30 / 62
第五章・出会い
第30話 下関戦争(後編)
しおりを挟む
俊輔と高杉の駕籠は馬関へ向かって夜の道を進んでいた。
船木の辺りまで来ると、また早駕籠が向こうからやって来た。
乗っているのは井上聞多であった。高杉はすかさず聞多の早駕籠を止めた。
「おい!ちょっと待て!貴様、聞多ではないか!」
「おお!高杉か。お主、こんなところで何をしている?馬関で戦争が始まったぞ」
「それよ、そのことよ!詳しく話を聞かせてくれ」
三人は駕籠を止めて路傍で相談を始めた。聞多は二人に自分の意見を述べた。
「俺は談判に間に合わなかったが、今朝イギリスの船へ使者をやったところサトウが『今にこの砲弾を御進物だ』と言っていたらしい。向こうはとことんやるつもりだ。開戦した以上、こちらもとことんやらねばならぬ。この際、攘夷を叫んでいる連中の腰が折れるぐらい戦争をして、連中の目を覚まさせたほうが良い。これから山口へ行って君公(藩主慶親)の御出馬を願い出ようではないか」
高杉は聞多の意見にすんなりと賛成した。
俊輔は、この二人と違って軍人としての資質はない。藩の上士であるこの二人とは気質が違うのである。ただ、二人の意見に強く反対する理由もなかったのでとりあえず同意した。
三人は山口へ行って御前会議に出席した。そして聞多は藩主父子に対して意見具申した。
「馬関の戦いは必ず敗れるでしょう。敵は次に小郡近海へ艦隊を進めて兵を上陸させ、山口へ進軍してくるはずです。それを阻止するため、小郡を死に場所と定めて決戦すべきです。是非とも君公の御出馬を賜りたい」
この聞多の意見を慶親は一応承諾したが、結局のところ世子定広が出馬することになった。そして聞多は小郡代官を命じられ、高杉、俊輔と共に小郡へ出陣することになった。
そして開戦二日目の八月六日となった。
この日は最大の激戦となり、サトウも銃弾の下をくぐることになるのである。
四ヶ国はこの日、長州砲台を徹底的に破壊するため早朝から陸戦隊を送り込むことになった。
元々陸戦隊を上陸させるのはキューパー提督の念願だった。
前年の薩英戦争では陸戦隊を上陸させられなかったことが勝利を逃した原因だったと考えていたので、この下関では必ず陸戦隊を送り込んで勝利を確定させたいとキューパー提督は思っていた。
ところがこの日の明け方、山県小助の指揮する壇ノ浦砲台が不意を突いてフランスの艦船に砲撃を浴びせ、数人の死傷者を発生させた。これをうけてキューパー提督は上陸作戦の決行時間を早めて朝七時に作戦を開始することにした。
サトウは早朝に起こされて「アレキサンダー大佐(ユーリアラス号艦長)に同行して上陸作戦に参加せよ」と命じられた。
四ヶ国艦隊は上陸用舟艇を使って約二千人(そのうち四分の三はイギリス兵)の陸戦隊を上陸させた。特に激しい抵抗もなく陸戦隊は上陸に成功した。砲台を守っていた長州兵は少人数だったので敵が大挙上陸してくるとすぐに退却したのだった。四ヶ国の陸戦隊は、時々遠目から鉄砲を撃ちかけてくる長州兵と小競り合いをくり返しながら、各砲台に取りついて砲門の撤去作業を開始した。
サトウは九時に前田砲台の近くに上陸した。
サトウが参加しているアレキサンダーの部隊は前田砲台の高台場に配備されている砲門を撤去するため、崖をよじ登って行った。サトウも一緒によじ登った。サトウの周りの兵士たちはピクニックにでも来ているかのようにワイワイしゃべりながら、がむしゃらに崖をよじ登った。
なにしろ八月六日(西暦では9月6日)ということでまだまだ暑い季節である。サトウは大汗をかいて崖をよじ登った。
部隊が高台場に上がってみると長州兵が二十名ほどいた。彼らはイギリス兵が登って来るのを見つけるとすぐに奥へ退却していった。そして遠間から時々イギリス兵に対して発砲をくり返し、ここでも小競り合いが発生した。これによりイギリス兵の一人が足に銃弾をうけ、もう一人は味方の誤射によって背中から撃ち抜かれた。砲門はすでに長州兵によって持ち去られており、一つも残っていなかった。
サトウたちの部隊はさらに丘を登ったり、周囲の林道を進んでみたりして索敵をくり返したが、長州兵と遭遇することはなかった。そこで部隊は別の砲台へ移動して砲門の撤去作業をおこなうことになった。
じきに昼になったのでサトウたちは砲台の中でランチ休憩をとった。サトウは弾薬庫の階段に座り、アレキサンダー大佐からもらった鰯の缶詰とパンを食べた。
午後も砲門の撤去作業が続いた。相変わらず長州兵は時々遠間から闇雲に撃ちかけてくるだけで、その都度イギリス側も闇雲に反撃した。そういった小競り合いが続くばかりで、双方、被害はほとんど発生しなかった。
作業中のイギリス兵たちは銃声を聞くたびにヒョイ、ヒョイと頭を下げていた。サトウもそれにつられて銃声を聞くたびにヒョイ、ヒョイと頭を下げた。しかしどう見ても当たる訳がない距離から撃たれていることが分かったので、皆その無駄な動作をやめた。
ところが夕方近くになると、時々サトウたちの部隊に対して野砲の砲弾が飛んで来るようになった。ただしこれも遠距離なので狙いは正確ではなかった。前田砲台のところからやや奥まったところにある角石陣屋からの攻撃であった。
すでにフランスとオランダの陸戦隊は母艦への引き揚げを完了しつつあった。
しかしアレキサンダー大佐は長州の陣地を攻撃することを決断した。そしてサトウに対して命令した。
「君も一緒について来たまえ。私のそばから離れてはならん」
大佐の部隊は水田を横切って谷の斜面を登り、長州の陣地へ近づいていった。
丸腰のサトウも部隊の後方からついていった。部隊の兵士たちは大声をあげて陽気にはしゃぎつつ、敵がいると思われる場所には銃を乱射しながら進んで行った。
サトウは何も心配していなかった。
自分たちの部隊が進撃して行けば、敵は一目散に逃げ去るだろうと思っていたからだ。
しかし、サトウが敵陣へ近づいていくと銃弾がピュウピュウ飛んで来た。
それはサトウの近くをかすめる勢いだった。
そして足元には、敵と味方の死傷者が何人も横たわっていた。
サトウは一瞬、死を予感した。
長州兵たちは角石陣屋で激しく抵抗していたのだ。
それは赤根武人が指揮する奇兵隊によるものだった。
この時、サトウの近くにいたアレキサンダー大佐が足首を撃ち抜かれ、転倒した。大佐はすぐに担架に乗せられて後方へ運ばれていった。サトウは呆然とそれを見送った。
ところがそれと同時に、角石陣屋の長州兵は退却を始めた。
イギリス兵はようやく長州兵を陣屋から追い落とすのに成功したのだ。そしてイギリス兵が陣屋へ入ろうとすると長州兵が陣屋を爆破するために仕掛けていった爆弾を発見し、すぐに導火線の火を消し止めた。
サトウがその陣屋に近づいてみると、建物の前で四名の日本人と一名のイギリス人の死体が横たわっていた。サトウの記述によると「見るも無惨な格好であった」という。
この時の戦闘でイギリス側は死者7名、負傷者10数名(アレキサンダー大佐を含む)、長州側は死者10数名、負傷者数は不明だが相当数であったろうと思われる。「下関戦争」を通じて最大の被害が発生したのが、この時の戦闘だった。ちなみにこの戦闘の場面はワーグマンがイラストにして描いており、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載した。
後年サトウはこの時の戦闘について次のように手記で語っている。
「あれだけの小競り合いで済んだのは我々にとって幸運であった。もし日本兵が頑強に大砲を固守するか、あるいは我々が谷の斜面を駆け登る際にその側面を攻撃していたら、我々の部隊はもっと多数の死傷者を出していただろう」
この角石陣屋で赤根武人の指揮する奇兵隊が戦っている最中、山県小助の指揮する奇兵隊の部隊は別の場所で待機していたという。もしこの山県の部隊がイギリス兵の側面を突いていたら戦況はどうなっていたであろうか。もしかするとサトウも戦闘に巻き込まれて戦死していたかも知れない。
夕闇の中でサトウはぐったりと疲れて泥まみれになっていた。
そして腹ペコで喉もカラカラの状態で夜の七時半にユーリアラス号へ戻った。
翌、開戦三日目の八月七日になると、長州軍の攻撃はほとんど無くなった。
四ヶ国側は引き続き大砲を撤去して、それを軍艦へ搬入する作業を続けた。さらにこの日は海峡の奥にある彦島にも上陸し、砲台の大砲を使用不能にした。
そしておそらくこの日までに、前田砲台を背景にして兵士たちが写っているあの有名な写真(ベアトが撮った写真)も撮影済みだったろうと思われる。
一方長州側では下関での完敗をうけて、また和平論が台頭してきた。
船木の陣所では世子定広の御前で会議が開かれ、重役一同および高杉、聞多、俊輔らも列席した。
重役たちは悲観的な意見を述べた。
「このままでは防長二州は間違いなく滅亡する。やはり外国とは和議を結んで、まずは幕府、諸藩の軍を相手にするしかないだろう。聞多、また馬関へ和議の使者に立ってくれぬか?」
これに聞多が答えた。
「私が先日馬関へ使者として立ったのは、まだ開戦前だったからです。開戦した以上は、従来の藩の方針通り、外国と徹底的に戦うしかありません。もはや外国軍を相手に討ち死にあるのみです」
しかし重役たちは全員和平論に固執した。
聞多はとうとう怒り心頭に発した。
「このように藩の責任者たちがコロコロと意見を変えるようでは、たとえ和議であれ、戦であれ、長州の体面を保つことなど出来ぬ!あなたたちには千万言を費やしても無駄である!私の血をもって覚悟を促す他はない!」
そう憤然と言い放つや、聞多は席を立って別室へ向かった。
そして別室に入るとおもむろに座り込み、短刀を握りしめて切腹しようとした。
聞多の怪しい素振りを見て追いかけてきた高杉と俊輔が、すかさずそれを止めて二人で聞多を抑え込んだ。
聞多は叫んだ。
「ええい、離せ!俺に腹を切らせろ!俺の臓腑をつかみ出して、やつらのツラに投げつけてやる!」
高杉は聞多の短刀を取りあげて言った。
「死に急ぐな、聞多。かつて松陰先生が言っておられた。死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし、とな。真の敵は幕府である。貴様の命は幕府と戦う時までとっておけ」
そして俊輔も聞多に言った。
「そうだぞ、聞多。ワシに内緒で勝手に切腹するとは水臭いではないか。ワシらが苦労してイギリスへ行って帰って来たのは何のためか。お主は納得できんだろうが、結果的に藩が和議を認めるようになったのは幸いだったとワシは思うぞ」
こうやって高杉と俊輔が説得して、なんとか聞多をなだめた。
それからしばらくして高杉と聞多が定広の御前に呼ばれた。
定広は聞多に「止戦講和」と書いた紙を渡した。
聞多に「四ヶ国との講和談判の使者をせよ」と命じているのである。
それで聞多は答えた。
「藩内では『まだまだ外国に負けはせぬ』と戦意旺盛な兵士たちが大勢おります。なぜ戦いをやめるのか私は理解に苦しみます」
すると定広はあらためて筆をとって紙に「以権道講和」(権道をもって講和する)と書いて聞多に渡し、その意図するところを説いた。
「今や幕府と外国の両面から攻められる状況にある。よって、外国とは一旦講和するのである。その間に幕府の兵を退け、しかる後に再び攘夷をやるつもりである」
これに対して聞多は強い口調で反論した。
「一時逃れの権謀で外国と和議を結ぼうとしても相手は容易にこちらの腹を見抜きます。外国人を禽獣と申す人もいるようですが、仮に犬猫であったとしても餌を見せて呼びつけておいて、その頭をぶん殴ったりすれば二度と近寄りはしないでしょう。ましてや外国人は禽獣でもなく信義を重んじる人間でありますから、そのような詐術を使えば逆に怒らせるだけです。正々堂々と戦って攘夷をやったほうがよろしい」
ここで高杉が口を挟み、聞多を室外へと連れ出した。
「おい聞多。若殿に対して無礼だぞ。そういった無礼な物言いは慎め」
この高杉という男はどれほど高位の人物に対しても大胆不敵な態度をとる人間だが、毛利家の君公父子に対しては忠誠一途な態度を貫くという極端な性質を持っていた。
そして二人が定広の御前へ戻ると、今度は「以信義講和」(信義をもって講和する)と書いた紙を聞多は渡された。
聞多は再び強い口調で反論した。
「権道と信義では正反対ではないですか。なぜそう簡単に前言を覆すのですか。そんなことではまた攘夷へ覆るに決まっています」
定広は苦しそうな表情で答えた。
「私は元々信義をもって和議をするつもりだった。しかし藩内の攘夷論者の目もあるのでやむを得ず権道と書いたのである」
「しからば再び朝廷から攘夷の勅が下った場合、如何されるおつもりか?」
「勅命には従わねばならぬ。謹んで勅をお受けする」
「それでは外国に対する信義が偽りになりましょう。勅命であっても誤っているのなら死を賭してお諫めするのが朝廷に対する真の忠義です」
ここで高杉が再び口を挟んだ。
「おい聞多、言い過ぎだぞ。いい加減、和議のお役目をお受けせよ」
困り果てた定広はとうとう聞多に約束した。
「馬関で四ヶ国との和議が成った暁には、以後、如何に藩内で攘夷論がわき起こっても抑え込むことを約束する」
「それでは和議のお役目をお受けします。私は外国と和議を結ぶ際のお覚悟を問うたまでのこと。ご無礼の段はひらにお許しを。また、今のお約束を決してお忘れなされませぬよう」
ともかくも、こうして長州藩は四ヶ国と講和する道を選んだ。
しかしながら四ヶ国、特にイギリスと渡り合えるだけの人物が長州藩の上層部にはいなかった。藩主か世子が直接交渉に出て行くことは、本人も周りの人間も否定的だった。
となると重役をデッチあげるしかない、と聞多は考えた。聞多は藩の上層部に一つの策を上申した。
「この際、今回の交渉に限って、高杉を家老の養子ということにして交渉の責任者にしましょう」
この重大な局面で、こんないい加減な提案をするほうもするほうだが、認めるほうも認めるほうであろう。藩はこの聞多の提案を受けいれたのである。
確かに上層部としても、誰もこんな役目は引き受けたくなかった。
敗戦の講和使節という不名誉な役目であることに加えて、外国と和議を結ぶとなると藩内の攘夷派から命を狙われる恐れもある。事実、高杉、聞多、俊輔の三人はこのあと攘夷派から命を狙われるのである。
この藩の決定によって高杉は筆頭家老、宍戸備前の養子「宍戸刑馬」ということになった。
高杉はこの時、満年齢で言えば二十四歳である。
長州藩はこの若者をイギリスとの交渉の責任者、すなわち正使に選び、藩の命運を託すことにしたのだ。他に副使として杉徳輔と渡辺内蔵太の二名が同行し、通訳として井上聞多と伊藤俊輔が同行することになった。
船木の辺りまで来ると、また早駕籠が向こうからやって来た。
乗っているのは井上聞多であった。高杉はすかさず聞多の早駕籠を止めた。
「おい!ちょっと待て!貴様、聞多ではないか!」
「おお!高杉か。お主、こんなところで何をしている?馬関で戦争が始まったぞ」
「それよ、そのことよ!詳しく話を聞かせてくれ」
三人は駕籠を止めて路傍で相談を始めた。聞多は二人に自分の意見を述べた。
「俺は談判に間に合わなかったが、今朝イギリスの船へ使者をやったところサトウが『今にこの砲弾を御進物だ』と言っていたらしい。向こうはとことんやるつもりだ。開戦した以上、こちらもとことんやらねばならぬ。この際、攘夷を叫んでいる連中の腰が折れるぐらい戦争をして、連中の目を覚まさせたほうが良い。これから山口へ行って君公(藩主慶親)の御出馬を願い出ようではないか」
高杉は聞多の意見にすんなりと賛成した。
俊輔は、この二人と違って軍人としての資質はない。藩の上士であるこの二人とは気質が違うのである。ただ、二人の意見に強く反対する理由もなかったのでとりあえず同意した。
三人は山口へ行って御前会議に出席した。そして聞多は藩主父子に対して意見具申した。
「馬関の戦いは必ず敗れるでしょう。敵は次に小郡近海へ艦隊を進めて兵を上陸させ、山口へ進軍してくるはずです。それを阻止するため、小郡を死に場所と定めて決戦すべきです。是非とも君公の御出馬を賜りたい」
この聞多の意見を慶親は一応承諾したが、結局のところ世子定広が出馬することになった。そして聞多は小郡代官を命じられ、高杉、俊輔と共に小郡へ出陣することになった。
そして開戦二日目の八月六日となった。
この日は最大の激戦となり、サトウも銃弾の下をくぐることになるのである。
四ヶ国はこの日、長州砲台を徹底的に破壊するため早朝から陸戦隊を送り込むことになった。
元々陸戦隊を上陸させるのはキューパー提督の念願だった。
前年の薩英戦争では陸戦隊を上陸させられなかったことが勝利を逃した原因だったと考えていたので、この下関では必ず陸戦隊を送り込んで勝利を確定させたいとキューパー提督は思っていた。
ところがこの日の明け方、山県小助の指揮する壇ノ浦砲台が不意を突いてフランスの艦船に砲撃を浴びせ、数人の死傷者を発生させた。これをうけてキューパー提督は上陸作戦の決行時間を早めて朝七時に作戦を開始することにした。
サトウは早朝に起こされて「アレキサンダー大佐(ユーリアラス号艦長)に同行して上陸作戦に参加せよ」と命じられた。
四ヶ国艦隊は上陸用舟艇を使って約二千人(そのうち四分の三はイギリス兵)の陸戦隊を上陸させた。特に激しい抵抗もなく陸戦隊は上陸に成功した。砲台を守っていた長州兵は少人数だったので敵が大挙上陸してくるとすぐに退却したのだった。四ヶ国の陸戦隊は、時々遠目から鉄砲を撃ちかけてくる長州兵と小競り合いをくり返しながら、各砲台に取りついて砲門の撤去作業を開始した。
サトウは九時に前田砲台の近くに上陸した。
サトウが参加しているアレキサンダーの部隊は前田砲台の高台場に配備されている砲門を撤去するため、崖をよじ登って行った。サトウも一緒によじ登った。サトウの周りの兵士たちはピクニックにでも来ているかのようにワイワイしゃべりながら、がむしゃらに崖をよじ登った。
なにしろ八月六日(西暦では9月6日)ということでまだまだ暑い季節である。サトウは大汗をかいて崖をよじ登った。
部隊が高台場に上がってみると長州兵が二十名ほどいた。彼らはイギリス兵が登って来るのを見つけるとすぐに奥へ退却していった。そして遠間から時々イギリス兵に対して発砲をくり返し、ここでも小競り合いが発生した。これによりイギリス兵の一人が足に銃弾をうけ、もう一人は味方の誤射によって背中から撃ち抜かれた。砲門はすでに長州兵によって持ち去られており、一つも残っていなかった。
サトウたちの部隊はさらに丘を登ったり、周囲の林道を進んでみたりして索敵をくり返したが、長州兵と遭遇することはなかった。そこで部隊は別の砲台へ移動して砲門の撤去作業をおこなうことになった。
じきに昼になったのでサトウたちは砲台の中でランチ休憩をとった。サトウは弾薬庫の階段に座り、アレキサンダー大佐からもらった鰯の缶詰とパンを食べた。
午後も砲門の撤去作業が続いた。相変わらず長州兵は時々遠間から闇雲に撃ちかけてくるだけで、その都度イギリス側も闇雲に反撃した。そういった小競り合いが続くばかりで、双方、被害はほとんど発生しなかった。
作業中のイギリス兵たちは銃声を聞くたびにヒョイ、ヒョイと頭を下げていた。サトウもそれにつられて銃声を聞くたびにヒョイ、ヒョイと頭を下げた。しかしどう見ても当たる訳がない距離から撃たれていることが分かったので、皆その無駄な動作をやめた。
ところが夕方近くになると、時々サトウたちの部隊に対して野砲の砲弾が飛んで来るようになった。ただしこれも遠距離なので狙いは正確ではなかった。前田砲台のところからやや奥まったところにある角石陣屋からの攻撃であった。
すでにフランスとオランダの陸戦隊は母艦への引き揚げを完了しつつあった。
しかしアレキサンダー大佐は長州の陣地を攻撃することを決断した。そしてサトウに対して命令した。
「君も一緒について来たまえ。私のそばから離れてはならん」
大佐の部隊は水田を横切って谷の斜面を登り、長州の陣地へ近づいていった。
丸腰のサトウも部隊の後方からついていった。部隊の兵士たちは大声をあげて陽気にはしゃぎつつ、敵がいると思われる場所には銃を乱射しながら進んで行った。
サトウは何も心配していなかった。
自分たちの部隊が進撃して行けば、敵は一目散に逃げ去るだろうと思っていたからだ。
しかし、サトウが敵陣へ近づいていくと銃弾がピュウピュウ飛んで来た。
それはサトウの近くをかすめる勢いだった。
そして足元には、敵と味方の死傷者が何人も横たわっていた。
サトウは一瞬、死を予感した。
長州兵たちは角石陣屋で激しく抵抗していたのだ。
それは赤根武人が指揮する奇兵隊によるものだった。
この時、サトウの近くにいたアレキサンダー大佐が足首を撃ち抜かれ、転倒した。大佐はすぐに担架に乗せられて後方へ運ばれていった。サトウは呆然とそれを見送った。
ところがそれと同時に、角石陣屋の長州兵は退却を始めた。
イギリス兵はようやく長州兵を陣屋から追い落とすのに成功したのだ。そしてイギリス兵が陣屋へ入ろうとすると長州兵が陣屋を爆破するために仕掛けていった爆弾を発見し、すぐに導火線の火を消し止めた。
サトウがその陣屋に近づいてみると、建物の前で四名の日本人と一名のイギリス人の死体が横たわっていた。サトウの記述によると「見るも無惨な格好であった」という。
この時の戦闘でイギリス側は死者7名、負傷者10数名(アレキサンダー大佐を含む)、長州側は死者10数名、負傷者数は不明だが相当数であったろうと思われる。「下関戦争」を通じて最大の被害が発生したのが、この時の戦闘だった。ちなみにこの戦闘の場面はワーグマンがイラストにして描いており、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載した。
後年サトウはこの時の戦闘について次のように手記で語っている。
「あれだけの小競り合いで済んだのは我々にとって幸運であった。もし日本兵が頑強に大砲を固守するか、あるいは我々が谷の斜面を駆け登る際にその側面を攻撃していたら、我々の部隊はもっと多数の死傷者を出していただろう」
この角石陣屋で赤根武人の指揮する奇兵隊が戦っている最中、山県小助の指揮する奇兵隊の部隊は別の場所で待機していたという。もしこの山県の部隊がイギリス兵の側面を突いていたら戦況はどうなっていたであろうか。もしかするとサトウも戦闘に巻き込まれて戦死していたかも知れない。
夕闇の中でサトウはぐったりと疲れて泥まみれになっていた。
そして腹ペコで喉もカラカラの状態で夜の七時半にユーリアラス号へ戻った。
翌、開戦三日目の八月七日になると、長州軍の攻撃はほとんど無くなった。
四ヶ国側は引き続き大砲を撤去して、それを軍艦へ搬入する作業を続けた。さらにこの日は海峡の奥にある彦島にも上陸し、砲台の大砲を使用不能にした。
そしておそらくこの日までに、前田砲台を背景にして兵士たちが写っているあの有名な写真(ベアトが撮った写真)も撮影済みだったろうと思われる。
一方長州側では下関での完敗をうけて、また和平論が台頭してきた。
船木の陣所では世子定広の御前で会議が開かれ、重役一同および高杉、聞多、俊輔らも列席した。
重役たちは悲観的な意見を述べた。
「このままでは防長二州は間違いなく滅亡する。やはり外国とは和議を結んで、まずは幕府、諸藩の軍を相手にするしかないだろう。聞多、また馬関へ和議の使者に立ってくれぬか?」
これに聞多が答えた。
「私が先日馬関へ使者として立ったのは、まだ開戦前だったからです。開戦した以上は、従来の藩の方針通り、外国と徹底的に戦うしかありません。もはや外国軍を相手に討ち死にあるのみです」
しかし重役たちは全員和平論に固執した。
聞多はとうとう怒り心頭に発した。
「このように藩の責任者たちがコロコロと意見を変えるようでは、たとえ和議であれ、戦であれ、長州の体面を保つことなど出来ぬ!あなたたちには千万言を費やしても無駄である!私の血をもって覚悟を促す他はない!」
そう憤然と言い放つや、聞多は席を立って別室へ向かった。
そして別室に入るとおもむろに座り込み、短刀を握りしめて切腹しようとした。
聞多の怪しい素振りを見て追いかけてきた高杉と俊輔が、すかさずそれを止めて二人で聞多を抑え込んだ。
聞多は叫んだ。
「ええい、離せ!俺に腹を切らせろ!俺の臓腑をつかみ出して、やつらのツラに投げつけてやる!」
高杉は聞多の短刀を取りあげて言った。
「死に急ぐな、聞多。かつて松陰先生が言っておられた。死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし、とな。真の敵は幕府である。貴様の命は幕府と戦う時までとっておけ」
そして俊輔も聞多に言った。
「そうだぞ、聞多。ワシに内緒で勝手に切腹するとは水臭いではないか。ワシらが苦労してイギリスへ行って帰って来たのは何のためか。お主は納得できんだろうが、結果的に藩が和議を認めるようになったのは幸いだったとワシは思うぞ」
こうやって高杉と俊輔が説得して、なんとか聞多をなだめた。
それからしばらくして高杉と聞多が定広の御前に呼ばれた。
定広は聞多に「止戦講和」と書いた紙を渡した。
聞多に「四ヶ国との講和談判の使者をせよ」と命じているのである。
それで聞多は答えた。
「藩内では『まだまだ外国に負けはせぬ』と戦意旺盛な兵士たちが大勢おります。なぜ戦いをやめるのか私は理解に苦しみます」
すると定広はあらためて筆をとって紙に「以権道講和」(権道をもって講和する)と書いて聞多に渡し、その意図するところを説いた。
「今や幕府と外国の両面から攻められる状況にある。よって、外国とは一旦講和するのである。その間に幕府の兵を退け、しかる後に再び攘夷をやるつもりである」
これに対して聞多は強い口調で反論した。
「一時逃れの権謀で外国と和議を結ぼうとしても相手は容易にこちらの腹を見抜きます。外国人を禽獣と申す人もいるようですが、仮に犬猫であったとしても餌を見せて呼びつけておいて、その頭をぶん殴ったりすれば二度と近寄りはしないでしょう。ましてや外国人は禽獣でもなく信義を重んじる人間でありますから、そのような詐術を使えば逆に怒らせるだけです。正々堂々と戦って攘夷をやったほうがよろしい」
ここで高杉が口を挟み、聞多を室外へと連れ出した。
「おい聞多。若殿に対して無礼だぞ。そういった無礼な物言いは慎め」
この高杉という男はどれほど高位の人物に対しても大胆不敵な態度をとる人間だが、毛利家の君公父子に対しては忠誠一途な態度を貫くという極端な性質を持っていた。
そして二人が定広の御前へ戻ると、今度は「以信義講和」(信義をもって講和する)と書いた紙を聞多は渡された。
聞多は再び強い口調で反論した。
「権道と信義では正反対ではないですか。なぜそう簡単に前言を覆すのですか。そんなことではまた攘夷へ覆るに決まっています」
定広は苦しそうな表情で答えた。
「私は元々信義をもって和議をするつもりだった。しかし藩内の攘夷論者の目もあるのでやむを得ず権道と書いたのである」
「しからば再び朝廷から攘夷の勅が下った場合、如何されるおつもりか?」
「勅命には従わねばならぬ。謹んで勅をお受けする」
「それでは外国に対する信義が偽りになりましょう。勅命であっても誤っているのなら死を賭してお諫めするのが朝廷に対する真の忠義です」
ここで高杉が再び口を挟んだ。
「おい聞多、言い過ぎだぞ。いい加減、和議のお役目をお受けせよ」
困り果てた定広はとうとう聞多に約束した。
「馬関で四ヶ国との和議が成った暁には、以後、如何に藩内で攘夷論がわき起こっても抑え込むことを約束する」
「それでは和議のお役目をお受けします。私は外国と和議を結ぶ際のお覚悟を問うたまでのこと。ご無礼の段はひらにお許しを。また、今のお約束を決してお忘れなされませぬよう」
ともかくも、こうして長州藩は四ヶ国と講和する道を選んだ。
しかしながら四ヶ国、特にイギリスと渡り合えるだけの人物が長州藩の上層部にはいなかった。藩主か世子が直接交渉に出て行くことは、本人も周りの人間も否定的だった。
となると重役をデッチあげるしかない、と聞多は考えた。聞多は藩の上層部に一つの策を上申した。
「この際、今回の交渉に限って、高杉を家老の養子ということにして交渉の責任者にしましょう」
この重大な局面で、こんないい加減な提案をするほうもするほうだが、認めるほうも認めるほうであろう。藩はこの聞多の提案を受けいれたのである。
確かに上層部としても、誰もこんな役目は引き受けたくなかった。
敗戦の講和使節という不名誉な役目であることに加えて、外国と和議を結ぶとなると藩内の攘夷派から命を狙われる恐れもある。事実、高杉、聞多、俊輔の三人はこのあと攘夷派から命を狙われるのである。
この藩の決定によって高杉は筆頭家老、宍戸備前の養子「宍戸刑馬」ということになった。
高杉はこの時、満年齢で言えば二十四歳である。
長州藩はこの若者をイギリスとの交渉の責任者、すなわち正使に選び、藩の命運を託すことにしたのだ。他に副使として杉徳輔と渡辺内蔵太の二名が同行し、通訳として井上聞多と伊藤俊輔が同行することになった。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
よあけまえのキミへ
三咲ゆま
歴史・時代
時は幕末。二月前に父を亡くした少女、天野美湖(あまのみこ)は、ある日川辺で一枚の写真を拾った。
落とし主を探すべく奔走するうちに、拾い物が次々と縁をつなぎ、彼女の前にはやがて導かれるように六人の志士が集う。
広がる人脈に胸を弾ませていた美湖だったが、そんな日常は、やがてゆるやかに崩れ始めるのだった。
京の町を揺るがす不穏な連続放火事件を軸に、幕末に生きる人々の日常と非日常を描いた物語。
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
異・雨月
筑前助広
歴史・時代
幕末。泰平の世を築いた江戸幕府の屋台骨が揺らぎだした頃、怡土藩中老の三男として生まれた谷原睦之介は、誰にも言えぬ恋に身を焦がしながら鬱屈した日々を過ごしていた。未来のない恋。先の見えた将来。何も変わらず、このまま世の中は当たり前のように続くと思っていたのだが――。
<本作は、小説家になろう・カクヨムに連載したものを、加筆修正し掲載しています>
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・地名とは一切関係ありません。
※この物語は、「巷説江戸演義」と題した筑前筑後オリジナル作品企画の作品群です。舞台は江戸時代ですが、オリジナル解釈の江戸時代ですので、史実とは違う部分も多数ございますので、どうぞご注意ください。また、作中には実際の地名が登場しますが、実在のものとは違いますので、併せてご注意ください。

【完結】勝るともなお及ばず ――有馬法印則頼伝
糸冬
歴史・時代
有馬法印則頼。
播磨国別所氏に従属する身でありながら、羽柴秀吉の播磨侵攻を機にいちはやく別所を見限って秀吉の元に走り、入魂の仲となる。
しかしながら、秀吉の死後はためらうことなく徳川家康に取り入り、関ヶ原では東軍につき、摂津国三田二万石を得る。
人に誇れる武功なし。武器は茶の湯と機知、そして度胸。
だが、いかに立身出世を果たそうと、則頼の脳裏には常に、真逆の生き様を示して散った一人の「宿敵」の存在があったことを知る者は少ない。
時に幇間(太鼓持ち)と陰口を叩かれながら、身を寄せる相手を見誤らず巧みに戦国乱世を泳ぎ切り、遂には筑後国久留米藩二十一万石の礎を築いた男の一代記。

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。
天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。
岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?
蘭癖高家
八島唯
歴史・時代
一八世紀末、日本では浅間山が大噴火をおこし天明の大飢饉が発生する。当時の権力者田沼意次は一〇代将軍家治の急死とともに失脚し、その後松平定信が老中首座に就任する。
遠く離れたフランスでは革命の意気が揚がる。ロシアは積極的に蝦夷地への進出を進めており、遠くない未来ヨーロッパの船が日本にやってくることが予想された。
時ここに至り、老中松平定信は消極的であるとはいえ、外国への備えを画策する。
大権現家康公の秘中の秘、後に『蘭癖高家』と呼ばれる旗本を登用することを――
※挿絵はAI作成です。

大日本帝国、アラスカを購入して無双する
雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。
大日本帝国VS全世界、ここに開幕!
※架空の日本史・世界史です。
※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。
※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる