伊藤とサトウ

海野 次朗

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第五章・出会い

第30話 下関戦争(後編)

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 俊輔と高杉の駕籠は馬関へ向かって夜の道を進んでいた。

 船木ふなきの辺りまで来ると、また早駕籠が向こうからやって来た。
 乗っているのは井上聞多であった。高杉はすかさず聞多の早駕籠を止めた。
「おい!ちょっと待て!貴様、聞多ではないか!」
「おお!高杉か。お主、こんなところで何をしている?馬関で戦争が始まったぞ」
「それよ、そのことよ!詳しく話を聞かせてくれ」

 三人は駕籠を止めて路傍ろぼうで相談を始めた。聞多は二人に自分の意見を述べた。
「俺は談判に間に合わなかったが、今朝イギリスの船へ使者をやったところサトウが『今にこの砲弾を御進物ごしんもつだ』と言っていたらしい。向こうはとことんやるつもりだ。開戦した以上、こちらもとことんやらねばならぬ。この際、攘夷を叫んでいる連中の腰が折れるぐらい戦争をして、連中の目を覚まさせたほうが良い。これから山口へ行って君公くんこう(藩主慶親)の御出馬を願い出ようではないか」
 高杉は聞多の意見にすんなりと賛成した。
 俊輔は、この二人と違って軍人としての資質はない。藩の上士であるこの二人とは気質が違うのである。ただ、二人の意見に強く反対する理由もなかったのでとりあえず同意した。

 三人は山口へ行って御前会議に出席した。そして聞多は藩主父子に対して意見具申ぐしんした。
「馬関の戦いは必ず敗れるでしょう。敵は次に小郡おごおり近海へ艦隊を進めて兵を上陸させ、山口へ進軍してくるはずです。それを阻止するため、小郡を死に場所と定めて決戦すべきです。是非とも君公の御出馬をたまわりたい」
 この聞多の意見を慶親は一応承諾したが、結局のところ世子定広が出馬することになった。そして聞多は小郡代官を命じられ、高杉、俊輔と共に小郡へ出陣することになった。

 そして開戦二日目の八月六日となった。
 この日は最大の激戦となり、サトウも銃弾の下をくぐることになるのである。
 四ヶ国はこの日、長州砲台を徹底的に破壊するため早朝から陸戦隊を送り込むことになった。
 元々陸戦隊を上陸させるのはキューパー提督の念願だった。
 前年の薩英戦争では陸戦隊を上陸させられなかったことが勝利を逃した原因だったと考えていたので、この下関では必ず陸戦隊を送り込んで勝利を確定させたいとキューパー提督は思っていた。
 ところがこの日の明け方、山県小助の指揮する壇ノ浦砲台が不意を突いてフランスの艦船に砲撃を浴びせ、数人の死傷者を発生させた。これをうけてキューパー提督は上陸作戦の決行時間を早めて朝七時に作戦を開始することにした。

 サトウは早朝に起こされて「アレキサンダー大佐(ユーリアラス号艦長)に同行して上陸作戦に参加せよ」と命じられた。
 四ヶ国艦隊は上陸用舟艇しゅうていを使って約二千人(そのうち四分の三はイギリス兵)の陸戦隊を上陸させた。特に激しい抵抗もなく陸戦隊は上陸に成功した。砲台を守っていた長州兵は少人数だったので敵が大挙たいきょ上陸してくるとすぐに退却したのだった。四ヶ国の陸戦隊は、時々遠目から鉄砲を撃ちかけてくる長州兵と小競り合いをくり返しながら、各砲台に取りついて砲門の撤去てっきょ作業を開始した。

 サトウは九時に前田砲台の近くに上陸した。
 サトウが参加しているアレキサンダーの部隊は前田砲台の高台場に配備されている砲門を撤去するため、崖をよじ登って行った。サトウも一緒によじ登った。サトウの周りの兵士たちはピクニックにでも来ているかのようにワイワイしゃべりながら、がむしゃらに崖をよじ登った。
 なにしろ八月六日(西暦では9月6日)ということでまだまだ暑い季節である。サトウは大汗をかいて崖をよじ登った。
 部隊が高台場に上がってみると長州兵が二十名ほどいた。彼らはイギリス兵が登って来るのを見つけるとすぐに奥へ退却していった。そして遠間から時々イギリス兵に対して発砲をくり返し、ここでも小競り合いが発生した。これによりイギリス兵の一人が足に銃弾をうけ、もう一人は味方の誤射ごしゃによって背中から撃ち抜かれた。砲門はすでに長州兵によって持ち去られており、一つも残っていなかった。
 サトウたちの部隊はさらに丘を登ったり、周囲の林道を進んでみたりして索敵さくてきをくり返したが、長州兵と遭遇そうぐうすることはなかった。そこで部隊は別の砲台へ移動して砲門の撤去作業をおこなうことになった。

 じきに昼になったのでサトウたちは砲台の中でランチ休憩をとった。サトウは弾薬庫の階段に座り、アレキサンダー大佐からもらったいわし缶詰かんづめとパンを食べた。

 午後も砲門の撤去作業が続いた。相変わらず長州兵は時々遠間から闇雲やみくもに撃ちかけてくるだけで、その都度つどイギリス側も闇雲に反撃した。そういった小競り合いが続くばかりで、双方、被害はほとんど発生しなかった。
 作業中のイギリス兵たちは銃声を聞くたびにヒョイ、ヒョイと頭を下げていた。サトウもそれにつられて銃声を聞くたびにヒョイ、ヒョイと頭を下げた。しかしどう見ても当たる訳がない距離から撃たれていることが分かったので、皆その無駄な動作をやめた。

 ところが夕方近くになると、時々サトウたちの部隊に対して野砲の砲弾が飛んで来るようになった。ただしこれも遠距離なので狙いは正確ではなかった。前田砲台のところからやや奥まったところにあるかどいし陣屋じんやからの攻撃であった。
 すでにフランスとオランダの陸戦隊は母艦への引き揚げを完了しつつあった。
 しかしアレキサンダー大佐は長州の陣地を攻撃することを決断した。そしてサトウに対して命令した。
「君も一緒について来たまえ。私のそばから離れてはならん」

 大佐の部隊は水田を横切って谷の斜面を登り、長州の陣地へ近づいていった。
 丸腰のサトウも部隊の後方からついていった。部隊の兵士たちは大声をあげて陽気にはしゃぎつつ、敵がいると思われる場所には銃を乱射しながら進んで行った。
 サトウは何も心配していなかった。
 自分たちの部隊が進撃して行けば、敵は一目散に逃げ去るだろうと思っていたからだ。

 しかし、サトウが敵陣へ近づいていくと銃弾がピュウピュウ飛んで来た。
 それはサトウの近くをかすめる勢いだった。
 そして足元には、敵と味方の死傷者が何人も横たわっていた。
 サトウは一瞬、死を予感した。

 長州兵たちは角石陣屋で激しく抵抗していたのだ。
 それは赤根あかね武人たけとが指揮する奇兵隊によるものだった。
 この時、サトウの近くにいたアレキサンダー大佐が足首を撃ち抜かれ、転倒した。大佐はすぐに担架に乗せられて後方へ運ばれていった。サトウは呆然ぼうぜんとそれを見送った。
 
 ところがそれと同時に、角石陣屋の長州兵は退却を始めた。
 イギリス兵はようやく長州兵を陣屋から追い落とすのに成功したのだ。そしてイギリス兵が陣屋へ入ろうとすると長州兵が陣屋を爆破するために仕掛けていった爆弾を発見し、すぐに導火線の火を消し止めた。
 サトウがその陣屋に近づいてみると、建物の前で四名の日本人と一名のイギリス人の死体が横たわっていた。サトウの記述によると「見るも無惨むざんな格好であった」という。

 この時の戦闘でイギリス側は死者7名、負傷者10数名(アレキサンダー大佐を含む)、長州側は死者10数名、負傷者数は不明だが相当数であったろうと思われる。「下関戦争」を通じて最大の被害が発生したのが、この時の戦闘だった。ちなみにこの戦闘の場面はワーグマンがイラストにして描いており、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載した。
 後年サトウはこの時の戦闘について次のように手記で語っている。
「あれだけの小競り合いで済んだのは我々にとって幸運であった。もし日本兵が頑強に大砲を固守するか、あるいは我々が谷の斜面をのぼる際にその側面を攻撃していたら、我々の部隊はもっと多数の死傷者を出していただろう」
 この角石陣屋で赤根武人の指揮する奇兵隊が戦っている最中、山県小助の指揮する奇兵隊の部隊は別の場所で待機していたという。もしこの山県の部隊がイギリス兵の側面を突いていたら戦況はどうなっていたであろうか。もしかするとサトウも戦闘に巻き込まれて戦死していたかも知れない。

 夕闇の中でサトウはぐったりと疲れて泥まみれになっていた。
 そして腹ペコでのどもカラカラの状態で夜の七時半にユーリアラス号へ戻った。


 翌、開戦三日目の八月七日になると、長州軍の攻撃はほとんど無くなった。
 四ヶ国側は引き続き大砲を撤去して、それを軍艦へ搬入はんにゅうする作業を続けた。さらにこの日は海峡の奥にあるひこしまにも上陸し、砲台の大砲を使用不能にした。
 そしておそらくこの日までに、前田砲台を背景にして兵士たちが写っているあの有名な写真(ベアトが撮った写真)も撮影済みだったろうと思われる。


 一方長州側では下関での完敗をうけて、また和平論が台頭たいとうしてきた。
 船木の陣所では世子定広の御前で会議が開かれ、重役一同および高杉、聞多、俊輔らも列席した。
 重役たちは悲観的な意見を述べた。
「このままでは防長ぼうちょう二州は間違いなく滅亡めつぼうする。やはり外国とは和議を結んで、まずは幕府、諸藩の軍を相手にするしかないだろう。聞多、また馬関へ和議の使者に立ってくれぬか?」
 これに聞多が答えた。
「私が先日馬関へ使者として立ったのは、まだ開戦前だったからです。開戦した以上は、従来の藩の方針通り、外国と徹底的に戦うしかありません。もはや外国軍を相手に討ち死にあるのみです」
 しかし重役たちは全員和平論に固執こしつした。
 聞多はとうとう怒り心頭しんとうはっした。
「このように藩の責任者たちがコロコロと意見を変えるようでは、たとえ和議であれ、いくさであれ、長州の体面をたもつことなど出来ぬ!あなたたちにはせん万言まんげんついやしても無駄である!私の血をもって覚悟をうながす他はない!」
 そう憤然ふんぜんと言いはなつや、聞多は席を立って別室へ向かった。
 そして別室に入るとおもむろに座り込み、短刀を握りしめて切腹しようとした。
 聞多のあやしい素振そぶりを見て追いかけてきた高杉と俊輔が、すかさずそれを止めて二人で聞多を抑え込んだ。
 聞多は叫んだ。
「ええい、離せ!俺に腹を切らせろ!俺の臓腑ぞうふをつかみ出して、やつらのツラに投げつけてやる!」
 高杉は聞多の短刀を取りあげて言った。
「死に急ぐな、聞多。かつて松陰先生が言っておられた。死して不朽ふきゅうの見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業たいぎょうの見込みあらばいつでもくべし、とな。真の敵は幕府である。貴様の命は幕府と戦う時までとっておけ」
 そして俊輔も聞多に言った。
「そうだぞ、聞多。ワシに内緒で勝手に切腹するとは水臭みずくさいではないか。ワシらが苦労してイギリスへ行って帰って来たのは何のためか。お主は納得できんだろうが、結果的に藩が和議を認めるようになったのはさいわいだったとワシは思うぞ」
 こうやって高杉と俊輔が説得して、なんとか聞多をなだめた。

 それからしばらくして高杉と聞多が定広の御前に呼ばれた。
 定広は聞多に「止戦しせん講和こうわ」と書いた紙を渡した。
 聞多に「四ヶ国との講和談判の使者をせよ」と命じているのである。
 それで聞多は答えた。
「藩内では『まだまだ外国に負けはせぬ』と戦意旺盛おうせいな兵士たちが大勢おります。なぜ戦いをやめるのか私は理解に苦しみます」
 すると定広はあらためて筆をとって紙に「以権道けんどう講和」(権道けんどうをもって講和する)と書いて聞多に渡し、その意図するところを説いた。
「今や幕府と外国の両面から攻められる状況にある。よって、外国とは一旦講和するのである。その間に幕府の兵を退け、しかる後に再び攘夷をやるつもりである」
 これに対して聞多は強い口調で反論した。
「一時逃れの権謀けんぼうで外国と和議を結ぼうとしても相手は容易にこちらの腹を見抜きます。外国人を禽獣きんじゅうと申す人もいるようですが、仮に犬猫であったとしてもえさを見せて呼びつけておいて、その頭をぶん殴ったりすれば二度と近寄りはしないでしょう。ましてや外国人は禽獣でもなく信義しんぎを重んじる人間でありますから、そのような詐術さじゅつを使えば逆に怒らせるだけです。正々堂々と戦って攘夷をやったほうがよろしい」
 ここで高杉が口を挟み、聞多を室外へと連れ出した。
「おい聞多。若殿に対して無礼だぞ。そういった無礼な物言ものいいはつつしめ」
 この高杉という男はどれほど高位の人物に対しても大胆不敵な態度をとる人間だが、毛利家の君公父子に対しては忠誠一途いちずな態度をつらぬくという極端な性質を持っていた。

 そして二人が定広の御前へ戻ると、今度は「以信義しんぎ講和」(信義をもって講和する)と書いた紙を聞多は渡された。
 聞多は再び強い口調で反論した。
「権道と信義では正反対ではないですか。なぜそう簡単に前言をくつがえすのですか。そんなことではまた攘夷へ覆るに決まっています」
 定広は苦しそうな表情で答えた。
「私は元々信義をもって和議をするつもりだった。しかし藩内の攘夷論者の目もあるのでやむを得ず権道と書いたのである」
「しからば再び朝廷から攘夷のちょくが下った場合、如何いかがされるおつもりか?」
勅命ちょくめいには従わねばならぬ。つつしんで勅をお受けする」
「それでは外国に対する信義がいつわりになりましょう。勅命であっても誤っているのなら死をしておいさめするのが朝廷に対する真の忠義です」
 ここで高杉が再び口を挟んだ。
「おい聞多、言い過ぎだぞ。いい加減、和議のお役目をお受けせよ」
 困り果てた定広はとうとう聞多に約束した。
「馬関で四ヶ国との和議が成ったあかつきには、以後、如何いかに藩内で攘夷論がわき起こっても抑え込むことを約束する」
「それでは和議のお役目をお受けします。私は外国と和議を結ぶ際のお覚悟を問うたまでのこと。ご無礼の段はひらにお許しを。また、今のお約束を決してお忘れなされませぬよう」

 ともかくも、こうして長州藩は四ヶ国と講和する道を選んだ。
 しかしながら四ヶ国、特にイギリスと渡り合えるだけの人物が長州藩の上層部にはいなかった。藩主か世子が直接交渉に出て行くことは、本人も周りの人間も否定的だった。
 となると重役をデッチあげるしかない、と聞多は考えた。聞多は藩の上層部に一つの策を上申した。
「この際、今回の交渉に限って、高杉を家老の養子ということにして交渉の責任者にしましょう」
 この重大な局面で、こんないい加減な提案をするほうもするほうだが、認めるほうも認めるほうであろう。藩はこの聞多の提案を受けいれたのである。
 確かに上層部としても、誰もこんな役目は引き受けたくなかった。
 敗戦の講和使節という不名誉な役目であることに加えて、外国と和議を結ぶとなると藩内の攘夷派から命を狙われる恐れもある。事実、高杉、聞多、俊輔の三人はこのあと攘夷派から命を狙われるのである。

 この藩の決定によって高杉は筆頭家老、宍戸ししど備前びぜんの養子「宍戸ししど刑馬けいま」ということになった。
 高杉はこの時、満年齢で言えば二十四歳である。
 長州藩はこの若者をイギリスとの交渉の責任者、すなわち正使に選び、藩の命運をたくすことにしたのだ。他に副使としてすぎとくすけわたなべ内蔵太くらたの二名が同行し、通訳として井上聞多と伊藤俊輔が同行することになった。
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