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第五章・出会い
第31話 宍戸刑馬こと高杉晋作の下関談判
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長州藩には長府藩という支藩がある。
現在の下関市の市域にほぼ該当する領地をこの長府藩が治めていた。今回四ヶ国艦隊と戦争があったのはほとんどこの長府藩の領内である。従来の居城は城山(櫛崎城。現、関見台公園のあたり)だったが、この下関戦争の頃にはそこよりやや内陸にある勝山御殿へと移っていた。城山は海のすぐ近くにあり、今回の下関戦争でも砲台を設置して四ヶ国艦隊と砲撃戦を展開した場所だった。そんなところに居城を置いておく訳にもいかないので内陸の勝山御殿へと移ったのである。先の角石陣屋での戦いで陣屋を破られた長府藩は、この勝山御殿で四ヶ国の陸戦隊と決戦にのぞむつもりだった。
八月八日、高杉(宍戸刑馬)、聞多、俊輔たちは長府の勝山御殿に入った。
長府藩の家老は高杉のところへ来て、和議に対する不服を申し立てた。
「御本家では和議をなさる方針だと聞きましたが、甚だ合点が参りませぬ」
これに高杉は傲然と答えた。
「これは分からぬことをおっしゃる。和議が嫌なら、なぜ貴殿らはまだ討ち死にしておらぬのか」
この高杉の対応に家老は「無礼な!」と激しく高杉につめ寄ったが高杉は相手にせず、とにかく三人は四ヶ国との交渉の席に着くため下関の市街へ向かった。
俊輔はなぜか「休戦時には白旗が必要である」という西洋の知識を身につけていた。さすが松陰から「周旋家の才能がある」と言われていただけのことはある。俊輔は高杉たちに、自分が先にイギリス船へ行って交渉してくる、と伝えた。
「西洋では休戦する時に白旗が必要なのです。ワシが先に敵艦へ行って話をしてきますので、号砲の合図が鳴ったら高杉さん、いや宍戸さんたちも船を出発させてください」
そう言って用意しておいた大きな白旗を持って漁船に飛び乗った。そして俊輔は白旗を振りながら四ヶ国艦隊を目指して進んで行った。
漁船はコンケラー号という一番大きな軍艦に到着した。
俊輔は番兵に「これはフラッグシップ(旗艦)か?」とたずねると「いや、これはフラッグシップではない。あのユーリアラス号がそうだ」と番兵は答えたので俊輔はユーリアラス号へ向かった。
そしてユーリアラス号の近くまで来ると俊輔は番兵に向かって叫んだ。
「アーネスト・サトウに会いたい。彼を呼んでくれ!」
しばらくするとサトウが舷側へやって来て、微笑みを浮かべながら言った。
「やあ、伊藤さん。ご無事でなによりです。そろそろ戦争に飽きたんじゃないですか?」
「イエス!まったく飽きた。藩のえらい人、ザ・グレート・マンを連れてきたので戦争を休止してほしい」
「そうですか。とにかく船にあがってください」
俊輔はサトウに促されて船のタラップを上がっていった。
サトウは俊輔を艦長のアレキサンダー大佐のところへ連れていった。そして大佐に和議の使者を連れてきたことを説明した。
椅子に座っていた大佐は、先日の戦いで撃ち抜かれ包帯でグルグル巻きにしてある足首を俊輔の目の前に突き出して
「あなたの国の人、こんな悪いことしました!」
そう大声で言いながら、笑った。
このジョークとも嫌味とも分からない大佐の発言を聞いた俊輔は、苦笑いするしかなかった。
それから俊輔はキューパー提督とも面会した。提督は俊輔に問い質した。
「長州藩主が和議の交渉に来るのか?」
「いや。藩主は病気で来られないので代理のザ・グレート・マンを岸に待たせている」
「本来であれば藩主が来なければならない。とにかく、その代理には会うだけ会おう」
提督の承諾が得られたので俊輔はサトウに合図の号砲を鳴らしてくれるよう頼んだ。そして下関海峡に号砲がとどろき、高杉たちが乗った小船がユーリアラス号へ向かって岸から出発した。
やがてキューパー提督やフランスのジョレス提督が待ち構えている会談の席に、宍戸刑馬こと高杉晋作を正使とした長州の講和使節がやって来た。
高杉は派手な陣羽織と烏帽子を着用し、魔王(ルシフェル)のように傲然とした態度で談判の席に乗り込んできた。
英仏側から見た「宍戸刑馬」の第一印象は
「こんな若造が長州の代表者なのか」
というものであった。
この会談にはサトウ、俊輔、聞多たちも出席し、彼らの通訳のもと会談は始められた。
まず俊輔が英仏側に対して書状を提出した。
これは開戦直前に、俊輔と聞多が持参していたものの交渉に間に合わず提出できなかった書状で「文久三年五月十日を攘夷期限」とした幕府の布告書だった。
高杉は英仏側に説明した。
「開戦前にこれを提出できなかったのは残念である。これを見てもらえば長州に非が無いことは明白であったものを」
ところが英仏側はその書状を見る前に「宍戸」に問い質した。
「その前に、あなたは信任状を持っているのか?」
信任状とは、こういった国対国の交渉の際に必要な主権者(この場合は長州藩主)からの全権委任を証明する書類のことである。
長州側はそういった西洋の外交ルールを知らなかったので信任状など持って来ていなかった。
高杉は至急、信任状を取りに行かせるので明後日の会談において提出すると答えた。余談ながら、後年、俊輔は岩倉使節団の一員となって渡米した際、同じように信任状の欠落を指摘され何ヶ月もかけて大久保利通と一緒に日本へ取りに戻ることになる。
それはさておき、とりあえず英仏側は信任状のことは後回しにすることを了承し、休戦交渉の会談を始めることに同意した。サトウは長州側の提出した和議の書状を入念に読み込み、キューパー提督に内容を説明した。
「この書状には『今後、海峡の通航に差し障りはない』としか書いてない。これでは和議にならない」
このようにキューパー提督は高杉に言った。それで高杉は答えた。
「外国船の通航を差し許すということで、まさしく和議の意志を示しているではないか」
「外国船に対して砲撃したことを謝罪しなければ和議の意志を示しているとはいえない。またこの書状の署名には『防長国主』としか書いてないが、藩主の名前で署名しなければならない」
高杉はムスっとした表情のまま何も答えなかった。キューパー提督は続けて言った。
「さらに我々の要求は次の通りである。一つ、大砲の撤去を認めること。二つ、今後長州が一発でも発砲すれば我々は下関の町を焼き払う。三つ、戦闘中に行方不明になったオランダ水兵二名を引き渡すこと。四つ、下関の町人に言って我々に食料を販売すること。以上である」
それでもやはり、高杉はムスっとしたまま何も答えなかった。ちなみに三つ目のオランダ水兵の件については、すでに長州側が二人を殺害してしまっているので履行するのは不可能である。
高杉が返事をしようとしないのでキューパー提督は「イエスかノーか!」と机を叩いて怒った。まるで後にシンガポールを陥落させることになる山下奉文中将のようである。
見かねた俊輔が高杉に対して進言した。
「高杉……、いや宍戸さん。とにかく、どれか少しでも相手の言い分を認めないと、交渉になりませんよ」
すると高杉が答えた。
「いや。今しがたずっと、連中の要求に対してどう答えるか考えていたんだが、すべて受けいれて構わないと分かった。だから俊輔、あいつらにそう言ってやれ」
傲然と構えていた「宍戸」があっさりとすべての要求を受けいれたことで、英仏側は少し驚いた。サトウは念のため「宍戸」に向かって問い質した。
「今度もって来る書状には、負けた軍が勝った軍に対してちゃんと謝罪してないといけませんよ。例えば『降参しました』とか……」
「誰が降参などするか!」
高杉は吐き捨てるように言った。サトウはそれを「宍戸」の強がりと受けとめて
(私の言葉は少し彼を傷つけたようだ)
と思った。
高杉は別に強がっていた訳ではない。「まだまだ談判は始まったばかりだ。今に見ていろ」というつもりだった。
ところが、高杉は次の談判には出席できなくなってしまったのである。
この日の談判はこれで終了となったが、高杉と俊輔が船木にいる世子定広へ談判結果を報告して退出すると、同僚から
「外国との和議に反対する攘夷派が高杉、伊藤、井上の命を狙っているので気をつけろ」
と言われたのだった。ちなみに聞多は大砲撤去の立ち合い役を任され、下関の砲台のところに残ったままだった。
高杉はその同僚に問い質した。
「それで上層部はそいつらを取り締まらないのか?」
「ああ。ただ困った、困ったと言っているだけで、何も手を付けようとしない」
「何という無責任な奴らか!聞多の言うとおりだった!あの連中とは行動を共にすることはできない!おい、俊輔、とにかく俺たちは逃げることにしよう」
「はい!」
そんな訳で高杉と俊輔は急きょ船木の農家に潜伏することにした。
「宍戸刑馬」が行方不明になったので、二日後の第二回会談には長州側は別の代表者を出席させることにした。
毛利登人を正使として他に数名の副使を付けた。聞多は前回同様、通訳として出席することになった。英仏側は前回と同じメンバーで、今回もユーリアラス号で会談をした。
キューパー提督はさっそく「前回代表だった宍戸はなぜ来ないのか?」と長州側に問い質した。
「宍戸刑馬は暑気あたりと睡眠不足で病気となり、歩行困難になってしまったのだ」
と長州側は答えた。
「もし今日の会談ですべての用件が妥結しない場合は、次回はあなたがたも病気にならないよう健康に気をつけてもらいたい」
キューパー提督はこのように皮肉を述べた。さらに
「前回の宍戸刑馬は身分を詐称していたのではないか?」
と長州側に詰問した。
これはサトウがあらかじめ「武鑑」を用意しており、武鑑で調べてみたところ前回の宍戸の発言と食い違いが見られ、サトウが不審に思って追及したのだった。ちなみに武鑑とは、大名や旗本の姓名・石高・家臣の氏名などを紹介している本のことである。
しかし長州側はなんとか「説得力のあるウソ」を並べたてて強引にサトウを納得させてしまった。まあ外国人で武鑑まで調べる人間はサトウぐらいのものだが、そのサトウといえども武士社会の複雑な養子縁組の仕組みまでは熟知できなかったであろう。それでも宍戸刑馬(高杉)の身分詐称を見抜いたところまではサトウもよく頑張った、とは言える。
さて、長州側は前回再提出を求められた和議の書状をあらためて提出した。
サトウは今回もその書状を入念に読み込み、「和議を請い願う」という文句と「松平大膳大夫=毛利慶親」の署名を認めることができた。
さすがに「降参しました」とは書いてなかったが、前回よりかなり下手に出ていることは確認できたのでキューパー提督は、これで和議を認めることにした。
一方、キューパー提督はあらためて長州側に要求を突きつけた。
「一つ、今後下関の港で石炭、食料、水などを購入できるようにすること。二つ、下関海峡に再び砲台を築いてはならない。三つ、戦争の賠償金を支払うこと。そしてこれらの要求については四日後に藩主が直接ここへやって来て回答すること」
長州側はこれらの要求を持ち帰って検討する、と回答した。
ちなみに前回要求された行方不明になったオランダ水兵二名について長州側は「どうなったか行方が全く分からない」ということで押し通した。
この日の談判が終わると、聞多は船木の定広のところへ談判結果の報告に行き、それと同時に猛烈な勢いで定広を詰問した。
「お約束が違うではないですか!あのとき殿が『今後、如何に藩内で攘夷論がわき起こっても抑え込むことを約束する』とおっしゃったから私は和議の使者を引き受けたのです。あれからまだ何日も経っていないのに、このように約束を反故にされるとは何事ですか!」
こうやって聞多が定広の背信行為を責めたので、定広は高杉、俊輔、聞多の三人を保護すると約束した。
藩内では「この三人が若殿(定広)をそそのかして外国と和議を結ばせようとしているのだ」と思っている攘夷派も多かった。それゆえ定広は
「彼ら三人の策謀で和議を結ぼうとしているのではない。まったく私の意志で和議を結ぼうとしているのである」
と藩内に通達を出して、高杉と俊輔を呼び戻した。
そして四日後の第三回会談の日が到来した。
この第三回会談では、宍戸刑馬こと高杉晋作が再び会談に出席した。
他に前回出席した毛利登人などの重役も何人か出席した。俊輔も第一回会談以来、通訳として復帰した。ただし聞多は欠席した。余談ながらこの会談には村田蔵六も出席していたのだが、なぜかサトウの記録では「一人だけ名前を書きもらした」として、蔵六の名前を書きもらしている。第6話で神奈川のヘボンのところで会って以来だが、こんな独特な頭をしている男の名前を書きもらすとは、ちょっと理解しがたい。
英仏側は今回も同じメンバーで、会談場所も同じユーリアラス号である。
そしてこれが最後の会談となる。
冒頭、キューパー提督は長州藩主が来なかったことについて長州側を激しく責めたてた。
長州側は、連絡の船が遅れたとか、懸命に藩主を説得したが藩主は現在謹慎の身で(禁門の変の罪によって)誰とも会うことを拒んでいる、といった理由を縷々説明して弁解した。
これに対してキューパー提督は
「そうであれば、もっと前に我々に知らせるべきであろう。なぜ当日いきなり言うのか」
と、実にもっともな理由で長州側を責めたてた。
なにしろキューパー提督からすれば自分たちは「国家」を代表している人間であり、長州藩主は一地方の領主に過ぎず、自分たちから見れば格下だと思っている。それはまことに当を得た考え方ではあるのだが、なにしろ当時の日本では藩を「国家」だと考えていた。長州側からすればイギリスと対等のつもりなのである。
とにかくこの問題についてはしばらくやり取りがあった後、とりあえず不問に付すということで本題へと移ることになった。
前回、四ヶ国側から要求があった三点について、まず一つ目の「今後下関の港で石炭、食料、水などを購入できるようにする」ということについては、長州側も異論なく同意した。
二つ目の「下関海峡に再び砲台を築いてはならない」ということには、長州側は不服を申し立てた。
なにしろこれから幕府、諸藩連合が長州へ攻めて来るのである。
その際、砲台がないと下関を守ることが出来ない。長州側はこのことを散々キューパー提督に説明した。しかしこの条件については四ヶ国側が一切の妥協を認めなかった。今回の遠征における最大の目的が「下関砲台の撤去」であったのだから無理もないだろう。それで長州側も最後には「とにかく後で何か抜け道を考えるしかない」とあきらめ、ひとまずこの条件に同意した。
最大の争点となったのは三つ目の「戦争の賠償金を支払うこと」についてだった。
これには宍戸こと高杉が、激しく反論した。
もちろん、長州藩には多額の賠償金を支払う資力がない、ということも説明したが、それ以上に、最初の会談で高杉が幕府の布告書を提出して説明したように、悪いのは幕府であって長州ではない、ということを力説した。
「文久三年五月十日を攘夷期限と命じたのは朝廷と幕府である。賠償金を請求するのであれば幕府に言うべきである」
高杉はこのようにキューパー提督に反論した。するとキューパー提督も高杉に反論した。
「我々は下関の砲台から砲撃をうけたのだから、当然、下関市街を焼き払う権利があった。しかし我々は敢えてそれをしなかった。もし下関市街を焼き払っていれば再建費用は相当な金額になったはずである。我々はその金額を受け取る権利がある」
キューパー提督の言う「相当な金額」とは、後に300万ドルという途方もない金額となって四ヶ国側は請求することになるのだが、この会談の席で300万ドルという数字が出ていた訳ではない。
ただし、かなりの高額になるであろうことはイギリス側も示唆していたはずなので、長州側もその認識でいただろう。ちなみに生麦事件の賠償金として幕府が支払った額は40万ドルである。当時大体10万ドルで蒸気船一隻が買えたので300万ドルというと蒸気船三十隻分ということになる。
高杉は再び反論した。
「大砲を撃ったのは兵士であり、下関の町民にはまったく関係ない話である。なぜ町民が街を焼き払われたり、多額の賠償金を課され虐げられるのか理解できない。非戦闘員を虐待するのがあなたたち西洋人のやり方なのか。そもそもイギリスの船は下関で一度も砲撃されていないではないか」
もし俊輔がイギリスの新聞記事のことを詳しく知っていれば「キューパー提督が下関市街を焼き払えるはずがない」ということをここで追及できたであろうに。
なぜならキューパー提督は薩英戦争の際に鹿児島市街を焼いて、そのことをイギリス議会から「非人道的である」と厳しく追及されており、イギリスの新聞でも批判されていたのである。要するに、この下関戦争においてキューパー提督が下関市街を焼かなかったのは「一度鹿児島の市街を焼いて厳しく非難された“前科”があった」ので、実は焼きたくても焼けなかったのだ。
そういったイギリスの政治や世論に詳しい人間が長州にいれば、この点を上手く反論できたはずなのだが、たった数ヶ月しかロンドンにいなかった俊輔にそんな知識があるはずもなかった。
それにしても、どのみち現代の我々から見ればキューパー提督の言う「お前たちの街を焼かなかったのだから代わりに金を出せ」という理屈はずいぶんと乱暴な話に聞こえるだろうが、この十九世紀の話としては、さして珍しい話でもない。
高杉の反論をうけてキューパー提督も再び反論した。
「あなたたちは戦争を始める前にその費用を計算しておかなければならなかったのだ。そして今その勘定書が回って来たのだから、これを支払わなければならない」
「だからその勘定書は幕府へ回すべきだと言っているのだ」
もはや、お互い一歩も譲らない構えである。
事ここに及んで、キューパー提督はかなり突っ込んだ発言をした。
「あくまで賠償金の支払いを拒むのであれば、我々は彦島を占領して賠償金が支払われるまで担保として差し押さえることになるが、それでも支払わないと言うのか?」
すると高杉はすっくと立ち上がり、キューパー提督をにらみつけて宣言した。
「長州には藩主のために命を投げ出す兵士がまだ何万といる。あまりに過大な要求を突きつけられると彼らを制止するのが難しくなる」
このようなやり取りが続き、会談が平行線のままだったので一時休憩を取ることになった。
その間に俊輔はサトウを室外へ連れ出して密談を持ちかけた。
「どうにも困ったものだ。このままでは和議は破綻してしまうだろう。今、藩内では和議反対の意見が強い。また砲撃による被害も大きく、この上多額の賠償金を請求されたら民衆が激怒するだろう。賠償金の請求は引っ込めてくれないだろうか?」
これに対しサトウは答えた。
「私も長州が多額の賠償金を支払えないことは分かってます。確かにキューパー提督は、宍戸さんの発言をうけて少しムキになっているようですね。ただしこの賠償金の請求は四ヶ国が取り決めたものなので、講和にはどうしても必要な条件なのです。我々としても、長州に多額の賠償金を請求するのが目的ではありません。賠償金は『支払ってくれそうなところから』貰えれば良いのです」
「それは『幕府に支払わせる』と理解してよろしいか?」
「明言はできませんが『支払ってくれそうなところから』です。とにかく講和を成立させるために、この場はひとまず賠償金の請求を了承してください」
密談を終えた俊輔とサトウは、会談の席へと戻った。
二人が席へ戻ると、高杉が席に座ったまま何か歌っているかのようにしゃべり続けていた。少なくともサトウには歌っているかのように見えた。
「天地はじめておこりし時に、高天の原になりませる神の名は、天之御中主、次に高御産巣日の神、次に神産巣日の神、この三柱の神はみな独り神となりまして、身を隠したまいき。次に国稚く、浮かべる脂の如くして……」
サトウは俊輔に「宍戸は何を歌っているのか?」とたずねた。
「ああ、あれは古事記です。あの人は古事記を口ずさむのが趣味なんです」
「コジキ?」
「我が国の神話です」
後にサトウが「日本アジア協会」で神道に関する論文をいくつか発表することになるのは、この時のことがきっかけであったかも知れない。
俊輔は高杉に対して、賠償金請求に関するイギリス側の認識を伝えた。
そしてサトウもキューパー提督に対して、日本側の事情を説明して、さらにいくつか助言も付け加えた。
キューパー提督は再び高杉に対して意見を述べた。
「もし本当に長州が帝と大君(幕府)の命令によって砲撃したというのなら、大君が賠償金を支払うこともあり得よう。いずれにせよ、賠償金の支払いは講和の絶対条件で、この問題は江戸へ戻って大君政府と四ヶ国の間で決定することになるだろう」
これに対して高杉が答えた。
「それで結構である。ついでに私の個人的な意見を述べると、あなたたちは賠償金を請求するよりも馬関(下関)を国際港として開港するよう幕府に要求したほうが、お互いにとっての利益となるだろう。一応参考までに、このことを申し上げておく」
これで長州とイギリスの談判は終了となった。
現在の下関市の市域にほぼ該当する領地をこの長府藩が治めていた。今回四ヶ国艦隊と戦争があったのはほとんどこの長府藩の領内である。従来の居城は城山(櫛崎城。現、関見台公園のあたり)だったが、この下関戦争の頃にはそこよりやや内陸にある勝山御殿へと移っていた。城山は海のすぐ近くにあり、今回の下関戦争でも砲台を設置して四ヶ国艦隊と砲撃戦を展開した場所だった。そんなところに居城を置いておく訳にもいかないので内陸の勝山御殿へと移ったのである。先の角石陣屋での戦いで陣屋を破られた長府藩は、この勝山御殿で四ヶ国の陸戦隊と決戦にのぞむつもりだった。
八月八日、高杉(宍戸刑馬)、聞多、俊輔たちは長府の勝山御殿に入った。
長府藩の家老は高杉のところへ来て、和議に対する不服を申し立てた。
「御本家では和議をなさる方針だと聞きましたが、甚だ合点が参りませぬ」
これに高杉は傲然と答えた。
「これは分からぬことをおっしゃる。和議が嫌なら、なぜ貴殿らはまだ討ち死にしておらぬのか」
この高杉の対応に家老は「無礼な!」と激しく高杉につめ寄ったが高杉は相手にせず、とにかく三人は四ヶ国との交渉の席に着くため下関の市街へ向かった。
俊輔はなぜか「休戦時には白旗が必要である」という西洋の知識を身につけていた。さすが松陰から「周旋家の才能がある」と言われていただけのことはある。俊輔は高杉たちに、自分が先にイギリス船へ行って交渉してくる、と伝えた。
「西洋では休戦する時に白旗が必要なのです。ワシが先に敵艦へ行って話をしてきますので、号砲の合図が鳴ったら高杉さん、いや宍戸さんたちも船を出発させてください」
そう言って用意しておいた大きな白旗を持って漁船に飛び乗った。そして俊輔は白旗を振りながら四ヶ国艦隊を目指して進んで行った。
漁船はコンケラー号という一番大きな軍艦に到着した。
俊輔は番兵に「これはフラッグシップ(旗艦)か?」とたずねると「いや、これはフラッグシップではない。あのユーリアラス号がそうだ」と番兵は答えたので俊輔はユーリアラス号へ向かった。
そしてユーリアラス号の近くまで来ると俊輔は番兵に向かって叫んだ。
「アーネスト・サトウに会いたい。彼を呼んでくれ!」
しばらくするとサトウが舷側へやって来て、微笑みを浮かべながら言った。
「やあ、伊藤さん。ご無事でなによりです。そろそろ戦争に飽きたんじゃないですか?」
「イエス!まったく飽きた。藩のえらい人、ザ・グレート・マンを連れてきたので戦争を休止してほしい」
「そうですか。とにかく船にあがってください」
俊輔はサトウに促されて船のタラップを上がっていった。
サトウは俊輔を艦長のアレキサンダー大佐のところへ連れていった。そして大佐に和議の使者を連れてきたことを説明した。
椅子に座っていた大佐は、先日の戦いで撃ち抜かれ包帯でグルグル巻きにしてある足首を俊輔の目の前に突き出して
「あなたの国の人、こんな悪いことしました!」
そう大声で言いながら、笑った。
このジョークとも嫌味とも分からない大佐の発言を聞いた俊輔は、苦笑いするしかなかった。
それから俊輔はキューパー提督とも面会した。提督は俊輔に問い質した。
「長州藩主が和議の交渉に来るのか?」
「いや。藩主は病気で来られないので代理のザ・グレート・マンを岸に待たせている」
「本来であれば藩主が来なければならない。とにかく、その代理には会うだけ会おう」
提督の承諾が得られたので俊輔はサトウに合図の号砲を鳴らしてくれるよう頼んだ。そして下関海峡に号砲がとどろき、高杉たちが乗った小船がユーリアラス号へ向かって岸から出発した。
やがてキューパー提督やフランスのジョレス提督が待ち構えている会談の席に、宍戸刑馬こと高杉晋作を正使とした長州の講和使節がやって来た。
高杉は派手な陣羽織と烏帽子を着用し、魔王(ルシフェル)のように傲然とした態度で談判の席に乗り込んできた。
英仏側から見た「宍戸刑馬」の第一印象は
「こんな若造が長州の代表者なのか」
というものであった。
この会談にはサトウ、俊輔、聞多たちも出席し、彼らの通訳のもと会談は始められた。
まず俊輔が英仏側に対して書状を提出した。
これは開戦直前に、俊輔と聞多が持参していたものの交渉に間に合わず提出できなかった書状で「文久三年五月十日を攘夷期限」とした幕府の布告書だった。
高杉は英仏側に説明した。
「開戦前にこれを提出できなかったのは残念である。これを見てもらえば長州に非が無いことは明白であったものを」
ところが英仏側はその書状を見る前に「宍戸」に問い質した。
「その前に、あなたは信任状を持っているのか?」
信任状とは、こういった国対国の交渉の際に必要な主権者(この場合は長州藩主)からの全権委任を証明する書類のことである。
長州側はそういった西洋の外交ルールを知らなかったので信任状など持って来ていなかった。
高杉は至急、信任状を取りに行かせるので明後日の会談において提出すると答えた。余談ながら、後年、俊輔は岩倉使節団の一員となって渡米した際、同じように信任状の欠落を指摘され何ヶ月もかけて大久保利通と一緒に日本へ取りに戻ることになる。
それはさておき、とりあえず英仏側は信任状のことは後回しにすることを了承し、休戦交渉の会談を始めることに同意した。サトウは長州側の提出した和議の書状を入念に読み込み、キューパー提督に内容を説明した。
「この書状には『今後、海峡の通航に差し障りはない』としか書いてない。これでは和議にならない」
このようにキューパー提督は高杉に言った。それで高杉は答えた。
「外国船の通航を差し許すということで、まさしく和議の意志を示しているではないか」
「外国船に対して砲撃したことを謝罪しなければ和議の意志を示しているとはいえない。またこの書状の署名には『防長国主』としか書いてないが、藩主の名前で署名しなければならない」
高杉はムスっとした表情のまま何も答えなかった。キューパー提督は続けて言った。
「さらに我々の要求は次の通りである。一つ、大砲の撤去を認めること。二つ、今後長州が一発でも発砲すれば我々は下関の町を焼き払う。三つ、戦闘中に行方不明になったオランダ水兵二名を引き渡すこと。四つ、下関の町人に言って我々に食料を販売すること。以上である」
それでもやはり、高杉はムスっとしたまま何も答えなかった。ちなみに三つ目のオランダ水兵の件については、すでに長州側が二人を殺害してしまっているので履行するのは不可能である。
高杉が返事をしようとしないのでキューパー提督は「イエスかノーか!」と机を叩いて怒った。まるで後にシンガポールを陥落させることになる山下奉文中将のようである。
見かねた俊輔が高杉に対して進言した。
「高杉……、いや宍戸さん。とにかく、どれか少しでも相手の言い分を認めないと、交渉になりませんよ」
すると高杉が答えた。
「いや。今しがたずっと、連中の要求に対してどう答えるか考えていたんだが、すべて受けいれて構わないと分かった。だから俊輔、あいつらにそう言ってやれ」
傲然と構えていた「宍戸」があっさりとすべての要求を受けいれたことで、英仏側は少し驚いた。サトウは念のため「宍戸」に向かって問い質した。
「今度もって来る書状には、負けた軍が勝った軍に対してちゃんと謝罪してないといけませんよ。例えば『降参しました』とか……」
「誰が降参などするか!」
高杉は吐き捨てるように言った。サトウはそれを「宍戸」の強がりと受けとめて
(私の言葉は少し彼を傷つけたようだ)
と思った。
高杉は別に強がっていた訳ではない。「まだまだ談判は始まったばかりだ。今に見ていろ」というつもりだった。
ところが、高杉は次の談判には出席できなくなってしまったのである。
この日の談判はこれで終了となったが、高杉と俊輔が船木にいる世子定広へ談判結果を報告して退出すると、同僚から
「外国との和議に反対する攘夷派が高杉、伊藤、井上の命を狙っているので気をつけろ」
と言われたのだった。ちなみに聞多は大砲撤去の立ち合い役を任され、下関の砲台のところに残ったままだった。
高杉はその同僚に問い質した。
「それで上層部はそいつらを取り締まらないのか?」
「ああ。ただ困った、困ったと言っているだけで、何も手を付けようとしない」
「何という無責任な奴らか!聞多の言うとおりだった!あの連中とは行動を共にすることはできない!おい、俊輔、とにかく俺たちは逃げることにしよう」
「はい!」
そんな訳で高杉と俊輔は急きょ船木の農家に潜伏することにした。
「宍戸刑馬」が行方不明になったので、二日後の第二回会談には長州側は別の代表者を出席させることにした。
毛利登人を正使として他に数名の副使を付けた。聞多は前回同様、通訳として出席することになった。英仏側は前回と同じメンバーで、今回もユーリアラス号で会談をした。
キューパー提督はさっそく「前回代表だった宍戸はなぜ来ないのか?」と長州側に問い質した。
「宍戸刑馬は暑気あたりと睡眠不足で病気となり、歩行困難になってしまったのだ」
と長州側は答えた。
「もし今日の会談ですべての用件が妥結しない場合は、次回はあなたがたも病気にならないよう健康に気をつけてもらいたい」
キューパー提督はこのように皮肉を述べた。さらに
「前回の宍戸刑馬は身分を詐称していたのではないか?」
と長州側に詰問した。
これはサトウがあらかじめ「武鑑」を用意しており、武鑑で調べてみたところ前回の宍戸の発言と食い違いが見られ、サトウが不審に思って追及したのだった。ちなみに武鑑とは、大名や旗本の姓名・石高・家臣の氏名などを紹介している本のことである。
しかし長州側はなんとか「説得力のあるウソ」を並べたてて強引にサトウを納得させてしまった。まあ外国人で武鑑まで調べる人間はサトウぐらいのものだが、そのサトウといえども武士社会の複雑な養子縁組の仕組みまでは熟知できなかったであろう。それでも宍戸刑馬(高杉)の身分詐称を見抜いたところまではサトウもよく頑張った、とは言える。
さて、長州側は前回再提出を求められた和議の書状をあらためて提出した。
サトウは今回もその書状を入念に読み込み、「和議を請い願う」という文句と「松平大膳大夫=毛利慶親」の署名を認めることができた。
さすがに「降参しました」とは書いてなかったが、前回よりかなり下手に出ていることは確認できたのでキューパー提督は、これで和議を認めることにした。
一方、キューパー提督はあらためて長州側に要求を突きつけた。
「一つ、今後下関の港で石炭、食料、水などを購入できるようにすること。二つ、下関海峡に再び砲台を築いてはならない。三つ、戦争の賠償金を支払うこと。そしてこれらの要求については四日後に藩主が直接ここへやって来て回答すること」
長州側はこれらの要求を持ち帰って検討する、と回答した。
ちなみに前回要求された行方不明になったオランダ水兵二名について長州側は「どうなったか行方が全く分からない」ということで押し通した。
この日の談判が終わると、聞多は船木の定広のところへ談判結果の報告に行き、それと同時に猛烈な勢いで定広を詰問した。
「お約束が違うではないですか!あのとき殿が『今後、如何に藩内で攘夷論がわき起こっても抑え込むことを約束する』とおっしゃったから私は和議の使者を引き受けたのです。あれからまだ何日も経っていないのに、このように約束を反故にされるとは何事ですか!」
こうやって聞多が定広の背信行為を責めたので、定広は高杉、俊輔、聞多の三人を保護すると約束した。
藩内では「この三人が若殿(定広)をそそのかして外国と和議を結ばせようとしているのだ」と思っている攘夷派も多かった。それゆえ定広は
「彼ら三人の策謀で和議を結ぼうとしているのではない。まったく私の意志で和議を結ぼうとしているのである」
と藩内に通達を出して、高杉と俊輔を呼び戻した。
そして四日後の第三回会談の日が到来した。
この第三回会談では、宍戸刑馬こと高杉晋作が再び会談に出席した。
他に前回出席した毛利登人などの重役も何人か出席した。俊輔も第一回会談以来、通訳として復帰した。ただし聞多は欠席した。余談ながらこの会談には村田蔵六も出席していたのだが、なぜかサトウの記録では「一人だけ名前を書きもらした」として、蔵六の名前を書きもらしている。第6話で神奈川のヘボンのところで会って以来だが、こんな独特な頭をしている男の名前を書きもらすとは、ちょっと理解しがたい。
英仏側は今回も同じメンバーで、会談場所も同じユーリアラス号である。
そしてこれが最後の会談となる。
冒頭、キューパー提督は長州藩主が来なかったことについて長州側を激しく責めたてた。
長州側は、連絡の船が遅れたとか、懸命に藩主を説得したが藩主は現在謹慎の身で(禁門の変の罪によって)誰とも会うことを拒んでいる、といった理由を縷々説明して弁解した。
これに対してキューパー提督は
「そうであれば、もっと前に我々に知らせるべきであろう。なぜ当日いきなり言うのか」
と、実にもっともな理由で長州側を責めたてた。
なにしろキューパー提督からすれば自分たちは「国家」を代表している人間であり、長州藩主は一地方の領主に過ぎず、自分たちから見れば格下だと思っている。それはまことに当を得た考え方ではあるのだが、なにしろ当時の日本では藩を「国家」だと考えていた。長州側からすればイギリスと対等のつもりなのである。
とにかくこの問題についてはしばらくやり取りがあった後、とりあえず不問に付すということで本題へと移ることになった。
前回、四ヶ国側から要求があった三点について、まず一つ目の「今後下関の港で石炭、食料、水などを購入できるようにする」ということについては、長州側も異論なく同意した。
二つ目の「下関海峡に再び砲台を築いてはならない」ということには、長州側は不服を申し立てた。
なにしろこれから幕府、諸藩連合が長州へ攻めて来るのである。
その際、砲台がないと下関を守ることが出来ない。長州側はこのことを散々キューパー提督に説明した。しかしこの条件については四ヶ国側が一切の妥協を認めなかった。今回の遠征における最大の目的が「下関砲台の撤去」であったのだから無理もないだろう。それで長州側も最後には「とにかく後で何か抜け道を考えるしかない」とあきらめ、ひとまずこの条件に同意した。
最大の争点となったのは三つ目の「戦争の賠償金を支払うこと」についてだった。
これには宍戸こと高杉が、激しく反論した。
もちろん、長州藩には多額の賠償金を支払う資力がない、ということも説明したが、それ以上に、最初の会談で高杉が幕府の布告書を提出して説明したように、悪いのは幕府であって長州ではない、ということを力説した。
「文久三年五月十日を攘夷期限と命じたのは朝廷と幕府である。賠償金を請求するのであれば幕府に言うべきである」
高杉はこのようにキューパー提督に反論した。するとキューパー提督も高杉に反論した。
「我々は下関の砲台から砲撃をうけたのだから、当然、下関市街を焼き払う権利があった。しかし我々は敢えてそれをしなかった。もし下関市街を焼き払っていれば再建費用は相当な金額になったはずである。我々はその金額を受け取る権利がある」
キューパー提督の言う「相当な金額」とは、後に300万ドルという途方もない金額となって四ヶ国側は請求することになるのだが、この会談の席で300万ドルという数字が出ていた訳ではない。
ただし、かなりの高額になるであろうことはイギリス側も示唆していたはずなので、長州側もその認識でいただろう。ちなみに生麦事件の賠償金として幕府が支払った額は40万ドルである。当時大体10万ドルで蒸気船一隻が買えたので300万ドルというと蒸気船三十隻分ということになる。
高杉は再び反論した。
「大砲を撃ったのは兵士であり、下関の町民にはまったく関係ない話である。なぜ町民が街を焼き払われたり、多額の賠償金を課され虐げられるのか理解できない。非戦闘員を虐待するのがあなたたち西洋人のやり方なのか。そもそもイギリスの船は下関で一度も砲撃されていないではないか」
もし俊輔がイギリスの新聞記事のことを詳しく知っていれば「キューパー提督が下関市街を焼き払えるはずがない」ということをここで追及できたであろうに。
なぜならキューパー提督は薩英戦争の際に鹿児島市街を焼いて、そのことをイギリス議会から「非人道的である」と厳しく追及されており、イギリスの新聞でも批判されていたのである。要するに、この下関戦争においてキューパー提督が下関市街を焼かなかったのは「一度鹿児島の市街を焼いて厳しく非難された“前科”があった」ので、実は焼きたくても焼けなかったのだ。
そういったイギリスの政治や世論に詳しい人間が長州にいれば、この点を上手く反論できたはずなのだが、たった数ヶ月しかロンドンにいなかった俊輔にそんな知識があるはずもなかった。
それにしても、どのみち現代の我々から見ればキューパー提督の言う「お前たちの街を焼かなかったのだから代わりに金を出せ」という理屈はずいぶんと乱暴な話に聞こえるだろうが、この十九世紀の話としては、さして珍しい話でもない。
高杉の反論をうけてキューパー提督も再び反論した。
「あなたたちは戦争を始める前にその費用を計算しておかなければならなかったのだ。そして今その勘定書が回って来たのだから、これを支払わなければならない」
「だからその勘定書は幕府へ回すべきだと言っているのだ」
もはや、お互い一歩も譲らない構えである。
事ここに及んで、キューパー提督はかなり突っ込んだ発言をした。
「あくまで賠償金の支払いを拒むのであれば、我々は彦島を占領して賠償金が支払われるまで担保として差し押さえることになるが、それでも支払わないと言うのか?」
すると高杉はすっくと立ち上がり、キューパー提督をにらみつけて宣言した。
「長州には藩主のために命を投げ出す兵士がまだ何万といる。あまりに過大な要求を突きつけられると彼らを制止するのが難しくなる」
このようなやり取りが続き、会談が平行線のままだったので一時休憩を取ることになった。
その間に俊輔はサトウを室外へ連れ出して密談を持ちかけた。
「どうにも困ったものだ。このままでは和議は破綻してしまうだろう。今、藩内では和議反対の意見が強い。また砲撃による被害も大きく、この上多額の賠償金を請求されたら民衆が激怒するだろう。賠償金の請求は引っ込めてくれないだろうか?」
これに対しサトウは答えた。
「私も長州が多額の賠償金を支払えないことは分かってます。確かにキューパー提督は、宍戸さんの発言をうけて少しムキになっているようですね。ただしこの賠償金の請求は四ヶ国が取り決めたものなので、講和にはどうしても必要な条件なのです。我々としても、長州に多額の賠償金を請求するのが目的ではありません。賠償金は『支払ってくれそうなところから』貰えれば良いのです」
「それは『幕府に支払わせる』と理解してよろしいか?」
「明言はできませんが『支払ってくれそうなところから』です。とにかく講和を成立させるために、この場はひとまず賠償金の請求を了承してください」
密談を終えた俊輔とサトウは、会談の席へと戻った。
二人が席へ戻ると、高杉が席に座ったまま何か歌っているかのようにしゃべり続けていた。少なくともサトウには歌っているかのように見えた。
「天地はじめておこりし時に、高天の原になりませる神の名は、天之御中主、次に高御産巣日の神、次に神産巣日の神、この三柱の神はみな独り神となりまして、身を隠したまいき。次に国稚く、浮かべる脂の如くして……」
サトウは俊輔に「宍戸は何を歌っているのか?」とたずねた。
「ああ、あれは古事記です。あの人は古事記を口ずさむのが趣味なんです」
「コジキ?」
「我が国の神話です」
後にサトウが「日本アジア協会」で神道に関する論文をいくつか発表することになるのは、この時のことがきっかけであったかも知れない。
俊輔は高杉に対して、賠償金請求に関するイギリス側の認識を伝えた。
そしてサトウもキューパー提督に対して、日本側の事情を説明して、さらにいくつか助言も付け加えた。
キューパー提督は再び高杉に対して意見を述べた。
「もし本当に長州が帝と大君(幕府)の命令によって砲撃したというのなら、大君が賠償金を支払うこともあり得よう。いずれにせよ、賠償金の支払いは講和の絶対条件で、この問題は江戸へ戻って大君政府と四ヶ国の間で決定することになるだろう」
これに対して高杉が答えた。
「それで結構である。ついでに私の個人的な意見を述べると、あなたたちは賠償金を請求するよりも馬関(下関)を国際港として開港するよう幕府に要求したほうが、お互いにとっての利益となるだろう。一応参考までに、このことを申し上げておく」
これで長州とイギリスの談判は終了となった。
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