伊藤とサトウ

海野 次朗

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第六章・反転

第40話 条約勅許(中編)

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 そのころ兵庫にいたパークスたち四ヶ国艦隊は幕府との交渉の準備を進めていた。
 それに加えて、彼らは兵庫港に上陸して視察もおこなっていた。
 早期開港になるか、予定通り二年先の開港になるか、そのどちらにせよ開港するのは間違いないのだから(ただし日本側は決してそのように考えてはいないのだが)、その時にそなえて港の下見したみをおこなっていたのである。

 サトウは連日兵庫に上陸して歩き回り、時には数キロ東北にある神戸村まで足を運んだ。
 兵庫の真光寺しんこうじ清盛きよもりづか能福寺のうふくじ、さらに湊川みなとがわ(兵庫と神戸の間を流れていた旧湊川)などの周辺を歩き回って町の様子を観察し
「湊川はすばらしい川で、水源のある山麓さんろくのあたりは非常に景色が美しい」
 といった感想を日記に記録している。

 先回りして述べてしまうと、開港された後に外国人たちが住みつくことになるのはこの兵庫港ではなくて、数キロ東北にある神戸村のほうである。
 ここには勝海舟や坂本龍馬がいた神戸海軍操練所そうれんじょがあったぐらいで人があまり住んでおらず、その海軍操練所もこの時すでに閉鎖されていた。
 兵庫と神戸の関係は、神奈川宿と横浜の関係と似ている。
 神戸も横浜も元々あまり人が住んでいなかったので、外国人は自分たちの思うように町を設計することができた。彼らが兵庫ではなくて神戸を選んだのも、そういった理由があったからである。
 おかげで神戸も横浜も、その名残なごりである「異国いこく情緒じょうちょ」といった雰囲気を今に残している。何の因果いんがか、その後どちらも巨大地震に見舞みまわれて町が壊滅かいめつする、といった点でもこの両者は似ているのだが。

 九月二十三日、兵庫沖に停泊ていはくしていたプリンセス・ロイヤル号において幕府代表と英蘭米三ヶ国代表の会談がおこなわれた。ただし三ヶ国代表と言っても基本的にはイギリスのパークスが前面に立って幕府代表と談判だんぱんする形である。
 一方フランスのロッシュは独自路線を取り、自国の軍艦で待機することにした。
 ロッシュはここでひそかに幕府代表に助言を与えるつもりなのである。

 幕府代表は老中の阿部正外まさと豊後守ぶんごのかみ)、外国奉行の山口直毅なおき駿河守するがのかみ)、大坂町奉行の井上義斐よしあや主水正もんどのしょう)の三名である。
 ちなみにこの日サトウは大坂へ視察に出かけていたので、通訳はシーボルトが担当することになった。

 会談がはじまるとさっそくパークスは阿部に対して、賠償金200万ドル免除の件と、その引きかえとして三つの条件(兵庫開港の早期開港、条約勅許、関税引き下げ)を提示し、なかでも条約勅許は今回絶対に獲得するよう迫った。
 しかし幕府代表の阿部はやんわりとそれを拒否した。
「現在幕府は困難に直面しており、条約勅許の獲得は困難である」

 パークスという男は、相手が「あいまいな言葉」で言い逃れしようとするのを絶対に許さない、強烈な性格の持ち主である。
 その点、日本人は逆に「あいまいな言葉」を好む傾向にあり、ある意味パークスとは水と油のような関係と言える。
 パークスは阿部に対して次々と追及ついきゅうの言葉を投げかけた。
「その困難とは一体何なのか?」
「外国のことなど何も知らない多くの日本人は、自分たちの置かれている状況を何もわかっていない。無知な連中が攘夷を唱えて朝廷へ入れ知恵するので、幕府は朝廷を説得するのに手を焼いている」
「どういった連中が攘夷を唱えて幕府に抵抗しているのか?具体的に名前をあげてもらいたい」
「例えば長州がその一つである」
「長州が攘夷を唱えていたのは過去の話であり、今では下関を開港して外国と貿易する意志もあると聞いているが?」
「長州がそのように言っているのは一時的なものであり、武器などを手に入れるための方便ほうべんに過ぎない」
「幕府が貿易の利益を独占して、朝廷や大名へ分け前を与えないから彼らは不満を唱えているのではないのか?なんにせよ、そういった日本国内の不和は我々外国人にとっては関係のない話であり、幕府が一国を代表する政府であると言うのなら、条約を遵守じゅんしゅするために抵抗勢力を制圧すべきであろう」
「大名が自由に貿易できない現在の制度は改めるべきだと我々も考えている。どのような制度が適切であるのか、現在検討中である」

 この最後の阿部の発言は、一見、何の問題もない発言のように見える。
 しかしパークスはこの阿部の発言を執拗しつように追及しはじめた。

 それというのも、以前紹介した三年前の「ロンドン覚書おぼえがき」があったからである。
 これは竹内使節とオールコックが取り決めた覚書だが、この取り決めのなかでは江戸・大坂・兵庫・新潟の開市かいし開港かいこうを1868年1月1日まで延期する条件として「貿易に関する規制撤廃てっぱい」が定められており、その具体的な項目として
「大名が直接外国人と貿易することをさまたげてはならない」
 という条件があった。
 そしてこの条件に違反した場合の罰則ばっそく規定きていとして
「日本が約束不履行ふりこうの場合は即座そくざに開市開港を要求できる」
 と定められている。

 阿部は「大名が自由に貿易できない現在の制度」と発言しており、「大名が直接外国人と貿易することを妨げてはならない」というロンドン覚書に日本が違反していることをみずから認めてしまったのである。

 おそらく阿部はそういった細かい事情を理解していなかったか、あるいはもし違反状態であったとしても、これまでずっと見逃してくれていたのだから今回も深く追及されることはあるまい、と軽く考えていたのだろう。
 しかしながらパークスがこの「失言」を見逃すわけがなかった。
「大名が直接外国人と貿易することを妨げてはならない、というロンドン覚書に幕府が違反していることは絶対に容認できない。我々は本来であれば今回提示した三つの条件とは無関係に、兵庫開港を要求できる権利を持っているのである。にもかかわらず、それを要求しないのは我々が幕府に友好的な精神を示しているからである。もし幕府が我々に対しても友好的な精神を示すのであれば、三つの条件を受けいれて、さらに賠償金200万ドルの免除も手に入れるべきである。それができないというのなら、幕府は賠償金の免除という利益を手放すだけにとどまらず、兵庫開港を無条件で要求されることにもなるだろう。なお、大名のなかには我々との交際を強く望み、友好的な精神を示してくる人々がいるが、我々が彼らと交際することは条約でまったく禁止されていない、ということも付け加えておく」
 このパークスの厳しい追及に対して阿部は次のように答えた。
「現在、日本国内は“人心じんしん折合おりあい”の状態にあり、条約勅許や兵庫開港が認められるとは到底思えない。おそらく我々は賠償金を支払うことになるだろう。とにかく、四ヶ国の提案を持ち帰って検討するので、後日あらためて回答する」
 こうして初日の会談は終了した。
 幕府側は、イギリスがこれまで以上に強硬な姿勢であることを知って少なからず動揺どうようした。
 ちなみに阿部たち幕府側の代表は、このあとフランスのロッシュとも会談したが、この段階では格別な助言などは無かった。まずは幕府側がどう対応するのか?それが決まらないうちは助言のしようがないからである。


 一方、船で大坂へ行っていたサトウは天保山てんぽうざんで上陸して小舟に乗り換え、安治川あじかわ旧淀川きゅうよどがわ)をさかのぼって大坂城の近くまで探索たんさくしていた。
 時々上陸しては町の様子を見てみたが、大坂の人々はおおむねサトウたち外国人に友好的だった。
 一方、幕府役人の官僚的で融通のきかない態度にイライラとさせられた。すぐに細かな規則を持ち出してサトウの移動を制限しようとするのだ。しかしサトウたちが「我々は断固として先の道へ進む」と強い態度に出ると、役人たちは簡単に折れて、逆に謝ってきた。

 この頃、兵庫港には薩摩の蒸気船胡蝶丸こちょうまるも停泊していた。
 サトウはこの胡蝶丸の薩摩藩士たちとも交流してすでに情報収集にあたっていた。サトウが胡蝶丸を訪問することもあれば、薩摩藩士たちがプリンセス・ロイヤル号のサトウを訪問することもあった。
 薩摩藩士たちはサトウを食事に誘い、時には「オンナゴチソウ(女御馳走)」に誘うこともあった(ただしこの「オンナゴチソウ」、要するに遊女屋行きの計画は日程が合わず、ぼつになったようである)。
 サトウの目にはこの両者、すなわち幕府役人と薩摩藩士の態度が、きわめて対照的にうつった。
 サトウは幕府役人に対して
(彼らは弱いくせに偉そうにしたがる。そのくせ我々数人のヨーロッパ人が怒鳴どなりつけるとすぐにそのなりをひそめる。なんと意気地の無い連中であることか)
 と軽蔑けいべつの念を抱きはじめていた。


 パークスから強硬な要求を突きつけられた幕府は、今回も右往左往うおうさおうするばかりだった。
 先の会談が終わった後、阿部はパークスに回答期限として数日の猶予ゆうよをもらいたいと申し出た。
 ところがパークスはそれを拒否して
「明日、回答せよ。さもないと我々は直接京都へ向かうことになろう」
 と強硬な態度で阿部に迫った。
 これがパークスのやり方というか、往々おうおうにして外国人に見られる傾向ではあるが「最初に強く出て(最初に高めの要求を出して)、そのあと少しずつ要求を引き下げていきながら交渉を有利に進める」という「きの基本」を徹底的に守る人間なので、とにかく幕府に対してゴリ押しで迫ってきた。

 結局次の会談は翌日おこなうということに一応はなったものの、翌日幕府は使者を送って二日間の猶予を求め、とりあえずパークスもそれを渋々しぶしぶ了承した。
 阿部はパークスの強硬な態度にまったく面食らってしまった。そしてやむなく
「兵庫の開港を認める。ただし朝廷に勅許は求めない」
 という方針を打ち出し、同僚の老中、松前まつまえ崇広たかひろ伊豆守いずのかみ)とその方向で事を運ぼうとした。
 このとき阿部は外国奉行の山口直毅に対し
「なあに、もし何かあれば俺が腹を切れば済むことだから、是非ぜひこの方針でパークスに回答するつもりだ」
 と、その決意のほどを語った。

 しかしこの阿部たちの方針を慶喜が耳にして、すぐにストップをかけさせた。
 二年前の「五月十日の攘夷期日の決定」および「生麦賠償金支払い」の騒動の時にも触れたように、慶喜は血筋から言っても朝廷尊崇そんすうの念が強く、勅許を無視するような阿部、松前両老中のやり方は絶対に認められなかった。
 このあたりが、幕府権力の強化を優先する阿部、松前などの老中たちと、朝廷との協調関係を優先する慶喜との大きな違いであり、両者の間には見えない壁が存在していた。
 そしてこのあと阿部、松前の両老中は朝廷から厳罰げんばつをうけて罷免ひめんさせられた。
 老中が朝廷の命令で辞めさせられるというのは前代未聞の出来事だった。

 ともかくも、慶喜の指示によってパークスのもとへ使者が送られ、回答期限の延期を求めることになった。延期してもらっている間に慶喜は、朝廷から条約勅許を引き出すつもりであった。
 パークスのもとへ送られた使者は若年寄わかどしよりの立花種恭たねゆき出雲守いずものかみ)と大坂町奉行の井上義斐よしあやだった。
 回答期日として決められていた九月二十六日、立花たちはパークスのもとへ出向き
「阿部は急病で来られなくなった。朝廷に条約勅許を求めるのは今回が初めてなので、説得には数日を要する。是非あと十五日間の猶予をもらいたい」
 と申し出た。

 パークスはこの立花の申し出に激怒した。
 約束の日に阿部本人が来ず、しかも回答延期を求められたというのも立腹りっぷくの要因だが、さらに怒りを感じたのは
「幕府が朝廷に条約勅許を求めるのは今回が初めて」
 という部分であった。
 この条約勅許の話は前年オールコックがいた頃から幕府に要求していたことで、幕府はその時「条約勅許をとりつける」とイギリスに約束していたのだ。しかしこれまで幕府はずっと約束を無視し続けて、しかも何の努力もしてこなかったということがここへ来てとうとう判明した。

 パークスは机をバンバン叩き、立花たちに対し
「なんというはじ知らずな言い草か!幕府の人間は噓つきばかりだ!」
 と思いっきり暴言をびせかけた。

 立花はパークスの無礼な態度に我慢の限界を感じていた。
(一国を代表する人間に対してなんたる暴言か!このような無礼を許すくらいなら、むしろ今この場で公使を斬り捨て、返す刀で切腹したほうがマシだ。さりとて、イギリス公使を殺してしまえば日本全体に害がおよぶであろう。どうしてくれようか……)
 それからパークスはさらに立花たちを追及した。
「回答期限を延期すれば本当にミカドを説得できるのか?その証拠しょうこがあるのか?」
 すると大坂町奉行の井上が立ち上がって
「このようなことに証拠を示すなど、できるわけがない!されど、我が国には大切なことをちかう時には血判けっぱんをする風習ふうしゅうがあるので、今この場で血判を押してしんぜよう」
 そうパークスに向かって言い、わきしを抜いて指を切るゼスチャーを見せた。
 本来血判を押す際には、指を少しだけ切って血判用の血を少し流すだけのことなのだが、パークスたち外国人にはその意味が通じず
「井上は指を一本切断して、証拠として差し出すつもりか」
 とパークスたちは勘違いした。

 さすがにこれにはパークスも驚いて、井上に刀をおさめるように言った。そして
「そこまで言うなら仕方がない。十日間だけ猶予を与えよう」
 と立花たちに回答した。
 後年、慶喜は次のように語っている。
「井上は刀を抜きみずから指を切って外国人に証拠を示そうとした。井上はこの時に限らず度々たびたび指を切ろうとして外国人を説得したというが、その後、実際に指を切ったと聞いている」
 井上がこのあと本当に指を切断したという事例があったのかどうか、あるいは話が誇張こちょうされて慶喜に伝わったのか、その真相しんそうはよく分からないが、とにかく立花と井上は十日間の猶予を獲得するのに成功した。


 この日、サトウはプリンセス・ロイヤル号でパークスの通訳をした後、再び薩摩藩の胡蝶丸を訪問した。胡蝶丸はこの日、兵庫を出港して鹿児島へ帰ると聞いていたので、最後にもう一度情報収集をしておこうと考えたのだった。
 船内へ入ると例によって薩摩藩士たちは気軽にサトウに話しかけてきた。

 そしてサトウが船室へ入ると、一人の巨漢きょかん寝台しんだいで横になっていた。
 その男はサトウが部屋に入ってきたのに気づき、やおら起き上がって座席へと移り、居住いずまいをただした。
 大きな瞳を輝かせて、穏やかな表情でサトウを見つめているその男は、一言も言葉を発しようとはしなかった。

 サトウは、その男に対する薩摩藩士たちの接し方がことさら礼儀正しいのを見て
(どうやらこの人物は薩摩藩の重要人物であるらしい)
 とすぐに感じ取った。
 この船で顔なじみになった薩摩藩士が、その男のことをサトウに説明した。
「彼は島津、薩州さつしゅうで、家老に相当する人物です」
 これを聞いてサトウは、この人物が「島津サチュウ」という名前だと思い込んでしまった。
 “薩州さつしゅう”とは薩摩藩のことを指す、当時の一般的な呼称こしょうである。
 説明した薩摩藩士は「島津家」と言いかけて「薩州さつしゅう」と言い直しただけだったのだが、薩摩なまりで聞き取りにくかったせいか、サトウはその男の名を「島津サチュウ」と勘違いしたのである。
(ひょっとしてこの人物は、あの有名な島津久光ひさみつではなかろうか?)
 とサトウは思った。

 言うまでもなく、この男は久光ではない。西郷吉之助きちのすけ隆盛たかもり)である。

 そしてもちろん西郷は家老でもなく、しかもこの時はサトウに本名も言わなかった訳だが、サトウが信用できる人物かどうか分からなかったので、一応用心のため西郷は本名を明かさなかったのだろう。
 サトウの日記には後日
「あの島津サチュウは、実は西郷であった」
 と訂正が書き加えられることになる。それはのちにサトウが西郷と正式に面談をして判明することであり、この場では何も言葉をわさなかった。

 これがサトウと西郷の出会いであった。
 サトウは不思議な雰囲気を持つ男の印象を胸にめつつ、この日はこのまま胡蝶丸を後にした。
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