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第六章・反転
第35話 功山寺決起
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この頃、高杉晋作は筑前にいた。
そして五卿を長州から筑前へ移すために奔走していた西郷も筑前にいた。
二人とも同じ時期に筑前にいたのである(ただしその時期が重なるのは十一月二十四日頃の短期間だけだが)。
それゆえ、昔から「高杉と西郷が筑前で(または下関で)会談をしたという伝説」があるのだが、近年ではそれを肯定する説を見かけることはほとんどない。司馬遼太郎大先生も『世に棲む日日』の中で「(晋作は)第一、西郷に会ったこともない。(略)なによりもかれは西郷と薩摩藩がきらいであった」と書いている。
高杉が筑前にいた頃、勤王歌人・野村望東尼の平尾山荘で世話になったという話は有名であるが、高杉は筑前の尊攘派志士たちと何度も接触していた。一方、西郷も五卿の筑前への移転手配で筑前の尊攘派志士たちと接触していた。ある日、筑前の尊攘派志士たちが高杉と西郷を提携させようとして高杉に話をもちかけたところ、高杉は酒に酔って
「薩摩の芋堀りと一緒にするな!」
と散々薩摩の悪口を言って断ってしまった。
高杉自身は禁門の変に参戦していなかったけれど、盟友であった久坂たちを薩摩・会津勢に殺されていたのだから、こういった反応になるのも無理はない。
このあと高杉は彼らから「長州で三家老や参謀たちが処刑された」という話を聞いた。
この話を聞いて高杉は決心した。
「もはや他藩に潜伏している場合ではない。俺は馬関へ戻って兵を挙げる!」
この高杉の決心を聞いて筑前の同志たちは
「まだ時期尚早だろう。もうしばらく様子を見てはどうか?」
と止めたが高杉は聞かなかった。
高杉は筑前で九州諸藩の同志と提携して長州へ反攻作戦を起こすことも考えた。だが所詮、彼には「人を周旋する」という才能は無い。また筑前の状況も、この藩の尊攘派が後にたどった末路を考えれば、やはり頼りにできる存在ではなかったであろう。
(長州のことは長州人がやるしかない)
高杉は十一月二十五日、下関へ帰った。
同じ頃、伊藤俊輔は下関で外国人応接の仕事をしていた。
この十一月の末頃には横浜から帰国するオールコックが、長崎へ向かう前にこの下関に立ち寄って俊輔と会っている。オールコックとしては自分が敢行した下関遠征の結果を自分の目で確かめておきたかった、という気持ちもあっただろう。
俊輔がオールコックと会うのはこれで三度目である。一度目は聞多と一緒にロンドンから戻って来て横浜で会った時。二度目は井原家老らと賠償金支払いの確認で横浜へ行った時である。
俊輔は下関でオールコックと会って、自身の近況を伝えた。
「私は今、下関のあたりに駐屯して、約1,400名の部隊の隊長をしています」
オールコックの記録には、俊輔がこう答えたと書いてある。
確かにこのとき俊輔は部隊の隊長をつとめてはいたが、それは三十名しかいない力士隊の隊長である。おそらく奇兵隊などの諸隊全部を合わせても1,400名もいなかっただろう。オールコックの聞き間違いか、あるいは俊輔の下手くそな英語が誤って伝わったのか、定かではない。
下関に戻って来た高杉は「俗論派政権の打倒」を人々に説いて回ったが、やはり賛成する者はほとんどいなかった。
諸隊の中では「遊撃隊」だけが賛成した。
この隊は以前、所郁太郎が聞多を救う場面で少しだけ紹介したが美濃人である所郁太郎が参謀をつとめているように、他藩の尊攘派浪士たちが数多く参加している隊で、諸隊が俗論派政権の命令通り解散になってしまえば、他に行くところが無い人たちばかりだった。だからこそ高杉の挙兵計画に賛成したのだ。ただし隊員数は百名前後で、しかも挙兵計画に賛成したのはその半分ぐらいに過ぎなかった。
遊撃隊以外の諸隊は、どの隊も高杉の挙兵計画に応じなかった。
高杉は山県狂介(後の有朋)をはじめとした諸隊の隊長たちを説得しようとした。それは、俊輔の自伝によると以下のような有り様であった。
「諸君が俺の言うことに同意してくれないのは赤根武人の説にだまされているからだろう。赤根は大島郡の百姓ではないか。俺は毛利家恩顧の忠臣である。赤根のごとき匹夫と比べられては困る。けれども諸君が赤根の説にだまされて俺に同意できぬというのなら仕方がない。俺に馬を一匹貸してくれ。その馬に乗って萩へ駆けつけ、城門を叩いて君公父子をお諫め申すまでである。もしそれがかなわぬ場合は切腹してお諫めするつもりである。もし不幸にして俗論派に捕まって殺されても、それは天命である。今は一里行けば一里の忠を尽くし、二里行けば二里の義を尽くす時である。志士たる者が安座している時ではない!」
その様子は「泣くが如く、訴えるが如く、怒る時は髪の毛も逆立つが如く」であったという。まさに高杉の師、松陰がよみがえったかのような様子であったろう。
けれども、隊長たちはただただ高杉の大気炎に圧倒されるだけで、一人として高杉に応じる者はいなかった。
ちなみに「赤根武人の説」とは俗論派との妥協策のことで、このとき赤根は正義派と俗論派との関係を調整するために奔走していたのだった。まことに常識的なやり方であり、諸隊の隊長たちも一応、その結果を待つつもりだった。
高杉以外の人間は全員「高杉は狂った」と思った。
高杉自身は「松陰先生が唱えておられた“狂挙”をやるのは今しかない」と思った。常識的なやり方では、大勢を変えることは出来ない、と。
諸隊の隊長を説得できなかった高杉は、俊輔に挙兵への参加をもちかけた。
「俊輔、お前も力士隊を率いて俺の挙兵計画に参加してくれ」
「分かりました」
即答であった。
「……そうか、助かる。お前だけは裏切らないと信じていたが、もしお前に反対されたらどうしようかと思ったぞ」
「周布さんが死に、桂さんは行方知れずで、聞多は重傷。となれば、これはもう高杉さんがやるしかないでしょう?我々の手でなんとかしないと、聞多もいずれ俗論派の連中に殺されますよ。ワシは高杉さんのバクチに賭けてみます」
かくして十二月十五日の夜、雪の降る中で「功山寺挙兵」がはじまった。
紺色威の具足を着込み桃型兜をかぶった高杉が馬に乗り、俊輔たち八十人の力士隊、遊撃隊を率いて三条実美ら五卿のいる功山寺を訪れた。
高杉は五卿に別れのあいさつを告げに来たのである。
眠っていた五卿を起こして、高杉は別れの盃を授けてもらって飲み干した。また俊輔の自伝によると「重箱の隅に残っていた煮豆の食い残し」も出してもらったようだ。
そして高杉は馬に乗って別れのあいさつを告げた。
「これより長州男児の肝っ玉をお目にかけます!今から兵を挙げ、俗論派を討ち果たしてご覧にいれます!」
そう言うや、高杉たち八十人は下関の会所(役所)を目指して出陣して行った。この時は俊輔も馬に乗って高杉に従ったのだが「馬術に不慣れな俊輔が、恐ろしそうに鞍につかまっていた姿は、滑稽を通りすぎて悲惨であったと伝える悪口もある」と俊輔の自伝には書いてある。
あとは一瀉千里の勢いであった。
のちに俊輔が高杉を評して
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」
と述べたというのは有名な話だが、高杉や俊輔たちは下関の会所を襲撃して占領することに成功した。ここは萩の俗論派政権の出張所であり、役人を追放して軍資金、武器、食料を確保した。次いで、船に乗って三田尻へ向かい藩の軍船癸亥丸を乗っ取ることにも成功し、これに乗って下関へ帰って来た。
これに対し萩の俗論派政権は正義派の領袖(前田孫右衛門や松島剛蔵ら)七名を斬首した。そして高杉たちのクーデターを鎮圧するため萩から軍を南下させた。
当初高杉の挙兵計画に反対していた奇兵隊などの諸隊も、高杉の挙兵に刺激され、さらに俗論派政権が実力行使に乗り出してきたのを受けて、ついに挙兵を決断して長府から軍を北上させた。
年が明けて一月七日の未明、山県狂介率いる奇兵隊などの諸隊約百名は、秋吉台近くの絵堂にいた俗論派政府軍、約四百名に対して奇襲をかけ、敗走させた。
いわゆる「大田・絵堂の戦い」が幕を切って落とされたのである。
一方この頃、諸隊の一部が山口へ攻め込み、この地域一帯を制圧した。
そして高杉や所郁太郎らが、俗論派から軟禁状態にされていた聞多を救出した。
このあと聞多は傷を負った身でありながら鴻城隊という一隊を率いることになるのだが、とにかくこれで山口、三田尻の地域は正義派諸隊がおさえる形となった。
大田・絵堂の戦いは終始奇兵隊などの諸隊が優勢に戦いを進め、十六日の赤村の戦いで俗論派政府軍を完全に敗走させた。この十六日の戦いの時は俊輔も現場に入ったが、基本的には後方支援的な仕事に従事した。
そしてそれより少し前の話になるが、赤根武人が下関の俊輔のところへやって来て、俊輔を高杉から離反させようとくわだてた。
奇兵隊の総監だった赤根は、高杉の挙兵によって自身が進めていた俗論派との妥協策が破れてしまったので高杉をうらみ、高杉打倒をくわだてたのである。
しかし高杉の忠実な子分である俊輔がそんな赤根の策謀に乗る訳がなく、逆に赤根が奇兵隊から追われることになり、さらに長州からも追われる身となった。このあと赤根は幕府と通じるようになり、一年後、裏切り者として長州で斬首されることになる。
赤根が目指した道筋は決して間違ったものではなかったはずなのだが、歴史は無情にも時々こういった不運な男を生み出すことがある。
大田・絵堂の戦いに敗れたことで萩の政府では内部分裂を起こしはじめていた。
中立派として第三者的なスタンスをとりつつも正義派に同情的であった人々が「鎮静会議員」と名乗って俗論派と袂を分かち、藩主敬親(前年、朝敵とされた際に慶親から敬親に名を改めた)を動かして正義派政権の樹立へと誘導したのである。
そして諸隊の軍が萩へ近づくにおよんで、椋梨藤太たち俗論派は船で萩を脱出しはじめた。しかし後に捕らえられて椋梨は斬首された。
かくして、二月中には長州藩内の内戦も終了し、再び正義派の政権が樹立されることになった。そして藩主敬親は再び山口へ移ることになったのである。
正義派政権樹立の立役者は紛れもなく高杉晋作であった。
その彼を、周囲の人間が長州陸軍の総督につけようとしたのは、自然の流れであったと言えよう。
ところがここで突然、高杉は「イギリスへの洋行」を藩に願い出たのである。そして俊輔にイギリスへ同行するように命令した。
「もう一度イギリスへ行くのは私の念願でしたから喜んでお伴しますけど、なぜ今、総督のお役目を蹴ってまで行こうとするのですか?」
「次の戦争は、おそらく相手は幕府になるだろうが、多分もう少し先のことになるだろう。その時まで俺の出番は無い。だから三年前に行きそびれた洋行へ、今のうちに行くのさ」
続けて高杉は言った。
「それにな、俊輔。およそ人というものは艱難を共にすることはできても、富貴を共にすることはできぬものだ。今、有頂天になっている奇兵隊をまとめるのは俺の役目じゃない。山県のほうが適任だよ」
この「艱難」の話は、別の似たような諺で言うと「狡兎死して走狗烹らる、飛鳥尽きて良弓蔵る」とも言い、「敵を倒し目的を達した後、それまで戦ってきた兵をどう処遇するか?」その難しさを表現している諺であるが、この問題はこの先、維新後の「奇兵隊脱隊騒動」まで続くことになる。
実際この時点においても、奇兵隊などの諸隊は家格の高い武士層中心の俗論派政権を打倒したことで「敵なしの勢い」、悪く言えば「驕慢な態度」が目立ちはじめており、手がつけられなくなってきていたのである。
さらに諺ついでで言うと「創業は易く、守成は難し」というのもあるが、高杉は自分の適性が「守成」に向かないことをハッキリと自覚していた。「創業」ならば、いや「破壊」ならばお手の物だが、「守成」などは自分の任ではないと開き直って、さっさとその任を山県狂介へ押しつけたのである。
俊輔は高杉の顔を見つめながら、心の中でつくづく思った。
(まったく腰の落ち着かぬ人だ。まあ、この人らしいとも言えるが……)
結局高杉は奇兵隊などの諸隊の処遇については聞多と佐世八十郎(後の前原一誠)に一切任せて、さらにこの両人を通じて藩から洋行費用三千両を支給してもらった。ただし、藩内にはまだまだ攘夷を唱える過激派も多いので費用の名目は「英学修行および事情探索のための横浜行き」ということにした。
そして五卿を長州から筑前へ移すために奔走していた西郷も筑前にいた。
二人とも同じ時期に筑前にいたのである(ただしその時期が重なるのは十一月二十四日頃の短期間だけだが)。
それゆえ、昔から「高杉と西郷が筑前で(または下関で)会談をしたという伝説」があるのだが、近年ではそれを肯定する説を見かけることはほとんどない。司馬遼太郎大先生も『世に棲む日日』の中で「(晋作は)第一、西郷に会ったこともない。(略)なによりもかれは西郷と薩摩藩がきらいであった」と書いている。
高杉が筑前にいた頃、勤王歌人・野村望東尼の平尾山荘で世話になったという話は有名であるが、高杉は筑前の尊攘派志士たちと何度も接触していた。一方、西郷も五卿の筑前への移転手配で筑前の尊攘派志士たちと接触していた。ある日、筑前の尊攘派志士たちが高杉と西郷を提携させようとして高杉に話をもちかけたところ、高杉は酒に酔って
「薩摩の芋堀りと一緒にするな!」
と散々薩摩の悪口を言って断ってしまった。
高杉自身は禁門の変に参戦していなかったけれど、盟友であった久坂たちを薩摩・会津勢に殺されていたのだから、こういった反応になるのも無理はない。
このあと高杉は彼らから「長州で三家老や参謀たちが処刑された」という話を聞いた。
この話を聞いて高杉は決心した。
「もはや他藩に潜伏している場合ではない。俺は馬関へ戻って兵を挙げる!」
この高杉の決心を聞いて筑前の同志たちは
「まだ時期尚早だろう。もうしばらく様子を見てはどうか?」
と止めたが高杉は聞かなかった。
高杉は筑前で九州諸藩の同志と提携して長州へ反攻作戦を起こすことも考えた。だが所詮、彼には「人を周旋する」という才能は無い。また筑前の状況も、この藩の尊攘派が後にたどった末路を考えれば、やはり頼りにできる存在ではなかったであろう。
(長州のことは長州人がやるしかない)
高杉は十一月二十五日、下関へ帰った。
同じ頃、伊藤俊輔は下関で外国人応接の仕事をしていた。
この十一月の末頃には横浜から帰国するオールコックが、長崎へ向かう前にこの下関に立ち寄って俊輔と会っている。オールコックとしては自分が敢行した下関遠征の結果を自分の目で確かめておきたかった、という気持ちもあっただろう。
俊輔がオールコックと会うのはこれで三度目である。一度目は聞多と一緒にロンドンから戻って来て横浜で会った時。二度目は井原家老らと賠償金支払いの確認で横浜へ行った時である。
俊輔は下関でオールコックと会って、自身の近況を伝えた。
「私は今、下関のあたりに駐屯して、約1,400名の部隊の隊長をしています」
オールコックの記録には、俊輔がこう答えたと書いてある。
確かにこのとき俊輔は部隊の隊長をつとめてはいたが、それは三十名しかいない力士隊の隊長である。おそらく奇兵隊などの諸隊全部を合わせても1,400名もいなかっただろう。オールコックの聞き間違いか、あるいは俊輔の下手くそな英語が誤って伝わったのか、定かではない。
下関に戻って来た高杉は「俗論派政権の打倒」を人々に説いて回ったが、やはり賛成する者はほとんどいなかった。
諸隊の中では「遊撃隊」だけが賛成した。
この隊は以前、所郁太郎が聞多を救う場面で少しだけ紹介したが美濃人である所郁太郎が参謀をつとめているように、他藩の尊攘派浪士たちが数多く参加している隊で、諸隊が俗論派政権の命令通り解散になってしまえば、他に行くところが無い人たちばかりだった。だからこそ高杉の挙兵計画に賛成したのだ。ただし隊員数は百名前後で、しかも挙兵計画に賛成したのはその半分ぐらいに過ぎなかった。
遊撃隊以外の諸隊は、どの隊も高杉の挙兵計画に応じなかった。
高杉は山県狂介(後の有朋)をはじめとした諸隊の隊長たちを説得しようとした。それは、俊輔の自伝によると以下のような有り様であった。
「諸君が俺の言うことに同意してくれないのは赤根武人の説にだまされているからだろう。赤根は大島郡の百姓ではないか。俺は毛利家恩顧の忠臣である。赤根のごとき匹夫と比べられては困る。けれども諸君が赤根の説にだまされて俺に同意できぬというのなら仕方がない。俺に馬を一匹貸してくれ。その馬に乗って萩へ駆けつけ、城門を叩いて君公父子をお諫め申すまでである。もしそれがかなわぬ場合は切腹してお諫めするつもりである。もし不幸にして俗論派に捕まって殺されても、それは天命である。今は一里行けば一里の忠を尽くし、二里行けば二里の義を尽くす時である。志士たる者が安座している時ではない!」
その様子は「泣くが如く、訴えるが如く、怒る時は髪の毛も逆立つが如く」であったという。まさに高杉の師、松陰がよみがえったかのような様子であったろう。
けれども、隊長たちはただただ高杉の大気炎に圧倒されるだけで、一人として高杉に応じる者はいなかった。
ちなみに「赤根武人の説」とは俗論派との妥協策のことで、このとき赤根は正義派と俗論派との関係を調整するために奔走していたのだった。まことに常識的なやり方であり、諸隊の隊長たちも一応、その結果を待つつもりだった。
高杉以外の人間は全員「高杉は狂った」と思った。
高杉自身は「松陰先生が唱えておられた“狂挙”をやるのは今しかない」と思った。常識的なやり方では、大勢を変えることは出来ない、と。
諸隊の隊長を説得できなかった高杉は、俊輔に挙兵への参加をもちかけた。
「俊輔、お前も力士隊を率いて俺の挙兵計画に参加してくれ」
「分かりました」
即答であった。
「……そうか、助かる。お前だけは裏切らないと信じていたが、もしお前に反対されたらどうしようかと思ったぞ」
「周布さんが死に、桂さんは行方知れずで、聞多は重傷。となれば、これはもう高杉さんがやるしかないでしょう?我々の手でなんとかしないと、聞多もいずれ俗論派の連中に殺されますよ。ワシは高杉さんのバクチに賭けてみます」
かくして十二月十五日の夜、雪の降る中で「功山寺挙兵」がはじまった。
紺色威の具足を着込み桃型兜をかぶった高杉が馬に乗り、俊輔たち八十人の力士隊、遊撃隊を率いて三条実美ら五卿のいる功山寺を訪れた。
高杉は五卿に別れのあいさつを告げに来たのである。
眠っていた五卿を起こして、高杉は別れの盃を授けてもらって飲み干した。また俊輔の自伝によると「重箱の隅に残っていた煮豆の食い残し」も出してもらったようだ。
そして高杉は馬に乗って別れのあいさつを告げた。
「これより長州男児の肝っ玉をお目にかけます!今から兵を挙げ、俗論派を討ち果たしてご覧にいれます!」
そう言うや、高杉たち八十人は下関の会所(役所)を目指して出陣して行った。この時は俊輔も馬に乗って高杉に従ったのだが「馬術に不慣れな俊輔が、恐ろしそうに鞍につかまっていた姿は、滑稽を通りすぎて悲惨であったと伝える悪口もある」と俊輔の自伝には書いてある。
あとは一瀉千里の勢いであった。
のちに俊輔が高杉を評して
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」
と述べたというのは有名な話だが、高杉や俊輔たちは下関の会所を襲撃して占領することに成功した。ここは萩の俗論派政権の出張所であり、役人を追放して軍資金、武器、食料を確保した。次いで、船に乗って三田尻へ向かい藩の軍船癸亥丸を乗っ取ることにも成功し、これに乗って下関へ帰って来た。
これに対し萩の俗論派政権は正義派の領袖(前田孫右衛門や松島剛蔵ら)七名を斬首した。そして高杉たちのクーデターを鎮圧するため萩から軍を南下させた。
当初高杉の挙兵計画に反対していた奇兵隊などの諸隊も、高杉の挙兵に刺激され、さらに俗論派政権が実力行使に乗り出してきたのを受けて、ついに挙兵を決断して長府から軍を北上させた。
年が明けて一月七日の未明、山県狂介率いる奇兵隊などの諸隊約百名は、秋吉台近くの絵堂にいた俗論派政府軍、約四百名に対して奇襲をかけ、敗走させた。
いわゆる「大田・絵堂の戦い」が幕を切って落とされたのである。
一方この頃、諸隊の一部が山口へ攻め込み、この地域一帯を制圧した。
そして高杉や所郁太郎らが、俗論派から軟禁状態にされていた聞多を救出した。
このあと聞多は傷を負った身でありながら鴻城隊という一隊を率いることになるのだが、とにかくこれで山口、三田尻の地域は正義派諸隊がおさえる形となった。
大田・絵堂の戦いは終始奇兵隊などの諸隊が優勢に戦いを進め、十六日の赤村の戦いで俗論派政府軍を完全に敗走させた。この十六日の戦いの時は俊輔も現場に入ったが、基本的には後方支援的な仕事に従事した。
そしてそれより少し前の話になるが、赤根武人が下関の俊輔のところへやって来て、俊輔を高杉から離反させようとくわだてた。
奇兵隊の総監だった赤根は、高杉の挙兵によって自身が進めていた俗論派との妥協策が破れてしまったので高杉をうらみ、高杉打倒をくわだてたのである。
しかし高杉の忠実な子分である俊輔がそんな赤根の策謀に乗る訳がなく、逆に赤根が奇兵隊から追われることになり、さらに長州からも追われる身となった。このあと赤根は幕府と通じるようになり、一年後、裏切り者として長州で斬首されることになる。
赤根が目指した道筋は決して間違ったものではなかったはずなのだが、歴史は無情にも時々こういった不運な男を生み出すことがある。
大田・絵堂の戦いに敗れたことで萩の政府では内部分裂を起こしはじめていた。
中立派として第三者的なスタンスをとりつつも正義派に同情的であった人々が「鎮静会議員」と名乗って俗論派と袂を分かち、藩主敬親(前年、朝敵とされた際に慶親から敬親に名を改めた)を動かして正義派政権の樹立へと誘導したのである。
そして諸隊の軍が萩へ近づくにおよんで、椋梨藤太たち俗論派は船で萩を脱出しはじめた。しかし後に捕らえられて椋梨は斬首された。
かくして、二月中には長州藩内の内戦も終了し、再び正義派の政権が樹立されることになった。そして藩主敬親は再び山口へ移ることになったのである。
正義派政権樹立の立役者は紛れもなく高杉晋作であった。
その彼を、周囲の人間が長州陸軍の総督につけようとしたのは、自然の流れであったと言えよう。
ところがここで突然、高杉は「イギリスへの洋行」を藩に願い出たのである。そして俊輔にイギリスへ同行するように命令した。
「もう一度イギリスへ行くのは私の念願でしたから喜んでお伴しますけど、なぜ今、総督のお役目を蹴ってまで行こうとするのですか?」
「次の戦争は、おそらく相手は幕府になるだろうが、多分もう少し先のことになるだろう。その時まで俺の出番は無い。だから三年前に行きそびれた洋行へ、今のうちに行くのさ」
続けて高杉は言った。
「それにな、俊輔。およそ人というものは艱難を共にすることはできても、富貴を共にすることはできぬものだ。今、有頂天になっている奇兵隊をまとめるのは俺の役目じゃない。山県のほうが適任だよ」
この「艱難」の話は、別の似たような諺で言うと「狡兎死して走狗烹らる、飛鳥尽きて良弓蔵る」とも言い、「敵を倒し目的を達した後、それまで戦ってきた兵をどう処遇するか?」その難しさを表現している諺であるが、この問題はこの先、維新後の「奇兵隊脱隊騒動」まで続くことになる。
実際この時点においても、奇兵隊などの諸隊は家格の高い武士層中心の俗論派政権を打倒したことで「敵なしの勢い」、悪く言えば「驕慢な態度」が目立ちはじめており、手がつけられなくなってきていたのである。
さらに諺ついでで言うと「創業は易く、守成は難し」というのもあるが、高杉は自分の適性が「守成」に向かないことをハッキリと自覚していた。「創業」ならば、いや「破壊」ならばお手の物だが、「守成」などは自分の任ではないと開き直って、さっさとその任を山県狂介へ押しつけたのである。
俊輔は高杉の顔を見つめながら、心の中でつくづく思った。
(まったく腰の落ち着かぬ人だ。まあ、この人らしいとも言えるが……)
結局高杉は奇兵隊などの諸隊の処遇については聞多と佐世八十郎(後の前原一誠)に一切任せて、さらにこの両人を通じて藩から洋行費用三千両を支給してもらった。ただし、藩内にはまだまだ攘夷を唱える過激派も多いので費用の名目は「英学修行および事情探索のための横浜行き」ということにした。
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ところが京の政治状況に巻き込まれ、翻弄され、いつしか尊王攘夷派から敵対視される立場に追いやられる。
近藤は弱気に陥り、何度も「新撰組をやめたい」とお上に申し出るが、聞き入れてもらえない――。
町田市小野路町の小島邸に残る近藤勇が出した手紙の数々には、一般に鬼の局長として知られる近藤の姿とは真逆の、弱々しい一面が克明にあらわれている。
近藤はずっと、新撰組を解散して多摩に帰りたいと思っていたのだ。
最新の歴史研究で明らかになった新撰組の実相を、真正面から描きます。
主人公は土方歳三。
彼の恋と戦いの日々がメインとなります。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
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