伊藤とサトウ

海野 次朗

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第六章・反転

第41話 条約勅許(後編)

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 一方、幕府内部はますます混乱の度を深めていた。
 阿部、松前の両老中は朝廷からの命令で辞めさせられた。
 これを受けて、将軍家茂いえもちは朝廷に辞表を提出した。
 そして「江戸へ帰る」と言い残して大坂城を出て、伏見へと向かったのである。
 家茂の辞表には
「私は幼弱ようじゃく不才ふさいなので将軍職は慶喜にいでもらう。慶喜であれば朝廷にも通じ、政治能力もあるので外交交渉の大任たいにんもつとまるであろう」
 といったようなことが書かれていた。

 この将軍辞職の宣言は「朝廷が幕府老中を辞めさせる」という越権えっけん行為に対して、将軍が抗議の意志を示すためになされたものであった訳だが、おそらくこの宣言の中には家茂の本音もかなり含まれていたであろう。
 幕府権力の強化を優先する阿部、松前の両老中と、朝廷との協調関係を優先する慶喜が大坂城内で論争した時、その採決さいけつを求められた家茂はどちらにも決断を下せず
「どうとでもしてくれ」
 と言い、ただ涙を流すだけだった。

 家茂はこの時、弱冠じゃっかん二十歳はたちである(満年齢では十九歳)。
 彼は部下に対する思いやりがあり、人徳のある将軍ではあったが、この内外波乱の時代をおさめるには荷が重すぎたと言うべきだろう。
 なにより、幕府という組織自体が老朽化ろうきゅうかしてこわれかけていたのだから、彼一人がどう頑張ったとしても、もともと支えきれるものでもなかった。

 朝廷から条約勅許を引き出すために京都で活動していた慶喜は、この将軍辞任、江戸帰還の話を聞いて急いで伏見へ向かった。
 そして伏見で家茂に謁見えっけんし、さらに老中たちとも接見せっけんして、将軍辞任、江戸帰還を思いとどまらせた。
「今一度、拙者せっしゃが死力をくして朝廷に開港の不可避をき、条約勅許を奏請そうせいいたす。上様うえさまは江戸に戻るのではなく、二条城へお入りいただく」
 以後、慶喜は御所ごしょに乗り込んで条約勅許の獲得を目指すのである。

 回答期限まで残り三日となった十月四日、パークスたち四ヶ国側に阿部、松前の両老中が罷免ひめんされたという話が届いた。この日プリンセス・ロイヤル号を訪れた外国奉行の山口がその旨を伝えたのだった。
 回答期限ギリギリになってもまだ幕府と朝廷がもめているのを知ったパークスは、とうとう日本側へ最後通牒つうちょうを突きつけた。
「回答期限までに文書による回答が無い場合は、我々の要求は正式に拒絶されたものとみなし、我々は“自由行動”を開始する」
 この“自由行動”とは「京都へ進撃する事も含む」という意味で、最後通牒を突きつける時の常套句じょうとうくであった。
 無論、その文言もんごんの意味するところは正確に幕府へ伝えられたので、幕府もあらためて四ヶ国の強硬な姿勢を思い知ることになった。
 サトウは当時の日記で次のように書き残している。
「もし幕府が条約勅許を得られなければ我々は戦争することになるだろうが、そうなったほうがむしろ物事がスッキリするかも知れない」
 薩英戦争と下関戦争という二度の戦争を経験したサトウが、幕府と戦争することをそれほど安易あんいに考えていたとも思えないが、薩英戦争と下関戦争を経験したあとに俊輔たち長州人、および胡蝶丸の薩摩人との交友関係が強まったサトウとしては、いっそ一度幕府と戦争をしたほうが幕臣たちの本心が見えるようになるのではないか?と思ったかも知れない。

 そしてこの同じ十月四日の夜、慶喜は御所(小御所こごしょ)で御前ごぜん会議に出席した。
 この会議は孝明天皇が御簾越みすごしにやり取りを聞くかたちの会議で、幕府側は慶喜のほかに京都守護職・松平容保かたもり、京都所司代しょしだい・松平定敬さだあき、さらに老中格の小笠原長行ながみちが出席し、朝廷側は関白かんぱく二条斉敬なりゆき、中川宮、近衛忠房ただふさなど十名が出席した。

 松平容保かたもりと松平定敬さだあきは兄弟で、慶喜と合わせて「いわゆるいちかいそう」とよく呼ばれている。
 いちは慶喜の一橋家、かいは容保の会津藩、そうは定敬の桑名くわな藩のことで、幕府への忠誠心が強いのはともかく、朝廷への忠誠心もそれに勝るとも劣らない、という立場の人々である。
 そして小笠原長行は二年前、生麦賠償金騒動の時に慶喜と協力して支払いを実行し、そのあと率兵そっぺい上京を計画して懲戒ちょうかい処分となった男であるが(第19話で記述済み)この頃また幕閣として復帰していたのだった。

 慶喜はくり返し朝廷側を説得し、条約勅許をくだされるよう訴えた。
「今や四ヶ国艦隊と開戦寸前の状況です。しかしすでに開港済みの横浜、長崎、箱館の勅許をくだされれば、四ヶ国艦隊は退去することでしょう。されど、もし勅許を拒絶すれば、外国人は主上しゅじょう(孝明天皇)のとうとさをわきまえぬ者にて、このみやこへ兵を送ると叫んでおります。兵が迫って来てから和議をこうじようとしても手遅れでございます」
 ちなみに慶喜の方針としては兵庫開港のことは後回しにして、とにかく開港済みの横浜、長崎、箱館の勅許を引き出すことに論点を絞る方針だった。
 慶喜は演説を続けた。
「彼らと無謀むぼうに戦ってもやぶるのは難しく、かりに一時いっときは勝利を得たとしても、そのあと万国の兵が日本へ押し寄せてくることでしょう。そうなれば幕府の存亡そんぼうはともかく、朝廷や日本全体の安否あんぴさえおぼつきません。万民が塗炭とたんの苦しみを受けることは何としてでも避けねばなりません。横浜、長崎、箱館の勅許さえ下されれば戦争は避けられるのです」
 このように慶喜が懸命けんめいに訴えても、朝廷側は容易に勅許を出そうとはしなかった。
 そしてこのあとも慶喜たちと朝廷との間で激論が続いた。

 ところが会議が深夜に入ってから、薩摩藩と関係が深い近衛忠房ただふさが意外な提案を持ち出した。
「朝廷より四ヶ国艦隊へ使者を送り、とりあえず回答期限の延期を申し入れ、その間に有力諸侯しょこうを京都へ招聘しょうへいして諸侯会議を開いて対応を決定すべし」
 これは薩摩の大久保一蔵が画策かくさくしたものだった。
 朝廷からの使者としては大原重徳しげとみを四ヶ国艦隊へ派遣し、大久保などの薩摩藩士がこれに随行ずいこうして補佐ほさする、という案だった。大原重徳しげとみは三年前に勅使ちょくしとして島津久光と江戸へ下向げこうしており、近衛忠房ただふさと同じく薩摩藩との関係が深い公家である。

 朝廷が直接外国と交渉する、という案はこれが初めてだった。
 また、諸侯会議(雄藩ゆうはん会議)を開くというのは西郷や大久保が盛んに主張している案で、これによって幕府から外交権を、ひいては政権そのものを雄藩連合に移してしまおうという計画だった。
 一旦いったんはこの案が最終決定として会議で決まりかけた。
 しかし慶喜たち幕府側が猛烈に反対して、朝廷からの使者派遣案を取りやめさせた。
 さらに会議が翌日に入ってから、慶喜は在京諸藩の代表者三十余名を御所に緊急招集しょうしゅうした。そして彼らに御前会議の場で意見を述べさせたのである。
 彼らのうち条約勅許に反対したのは薩摩藩と備前藩だけだった。それ以外は全員、条約勅許に賛成したのである。
 慶喜の目論見もくろみ通りの結果となった。

 これで勢いを得た慶喜は最後の手段にうってでた。
「ここまで申し上げても勅許をいただけないのであれば、拙者はこの場で切腹いたします。我がいちめいしむところにあらず。されど、そのあと我が家臣が何をしでかすか分かりませんぞ。そのお覚悟があれば存分になされよ。しからば、これにてご免」
 そう言い放って慶喜は席を立とうとした。
 すでに翌日の夜になっており、会議が始まってから二十四時間を越えていた。
 さすがに関白以下すべての公家たちは慶喜に抵抗する気力を失っていた。
 そして慶喜の要求通り、朝廷は条約勅許の御沙汰書ごさたしょを幕府へくだすことになったのである。


 今回も慶喜は大久保の策謀をしりぞけて、見事に勅許を獲得した。
 慶喜の完勝と言っていい。

 ただし、その勅許の文面は
「条約の、御許容きょようあらせらる。至当しとう処置しょち致すべき事」
 と書かれており、さらに続けてこまかな条件が書かれてはいるが、一番重要なのは
「兵庫はめられそうろうこと
 と書かれていることである。

 これは「兵庫の早期開港を止める」という意味にとどまらず、「兵庫の開港自体を止める」という意味で朝廷は書いたのである。
 慶喜も横浜、長崎、箱館の勅許を引き出すために、この点では朝廷に譲歩した。
 しかしもちろん、パークスたち四ヶ国側がこんなことを承知するはずがなく、やはりあとで問題となるのである。


 この二日後、回答期限の最終日である十月七日に老中の本荘ほんじょう宗秀むねひで伯耆守ほうきのかみ)と外国奉行の山口が条約勅許の獲得をパークスに報告するため、プリンセス・ロイヤル号を訪れた。
 案の定、パークスは「兵庫は止められ候事」の文面を見て激怒した。
「兵庫開港を止めるとは何事だ!しかもミカド印璽いんじ(ハンコ)も押してないではないか!こんなものはペケだ!」
 そう叫んで、パークスは御沙汰書を本荘に向かって投げつけた。

 そこですかさず外国奉行の山口がとりなしをして
「我が国の風習では勅状ちょくじょうに天皇の印璽は使わないのです。また兵庫開港を止めるというのは早期開港を止めるという意味で、開港自体を止めるという意味では決してありません。幕府に対して『至当しとう処置しょち致すべき事』と書いてある以上、兵庫を開港しない訳がありません。とにかく一旦いったん帰って文面について確認してきますので、後刻ごこくあらためて出直します」
 そう言って本荘と山口は一旦プリンセス・ロイヤル号から退去した。

 そして二人はフランス軍艦のロッシュのところへやって来た。
 ロッシュは通訳のメルメ・カションを通じて二人に話しかけた。
「イギリスの船ではどうでしたか?やはりパークスは怒ってましたか?」
 本荘がロッシュに答えた。
「いやまったくイギリスの船では酷い目にあった。パークスは大変立腹りっぷくしておった」
「そうでしょう、そうでしょう。あいつはひどいやつです。いつもこけおどしばかり使います」
 とにかく本荘と山口にとってはロッシュがたのみのつなだった。二人はロッシュに対して
「兵庫は止められ候事、についてパークスから追及されて困っている」
 と言って助言をあおいだ。

 ロッシュはしばらく考えてから二人に策をさずけた。
「老中が連名でサインをして、兵庫も大坂も必ず後日開くということを追加で書き入れてください。それを持っていって私がパークスにはからいましょう」
 しかし残り二名の老中の署名を得るには、この日が回答期限だったのでもう時間がなかった。
 となるともう、にせの署名を書くしかない。
 幸い本荘に随行ずいこうしてきた祐筆ゆうひつ(当時の書記官しょきかん)が残り二名の老中の署名が入ったひかえ書類を持っていた。
 山口は覚悟を決めて本荘に
にせ署名しょめいでやるしかありませんな」
 と進言した。すると本荘は
「これは大事件じゃな」
 と答えた。そこで山口は本荘に覚悟を決めるよううながした。
「パークスがあのように怒っているのですから仕方がないではないですか。つまり、もし何かあれば私と御老中が罪をかぶれば良いのです」
 結局本荘は山口の進言を受け入れた。そしてロッシュの言う通り追加のただし書きを書き入れ、さらににせの老中の署名を書き込んだのだった。

 あとはロッシュと山口がそれを持ってパークスの所へ行った。
 ロッシュとパークスはしばらく論争したが、その後パークスは「これで良しとする」と山口に了承した。

 かくして条約勅許の問題は、戦争になることもなく、一件落着したのであった。


 さて、結局のところパークスが幕府へ提示した「三つの条件」と「賠償金200万ドルの免除」の話はどうなったのだろうか?
 その結果は以下の通りである。

 一つ目の「兵庫、大坂を早期に開く」の条件は満たされなかった。
 二つ目の「条約勅許」の条件は満たされた。
 三つ目の「輸入関税を一律5%に引き下げる」は、ここでそのやり取りを描くことはなかったが、これも幕府側(最終日に回答した老中の本荘宗秀)によって条件が受け入れられた。
 
 結果としては、一つ目の条件だけが満たされなかった訳だが「賠償金200万ドルの免除」の条件は「三つの条件がすべて満たされた場合」というものだったので、結局、下関戦争の賠償金300万ドルは全額幕府が支払うことで確定したのである。

 要するにパークスとしては、何も手放すことなく、艦隊による威嚇いかくのみで「条約勅許」と「輸入関税を一律5%に引き下げる」を手に入れた訳である。
 サトウは日記で次のように書き残している。
「パークスは表では喜んでいないようなふりをしていたが、裏では非常に喜んでいた。パークスはキング提督とお互いの功績こうせきたたえ合っていた」
 ただし後年サトウは次のように手記で語っている。
「実は我々が京都まで押し出して行くには連合艦隊の兵力が不足していたし、もしそれが充分だったとしても、パークスが本国政府から与えられていた権限では、武力を行使するのは難しかった」

 先述したように、下関戦争の時は十七隻の連合艦隊だったが、この時は九隻だった。そのうちイギリス軍艦は五隻である。そしてもし仮に戦争となった場合、すでに幕府と密接な関係になりつつあったロッシュ(フランス)がイギリスと共同歩調をとったかどうか。
 しかもこの時大坂には長州再征用の幕府軍約二万が駐屯していたのである。さらに尊王攘夷に情熱を燃やす、戦意せんい旺盛おうせいな会津兵などもいた。
 確かに、仮にこの一戦で幕府が勝てたとしても、それをきっかけとしてイギリスは再度、大挙たいきょして押し寄せてくるという危険性はあった。
 しかしそれも、実際にふたを開けて見なければ分からない話である。

 筆者が思うに、この時のパークスが本当に京都へ攻めのぼる覚悟があったかどうか、その可能性は非常に低かったであろうと思う。
 ちなみに上記で示した三つ目の条件、「輸入関税」の件に少しだけ触れておきたい。
 関税の問題はいろいろとややこしい話なのであまり深く論じるつもりはない。とにかく幕府はイギリス側の要求をほぼ無条件に受け入れた。そしてこの後も日英の間で協議が続けられ、翌年五月に「かいぜい約書やくしょ」という貿易協定が調印されるのである。

「明治政府の最大目標は、関税自主権の回復と、領事りょうじ裁判さいばん制度の撤廃てっぱいだった」
 と一般的にはよく言われているが、この「関税自主権」の問題というのはパークスが日本へ押しつけた、この「改税約書」に起因きいんしているのである。

 いや。確かにそれ以前からすでに日本の「関税自主権」はかなり制限されてはいた。けれども「アロー戦争に敗れた清国並み」に低い関税率を押しつけられたのは、この「改税約書」からなのである。
「そもそも長州が下関戦争を引き起こしたから、こんな“改税約書”を押しつけられることになったのだろう?」
 そう考えるむきもあるだろう。
 特に幕府を擁護する立場であれば、そう考えるのが当然だろう。実際、外国奉行の田辺太一も、後年そのようなことを述べている。

 筆者が思うに、実際のところ幕府上層部の判断としても「むしろ、ただそれだけの理由で、簡単にイギリスの言い分を認めたのではないか?」と疑っている。
 それは、要するに彼らの考えは
「我々幕府が悪いんじゃない。悪いのは長州である。もし後々大きな問題になったとしても、それは長州が原因を作ったから、そうなったのである。めるなら長州を責めよ」
 という理屈である。
 要するに「責任転嫁」であり、また「開き直り」でもある。
 一国の政権をになっている政治家の取るべき態度ではなく、子どものように感情的な態度だが、あながちこの筆者の疑念はそれほど大きく外れてはいないだろう、と思う。

 当時の幕府上層部の無能さ、および商売や金銭に対する無理解さというのは、現代の我々からすると想像を絶するものがある。
 それを証明する具体的な事例は、福沢諭吉の『福翁ふくおう自伝じでん』にいくらでも載っている。
 例えば、ある上級役人が外国へ行く時に、三井の商人から当時のドル相場を聞いて
「なるほど昨今さっこんのドル相場は安くない。しかし三井はずっと前に買い入れた安いドルも持っているのだろう?拙者せっしゃの一分銀はその安いドルと両替してもらいたい」
 と述べたという。それを脇で聞いていた福沢は次のような感想を抱いた。
(どうも無鉄砲なことを言う奴だ。金を両替するのに、安い時に買い入れた金などとそんなしるしがどこに付いているか。安いも高いもその日の相場で決まったものを、相場外れにせよ、と平気な顔で言うとは)

 また福沢が「コンペティション」という英語を“競争”と訳した時に、それを上級役人に見せたところ
「ここに“あらそい”という字がある。これはどうもおだやかでない。一体どういった意味であるか?」
 とたずねられたので福沢は次のように答えた。
「別に何も珍しいことはありません。日本でも商人がやっているように、たくさん売ろうとして値段を安くすれば、隣りの店もまた安くして客を呼ぼうとする。それでもって物価が決まるのです。これを名づけて“競争”というのでござる」
「なるほど、そうか。西洋の流儀はキツイものだね」
「何もキツイことはありません。それですべての商売が成り立っているのです」
「なるほど、そう言われれば分からないことはないが、なにぶんどうも“争”という字は穏やかでない。これでは老中ろうじゅうへお見せすることができない」

 さらに余談を加えると、幕臣として外国との交渉に従事していた田辺太一、福地源一郎などは開国当時の老中の仕事ぶりについて次のような記述を残している。
 この物語では割愛したが、安政六年(1859年)の横浜開港時に金銀の通貨取引が問題になった。
 この外国為替かわせの問題は話がややこしいので詳細はここでも割愛するが、当時の英国公使オールコックと老中の間部まなべ詮勝あきかつ(越前鯖江さばえ藩主)がこの問題について話し合った時、老中の間部は為替のことがまったく理解できず、答えにきゅうして次のように答えたという。
拙者せっしゃは日本では大名と申す者でござる。金銀のことなど生まれてこのかた考えたこともない。幕府の財務ざいむ勘定かんじょう奉行に、藩内の財務は家老に任せている。それゆえ、この問題は勘定奉行と外国奉行にお聞き願いたい」
 この間部の発言を聞いたオールコックは次のように答えた。
「やれやれ。日本はまったくうらましいお国柄くにがらだ。それで行政をつかさどる大臣がつとまるというのだから」
 この会談の筆記役をつとめていた田辺は
「安政の大獄で強権を発動している御老中が、外国人にはこんな情けない対応しかできないとは、と筆記をしながらひそかにまゆをひそめたものだ」
 と、当時のことを回顧かいこしている。
 また福地の回顧録によると、このあと外国奉行につとめる幕臣たちの間では、会議の席で答えにきゅうすると
「拙者は大名でござる。左様さようなことは存じませぬ」
 と冗談を言うのが流行はやったという。

 まあ、当時の幕府上層部の能力というのはてしてこの程度のものだが、とにかく幕府は300万ドルの支払いと関税の引き下げに同意したのである。ただし幕府は300万ドル全額を支払うことはできず、結局残りの分は明治新政府に引き継がれることになる。
 サトウは後年、次のように手記で語っている。
「三つの条件のうち二つの条件、しかも最も重要なものを獲得できた。しかし大君タイクン政府(幕府)は300万ドルの支払いを完済かんさいしなかった。そしてこの問題は維新後になっても、えず明治政府とイギリス公使との間で憤激ふんげきと悪感情のたねとなったということを、私は言っておかなければならない」


 結局幕府は、薩摩や長州と違って、イギリスと戦うことはしなかった。
 しかし、もしこの時幕府とイギリスが本当に戦っていたらどうなっていたか?

 勝敗のことはひとまず脇へおくとして、幕府の延命えんめいだけを考えるのであれば、この時イギリスと戦うべきだっただろう。
 もし本当に「イギリスが京都へ攻めのぼる」というのであれば、幕府としてはもっけのさいわいと言うべきだったろう。

 なぜなら、外国と戦争をすれば国は一発でまとまるからである。
 言葉を何万言なんまんげんついやしたところで国をまとめるのは難しい。
 しかし外国と戦争をすれば一発でまとまるものである。
 しかもこの時の場合、後年の、例えば明治六年のせいかん論争のように「外征がいせい」で国をまとめようとするのではなくて、明らかな「防衛ぼうえい戦争」なのである。
 無論、名義のない戦争では第三者から反発をうけるであろう。その点、今回のイギリス(パークス)は
「条約を勅許しない日本が悪いのである。だから京都へ向けて進撃するのだ」
 と開戦理由を唱えていた訳だが、これで本当に戦争の名義が立ったであろうか?

 逆に幕府としては、天皇のいる京都を防衛するのはどんな理屈をも超えて、国内的には「絶対的な正義」を得られたはずである。
 もしそうなれば、薩長も幕府を支援してイギリスと戦わざるを得なかったであろう。

 幕府は長州と戦争をするよりも、イギリスと戦争をしたほうが延命できたはずである(ただし戦争の結果によりけり、という条件付きだが)。
 まあ、幕府がそういった決断を下せるような組織集団でなく、またそういった決断を下せる人材が上層部にいなかったというのはこれまで散々見てきたところであり、今回のような結果になったのはある意味、必然的だったとも言えるだろう。

 少なくとも、会津藩としては、このとき戦っていれば後年のような「悲劇」はなかっただろう。
 そして実際、会津藩はこの時イギリスと戦う気がマンマンだったのだ。
 まあ「歴史にIFは無い」ので、言っても仕方のない話ではあるけれど(おそらく、もしそうなっていたとしても、また別の形で「悲劇」にう藩が出たかも知れないし)。

 ただし先述したように、この時のパークスが本当に京都へ攻めのぼる覚悟があったかどうか?筆者は疑問に思う。
 そして、もし京都へ進撃した場合「日本国内が“反英”で一つにまとまってしまうかもしれない」という可能性には、パークスも気がついていただろう。
 イギリスの侵略のパターンは「分断ぶんだん統治とうち」が基本である。
 まず相手の国内に敵対勢力を作りだして、国内対立をあおって国力をおとろえさせ、しかるのちに植民地化を狙う、というのが基本である。
 そのイギリスが、今回のようなやり方で「京都へ攻めのぼる」などという愚策ぐさくをやるとも思えない。
 そもそも以前キューパー提督がいた頃の戦略は、戦争になった場合は「海上封鎖ふうさをおこなう」というのが基本方針であったし、それが一番効果的な戦略であろう。イギリスがわざわざ名義も利益も無い陸上戦闘(京都への進撃)をやって、自国の兵士を犠牲にするとは思えないのである。



 さて、そろそろ空想の話から、現実の歴史の話へと戻らねばならない。
 条約勅許を獲得したパークスたちは、その二日後に大坂湾から退去した。
 艦隊は横浜へ戻り、サトウも横浜へ帰って来たのだが、パークスを乗せた船は下関経由で上海へ向かった。一旦イギリスへ帰っていたパークスの妻子が上海まで戻って来たので、それを迎えに行くためである。

 そんな訳で数日後、パークスは下関に到着した。
 そしてパークスが乗ってきた船に高杉晋作と伊藤俊輔が訪問した。
 パークスと高杉と俊輔は、以前長州がイギリスへ伝えた「下関開港」の件について話し合った。
 高杉は開口一番、次のようにパークスへ意見を述べた。
「我が長州は今のところ下関を開港するつもりはない。我々は現在、幕府との戦争準備が忙しいので貿易問題にかかわっている余裕がないのである」
 結局長州は、というか高杉は、下関開港をあきらめたのである。

 この高杉の隣りに座っていた俊輔、それに聞多、上杉宋次郎そうじろうらの奔走によって、長州はすでに長崎のグラバーから薩摩名義で武器や蒸気船を入手できるようになっていた。それゆえ、藩内の反対派(特に攘夷派)を刺激してまで下関開港にこだわる必要がなくなっていたのだ。
 もちろん高杉はそういった事情をわざわざパークスには話さなかったが、パークスは後にグラバーや長崎領事館のガウアーから薩長提携の話を聞いて、その事情を理解するに至った。


 一方、横浜へ戻ったサトウは、留守中に流布るふしていた滑稽こっけい噂話うわさばなしをウィリスから聞かされた。
「アメリカ公使が殺され、パークスは捕虜ほりょになり、サトウとシーボルトが殉職じゅんしょくし、幕府はまた賠償金を支払うことになった、という噂がどこからともなく流れてきたんだ。そんなことがある訳ないだろ、と思ってたけど、万が一ということもあるから心配したよ」
 留守中の江戸や横浜では「大坂では幕府とイギリスが戦争をしているようだ」という憶測おくそくが多少はあったようである。
 しかし艦隊が無事横浜へ帰ってくるとそういった風説ふうせつもすぐに消えて、いつも通りの平穏な状態に戻った。

 とにかく、朝廷から条約勅許を引き出すことに成功した幕府は、賠償金や関税の問題は別とすれば、これで逆に外国との関係は良好な状態となり、開国政策はほとんど定着しつつあった。
 天狗党が消え、長州も消滅寸前、そして条約勅許がりた今、攘夷の火は風前ふうぜん灯火ともしびとなったかのように見えた。
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藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

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