伊藤とサトウ

海野 次朗

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第七章・二転三転

第42話 英国策論

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 年が明けて、慶応二年になった。
 前年から「さあやるぞ、さあ攻め込むぞ」と、かけ声だけは勇ましかった長州再征は、いまだに幕長間で交渉が続けられており、膠着こうちゃく状態のままだった。

 そんな中、一月二十一日に京都で薩長同盟が成立した。
 そして二日後、その立役者たてやくしゃとなった坂本龍馬が伏見の寺田屋で幕府のかたによって襲撃された。
 龍馬はピストルをぶっ放して捕り方とおおまわりを演じたすえに、深手ふかでは負ったものの、かろうじて薩摩藩邸へと逃げのびた。

 龍馬が伏見で死にかけているのと同じ頃、サトウは横浜の英字新聞『ジャパン・タイムズ』に載せるための記事を書いていた。
 のちに日本語に訳されて『英国えいこく策論さくろん』と呼ばれることになる記事である。

 幕末史に興味のある人であれば、この『英国策論』という単語を目にしたことがあるかも知れない。
「サトウって幕末で何をした人なの?」
 この問いに対する答えとして
「維新(倒幕)運動にいくらか影響を与えた『英国策論』を書いたイギリス人です」
 といった具体に「サトウの代名詞」として使いやすいので、サトウの名前と『英国策論』はセットで使われることがよくある。
 余談ながら、幕末の大河ドラマではしばしば脇役として登場することがあるサトウだが、そのサトウが大河ドラマの中で『英国策論』のことを語っている場面を、筆者は見かけたことがない。
 おそらくサトウ自身がメインキャラとして登場しない限り、今後も多分、目にすることはないだろうと思う。

 この『英国策論』の内容がどんなものであるのか?
 それはサトウ本人の記述を借りたほうが分かりやすいと思うので、引用して以下に紹介する。
「私の未熟みじゅくな原稿を新聞に載せることになった。最初は日本国内の旅行記であったが、間もなく政治を論じてみる気になった。無論こんなことをするのは実に不穏当ふおんとうで、まったく職務しょくむ規程きていに反することだったが、私はそんなことにほとんど無頓着むとんちゃくだった。(中略)私の提案は、大君タイクン(幕府)を本来の地位である一諸侯いちしょこうに引き下げて、ミカドを頂点にいただく諸侯連合が支配権力となって大君に取って代わるべきである、というものだった。さらに私は、現行の条約の改良点について様々な提言ていげんをおこなった。徳島藩の家臣、沼田ぬまたとら三郎さぶろうという多少英語のできる日本語教師の助けを借りてこれを日本語に訳し、パンフレットの形にして彼の藩主に見せたところ、その写本しゃほん方々ほうぼうに出まわった。翌年各地へ旅行に出てみると、諸大名の家臣たちは皆この本をかいして私のことを知っており、私に好意をよせてきた。しまいには、その翻訳はイギリス人サトウの英国政策論として『英国策論』の名で印刷され、大坂や京都のすべての本屋で売られるようになった。そして尊王、佐幕の両派から、イギリス公使館の意見を代表するものとみなされたのだが、そんなことは私の知ったことではなかった。私が知るかぎり、このことはパークス公使の耳には届かなかったようである」

 サトウが『ジャパン・タイムズ』に書いた論説ろんせつは三回にわたって掲載けいさいされた。
 一回目が1866年3月16日(慶応二年一月三十日)付の記事で、そのあと数ヶ月のうちに二回目と三回目が掲載された。サトウは「職務規程に無頓着だった」みたいなことを書いているが、もちろん匿名とくめいで書いたのである。といっても、日本語に訳された後はサトウの実名が出まわってしまった訳だが。

 しくもこの同じ1866年の3月にロンドンで(以前少し触れたように)薩摩の松木がイギリスのクラレンドン外相に面会して「幕府による貿易独占の廃止および朝廷を頂点とした諸侯連合政権の確立」という、サトウが論説で述べた内容とほとんど同じ主張を展開していた。
 それゆえ「サトウと松木はどこかでしめあわせて、同時に同じ主張を展開したのではないのか?」という憶測おくそくが、昔から歴史学者の中で語られてきた。ただし、この点の真相はよく分かっていない。

 すでに何度か書いてきたように、こういった主張は以前から俊輔も聞多も、そして西郷も大久保も述べていたことであって、『英国策論』の内容自体は別段目新しい話でもない(少なくとも薩長の尊王派の人たちからすれば)。

 論説の内容ではなくて、それを書いた人物が重要だったのである。
 日本人が「将軍を一諸侯にして、天皇を頂点とすべきだ」などと、もし心の中で思っていたとしても、幕府をはばかって公然と言えるはずがない。だからこそ「こうやって外国人が言ってるんだから一応は耳をかたむけるしかないよね」という体裁ていさいをとっているのである。
 さらに言うと、「イギリス人が言っている」という点が重要なのである。
「これが超大国イギリスの見解けんかいですよ」
 と言われれば、その理屈以上の説得力が上乗うわのせされることになる。
 実際のところ、幕府が朝廷にお願いして条約勅許を出してもらっている現状からしても、外国から見れば「条約を結ぶべき相手は幕府ではなくて朝廷ではないのか?」と思うのも当然である。

 とりあえず『英国策論』の文章内容をここで詳しく解説するつもりはない。
 ただ、一つだけ注目すべき点をあげておくと、この中でサトウが述べている「陛下へいかMajestyマジェスティ)」と「殿下でんかHighnessハイネス)」の称号しょうごうの基準が、以後、イギリス外務省が使用する基準となるのである。
 すなわち、現行の条約では将軍が最上位の称号「陛下へいか(Majesty)」を名乗るかたちになっているが、サトウはそれを改めて天皇に「陛下へいか(Majesty)」をもちいて、将軍にはそれにぐ称号である「殿下でんか(Highness)」を用いるようにしたのである。
 当然ながら後に幕府はイギリスに抗議することになる。しかし天皇が将軍より上位にあることは疑いようのない事実なので、結局はイギリスの方針を認めざるを得なかった。

 ところで、この『英国策論』には解明しておきたい疑問点が二つある。
 一つは「パークスはこのことを知っていたのか?」ということ。
 もう一つは「なぜサトウは、これを書いたのか?」ということである。

 サトウ本人は「私が知るかぎり、このことはパークス公使の耳には届かなかったようである」と書いているが、そんなことはまずあり得ないだろう。
 情報収集に敏感びんかんなイギリス公使が『ジャパン・タイムズ』の記事を読んでいなかったはずがない。いくらサトウが匿名とくめいで書いたとはいえ、内容を読めば「これはサトウが書いた記事であろう」ということは容易よういに想像できたはずである。特に「陛下へいか(Majesty)」と「殿下でんか(Highness)」の部分を読めば、間違いなくサトウの記事であると確信したはずである。

 さらに言えば、サトウの名前が入った日本語版の『英国策論』が出まわった後に、幕府官僚のなかで誰か一人ぐらいはパークスに対して抗議した人間がいたはずだろう。いくらパークスが強面こわもてで恐ろしいといえども。
「おたくのサトウさんがこんなけしからん本を書いてますが、イギリス公使館の人間がこのようなことをしてもいいんですか?」
 といった具合に。

 ちなみにパークスの対日方針、特に「幕府と薩長のどちらを重視するのか?」という方針については「内政不干渉ないせいふかんしょう」が基本的なスタンスだった。

「幕末においては、イギリスが薩長を応援して、フランスが幕府を応援したのだろう?だから当然パークスは薩長を応援したのではないのか?」
 一般的には、このように考える人が多いかも知れない。
 しかしながら実際にはそれほど単純な図式ではない。確かに大ざっぱに言えば、そういった図式で見ても間違ってはいないのだけれども。
 なにしろイギリス外務省がパークスに対して
「幕府と薩長のどちらにも加担かたんしてはならない=内政干渉してはならない」
 と明確に指示していたのである。
 それゆえパークスはこの先ずっと、基本的にはどちらにも加担しない、というスタンスをつらぬくことになる。むしろどちらかと言えば、現実に政府として認められている幕府を重視していた、と言っても過言ではないぐらいである。

 そういった訳で、このサトウの『英国策論』は、本国やパークスの方針から明らかに逸脱いつだつする代物しろものだった。
 ある歴史家は
「パークスとサトウの関係がややかになったのは、サトウが勝手に『英国策論』を書いたからだろう」
 と述べている。これは以前紹介したサトウの記述「私は不幸にもパークスとは最初から最後までしたしむ関係にはなれなかった」ということから連想したらしい。

 筆者の考えとしては
「パークスは、サトウが薩長に加担していることを知りつつも、それを黙認していた」
 ということだったのだろうと思う。
 要するに「サトウによる薩長の先物さきものい」を、パークスは認めていたということである。
 幕府がこのまま政権を維持した場合、あるいは薩長が新政権を樹立した場合、そのどちらの結果になっても大丈夫なようにリスクヘッジをしていた、ということであったに違いない。

 その一方で、フランスのロッシュは薩長に対する保険をまったくかけず、「幕府一辺倒いっぺんとう」というハイリスク・ハイリターンなやり方をつらぬいた。
 ただしこのロッシュの場合も多少特殊な背景があり、フランス本国も一応幕府重視の姿勢ではあったものの、イギリスに対抗してまで幕府を支援するつもりはなく、日本でイギリスに対抗して「幕府一辺倒」にこだわっていたのは「ロッシュの個人営業」の色合いろあいが強かったのである。
 なにしろこの頃のフランス政府は日本に深入りしている余裕よゆうなどなかった。
 フランスのアジア利権の中心はベトナムであり、まずはベトナムの利権をかためることが最優先だった。
 そのくせ、ちょうどこの頃朝鮮半島にも手を出して失敗し、さらにメキシコ出兵の大失敗が追い打ちをかけ、その挙句あげく、明治維新の三年後には普仏ふふつ戦争でやぶれてナポレオン三世の政権はあっけなく倒れるのである。


 さて、もう一つの疑問「なぜサトウは、これを書いたのか?」ということについて、である。
 そもそもサトウには長州に俊輔という文通相手がおり、この前は兵庫で胡蝶こちょう丸の薩摩藩士たちと交流を深めていたのだから、サトウが薩長の志士たちに好意的であったのはもっともな話といえよう。

 そしてやはり、サトウ自身も若かったが、薩長の志士たちも俊輔のような若者が多かった、ということも関係していたであろう。
 幕府体制の矛盾むじゅんに気がついていたサトウとしては、社会変革を求める彼ら若き志士たちに共鳴きょうめいしたのであろうと思う。

 再びサトウ本人の記述を借りる。
「正確に日本語を話せる外国人として私は日本人の間に知られはじめ、知友ちゆうの範囲は急に広くなった。日本に対する外国の政策を知るため、あるいは単なる好奇心のため、人々がよく江戸から話をしにやって来た。私の名前が日本人のありふれた名字みょうじ(佐藤)と同じおかげで、他から他へと容易に伝わり、私に一面識もない人々の口にまでのぼった。武士階級の連中は葡萄ぶどうしゅやリキュールや外国煙草たばこを口にすればいつも大喜びで、しかも議論が好きだった。彼らは議論のテーマに興味をおぼえると何時間でも腰をすえた。政治問題が主要なテーマで、時には激論することもあった。私はいつも日本の現行制度の弊害へいがいを攻撃した。『私は諸君には大いに好感を持つが、専制せんせい政治は大嫌いだ』とよく言ったものだ。訪問者の多くは大名の家来だった。私は彼らと話すうちに、我々外国人は大君タイクン(幕府)を日本の元首げんしゅと見るべきでなく、早いうちにミカドと直接関係を結ばねばならない、と確信するようになった」

 無論、こういった理想論の話ばかりではなく、実利じつり的な面もあったと思われる。
 要するに「薩長の先物さきものい」をしておけば、もし将来、本当に薩長が政権を取った場合に「(個人的なことも含めて)リターンがあるだろう」と思っていたとしても、何ら不思議ではない。
 若者は誰だって野望を抱くものだ。
 この時二十二歳のサトウが、そのような野望を抱いたところで何の不思議があろうか。

 なにしろイギリスは、映画「007、ジェームズ・ボンド」のお国柄くにがらである。
 サトウと同時代のイギリス人では、清国の太平天国軍に参加したオーガスタス・リンドレーという人物がおり、またサトウより四十五歳年下になるが、第一次世界大戦時にオスマン帝国に対する戦略としてアラブ側に身を投じた、有名な「アラビアのロレンス」などもいる。
 イギリスというのは、こういった「既存政権に対する反乱を幇助ほうじょする人物」がしょっちゅう歴史舞台に登場するお国柄である。

 1716年にフランス人カリエールが書いた『外交談判法』という本の中で、次のようなことが述べられている。
「大使は尊敬すべきスパイと呼ばれる。なぜならば、彼の主な仕事の一つは任地の宮廷の秘密を探り出すことであって、秘密を教えてくれそうな人間を買収するのに必要な出費をすることを心得ていなければ、自分の職を立派にやっているとはいえない」(『外交談判法』、岩波文庫、訳・坂野正高より)
 ちなみにサトウは晩年『外交実務案内』という本を出版することになるのだが、その本の中でカリエールの『外交談判法』に対して「政治的英知えいちの宝庫」と高い評価を与えている。

 清国でのリンドレーの場合は軍人として太平天国軍を全力で支援し、明らかにおのれ個人の理想と野望を達成しようとして戦っていたが(しかし実際には太平天国軍の惨敗ざんぱいに終わり、心身ともにズタボロになって帰国することになったのだが)、サトウの場合はそこまで利己りこ的でもなければ、深く首を突っ込んでいる訳でもない。
 やはり基本的には薩長の若き志士たち、特に文通相手の俊輔の理想に共鳴していた部分が大きかったのだろう、と思いたい。
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