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第五章・出会い
第32話 俊輔、サトウを欧州風ディナーの会に招く
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さて、いくらか先回りをして賠償金支払い問題の結末を述べてしまうと、幕府と四ヶ国との話し合いの結果、賠償金は幕府が支払うことになるのである。
「長州も日本の一部だから国全体の政府である幕府が支払うべきである、との判断で幕府自身が支払うことを容認した」
という見方もできるかも知れないが、やはり幕府が出した「文久三年五月十日を攘夷期限とすべし」という布告書に関して、幕府が四ヶ国に対してハッキリと釈明できなかった、というのが決め手であったらしい。ちなみに薩英戦争でも薩摩は幕府から金を借りてイギリスに賠償金10万ドルを支払ったものの薩摩は幕府に金を返さなかったので幕府が支払ったに等しく、結局、薩英戦争も下関戦争も幕府が尻ぬぐいをする形になった訳である。
そして四ヶ国が幕府に請求する金額は300万ドルという途方もない額が設定された。
ちなみに四ヶ国はそれを均等割りにして受け取るので一カ国が受け取る金額は75万ドルということになる。
四ヶ国、特にイギリス(オールコック公使)としては賠償金を取り立てるのが目的ではなく、下関あるいは他の瀬戸内海の港(基本的には開港を延期している兵庫港)を開港させることが目的であり、四ヶ国は幕府に対して
「300万ドルの支払いか?下関または兵庫の港を開くか?」
の二者択一を迫ることにしたのだった。
ある意味この300万ドルは「ふっかけて請求した」ようなものであり、まさか四ヶ国も、幕府が300万ドルの支払いを選ぶとは思っていなかった(ただしフランスのロッシュだけは、日本側に多額の賠償金を支払わせることを狙って当初200万ドルの予定だったところに後から100万ドル上乗せして請求したので「金目当てだった」と言える)。
オールコックがなぜ「下関の開港」を要求したのか?その理由は定かではない(多分高杉が下関開港を訴えた事とは関係がない)。
下関を開港する場合、長崎と商圏が重なる部分もあり、それほど新たな商圏が広がるとは思えない。その点、兵庫の場合は関西全域に商圏が広がるので四ヶ国は以前からそれを熱望していた。ただし兵庫は京都から近く、兵庫開港は朝廷が強硬に反対していた。そのため大坂・兵庫の開市開港は1868年1月1日まで延期されているのである。
オールコックが下関の開港を要求した理由は、おそらく
「幕府が横浜、長崎、箱館(函館)さらには兵庫といったすべての貿易港を支配しているので、大名(特に薩長)が幕府を憎むのだ。であるならば大名の港である下関を開き、大名も自由に貿易できるようにしてやれば大名の不満も減るだろう」
といった目論見だったと思われる。
ここでさらに先回りをして「その二者択一」に対する幕府の回答を述べてしまうと、幕府は港の開港よりも賠償金300万ドルの支払いを選ぶのである。
兵庫の早期開港は朝廷の強い反対があるので不可能である。
さりとて、下関の開港は大名に自由貿易を許可することになり武器なども自由に輸入できるようになってしまうので、これも幕府としては認められない。幕府が長州を征伐して「下関を幕府領にしてから開港する」というのであれば、まだそれを考える余地はある。けれども幕府には長州を征伐するだけの決断力がなかった。
今回の下関戦争において、オールコックは長州を徹底的に叩くつもりだった。それゆえ、キューパー提督に対して
「賠償金の担保として長州領の一部(特に下関)を占領せよ。また本拠地の萩を攻撃せよ」
といったことまでオールコックは命じていた。
キューパー提督が彦島の保証占領を口にしたのもその一環であったろう。
しかしキューパー提督は、長州領を占領しようとはしなかった。
いや。もし戦争の際に長州兵たちが一目散に逃げ出すか、あるいは談判の際に長州側があっけなく屈服していれば、キューパー提督はそれをやっただろう。
後年サトウは次のように手記で語っている。
「日本人が頑強に応戦したことは認めてやらなければならない」
また、あるイギリスの歴史家は下関戦争について次のように書いている。
「日本の堡塁は有無を言わせぬ十字砲火にさらされたが、彼らが攻撃態勢のまま砲台を死守した態度は、四ヶ国艦隊の将兵からも讃嘆の声があがったほどである」
キューパー提督は冷静に戦力を分析した上で、長州領を占領するというリスクを避けたのである。
一応参考までに前回の薩英戦争と同じく、今回も数字で表すと死傷者数は次の通りである。
四ヶ国連合:戦死者12名、負傷者60名、死傷者合計72名
長州藩:戦死者18名、負傷者29名、死傷者合計47名
(※一般に広く伝わっている説に基づく数字)
死傷者合計では、四ヶ国側のほうが多数の被害を出している。
無論、長州は全砲台を占拠され、約120門の大砲をすべて撤去されているのであるから、勝敗はあきらかに長州の負けである。
筆者が思うに、キューパー提督は次のように考えたはずである。
「下関海峡の通航が確保されさえすれば四ヶ国の目的は達成したことになるのだから、下関を占領するかどうかということは、あとは幕府がやれば良いだけの話である。四ヶ国の兵士が幕府のためにそこまで血を流す理由はない」
そしてキューパー提督が長州領を占領しなかったもう一つの理由は、イギリス一国で長州領を占領するのであればまだしも「四ヶ国連合軍」として戦っているだけに四ヶ国内のかけひきが存在していたからである。
要するにイギリスの独走をこころよく思っていなかったフランスが、イギリスに歯止めをかけていたのである。
そういった諸々の理由から、キューパー提督は長州領の占領をあきらめたということである。
余談ながら、イギリスは太平天国の乱では、清国政府のためにイギリス兵の血を流して戦った。なぜイギリスがそうしたのか?というと、日本と違って清国にはイギリスの利権が多大に関係していたことと、さらに言えば清国政府がイギリスからの援軍の申し出を受け入れたからである。
実は幕府も、これ以前に何度か英仏から援軍の申し出を打診されていた。特にフランスが積極的に援軍を申し出ていた。
イギリスは、まだ清国で太平天国が片づいてなかったのでそれほど積極的ではなかったが、それでも前年の「小笠原長行の率兵上京」の際に兵の海上輸送で多少の便宜を図っていた。こういった英仏による幕府への軍事援助については以前何度か触れたことがある。
けれども幕府は基本的に英仏からの援軍の申し出を容認しない方針で一貫していた。このことに限って言えば、幕府の無為無策および決断力の無さは、良きにつけ悪しきにつけと言うべきか、国内の争いに外国軍が直接介入することを容認しなかったという点では「悪くない結果につながった」と言うべきであろう。ただし、幕府はいつまでもこの方針を堅持出来た訳ではなく、後段で見るように、後に少しずつ方針転換を余儀なくされることになる。
そしてもう一つ余談を付け加えると、後年(明治四十二年)伊藤博文(俊輔)はこの時の会談について次のように語っている。
「高杉と吾輩がキューパー提督と談判中、提督が彦島の租借を提議してきたが、今から思えば危なかった。もしあの時提督があくまで彦島の租借を要求して強引に奪っていたならば、この島は今の香港のようになっていたかもしれなかった。今から思えば実に恐ろしいことであった」
筆者が思うに、現代の日本人の感覚からすると「今は人もあまり住まない彦島が、もし香港のように発展していたのであれば、それはそれで良かったんじゃないの?」という声が多数になりそうな気がしてならない。
長州と四ヶ国との休戦協定が成立したので、四ヶ国の艦隊は下関で再度砲台が築かれないよう監視するための船を若干残して、あとは順次横浜へ帰還することになった。また四ヶ国の外国人たちは下関市街への上陸が許可された。この頃には下関の町民も皆、戦争が終わったことを見届けて市街へ戻って来ていた。
サトウはさっそく下関に上陸して食事や買い物を楽しんだ。下関の町民は皆、外国人に対して親切だった。そして戦争が終わったことを心から喜んでいた。ただし武士の中にはまだまだ攘夷意識が強い連中もいて、外国人にむかって、刀を抜いたりはしないまでも、にらみつけたり横柄な態度をとる連中はそこそこいたようである。
ところで、長州藩はキューパー提督に対して「藩士数名を横浜まで便乗させてもらいたい」と申し出た。
「幕府と四ヶ国との会談で賠償金問題の結果がどうなるのか、横浜で確認したい」
というのが長州側の言い分であった。この長州の態度は、薩英戦争のあと薩摩が講和の席でイギリスに対して軍艦の購入や留学生の派遣を申し出たのと似ている。薩摩も長州も講和が済み次第、すぐにイギリスの懐へ飛び込むという、しなやかな対応を見せたのである。
キューパー提督はこの長州の申し出を了承した。
横浜へ行く長州使節の正使は家老の井原主計という人物で、この随行員の中には俊輔も含まれることになった。出発は二週間ほど先の予定であり、サトウもそれまでの間、下関を監視するために残るバロッサ号で下関にとどまるよう命じられた。
数日後、俊輔が商人二名を連れてバロッサ号のサトウを訪問した。
「やあ、サトウさん。下関の商人に町を案内させますから見学に行きませんか?」
サトウは二つ返事でオーケーし、俊輔と一緒に町へ出かけた。
商人たちはサトウを長州特産の木綿、蝋(ろうそく)、紙などを扱っている店へ案内した。長州では藩の大きな資金源となっていた米・塩・紙を「防長三白」と言い、これに蝋(ろうそく)を加えて「防長四白」とも呼んでいた。
俊輔はサトウを案内しながら長州人が外国との貿易を望んでいることを説明した。
「下関が開港されればこれらの商品だけに限らず、大坂や北陸の商品も扱うことができます。藩主も下関が開港されることを望んでます」
市内見学が終わってサトウがバロッサ号へ戻ると、俊輔はそのまま艦に残ってサトウと相談を始めた。
「確かに我々は外国との貿易を望んでいるのですが、実は今、藩はそれどころではないのです。将軍と諸藩の軍が近いうちに我々を攻めに来るはずなので、その対応に藩は追われているのです」
「やはり長州は幕府と戦うことになるのですか?」
「まだ分かりません。しかし幕府が攻めてくれば我々は一丸となって戦うことになるでしょう。詳しいことが分かり次第サトウさんに手紙でお知らせします。横浜の公使館へ手紙を送っても良いですか?」
「もちろん結構です。ただしイギリスの船が下関へ立ち寄った際に手紙を託すようにしてください」
「分かりました。ところでサトウさんはどんな風に名前を書いてるんですか?“サトウ”ですか?“佐藤”ですか?」
俊輔は紙に「サトウ」とか「佐藤」と書いて、サトウに尋ねてみた。
サトウは少し恥ずかしがりながら答えた。
「あのー、そのー……。実は私の日本語教師といろいろ相談してるんですけどね。“佐藤”じゃ一般的過ぎてつまらないし、実はこんな風に書いてます」
そう言いながらサトウは紙に「薩道懇之助」さらに「薩道愛之助」と書いて俊輔に見せた。
「はあー、なるほど“薩道”でサトウですか。アーネストは“愛之助”と……。しかし“懇之助”だとコンノスケかネンゴロノスケと日本人は呼んでしまうかも知れませんな。それはともかく“薩道”は……。ワシは実のところそれほど気にしておらんのですが、藩内では“薩摩”のことを激しく憎んでいる人間が多いのです。この前、京の戦で薩摩に大勢同胞を殺されましたから」
「懇の字は懇切がアーネストの意味なので“懇之助”にしました。“薩道”は、来日直後に生麦の事件を経験して以来、薩摩の話に触れることが多かったので、なんとなく選びました。それにしても長州の人は本当に薩摩を憎んでるんですね。なんとか仲直りできないんですか?」
「無理でしょうな。もうすぐ攻めて来る諸藩の軍勢には薩摩も加わってるでしょうから」
「我々は薩摩と戦争しましたが、終わったらすぐ和解しました。長州とも戦争して、すぐに和解しました。何を考えているのか分からず、態度がハッキリとしない幕府と違って、長州と薩摩は率直で分かりやすい。私は長州と薩摩は似ているように思います」
「まあ、どちらも関ヶ原で負けた、という点では似てるかも知れませんな。今でも我が藩には関ヶ原の怨みで幕府を倒そうとしている者が大勢いる。だがワシはそれとは別に、幕府ではもう日本は立ち行かないと思う。イギリスへ行ってみてそれがよく分かった。日本もイギリスの女帝のように帝を中心にして、そして武士も町人も関係なく公の意見をくみ取るような政治にしなけりゃいかんと思う」
「イギリスは長い時間をかけてそういう政治体制を作ったのです。日本がそうなるには相当時間が必要でしょう」
「ワシもそう思います。まあ、とてもじゃないが、ワシの生きているうちにはまず無理でしょうな。ところで今度、艦長さんたちを食事に招待したいと思ってるんですが、いかがでしょうか?以前ワシと井上を姫島まで送ってもらって、今度は横浜まで送ってもらうので、そのお礼です。もちろんサトウさんにも来てもらいたい。ワシのロンドンでの経験をいかしてイギリス風の食事にしたいと思ってます」
「それは面白そうですね」
数日後、二人が参加メンバーをセッティングして、イギリスと長州から数人ずつが参加する「欧州風ディナーの会」が下関の料亭で催されることになった。イギリス側はバロッサ号の艦長、サトウ、その他の士官が二名、長州側は家老の井原、俊輔、その他の役人が二名参加した。
ヨーロッパ風のテーブルクロスをかけたテーブルを用意し、皿とスプーンと箸と「気味の悪いほど研ぎすまされた長いナイフ」が並べられていたとサトウの記録にはあるが、その長いナイフの刀身はいまにも柄から抜けそうだった、とも書かれている。日本の食事でナイフなんか使う習慣はないので、まさか脇差しではあるまいが、小柄か何かの類いだったのだろうか。そしてどうやらフォークはなかったらしい。
最初はハゼの煮た料理が出た。サトウは切るのに苦労したが頭に箸を突き刺してスプーンで肉を削ってなんとかやってのけた。
そして主催者である俊輔は
「次の料理はうなぎの蒲焼です」
とイギリス人たちに告げた。すると彼らは少しギョッとした。
イギリス人にとってうなぎ料理と言うと、すぐに思い浮かぶのは「ゼリード・イール(ウナギのゼリー寄せ)」だった。
この料理はまず、見た目が非常に悪い。
そして味もイマイチで、決して人気のある食べ物ではなかった。
イギリス人たちが恐る恐るうなぎ料理を待ち受けていると出て来たのは予想外の形をした料理だった。しかもこれがまた不思議と美味い。それで「そうか。うなぎはゼリード・イール以外に、こういう食べ方もあるのか」と、サトウを含めたイギリス人たちは目から鱗が落ちた気分になった。
その次に出て来たすっぽんのシチューもなかなか美味かった。しかしその次に出て来た煮たアワビと鶏肉の煮物は、どうにもサトウは食べられなかった。ナイフの刀身が抜けそうで上手く切れなかったのだ。それでサトウは他の人に自分のお皿を勧めた。最後に出て来た柿のデザートはすこぶる美味かった。
ところで、すっぽんのシチューはともかくとして、これらの料理が「欧州風ディナー」と言えるのかどうか、筆者には甚だ疑問に思われる。
けれどもサトウは次のように俊輔の努力をほめている。
「伊藤は欧州風ディナーを用意するために涙ぐましい努力をしていた。このディナーは長州では初めての欧州風ディナーの試みだったに違いない。あるいは日本全体でも初めてだったかも知れない」
ともかくも、この「欧州風ディナーの会」はつつがなく終了した。
それから数日が経った九月五日、長州の横浜派遣使節である井原や俊輔たちはイギリスのバロッサ号とオランダのジャンビ号の二隻に分乗して、下関から横浜へ向かった。ちなみに俊輔はジャンビ号に乗っていたので道中サトウとは別々だった。
五日後、俊輔たちが横浜に着いてみると、イギリスのオールコック公使は長州使節をあたたかく迎え入れ
「賠償金は幕府が支払うことになった」
と告げて、長州使節を安心させた。
とりあえずホッとした井原や俊輔たちは急いで横浜を発って長州へ戻ることにした。
なにしろ本来であれば長州人は、日本中どこにも身の置きどころがないのである。
なぜなら長州は「朝敵」であり、幕府から追討令を受けている立場でもあり、外国人居留地である横浜にいるからこそ俊輔たちは特別扱いされているだけのことで、すでに江戸と大坂の長州藩邸は取り壊され、藩邸に残っていた長州人は全員捕縛されてしまったのだ。
俊輔たちは四日後、下関の監視へ向かうイギリス軍艦に便乗して横浜を出発した。
俊輔たちは下関に着くと急いで山口の政事堂へ行き、賠償金問題の報告をおこなった。九月二十三日のことである。俊輔はその報告が終わると下関へ戻ってきた。
そして戻ってすぐに俊輔は悲報に接することになった。
「山口で聞多が刺客に襲われ、瀕死の重傷におちいっているらしい」
これを聞いて俊輔はすぐに山口へと取って返した。
「長州も日本の一部だから国全体の政府である幕府が支払うべきである、との判断で幕府自身が支払うことを容認した」
という見方もできるかも知れないが、やはり幕府が出した「文久三年五月十日を攘夷期限とすべし」という布告書に関して、幕府が四ヶ国に対してハッキリと釈明できなかった、というのが決め手であったらしい。ちなみに薩英戦争でも薩摩は幕府から金を借りてイギリスに賠償金10万ドルを支払ったものの薩摩は幕府に金を返さなかったので幕府が支払ったに等しく、結局、薩英戦争も下関戦争も幕府が尻ぬぐいをする形になった訳である。
そして四ヶ国が幕府に請求する金額は300万ドルという途方もない額が設定された。
ちなみに四ヶ国はそれを均等割りにして受け取るので一カ国が受け取る金額は75万ドルということになる。
四ヶ国、特にイギリス(オールコック公使)としては賠償金を取り立てるのが目的ではなく、下関あるいは他の瀬戸内海の港(基本的には開港を延期している兵庫港)を開港させることが目的であり、四ヶ国は幕府に対して
「300万ドルの支払いか?下関または兵庫の港を開くか?」
の二者択一を迫ることにしたのだった。
ある意味この300万ドルは「ふっかけて請求した」ようなものであり、まさか四ヶ国も、幕府が300万ドルの支払いを選ぶとは思っていなかった(ただしフランスのロッシュだけは、日本側に多額の賠償金を支払わせることを狙って当初200万ドルの予定だったところに後から100万ドル上乗せして請求したので「金目当てだった」と言える)。
オールコックがなぜ「下関の開港」を要求したのか?その理由は定かではない(多分高杉が下関開港を訴えた事とは関係がない)。
下関を開港する場合、長崎と商圏が重なる部分もあり、それほど新たな商圏が広がるとは思えない。その点、兵庫の場合は関西全域に商圏が広がるので四ヶ国は以前からそれを熱望していた。ただし兵庫は京都から近く、兵庫開港は朝廷が強硬に反対していた。そのため大坂・兵庫の開市開港は1868年1月1日まで延期されているのである。
オールコックが下関の開港を要求した理由は、おそらく
「幕府が横浜、長崎、箱館(函館)さらには兵庫といったすべての貿易港を支配しているので、大名(特に薩長)が幕府を憎むのだ。であるならば大名の港である下関を開き、大名も自由に貿易できるようにしてやれば大名の不満も減るだろう」
といった目論見だったと思われる。
ここでさらに先回りをして「その二者択一」に対する幕府の回答を述べてしまうと、幕府は港の開港よりも賠償金300万ドルの支払いを選ぶのである。
兵庫の早期開港は朝廷の強い反対があるので不可能である。
さりとて、下関の開港は大名に自由貿易を許可することになり武器なども自由に輸入できるようになってしまうので、これも幕府としては認められない。幕府が長州を征伐して「下関を幕府領にしてから開港する」というのであれば、まだそれを考える余地はある。けれども幕府には長州を征伐するだけの決断力がなかった。
今回の下関戦争において、オールコックは長州を徹底的に叩くつもりだった。それゆえ、キューパー提督に対して
「賠償金の担保として長州領の一部(特に下関)を占領せよ。また本拠地の萩を攻撃せよ」
といったことまでオールコックは命じていた。
キューパー提督が彦島の保証占領を口にしたのもその一環であったろう。
しかしキューパー提督は、長州領を占領しようとはしなかった。
いや。もし戦争の際に長州兵たちが一目散に逃げ出すか、あるいは談判の際に長州側があっけなく屈服していれば、キューパー提督はそれをやっただろう。
後年サトウは次のように手記で語っている。
「日本人が頑強に応戦したことは認めてやらなければならない」
また、あるイギリスの歴史家は下関戦争について次のように書いている。
「日本の堡塁は有無を言わせぬ十字砲火にさらされたが、彼らが攻撃態勢のまま砲台を死守した態度は、四ヶ国艦隊の将兵からも讃嘆の声があがったほどである」
キューパー提督は冷静に戦力を分析した上で、長州領を占領するというリスクを避けたのである。
一応参考までに前回の薩英戦争と同じく、今回も数字で表すと死傷者数は次の通りである。
四ヶ国連合:戦死者12名、負傷者60名、死傷者合計72名
長州藩:戦死者18名、負傷者29名、死傷者合計47名
(※一般に広く伝わっている説に基づく数字)
死傷者合計では、四ヶ国側のほうが多数の被害を出している。
無論、長州は全砲台を占拠され、約120門の大砲をすべて撤去されているのであるから、勝敗はあきらかに長州の負けである。
筆者が思うに、キューパー提督は次のように考えたはずである。
「下関海峡の通航が確保されさえすれば四ヶ国の目的は達成したことになるのだから、下関を占領するかどうかということは、あとは幕府がやれば良いだけの話である。四ヶ国の兵士が幕府のためにそこまで血を流す理由はない」
そしてキューパー提督が長州領を占領しなかったもう一つの理由は、イギリス一国で長州領を占領するのであればまだしも「四ヶ国連合軍」として戦っているだけに四ヶ国内のかけひきが存在していたからである。
要するにイギリスの独走をこころよく思っていなかったフランスが、イギリスに歯止めをかけていたのである。
そういった諸々の理由から、キューパー提督は長州領の占領をあきらめたということである。
余談ながら、イギリスは太平天国の乱では、清国政府のためにイギリス兵の血を流して戦った。なぜイギリスがそうしたのか?というと、日本と違って清国にはイギリスの利権が多大に関係していたことと、さらに言えば清国政府がイギリスからの援軍の申し出を受け入れたからである。
実は幕府も、これ以前に何度か英仏から援軍の申し出を打診されていた。特にフランスが積極的に援軍を申し出ていた。
イギリスは、まだ清国で太平天国が片づいてなかったのでそれほど積極的ではなかったが、それでも前年の「小笠原長行の率兵上京」の際に兵の海上輸送で多少の便宜を図っていた。こういった英仏による幕府への軍事援助については以前何度か触れたことがある。
けれども幕府は基本的に英仏からの援軍の申し出を容認しない方針で一貫していた。このことに限って言えば、幕府の無為無策および決断力の無さは、良きにつけ悪しきにつけと言うべきか、国内の争いに外国軍が直接介入することを容認しなかったという点では「悪くない結果につながった」と言うべきであろう。ただし、幕府はいつまでもこの方針を堅持出来た訳ではなく、後段で見るように、後に少しずつ方針転換を余儀なくされることになる。
そしてもう一つ余談を付け加えると、後年(明治四十二年)伊藤博文(俊輔)はこの時の会談について次のように語っている。
「高杉と吾輩がキューパー提督と談判中、提督が彦島の租借を提議してきたが、今から思えば危なかった。もしあの時提督があくまで彦島の租借を要求して強引に奪っていたならば、この島は今の香港のようになっていたかもしれなかった。今から思えば実に恐ろしいことであった」
筆者が思うに、現代の日本人の感覚からすると「今は人もあまり住まない彦島が、もし香港のように発展していたのであれば、それはそれで良かったんじゃないの?」という声が多数になりそうな気がしてならない。
長州と四ヶ国との休戦協定が成立したので、四ヶ国の艦隊は下関で再度砲台が築かれないよう監視するための船を若干残して、あとは順次横浜へ帰還することになった。また四ヶ国の外国人たちは下関市街への上陸が許可された。この頃には下関の町民も皆、戦争が終わったことを見届けて市街へ戻って来ていた。
サトウはさっそく下関に上陸して食事や買い物を楽しんだ。下関の町民は皆、外国人に対して親切だった。そして戦争が終わったことを心から喜んでいた。ただし武士の中にはまだまだ攘夷意識が強い連中もいて、外国人にむかって、刀を抜いたりはしないまでも、にらみつけたり横柄な態度をとる連中はそこそこいたようである。
ところで、長州藩はキューパー提督に対して「藩士数名を横浜まで便乗させてもらいたい」と申し出た。
「幕府と四ヶ国との会談で賠償金問題の結果がどうなるのか、横浜で確認したい」
というのが長州側の言い分であった。この長州の態度は、薩英戦争のあと薩摩が講和の席でイギリスに対して軍艦の購入や留学生の派遣を申し出たのと似ている。薩摩も長州も講和が済み次第、すぐにイギリスの懐へ飛び込むという、しなやかな対応を見せたのである。
キューパー提督はこの長州の申し出を了承した。
横浜へ行く長州使節の正使は家老の井原主計という人物で、この随行員の中には俊輔も含まれることになった。出発は二週間ほど先の予定であり、サトウもそれまでの間、下関を監視するために残るバロッサ号で下関にとどまるよう命じられた。
数日後、俊輔が商人二名を連れてバロッサ号のサトウを訪問した。
「やあ、サトウさん。下関の商人に町を案内させますから見学に行きませんか?」
サトウは二つ返事でオーケーし、俊輔と一緒に町へ出かけた。
商人たちはサトウを長州特産の木綿、蝋(ろうそく)、紙などを扱っている店へ案内した。長州では藩の大きな資金源となっていた米・塩・紙を「防長三白」と言い、これに蝋(ろうそく)を加えて「防長四白」とも呼んでいた。
俊輔はサトウを案内しながら長州人が外国との貿易を望んでいることを説明した。
「下関が開港されればこれらの商品だけに限らず、大坂や北陸の商品も扱うことができます。藩主も下関が開港されることを望んでます」
市内見学が終わってサトウがバロッサ号へ戻ると、俊輔はそのまま艦に残ってサトウと相談を始めた。
「確かに我々は外国との貿易を望んでいるのですが、実は今、藩はそれどころではないのです。将軍と諸藩の軍が近いうちに我々を攻めに来るはずなので、その対応に藩は追われているのです」
「やはり長州は幕府と戦うことになるのですか?」
「まだ分かりません。しかし幕府が攻めてくれば我々は一丸となって戦うことになるでしょう。詳しいことが分かり次第サトウさんに手紙でお知らせします。横浜の公使館へ手紙を送っても良いですか?」
「もちろん結構です。ただしイギリスの船が下関へ立ち寄った際に手紙を託すようにしてください」
「分かりました。ところでサトウさんはどんな風に名前を書いてるんですか?“サトウ”ですか?“佐藤”ですか?」
俊輔は紙に「サトウ」とか「佐藤」と書いて、サトウに尋ねてみた。
サトウは少し恥ずかしがりながら答えた。
「あのー、そのー……。実は私の日本語教師といろいろ相談してるんですけどね。“佐藤”じゃ一般的過ぎてつまらないし、実はこんな風に書いてます」
そう言いながらサトウは紙に「薩道懇之助」さらに「薩道愛之助」と書いて俊輔に見せた。
「はあー、なるほど“薩道”でサトウですか。アーネストは“愛之助”と……。しかし“懇之助”だとコンノスケかネンゴロノスケと日本人は呼んでしまうかも知れませんな。それはともかく“薩道”は……。ワシは実のところそれほど気にしておらんのですが、藩内では“薩摩”のことを激しく憎んでいる人間が多いのです。この前、京の戦で薩摩に大勢同胞を殺されましたから」
「懇の字は懇切がアーネストの意味なので“懇之助”にしました。“薩道”は、来日直後に生麦の事件を経験して以来、薩摩の話に触れることが多かったので、なんとなく選びました。それにしても長州の人は本当に薩摩を憎んでるんですね。なんとか仲直りできないんですか?」
「無理でしょうな。もうすぐ攻めて来る諸藩の軍勢には薩摩も加わってるでしょうから」
「我々は薩摩と戦争しましたが、終わったらすぐ和解しました。長州とも戦争して、すぐに和解しました。何を考えているのか分からず、態度がハッキリとしない幕府と違って、長州と薩摩は率直で分かりやすい。私は長州と薩摩は似ているように思います」
「まあ、どちらも関ヶ原で負けた、という点では似てるかも知れませんな。今でも我が藩には関ヶ原の怨みで幕府を倒そうとしている者が大勢いる。だがワシはそれとは別に、幕府ではもう日本は立ち行かないと思う。イギリスへ行ってみてそれがよく分かった。日本もイギリスの女帝のように帝を中心にして、そして武士も町人も関係なく公の意見をくみ取るような政治にしなけりゃいかんと思う」
「イギリスは長い時間をかけてそういう政治体制を作ったのです。日本がそうなるには相当時間が必要でしょう」
「ワシもそう思います。まあ、とてもじゃないが、ワシの生きているうちにはまず無理でしょうな。ところで今度、艦長さんたちを食事に招待したいと思ってるんですが、いかがでしょうか?以前ワシと井上を姫島まで送ってもらって、今度は横浜まで送ってもらうので、そのお礼です。もちろんサトウさんにも来てもらいたい。ワシのロンドンでの経験をいかしてイギリス風の食事にしたいと思ってます」
「それは面白そうですね」
数日後、二人が参加メンバーをセッティングして、イギリスと長州から数人ずつが参加する「欧州風ディナーの会」が下関の料亭で催されることになった。イギリス側はバロッサ号の艦長、サトウ、その他の士官が二名、長州側は家老の井原、俊輔、その他の役人が二名参加した。
ヨーロッパ風のテーブルクロスをかけたテーブルを用意し、皿とスプーンと箸と「気味の悪いほど研ぎすまされた長いナイフ」が並べられていたとサトウの記録にはあるが、その長いナイフの刀身はいまにも柄から抜けそうだった、とも書かれている。日本の食事でナイフなんか使う習慣はないので、まさか脇差しではあるまいが、小柄か何かの類いだったのだろうか。そしてどうやらフォークはなかったらしい。
最初はハゼの煮た料理が出た。サトウは切るのに苦労したが頭に箸を突き刺してスプーンで肉を削ってなんとかやってのけた。
そして主催者である俊輔は
「次の料理はうなぎの蒲焼です」
とイギリス人たちに告げた。すると彼らは少しギョッとした。
イギリス人にとってうなぎ料理と言うと、すぐに思い浮かぶのは「ゼリード・イール(ウナギのゼリー寄せ)」だった。
この料理はまず、見た目が非常に悪い。
そして味もイマイチで、決して人気のある食べ物ではなかった。
イギリス人たちが恐る恐るうなぎ料理を待ち受けていると出て来たのは予想外の形をした料理だった。しかもこれがまた不思議と美味い。それで「そうか。うなぎはゼリード・イール以外に、こういう食べ方もあるのか」と、サトウを含めたイギリス人たちは目から鱗が落ちた気分になった。
その次に出て来たすっぽんのシチューもなかなか美味かった。しかしその次に出て来た煮たアワビと鶏肉の煮物は、どうにもサトウは食べられなかった。ナイフの刀身が抜けそうで上手く切れなかったのだ。それでサトウは他の人に自分のお皿を勧めた。最後に出て来た柿のデザートはすこぶる美味かった。
ところで、すっぽんのシチューはともかくとして、これらの料理が「欧州風ディナー」と言えるのかどうか、筆者には甚だ疑問に思われる。
けれどもサトウは次のように俊輔の努力をほめている。
「伊藤は欧州風ディナーを用意するために涙ぐましい努力をしていた。このディナーは長州では初めての欧州風ディナーの試みだったに違いない。あるいは日本全体でも初めてだったかも知れない」
ともかくも、この「欧州風ディナーの会」はつつがなく終了した。
それから数日が経った九月五日、長州の横浜派遣使節である井原や俊輔たちはイギリスのバロッサ号とオランダのジャンビ号の二隻に分乗して、下関から横浜へ向かった。ちなみに俊輔はジャンビ号に乗っていたので道中サトウとは別々だった。
五日後、俊輔たちが横浜に着いてみると、イギリスのオールコック公使は長州使節をあたたかく迎え入れ
「賠償金は幕府が支払うことになった」
と告げて、長州使節を安心させた。
とりあえずホッとした井原や俊輔たちは急いで横浜を発って長州へ戻ることにした。
なにしろ本来であれば長州人は、日本中どこにも身の置きどころがないのである。
なぜなら長州は「朝敵」であり、幕府から追討令を受けている立場でもあり、外国人居留地である横浜にいるからこそ俊輔たちは特別扱いされているだけのことで、すでに江戸と大坂の長州藩邸は取り壊され、藩邸に残っていた長州人は全員捕縛されてしまったのだ。
俊輔たちは四日後、下関の監視へ向かうイギリス軍艦に便乗して横浜を出発した。
俊輔たちは下関に着くと急いで山口の政事堂へ行き、賠償金問題の報告をおこなった。九月二十三日のことである。俊輔はその報告が終わると下関へ戻ってきた。
そして戻ってすぐに俊輔は悲報に接することになった。
「山口で聞多が刺客に襲われ、瀕死の重傷におちいっているらしい」
これを聞いて俊輔はすぐに山口へと取って返した。
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