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第七章・二転三転
第43話 高杉の洋行希望
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一方この頃、高杉と俊輔は一年前と同じように、再びイギリス行きを計画して長崎へ向かおうとしていた。
言い出したのは高杉である。
「幕府はいつまで経っても攻めて来そうにない。この分では戦争は当分先のことだろう。今のうちに、今度こそイギリスへ行こうではないか、俊輔」
一年前と同じく、この時も俊輔は二つ返事で賛成した。
志半ばでロンドンから帰って来た俊輔としては、機会があればいつでももう一度ロンドンへ行きたいと思っている。
そんな中、三月六日に長崎から横浜へ向かうイギリス船が下関に立ち寄った。
俊輔がいつものように船へ乗り込んでみると船内でちょうどグラバーを見つけた。俊輔はさっそくグラバーにイギリス行きの相談をしてみたところ逆に意外な話を聞かされ、すぐに高杉を呼びに行った。
グラバーは高杉と俊輔に重要な情報を伝えた。
「私は先日、薩摩藩から招待されて鹿児島へ行ってきました。その時、薩摩藩からパークス公使を鹿児島へ招待したいので、その仲介にあたって欲しいと頼まれました。私はそれを引き受けました。これから横浜へ行ってパークス公使に鹿児島行きを勧めるつもりです」
薩摩にも長州にも武器や船を売っているグラバーとしては、すでに薩長が秘密裏に提携済みであることなど百も承知していた。だからこそ高杉と俊輔に、薩摩とイギリスが接近していることを敢えて伝えたのである。
二人は、グラバーが長崎へ帰る時にはまた下関へ寄るように、そしてその時には自分たちも長崎まで乗せて行ってもらいたいと伝えて、船から去った。
グラバーから話を聞いた俊輔は、高杉に一つの提案をした。
「もし薩英が同盟関係になるとすれば、それに我が長州も加えて長・薩・英の三国同盟とすべきなのではないでしょうか?」
高杉は本質的に薩摩のことが好きではない。
これまでずっとライバル関係にあった薩摩に対して「薩摩、何するものぞ」という意識が強すぎるのだ。
けれども高杉は、この俊輔の提案にあっさりと乗った。
なにしろ三国同盟の中にイギリスが入っている、というのが気に入った。
「あのイギリスと対等な同盟というのであれば、仲間に加わってやっても良い」
こういった発想であった。
「それにイギリスと提携するのであれば、イギリス本国の様子を直に見ておく必要がある、というイギリス行きの理由にも使えるからな。まず鹿児島へ行って三国同盟の必要性を説き、その後イギリスへ行く。是非その線で藩政府に申し出てみよう」
まったくもって気宇壮大と言うか、誇大妄想と言うか、この高杉の荒唐無稽な申し出を、なぜか藩は了承した。万一上手くいけば儲けもの、ぐらいに思ったのかも知れない。
そして高杉と俊輔にイギリス留学費用として千五百両を下げ渡した。
横浜へ行っていたグラバーが下関に戻ってきたのは三月二十一日だった。
高杉と俊輔は再び船に乗り込んで、グラバーから横浜でのパークスとのやり取りを聞いた。
「パークス公使は鹿児島訪問を了承しました。ただし実際に訪問するのは二、三ヶ月先の予定になりそうです」
グラバーから話を聞いた高杉は
「まあ一応パークス公使の鹿児島訪問が決まったのであれば問題はないだろう。予定通り長崎へ行き、それから鹿児島へ行って、しかるのちイギリスへ行くことにしよう」
そう言って俊輔と一緒に船に乗り込み、長崎へと向かった。
長崎に着いた高杉と俊輔は、例によって薩摩藩邸に潜伏した。
小松や西郷は不在だったが、留守番の要人に自分たちの鹿児島行きの話をしたところ、その要人から
「突然鹿児島へ出向かれても何か薩長間で誤解が生じるかも知れません。それにイギリス公使の訪問もまだ先の話ですから、ご用件があればこの長崎で承ります」
と体よく二人の鹿児島訪問を断られてしまった。
仕方がないので用意してきた親書と贈り物をその場で渡し、鹿児島行きは中止にした。
まあ元々二人の本命はイギリス行きだったので、鹿児島行きが中止になっても大して気落ちはしなかった。
しかしグラバーの屋敷で、イギリスから届いたばかりの野村弥吉の手紙を見せられて、二人は衝撃を受けた。
その手紙には、高杉の従弟である南貞助を含む三人の追加留学生中、山崎小三郎が「寒貧のため肺病になって病死した」と書いてあったのである。享年二十二であった。
俊輔はイギリスへの長くつらい航海、そしてイギリスの厳しい冬の寒さを経験しているだけに、山崎の無念さが我が事のように感じられて、思わず落涙した。
「泣くな、俊輔。確かに山崎の死は我が長州にとって恥辱である。薩摩と違って、我が藩は留学資金を出し惜しんだからこんなことになったのだ。されど、山崎は西洋で初めて討ち死した日本人として、長州の誉れとも言えよう。後の者が山崎という忠臣に続けば、長州の国運はきっと盛んになるに違いない」
薩摩の留学生(いわゆる薩摩スチューデント)が長州の留学生と違ってしっかりと留学資金を用意していたことは以前少し触れたが、ちょうどこの頃、長崎から薩摩留学生の第二陣となる五名が、今度は(イギリス経由で)アメリカ留学に向かって出発していた。薩摩はまさしく長州と違って、計画的に留学生を送り出していたと言っていい。
余談ながら、幕府はこの年の四月七日に日本人の海外渡航を解禁するので、これ以降の薩長の海外留学は「密航」ということではなくなるのである。
俊輔は高杉に留学資金の件で進言した。
「とにかく、我々が持っていた千五百両はすでに長崎で(遊興で)結構使ってしまいましたけど、残りはひとまずグラバーさんに頼んでイギリスへ為替で送ってもらいましょう。野村の手紙にも、金が用意できない限り新しい留学生を送ってくれるな、と書いてありますから私は一度長州へ戻って、藩政府に改めて留学資金を出してくれるよう頼んできます」
「よかろう。ただし藩政府が金を出し渋るようであれば、俺はすでに上海へ渡ってしまったから今さら留学計画は止められないのだ、と言え。それと御主君(毛利敬親)とパークス公使との面会についても建言しておけ。山崎はロンドンで士官の礼をもって埋葬されたそうだ。その返礼も兼ねて御主君は公使と面会されたほうが良い」
そんな訳で俊輔はひとまず長州へ戻った。
そして聞多に事情を話して一緒に金策することになった。なにしろ金策のことに関しては聞多の右に出る者はいない。
聞多は俊輔から山崎の話を聞き、元ロンドン留学生として俊輔と同じように悔しがった。そして山口の藩政府に対して留学資金の追加出資を強く申し出た。
けれども藩政府は金を出そうとしなかった。
高杉と俊輔にはすでに千五百両を渡してあったのにもう一度千五百両を出し、さらにロンドンの留学生たちの分も金が必要とは何事だ、と反論されたのである。
そこで聞多は藩政府に対して強談判をした。
「確かに、高杉には一度金を渡してあるから二度目は出せぬ、という理屈も分かる。けれども高杉のこれまでの功績を考えれば、それぐらいは大目に見て、金をくれてやっても良いではないか」
高杉のこれまでの功績、というのはもちろん四ヶ国艦隊との講和で300万両の賠償金を幕府へ押しつけたこと、更には功山寺決起で俗論党政権を倒したことである。
強引と言えばこれほど強引な金の引き出し方もないであろうが、後年の「明治政府の井上馨」の金銭感覚を考えれば、これぐらいのことを言っても別に違和感はない。
この聞多の説得に加えて、木戸(桂小五郎はこの頃木戸姓に改めていた)も後押ししたので高杉と俊輔の主張通り、追加で留学資金を出すことは了承された。
また、藩主敬親がパークスと面会することも、一応タイミングを見計らってという条件付きだが、決定した。
これらのことが決定したのは四月下旬のことである。
留学準備を整えた俊輔は下関から長崎へ向かおうとしていた。
そこへ突然、高杉が小型蒸気船オテント号に乗って下関へ帰って来た。
高杉は結局上海へは渡らず、長崎での潜伏を続けていたのだが潜伏中に「幕長間の談判が決裂して戦争になりそうだ」という話を聞きおよんで、急きょ独断でグラバーからオテント号を買い付けて帰って来たのである。
金額は約四万両だった。もちろん高杉がそんな金を持ち合わせているはずもなく、藩に事後承諾を求めた。
ちなみに高杉は四年前にも、上海から帰って来た時に独断で外国商人から船を買い付けたことがあったが、その時は藩によって却下されていた。
留学資金の拠出問題に引き続いて、この高杉の蒸気船購入が再び問題となった。
「なぜ我々を無視して勝手にそんなことをやるのか?」
と海軍局が高杉のやり方を批判したのである。
しかも高杉が耳にした戦争開始の話も、実はまだそこまでは至っていなかった。
そんな訳で四年前に引き続き、今回も藩は高杉の独断での蒸気船購入を却下することになった。なにしろ留学資金の話とは額が桁違いだったので、そう簡単に了承できるはずがなかった。
ところがグラバーからオテント号の乗組員の送還および売買の履行を要求され、しかもタイミングが良いのか悪いのか、今度こそ本当に幕長間の戦争が現実になりそうな情勢となったのである。
時局は一変した。
結局「この際、戦える船は一隻でも多いほうが良い」ということになり、藩は正式に船を買い取ることにした。
そして船名は、長州藩のすべての船がそうであるように、この年の干支をとって「丙寅丸」と名付けることになったのだった。
むろん、高杉と俊輔のイギリス行きは中止となった。
広島で続けられていた幕長間の談判は、五月九日に長州の交渉使節が突然幕府側に捕えられた。さらに幕府は長州に対して最後通牒を突きつけたが、長州はそれを無視したため談判が決裂した。
幕府は長州への攻撃を決断し、六月上旬に周防大島(屋代島)へ攻め込むことになった。
いよいよ「幕長戦争(第二次長州征伐)」の開始である。
ところで、通常ほとんど指摘されることはないが、この幕長戦争が開始される頃には「パークスの鹿児島訪問」が同時に行なわれており、しかもフランスのロッシュも長崎や下関に出張してきているのである。
ただし、このパークスの鹿児島訪問にサトウは同行しておらず、彼は横浜で留守番をしていた。
この時の通訳はシーボルトがつとめることになり、またウィリスも随行チームの一員として鹿児島へ同行することになった。
パークスたちが横浜を出発したのは五月二十一日のことで、キング提督が指揮するプリンセス・ロイヤル号など三隻の艦隊と長崎で合流する予定なのだが、その前にパークスは、まずは下関へ立ち寄って情報収集をすることになった。
五月二十四日、パークスの乗った船が下関に到着すると、高杉と俊輔がパークスを表敬訪問した。
高杉はパークスに対して次のように述べた。
「貴殿は鹿児島で薩摩藩主と面会されるそうだが、ぜひ我が主君にも会ってもらいたい。ただし見ての通り、我々は現在幕府との戦争準備で忙しい。鹿児島から帰る時にもう一度来てもらえれば、その時は面会できるよう手配しておく」
パークスは高杉に下関への再来を約束して、長崎へ向かった。
一方、幕府はロッシュに「パークスの後を追って監視してもらいたい」と依頼した。
長州への攻撃を目前にひかえて、パークスに長州や薩摩で暗躍されることを幕府は怖れたのだ。
パークスに対して激しいライバル意識を抱いているロッシュは、もちろん二つ返事で引き受けて、下関へと向かった。
言い出したのは高杉である。
「幕府はいつまで経っても攻めて来そうにない。この分では戦争は当分先のことだろう。今のうちに、今度こそイギリスへ行こうではないか、俊輔」
一年前と同じく、この時も俊輔は二つ返事で賛成した。
志半ばでロンドンから帰って来た俊輔としては、機会があればいつでももう一度ロンドンへ行きたいと思っている。
そんな中、三月六日に長崎から横浜へ向かうイギリス船が下関に立ち寄った。
俊輔がいつものように船へ乗り込んでみると船内でちょうどグラバーを見つけた。俊輔はさっそくグラバーにイギリス行きの相談をしてみたところ逆に意外な話を聞かされ、すぐに高杉を呼びに行った。
グラバーは高杉と俊輔に重要な情報を伝えた。
「私は先日、薩摩藩から招待されて鹿児島へ行ってきました。その時、薩摩藩からパークス公使を鹿児島へ招待したいので、その仲介にあたって欲しいと頼まれました。私はそれを引き受けました。これから横浜へ行ってパークス公使に鹿児島行きを勧めるつもりです」
薩摩にも長州にも武器や船を売っているグラバーとしては、すでに薩長が秘密裏に提携済みであることなど百も承知していた。だからこそ高杉と俊輔に、薩摩とイギリスが接近していることを敢えて伝えたのである。
二人は、グラバーが長崎へ帰る時にはまた下関へ寄るように、そしてその時には自分たちも長崎まで乗せて行ってもらいたいと伝えて、船から去った。
グラバーから話を聞いた俊輔は、高杉に一つの提案をした。
「もし薩英が同盟関係になるとすれば、それに我が長州も加えて長・薩・英の三国同盟とすべきなのではないでしょうか?」
高杉は本質的に薩摩のことが好きではない。
これまでずっとライバル関係にあった薩摩に対して「薩摩、何するものぞ」という意識が強すぎるのだ。
けれども高杉は、この俊輔の提案にあっさりと乗った。
なにしろ三国同盟の中にイギリスが入っている、というのが気に入った。
「あのイギリスと対等な同盟というのであれば、仲間に加わってやっても良い」
こういった発想であった。
「それにイギリスと提携するのであれば、イギリス本国の様子を直に見ておく必要がある、というイギリス行きの理由にも使えるからな。まず鹿児島へ行って三国同盟の必要性を説き、その後イギリスへ行く。是非その線で藩政府に申し出てみよう」
まったくもって気宇壮大と言うか、誇大妄想と言うか、この高杉の荒唐無稽な申し出を、なぜか藩は了承した。万一上手くいけば儲けもの、ぐらいに思ったのかも知れない。
そして高杉と俊輔にイギリス留学費用として千五百両を下げ渡した。
横浜へ行っていたグラバーが下関に戻ってきたのは三月二十一日だった。
高杉と俊輔は再び船に乗り込んで、グラバーから横浜でのパークスとのやり取りを聞いた。
「パークス公使は鹿児島訪問を了承しました。ただし実際に訪問するのは二、三ヶ月先の予定になりそうです」
グラバーから話を聞いた高杉は
「まあ一応パークス公使の鹿児島訪問が決まったのであれば問題はないだろう。予定通り長崎へ行き、それから鹿児島へ行って、しかるのちイギリスへ行くことにしよう」
そう言って俊輔と一緒に船に乗り込み、長崎へと向かった。
長崎に着いた高杉と俊輔は、例によって薩摩藩邸に潜伏した。
小松や西郷は不在だったが、留守番の要人に自分たちの鹿児島行きの話をしたところ、その要人から
「突然鹿児島へ出向かれても何か薩長間で誤解が生じるかも知れません。それにイギリス公使の訪問もまだ先の話ですから、ご用件があればこの長崎で承ります」
と体よく二人の鹿児島訪問を断られてしまった。
仕方がないので用意してきた親書と贈り物をその場で渡し、鹿児島行きは中止にした。
まあ元々二人の本命はイギリス行きだったので、鹿児島行きが中止になっても大して気落ちはしなかった。
しかしグラバーの屋敷で、イギリスから届いたばかりの野村弥吉の手紙を見せられて、二人は衝撃を受けた。
その手紙には、高杉の従弟である南貞助を含む三人の追加留学生中、山崎小三郎が「寒貧のため肺病になって病死した」と書いてあったのである。享年二十二であった。
俊輔はイギリスへの長くつらい航海、そしてイギリスの厳しい冬の寒さを経験しているだけに、山崎の無念さが我が事のように感じられて、思わず落涙した。
「泣くな、俊輔。確かに山崎の死は我が長州にとって恥辱である。薩摩と違って、我が藩は留学資金を出し惜しんだからこんなことになったのだ。されど、山崎は西洋で初めて討ち死した日本人として、長州の誉れとも言えよう。後の者が山崎という忠臣に続けば、長州の国運はきっと盛んになるに違いない」
薩摩の留学生(いわゆる薩摩スチューデント)が長州の留学生と違ってしっかりと留学資金を用意していたことは以前少し触れたが、ちょうどこの頃、長崎から薩摩留学生の第二陣となる五名が、今度は(イギリス経由で)アメリカ留学に向かって出発していた。薩摩はまさしく長州と違って、計画的に留学生を送り出していたと言っていい。
余談ながら、幕府はこの年の四月七日に日本人の海外渡航を解禁するので、これ以降の薩長の海外留学は「密航」ということではなくなるのである。
俊輔は高杉に留学資金の件で進言した。
「とにかく、我々が持っていた千五百両はすでに長崎で(遊興で)結構使ってしまいましたけど、残りはひとまずグラバーさんに頼んでイギリスへ為替で送ってもらいましょう。野村の手紙にも、金が用意できない限り新しい留学生を送ってくれるな、と書いてありますから私は一度長州へ戻って、藩政府に改めて留学資金を出してくれるよう頼んできます」
「よかろう。ただし藩政府が金を出し渋るようであれば、俺はすでに上海へ渡ってしまったから今さら留学計画は止められないのだ、と言え。それと御主君(毛利敬親)とパークス公使との面会についても建言しておけ。山崎はロンドンで士官の礼をもって埋葬されたそうだ。その返礼も兼ねて御主君は公使と面会されたほうが良い」
そんな訳で俊輔はひとまず長州へ戻った。
そして聞多に事情を話して一緒に金策することになった。なにしろ金策のことに関しては聞多の右に出る者はいない。
聞多は俊輔から山崎の話を聞き、元ロンドン留学生として俊輔と同じように悔しがった。そして山口の藩政府に対して留学資金の追加出資を強く申し出た。
けれども藩政府は金を出そうとしなかった。
高杉と俊輔にはすでに千五百両を渡してあったのにもう一度千五百両を出し、さらにロンドンの留学生たちの分も金が必要とは何事だ、と反論されたのである。
そこで聞多は藩政府に対して強談判をした。
「確かに、高杉には一度金を渡してあるから二度目は出せぬ、という理屈も分かる。けれども高杉のこれまでの功績を考えれば、それぐらいは大目に見て、金をくれてやっても良いではないか」
高杉のこれまでの功績、というのはもちろん四ヶ国艦隊との講和で300万両の賠償金を幕府へ押しつけたこと、更には功山寺決起で俗論党政権を倒したことである。
強引と言えばこれほど強引な金の引き出し方もないであろうが、後年の「明治政府の井上馨」の金銭感覚を考えれば、これぐらいのことを言っても別に違和感はない。
この聞多の説得に加えて、木戸(桂小五郎はこの頃木戸姓に改めていた)も後押ししたので高杉と俊輔の主張通り、追加で留学資金を出すことは了承された。
また、藩主敬親がパークスと面会することも、一応タイミングを見計らってという条件付きだが、決定した。
これらのことが決定したのは四月下旬のことである。
留学準備を整えた俊輔は下関から長崎へ向かおうとしていた。
そこへ突然、高杉が小型蒸気船オテント号に乗って下関へ帰って来た。
高杉は結局上海へは渡らず、長崎での潜伏を続けていたのだが潜伏中に「幕長間の談判が決裂して戦争になりそうだ」という話を聞きおよんで、急きょ独断でグラバーからオテント号を買い付けて帰って来たのである。
金額は約四万両だった。もちろん高杉がそんな金を持ち合わせているはずもなく、藩に事後承諾を求めた。
ちなみに高杉は四年前にも、上海から帰って来た時に独断で外国商人から船を買い付けたことがあったが、その時は藩によって却下されていた。
留学資金の拠出問題に引き続いて、この高杉の蒸気船購入が再び問題となった。
「なぜ我々を無視して勝手にそんなことをやるのか?」
と海軍局が高杉のやり方を批判したのである。
しかも高杉が耳にした戦争開始の話も、実はまだそこまでは至っていなかった。
そんな訳で四年前に引き続き、今回も藩は高杉の独断での蒸気船購入を却下することになった。なにしろ留学資金の話とは額が桁違いだったので、そう簡単に了承できるはずがなかった。
ところがグラバーからオテント号の乗組員の送還および売買の履行を要求され、しかもタイミングが良いのか悪いのか、今度こそ本当に幕長間の戦争が現実になりそうな情勢となったのである。
時局は一変した。
結局「この際、戦える船は一隻でも多いほうが良い」ということになり、藩は正式に船を買い取ることにした。
そして船名は、長州藩のすべての船がそうであるように、この年の干支をとって「丙寅丸」と名付けることになったのだった。
むろん、高杉と俊輔のイギリス行きは中止となった。
広島で続けられていた幕長間の談判は、五月九日に長州の交渉使節が突然幕府側に捕えられた。さらに幕府は長州に対して最後通牒を突きつけたが、長州はそれを無視したため談判が決裂した。
幕府は長州への攻撃を決断し、六月上旬に周防大島(屋代島)へ攻め込むことになった。
いよいよ「幕長戦争(第二次長州征伐)」の開始である。
ところで、通常ほとんど指摘されることはないが、この幕長戦争が開始される頃には「パークスの鹿児島訪問」が同時に行なわれており、しかもフランスのロッシュも長崎や下関に出張してきているのである。
ただし、このパークスの鹿児島訪問にサトウは同行しておらず、彼は横浜で留守番をしていた。
この時の通訳はシーボルトがつとめることになり、またウィリスも随行チームの一員として鹿児島へ同行することになった。
パークスたちが横浜を出発したのは五月二十一日のことで、キング提督が指揮するプリンセス・ロイヤル号など三隻の艦隊と長崎で合流する予定なのだが、その前にパークスは、まずは下関へ立ち寄って情報収集をすることになった。
五月二十四日、パークスの乗った船が下関に到着すると、高杉と俊輔がパークスを表敬訪問した。
高杉はパークスに対して次のように述べた。
「貴殿は鹿児島で薩摩藩主と面会されるそうだが、ぜひ我が主君にも会ってもらいたい。ただし見ての通り、我々は現在幕府との戦争準備で忙しい。鹿児島から帰る時にもう一度来てもらえれば、その時は面会できるよう手配しておく」
パークスは高杉に下関への再来を約束して、長崎へ向かった。
一方、幕府はロッシュに「パークスの後を追って監視してもらいたい」と依頼した。
長州への攻撃を目前にひかえて、パークスに長州や薩摩で暗躍されることを幕府は怖れたのだ。
パークスに対して激しいライバル意識を抱いているロッシュは、もちろん二つ返事で引き受けて、下関へと向かった。
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毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
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