伊藤とサトウ

海野 次朗

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第六章・反転

第37話 薩長同盟、龍馬登場

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 四月七日、元号が元治げんじから慶応に改元かいげんされた。
 これで元治の元号は一年限りということになった訳だが(この四年前にもまんえんという一年限りの元号があったが)こうまでして改元を強行したのは、元治元年が「甲子かっし革令かくめい」の年というだけあって、禁門の変、京都の大火、長州征伐、天狗党の乱と、社会不安を巻き起こす事件が相次あいついだので、えて改元に踏み切ったのである。

 ちなみに天狗党の乱は、この年の初めに北陸で諸藩軍に降伏し、終結した。
 幕府の天狗党一味いちみへの処置は過酷を極めた。
 その指揮をったのは田沼意尊おきたか(有名な田沼意次おきつぐのひ孫)であった。
 北陸の諸藩軍から天狗党一味を引き取った田沼は、天狗党一味約八百人をにしんぐらへ押し込んで虐待ぎゃくたいした。彼らと同じ水戸出身で、天狗党とは縁の浅からぬ慶喜について書いた『徳川慶喜公伝』はハッキリと「意尊の虐待」と書いている。田沼は関東で天狗党の鎮圧にてこずらされたゆえにこういった処置に出たのであろう。
 二月四日から敦賀で処刑がはじまり、350余名が処刑された。
 この幕府の処置を聞いた薩摩の大久保一蔵は当時、次のように書いている。
「このように多数の志士を処刑して、あまつさえ動物を扱うかのように虐待したのはまったく田沼の責任である。いよいよ幕府滅亡のきざしが見えてきた」

 そして幕府は長州に対しても決着をつけるべく決心した。
 今度こそ長州の息の根を止めるために「将軍進発」を決定したである。
 いわゆる「第二次長州征伐」はこの時点から始まっており、初動は意外にも早かった。ただし、実際に長州へ攻め込むのは一年以上先のことであり、それまで幕府はもたもたと無駄に時を過ごすことになる訳だが。
 四月十八日、幕府は「毛利父子に容易よういならざるくわだて」があることが判明したという理由で「五月十六日に将軍が進発する」と発表した。
 しかしながらこれは将軍進発というよりも、まだ「将軍上洛」というぐらいの段階で、とりあえず将軍家茂があらためて京都へ入るのが決まった、といった程度の話である。

 将軍上洛はこれが三度目となる。
 一度目は二年前の、あの「五月十日の攘夷期日」を決めた時である。
 そして二度目は、この物語では割愛したが一年前に船に乗って上洛していた。この時は数ヶ月間の滞京で、その後また同じように船で江戸へ帰った。
 今回は、幕府軍の威光を示すためにも、一回目と同様に陸路で上洛することになった。

 ところで「毛利父子に容易よういならざるくわだて」とは何のことであろうか?
 このあと将軍が上洛した際、幕府は朝廷に対して将軍進発の理由を次のように説明した。
「長州藩主は昨年謝罪したが、その後再び過激派が政権を握った。しかもひそかに家臣を外国へつかわせ、大砲・鉄砲などの兵器を多数購入し、そのうえ密貿易もやっている。その証拠をつかんだので将軍が進発したのである」
 これは長州の村田蔵六が上海で船を売却して武器を購入した、いわゆる「フィーパン号(モニター号)事件」のことを指している。

 この年の二月、まだ正義派政権が誕生して間もない頃のことだが、村田は「壬戌丸じんじゅつまる」に乗って上海へ行った。この時、アメリカの投機的商人ドレークという男がこの密貿易の手引きをした。フィーパン号(モニター号)とはドレークが乗っていた船の名前で、この船が壬戌丸を引っ張って上海へ行ったのである。
 ちなみにこの壬戌丸は、この物語では何度も登場したように、サトウが来日する時に乗ってきたランスフィールド号のことで、その後長州が買い取って横浜で練習船として使い、下関の砲撃戦でアメリカのワイオミング号によって撃沈された、という船である。
 ところがこの船の数奇な運命はこれだけで終わらず、長州は撃沈された後に海底から引きあげて修復し、この船を上海で売却して代わりに武器を買おうとしたのだった。

 この船は上海で3万5千ドルの値段で売れたので(1万5千ドルという説もある。ちなみに長州が購入した時の金額は11万5千ドル)その代金でゲベール銃を買って帰ったという。
 しかしこの事件は史料が少なくハッキリとしたことは今もよく分かっていない。
 ミニエー銃(施条しじょう銃=ライフル銃)にこだわっていた村田が旧式のゲベール銃(ライフリングがない滑空かっくう銃)を買ってくるというのも面妖めんような話で
「村田蔵六は上海へ行ってないんじゃないのか?」
 という声もある。
 余談として述べると、例えば『めた炎』(中央公論社)の著者、村松たけし氏は
「二月九日に壬戌丸が出帆したとすれば、翌日下関で対馬行きの便船の調達をしたり、小五郎の呼び戻しの相談に加わったりしていた蔵六が、この船に乗っていたはずがない」
 と書いている。
 かたや司馬遼太郎大先生は『花神』のなかで
「妙なことに蔵六は維新後も『私は、外国へは行ったことがありません』と、いっている。この長州藩の国家秘密を維新後までまもっているというのは、ちょっと滑稽であるが、蔵六はそういう男であった」
 と書いている。真相は不明である。

 ともかくも、長州が密かにおこなった上海での武器購入は、たちまち幕府にバレた。オランダ総領事ポルスブルックがこの長州の武器密輸を探知して、幕府に報告したからである。
 オランダは幕府と二百年以上の親交があり、しかもポルスブルックは二年前に下関海峡で長州から砲撃をくらって負傷までしているのだから、幕府のために長州の武器密輸をしらせたのは当然のことだった。
 ポルスブルックの報告を聞いた幕府はすぐに外国奉行の役人を上海へ派遣して、上海で長州の武器密輸の証拠をつかんだ。
 かくして「毛利父子に容易よういならざるくわだて」があることをつかんだ幕府は、長州再征を決断した訳である。

 ちなみにこの「オランダが幕府へ密告みっこくして長州再征が決まった」という話は広く世間に知れ渡り、その後しばらくしてポルスブルックが船で下関へ立ち寄った際、桂と俊輔が船に乗り込んでポルスブルックに抗議した。
 とはいえ、武器の密輸自体は事実なのでそこには触れず
「なぜ幕府に密告して長州をイジメるのか?」
 という理屈で二人は抗議した。
 するとポルスブルックは、窮地きゅうちにあるはずの長州が案外威勢いせいの良いことに驚き、しかも長州からうらみを買うのもうまくないと考えて
「長州再征を幕府にそそのかしたのは小倉藩です」
 と、桂と俊輔に答え、小倉藩に責任転嫁した。対岸から下関を監視している小倉藩と長州藩が不仲であることは外国人にも有名だった。それゆえ、とっさに責任転嫁したのである。


 五月に入ると幕府軍は次々と上洛のについた。
 五月五日に一番手が江戸を出発し、そのあと幕府軍は順次じゅんじ出陣していった。
 そして五月十六日、将軍家茂が江戸城から出陣した。
 将軍をようした隊列は翌日、横浜からほど近い保土ヶ谷ほどがやを通過した。その際、横浜の外国人たちもこの隊列を見物することが許された。

 二年前の将軍上洛の際は、生麦事件からまだそれほど時間も経ってなかったので外国人が見学することなど不可能だったが、この頃になるとかなり規制もゆるやかになっていた。
 この時、外国人たちが将軍の軍勢を見物している様子は歌川芳幾よしいく(落合芳幾)の錦絵にしきえ『末広五十三次 程ヶ谷』にも描かれている。

 当時たまたま横浜にハインリッヒ・シュリーマンが来日しており、彼は『シュリーマン旅行記 清国・日本』(石井和子・訳、講談社学術文庫)で、この時の様子を描いている。
 言うまでもなくシュリーマンはトロイ遺跡を発見した、あの考古学者のシュリーマンである。
「いよいよ大君が現われた。他の馬と同様、蹄鉄なしで藁のサンダルを履かせた美しい栗毛の馬に乗っている。大君は二十歳くらいに見え、堂々とした美しい顔は少し浅黒い。金糸で刺繍した白地の衣装をまとい、金箔のほどこされた漆塗りの帽子を被っていた。二本の太刀を腰に差した白服の身分の高いものが約二十人、大君のお供をして、行列は終わった。翌朝、東海道を散歩した私は、われわれが行列を見たあたりの道の真ん中に三つの死体を見つけた。死体はひどく切り刻まれていて、着ている物を見ても、どの階級の人間かわからないほどだった。横浜で聞いたところによると、百姓が一人、おそらく大君のお通りを知らなかったらしく、行列の先頭のほんの数歩手前で道を横断しようとしたそうである。怒った下士官が、彼を斬り捨てるよう、部下の一人に命じた。ところが、部下は命令に従うのをためらい、激怒した下士官は部下の脳天を割り、次に百姓を殺した。まさにそのとき、さらに高位の上級士官が現われたが、彼は事の次第を確かめるや、先の下士官を気が狂っているときめつけ、銃剣で一突きするよう命じた。この命令はすぐさま実行に移された。三つの死体は街道に打ち捨てられ、千七百人ほどの行列は気にもとめず、その上を通過していったのである」


 この将軍の隊列を、横浜にいたサトウが見たかどうかは定かではない。
 しかし、サトウはこの将軍進発について俊輔と詳しく手紙でやり取りをした。
 まずこの数ヵ月前に、俊輔からサトウに手紙を送った。もちろん下関に立ち寄ったイギリス船にたくして横浜へ送ったのである。その内容を要約すると次の通りとなる。
「京都での戦い(禁門の変)以降、征長軍がやって来て長州の内部は激しく混乱していましたが、今では一つにまとまっています。また四ヶ国との戦争を経験して、外国の武器および艦船の優秀さに皆が気づきました。幕府が長州にどのような対応をするつもりなのか分かりませんが、戦争を回避できなければ我々は徹底的に戦うことになるでしょう。我々が以前外国船を砲撃したのは幕府の命令があったからです。その我々に対して幕府が戦争をしかけてくるのは筋違いです。ちなみに幕府が兵庫開港の努力をしている形跡はまったくありません」

 これに対する返事かどうかどうかは不明だが、サトウは将軍進発について「日本語で」俊輔に手紙を送った。
 日付はうるう五月四日で、この時サトウは「薩道さとう懇之助」と名乗っていた。この手紙も要約すると、次の通りである。
先月せんげつ(五月)十六日、将軍が江戸を進発しました。総人数は五万一千人に過ぎず、しかも砲兵隊は千人ほどで、野戦砲も小規模の物のみとのことです。また当分の間イギリスの軍艦が一、二隻、下関へ監視に向かいますが、幕府に加勢するためではなく、イギリス商船の武器の密売を監視するためです。ただし他国の商船によるものは当方の関知するところではありません。基本的にあなたがた(長州)を助けることはできませんが、幕府を助けるつもりもありません。せんだってご要望のあった英和辞書をお送りしますのでご笑納しょうのうください。追伸。井上聞多様ならびに山尾庸三様にもよろしくお伝えください」

 この中でサトウが幕府軍の総人数を「五万一千人」と書いているのは、一般に幕府軍は五万人と言われていたのでその説のまま書いたのだろう。ただし実際の総数は「約二万一千人」だったらしい。とにかくサトウとしては基本的に「幕府軍はたいしたことはない」ということを言いたかったように見受けられる。

 特に重要なのは「他国の商船によるもの(武器の密売)は当方の関知するところではありません」という部分で、これはサトウが俊輔に対して
上手うまく監視の目をすり抜けて武器を入手せよ」
 と暗に言っているに等しい。オランダのポルスブルックが長州の武器密輸を幕府へ報告したように、このころ外国商人が長州へ武器を売ることは禁じられていた。
 しかし、そもそも一介いっかいの日本語通訳官であるサトウがイギリス公使館の政策決定にそれほど深く関与できるはずもなく(少なくともこの頃のサトウの力では)、サトウから俊輔への手紙は一般的な外国公使館のスタンスである「局外きょくがい中立」を述べているに過ぎない。
 イギリス公使館の政策方針を決めるのは、新しく日本公使として着任するパークスであり、彼は今まさに日本に到着しようとしているところだった。そして実際にパークスが横浜へ着任するのは、サトウがこの手紙を書いた十日ほど後のことである。

 ただし、フランスはロッシュ公使のもと、明らかに「局外中立」を無視して幕府へ急接近しようとしているところなので、イギリスがフランスに追随せず「局外中立」を守ってくれるだけでも、俊輔や長州にとって一つの安心材料とはなったであろう。
 少なくともイギリスは今のところ幕府を応援するつもりはないのだな、と。
 それにしてもサトウは俊輔にどんな英和辞書を送ったのだろう?
 この数ヶ月後にサトウが作り始める『英和口語辞典』の完成は十一年後のことである。
 ちなみに「和英」辞典であれば、この当時ヘボンが作っていた初の本格的和英辞典『和英語林ごりん集成しゅうせい』は、この二年後に完成する。なんにせよ、俊輔がこの頃英語の勉強に打ち込んでいたことだけは間違いない。


 この閏五月、俊輔のいた下関ではいわゆる「薩長同盟」への動きと、さらに「パークス来日」が同時に進行していた。

 「薩長同盟」というと世間一般ではすぐに坂本龍馬の名前が想起されるかも知れないが、真っ先に動き出していたのは同じ土佐人の中岡慎太郎であった。
 中岡は四月末には、出石から戻って来たばかりの桂と下関で会って、さらに俊輔とも会っていた。中岡の薩長同盟への動きは、すでにその頃から始まっていた。

 俊輔と中岡は初対面ではない。
 というか、中岡は禁門の変、下関戦争、長州内戦を通してずっと長州人と一緒に行動していたので、長州の志士たちは誰でも中岡のことは知っている。
 長州にいた五卿が西郷の周旋によって太宰府へ移されたことは以前少しだけ触れた。その際、中岡は五卿と共に太宰府へ同行しており、そこで西郷や薩摩藩士たちのことを知るようになったのである。

 かたや龍馬は神戸海軍操練所そうれんじょが閉鎖になった後、薩摩藩の庇護ひごを受けていた。
 薩摩藩と深く関わることになった龍馬は、西郷や小松が幕府を見放しつつあることを知った。
 もちろん龍馬自身も、師の勝海舟が西郷に説いたように、今の幕府では日本が立ち行かないことを自覚しており、幕府に長州をつぶさせてはならないと思っていた。

 別に薩長同盟は龍馬が発明した訳ではない。
 発想自体は多くの人々が、特に多くの尊王派の人々が抱いていた発想、というか理想であった。
 ただし理想はあくまで理想で、実際に行動を起こして、それを具体化させるのは並大抵のことではなかった。
 なにより長州が薩摩をひどく憎んでいる。この当時長州人が薩摩と会津のことを「薩賊さつぞく会奸かいかん」と呼んでいたというエピソードは有名であろう。
 両者の同盟が尊王派の理想ではあっても、皆が実現不可能だろうとあきらめていた。
 だからこそ、実際に行動を起こした龍馬と中岡の勇気はとうといと言える。

 幕府が長州再征を決定して長州が再び危機にさらされた時、薩摩側の事情をよく知る龍馬と、長州側の事情をよく知る中岡という二人の土佐人が、薩長の仲人なこうど役を買って出たのは二人の意欲が強かったというのもさることながら、二人を取り巻く「何か大きな力」がこの役目を決定づけたかのような感がある。
 その「何か大きな力」とは
「時代や人々が求めた時に、その求めた通りの人がそこにいた」
 という不思議な天の配剤はいざいのことである。
 天命、と言っていい。

 そして薩長を結びつける具体的な触媒しょくばいとなったのは太宰府の五卿と、長崎のグラバーだった。

 鹿児島にいた龍馬はまず太宰府に入って五卿に面謁めんえつした。
 そしてここでたまたま長州藩士の小田村おだむら伊之いのすけ(後の楫取かとり素彦もとひこ)と会い、薩長連携の相談をした。小田村は龍馬の話をすぐに桂へ手紙でしらせた。
 龍馬は太宰府から下関に入ると、ここで同じ土佐藩の土方ひじかたくす衛門えもん(後の久元ひさもと)と出会った。土方は五卿に随従ずいじゅうしてきた人物で、中岡と一緒に薩長連携に向けてすでに活動を始めていた。
 このとき龍馬は土方から
「中岡が西郷を下関へ連れて来て、桂に会わせる予定になっている」
 と聞いて喜んだ。
 閏五月五日、龍馬は桂に会って薩長連携をいた。
 桂としては、すでに小田村から話を聞いていたので、頭から龍馬の話を否定することはなかった。
「我々長州から手を差し伸べる筋合すじあいはまったくない。だが、薩摩がそれほど望むなら話を聞かんでもない」
「それで結構。西郷さんは鹿児島から上京する際、この下関に立ち寄る予定になっている。あと十日ぐらいで到着するだろう」

 ところが五日後(閏五月十日)、西郷ではなく、まったく意外な人物が下関に立ち寄った。
 それは新任の日本公使、パークスだった。
 彼は日本へ着任するにあたって長崎、下関、大坂を経て横浜へ向かうことになっていた。この時わざわざ下関へ立ち寄ったのは前年の下関戦争で四ヶ国艦隊がなしとげた「下関の非武装化」を確認するためでもあった。
 桂、俊輔、聞多はパークスが乗って来たレパード号を訪問してパークスと面談した。
 初めてパークスを見た俊輔の印象は
(前任のオールコック翁と違って、ずいぶんと若い男だな)
 というものであった。
 前任のオールコックは五十六歳で、パークスは三十七歳だった。
 長州はキューパー提督との協約を守って、下関の海岸に新しく砲台を築くことはしなかった。そして桂はパークスに対して長州の実情を説明した。
「我々は必ずしも幕府と戦争になるとは考えていないが、もし幕府軍が攻めてきた場合、砲台がないので野砲を使って幕府艦隊を迎え撃つつもりである」
 パークスは長州の対応に満足した。そして下関を後にして、新しい着任地である横浜へ向かった。
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