庫開港は日本人にとって、さらには外国人にとっても不都合である、ということを順序立ててパークスに説明した。
「幕府の役人はその場その場で言い逃れをしてアテにならない、というのは貴殿もご存知であろう。現在のようなかたちで兵庫開港を進めれば、またその直前になってモメることは必至である」
この西郷の発言をうけて、パークスは一つの疑問を投げかけた。
「我々の艦隊が兵庫へ出向いた際、薩摩は兵庫開港に反対していたと聞いている。実際のところ薩摩は兵庫開港をどう考えているのか?」
「我が藩は兵庫開港自体には反対していない。現在のように、幕府が利益を独占するかたちで兵庫を開港することに反対しているだけである。西国諸藩にとって大坂は重要な交易地なので皆そのように考えている。また京都の朝廷も同様な考えである」
「もし大君政府以外のやり方で兵庫を開港するとしたら、どのような方法で開港するつもりなのか?」
「朝廷の勅許のもと、数名の有力諸侯が外交や貿易の実務を担当し、利益の一部を朝廷へ納めるようにする。現在、幕府の役人が賄賂を貪っているようなやり方はこれで改善されるので、外国人にとっても好都合であろう」
こういったやり取りを続けているうちにパークスも少しずつ西郷の考えに理解を示すようになった。
ただし全面的に西郷の考え方を支持するという訳ではなかった。現時点では幕府が正式な日本の政府である、という考えをパークスが変えるには至らなかった、ということである。
とはいえ、西郷から幕府の欠点を詳しく聞かされたパークスが幕府に対する評価を引き下げたのも事実であった。
「大君政府との会談の席で、こういった外国人が知るはずのない話をした場合、それは誰から聞いた話なのか?と問われることもあろう。その場合、薩摩の名前を出すと不都合であろうから伏せておくことにしよう」
「いや、そのような気づかいは無用である。薩摩から聞いた、ということで幕府を追及しても、我々は一向に構わない」
「大いに結構。それでこそ腹を割って話ができるというものだ。大君政府の役人にも少しは君たちのような率直さがあれば良いのだが。とにかく、我々外国人としては早く内乱が終息することを望む」
「外国人に心配をかけて、とんと日本人として面目ない次第である」
この日の西郷・パークス会談はこのような形で終了した。
この会談について西郷は大久保一蔵に宛てた手紙で次のように書いている。
「おおむね見込み通りに事を運んだつもりですが、こちらがだまされていたとしたら仕方がありません。それでも随分、幕府の手から英国を引き離したつもりです。まったく喜ばしいことです」
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