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第五章・出会い
第28話 下関戦争(前編)
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聞多は久しぶりに萩を訪れた。
俊輔と聞多は御前会議で「攘夷の不可」を説いたために藩内では売国奴と呼ばれ、命も狙われる有り様だった。藩の上層部では二人に対して
「再びイギリスへ渡ったほうが良いのではないか?」
と勧める者もいた。けれども
「国(長州)が滅んでしまえばイギリスで勉強したところで何の意味があるか」
という一念で帰って来た二人からすれば、まさに藩が存亡の危機にあるこの状況で、ふたたびイギリスへ渡ろうとは思わなかった。
聞多が萩に来たのは「久しぶりに高杉の顔が見たい」という理由もあった。
高杉晋作は前年、奇兵隊を創設して奇兵隊総管に就任していた。しかしその後、京都への進発を主張する来島又兵衛ら急進派を止めるために脱藩してしまい、その罪を咎められ野山獄に入れられていた。
ちなみに高杉がこの野山獄にいる時に(つい二ヶ月前の話だが)あの周布政之助が、やはり真っ昼間から酔っ払って馬で高杉のところへやって来て、刀を振り回しながら大声で叫んだ。
「晋作―!どこにいるかー!晋作―!」
そして高杉の牢獄のところまで来て
「晋作、そこにいたか。貴様の首をたたっ斬ってやろうと思ってここまで来たが気が変わった。その首はいずれ必要になるから預けておく。三年そこで勉強して、人物を磨いて出直して来い」
と高杉に忠告して去って行った。
この事件で周布は罰せられて謹慎の身となった。
周布も高杉同様、京都への進発案には反対だったが結局それを止められなかった。それゆえ自ら問題を引き起こして藩の要職から退いたのだった。そして周布は高杉を牢内に留め置くことで長州藩の混乱から隔離して、後日、周布の後を継ぐよう高杉に託したのであった。
聞多が萩を訪れた時、高杉は野山獄から自宅の座敷牢に移されていた。本来であれば高杉は罪人なので勝手に人と面会することは出来ないが、聞多はそんなことはお構いなしで高杉の牢内に入っていった。密航という大罪を平気で犯すほどの男なのだからイチイチ細かいことなど気にしないのだ。
「聞多、随分早く帰ってきたではないか。本当にイギリスまで行ってきたのか?」
「何を言うか。ちゃんとこの目で見て来たとも。それよりお主こそ、この様は何だ。一体何があったのだ?」
「俺のことは後だ。とにかくイギリスの話を聞かせてくれ」
二人はお互い、この一年間で経験したことを話して聞かせた。
「貴様の言う通りだ、聞多。我が長州はイギリスの武器を導入して実力を養うことが最優先だ。そのためには金が要る。下関を開港して貿易で稼がねばならん。長州一国でどこにも負けない力を身につけるのだ」
「そうか、俺と俊輔がいない間に藩はそんなことになっていたのか。四ヶ国艦隊が下関へ攻めてくるというのに京都へ進発するなどバカげている。若殿(定広)もとうとう三田尻から出陣してしまった。一体長州はどうなってしまうのか……」
「ところで聞多。俊輔はどうしてるんだ?」
「相変わらず使い走りをさせられている。最初は横浜へ行かせる予定だったようだが、結局京の桂さんのところへ行かせた」
「バカな。今さらあいつ一人を京へやったところで京の連中を止められるものか。下手すりゃ丸腰で戦に巻き込まれて殺されるぞ」
「まあ馬関(下関)で四ヶ国との戦争が始まれば、結局我々は討ち死にするだろうけどな」
「やはり藩は四ヶ国と戦争する気か?聞多」
「ああ、そうだ。俺はそれを止めるために命がけで帰ってきたが、今は気が変わった。どうせ四ヶ国の通告を蹴った以上、戦争は避けられん。こうなったらとことん攘夷をやる。俺を売国奴呼ばわりした奴らに目に物見せてやる。四ヶ国が攻めてきたら真っ先に前線へ出て、討ち死にしてみせる」
「そう死に急ぐな、聞多。今は長州が死ぬかどうかの瀬戸際だ。万一長州が死ねば、どのみち我々は生きておれんのだ。その時は俺も腹を切って貴様の後を追う。だが、俺は君公父子を朝鮮へ担いで逃げてでも、長州を生き残らせてみせるぞ」
このあと聞多は山口へ帰っていった。
余談ながら聞多はこの日の前日、萩の武家へ嫁に行った姉・常子にも会っているのだが、そのとき萩の志道家の縁者が聞多を訪ねて来た。志道家とは、以前聞多が養子に入っていた家のことで、密航留学をする直前に密航の罪が及ぶのを怖れて離縁したことは、以前書いた。
この志道家の縁者は、五才になった聞多の娘・芳子に一目会っていくよう聞多に伝えるため、訪ねて来たのだった。けれども聞多は「世間の義理もあるから」などと答えて、その申し出を断った。
その日の夜、聞多が姉・常子の家で寝ていると常子が聞多を起こしに来て「志道家の母と祖母が芳子を連れて会いに来ている」と聞多に告げた。聞多と常子は押し問答をくり返したが結局、娘の芳子が聞多の膝のところへやって来て
「お父さま!」
と一言発すると、聞多も涙ながらに娘を抱きよせ、形見の品を分け与えた、などといったエピソードも残っている。
七月二十三日、山口に戻った聞多は御前会議に出席した。
この前日、長崎から「四ヶ国艦隊が二十一日、いよいよ横浜を出発した」という情報が入った。もっとも、この情報は誤りだった。実際に四ヶ国艦隊が横浜を出発するのは二十七日の予定だったのだ。ただしこの際、日付のことは問題ではない。
「近日中に四ヶ国艦隊が下関へやって来る」
このことが確実になった、ということが重要なのである。
この日の御前会議では「この四ヶ国艦隊の襲来にどう対処するか?」ということが話し合われた。
藩論は、またもや一変した。
「今、京都へ軍勢を送り出しているのに、こんな時に外国と戦うのは得策ではない。井上聞多と杉徳輔を馬関へ派遣して、和議の談判をさせるべきである」
藩の上層部は従来の意見を一変して、聞多たちに四ヶ国と和議を結ぶよう命じたのである。
無論、聞多は激怒した。
「私と伊藤がわざわざロンドンから馳せ戻って『攘夷をやめるべきだ』と進言したにもかかわらず、この前あなたたちは『たとえ長州全土が焦土と化しても攘夷をやるのだ』と言ったではないか!今がその時期である!一度攘夷をやると決めたからには徹底的に攘夷をやるしかないのだ!」
これをうけて上層部の一人が聞多に向かって言った。
「お前は藩に攘夷を止めさせるためロンドンから戻って来たのだろう?そのお前が『攘夷をやれ』などと言うのは矛盾しているではないか?」
聞多は答えた。
「もう手遅れである!一度彼らの通告を蹴った以上、彼らは有無を言わさず我々を攻撃してくるであろう。事ここに至っては戦うしか道はない。百年後、長州人は頑固で訳の分からぬ連中であったが、ともかく尊王攘夷を貫いて滅亡した、そういう筋の通った歴史さえ残れば十分である。もはや各々方、討ち死にの覚悟を決しなされ!」
こういった侃侃諤諤の議論がおこなわれている最中に、はからずも「禁門の変」における長州軍の敗報が届いた。
このタイミングは、まさに劇的と言うしかない。
会議は水を打ったように静まり返った。
京都で戦いがあったのはこの四日前、七月十九日のことであった。
前年の「八月十八日の政変」で京都から追放された長州藩および三条実美ら七卿はずっと再入京の許しを訴えていた。
しかし池田屋事件などもあって談判は決裂した。その後、長州側は軍勢を率いて上京し、すでに先月から京都郊外に陣取っていた。
戦い前日の軍議では来島又兵衛が即時進撃を叫んだ。
一方、久坂玄瑞は慎重論を説いた。「せめて若殿(広公)本隊の到着を待つべきである」と。
その久坂の慎重論に対して来島が「医者坊主!卑怯者!」と罵り「一挙に入京して松平容保を討つべし!」と主張した。そこで久坂は最年長の真木和泉に意見を求めたところ真木は
「形は尊氏になっても、心さえ楠公(楠木正成)であれば良いではないか」
と答え、来島の進撃論に賛成した。
これによって軍議は即時進撃と決定した。余談ながら、後に徳富蘇峰は「如何に尊王の忠誠と言い訳しても、御所に向かって発砲する者は逆賊と言わねばならず、形が尊氏ならば心もまた尊氏である」と批評している。
伏見、嵯峨、山崎に陣取っていた長州軍は十八日の夜に進軍を開始して、十九日未明から戦闘を始めた。
伏見方面から北上した福原越後隊は大垣藩兵などに進路を阻まれ、ほどなく撃退された。
嵯峨方面から東進した来島隊、国司信濃隊は蛤御門、下立売御門、中立売御門の辺りで会津藩兵などと激戦を展開した。その後、西郷吉之助の率いる薩摩藩兵が駆けつけてきて長州勢の側面を突いた。これにより長州勢は総崩れとなり撃退された。来島又兵衛は戦死した。
山崎方面から北上した真木和泉、久坂玄瑞らの隊は堺町御門で越前藩兵などと戦ったが、やはりこれも撃退された。
久坂玄瑞は鷹司邸で自刃した。入江九一は鷹司邸を出たところで討ち取られた。真木和泉は天王山に戻って自害した。
山崎に残っていた益田右衛門介は長州へ退却した。長州兵がたてこもった鷹司邸で発生した火災は広範囲に燃え広がり、京都の二万八千戸を焼失させることになった。
そしてこの戦いの最中、桂小五郎は鳥取藩士と有栖川宮父子との密約によって孝明天皇を比叡山へ動座するという計画を進めていた。
もしこの計画が成功していたら戦いの形勢は一変していたであろうし、また成功する可能性も十分にあった。しかしギリギリのところで鳥取藩兵は桂を見捨てた。それは戦いの形勢が長州にとって不利なこと、さらに禁裏御守衛総督の一橋慶喜および中川宮、松平容保によって孝明天皇の警備が厳重に固められていたことが原因であった。
鳥取藩の河田佐久馬は桂に告げた。
「一体今日の長州の攻撃は何事であるか。御所へ向かって鉄砲を撃つようでは到底長州への協力などできかねる」
「左様でありますか。それではこれまでであります」
桂はそう答えて、すぐにその場から立ち去った。以後、桂はしばらく京都に潜伏し、そのあと但馬の出石へ落ちのびていくのである。
桂が計画した「天皇の動座」に関連して言うと、この禁門の変の少し前(七月十一日)、佐久間象山が京都の木屋町で暗殺されていた。象山が「天皇の彦根動座」を計画していたというのが暗殺の理由であった。
ただし理由はそれだけではなかった。象山が盛んに開国説を唱えていたことも理由の一つとして挙げられていた。象山は松陰の師匠であり、さらに聞多にイギリス密航のヒントを与えた人物でもあり、長州とは浅からぬ縁の持ち主と言うべきであろうが、急進的な尊王攘夷派によって暗殺されてしまったのだった。
犯人は肥後の河上彦斎など数名である。
奇妙な因縁というべきか、河上などの暗殺者たちはそのまま長州軍に参加して禁門の変を戦い、敗戦後は長州へ逃亡している。
ちなみに先述した西郷吉之助は、この年の二月に島流しの罪を赦免され、三月には入京して薩摩藩の軍賦役に就任していた。
これ以降、西郷がどれほど歴史的に重要な役割を担うことになるか、そんなことは今さら書くまでもない話ではあるが、その西郷とサトウが出会うことになるのは、もう少し先の話である。
俊輔と聞多は御前会議で「攘夷の不可」を説いたために藩内では売国奴と呼ばれ、命も狙われる有り様だった。藩の上層部では二人に対して
「再びイギリスへ渡ったほうが良いのではないか?」
と勧める者もいた。けれども
「国(長州)が滅んでしまえばイギリスで勉強したところで何の意味があるか」
という一念で帰って来た二人からすれば、まさに藩が存亡の危機にあるこの状況で、ふたたびイギリスへ渡ろうとは思わなかった。
聞多が萩に来たのは「久しぶりに高杉の顔が見たい」という理由もあった。
高杉晋作は前年、奇兵隊を創設して奇兵隊総管に就任していた。しかしその後、京都への進発を主張する来島又兵衛ら急進派を止めるために脱藩してしまい、その罪を咎められ野山獄に入れられていた。
ちなみに高杉がこの野山獄にいる時に(つい二ヶ月前の話だが)あの周布政之助が、やはり真っ昼間から酔っ払って馬で高杉のところへやって来て、刀を振り回しながら大声で叫んだ。
「晋作―!どこにいるかー!晋作―!」
そして高杉の牢獄のところまで来て
「晋作、そこにいたか。貴様の首をたたっ斬ってやろうと思ってここまで来たが気が変わった。その首はいずれ必要になるから預けておく。三年そこで勉強して、人物を磨いて出直して来い」
と高杉に忠告して去って行った。
この事件で周布は罰せられて謹慎の身となった。
周布も高杉同様、京都への進発案には反対だったが結局それを止められなかった。それゆえ自ら問題を引き起こして藩の要職から退いたのだった。そして周布は高杉を牢内に留め置くことで長州藩の混乱から隔離して、後日、周布の後を継ぐよう高杉に託したのであった。
聞多が萩を訪れた時、高杉は野山獄から自宅の座敷牢に移されていた。本来であれば高杉は罪人なので勝手に人と面会することは出来ないが、聞多はそんなことはお構いなしで高杉の牢内に入っていった。密航という大罪を平気で犯すほどの男なのだからイチイチ細かいことなど気にしないのだ。
「聞多、随分早く帰ってきたではないか。本当にイギリスまで行ってきたのか?」
「何を言うか。ちゃんとこの目で見て来たとも。それよりお主こそ、この様は何だ。一体何があったのだ?」
「俺のことは後だ。とにかくイギリスの話を聞かせてくれ」
二人はお互い、この一年間で経験したことを話して聞かせた。
「貴様の言う通りだ、聞多。我が長州はイギリスの武器を導入して実力を養うことが最優先だ。そのためには金が要る。下関を開港して貿易で稼がねばならん。長州一国でどこにも負けない力を身につけるのだ」
「そうか、俺と俊輔がいない間に藩はそんなことになっていたのか。四ヶ国艦隊が下関へ攻めてくるというのに京都へ進発するなどバカげている。若殿(定広)もとうとう三田尻から出陣してしまった。一体長州はどうなってしまうのか……」
「ところで聞多。俊輔はどうしてるんだ?」
「相変わらず使い走りをさせられている。最初は横浜へ行かせる予定だったようだが、結局京の桂さんのところへ行かせた」
「バカな。今さらあいつ一人を京へやったところで京の連中を止められるものか。下手すりゃ丸腰で戦に巻き込まれて殺されるぞ」
「まあ馬関(下関)で四ヶ国との戦争が始まれば、結局我々は討ち死にするだろうけどな」
「やはり藩は四ヶ国と戦争する気か?聞多」
「ああ、そうだ。俺はそれを止めるために命がけで帰ってきたが、今は気が変わった。どうせ四ヶ国の通告を蹴った以上、戦争は避けられん。こうなったらとことん攘夷をやる。俺を売国奴呼ばわりした奴らに目に物見せてやる。四ヶ国が攻めてきたら真っ先に前線へ出て、討ち死にしてみせる」
「そう死に急ぐな、聞多。今は長州が死ぬかどうかの瀬戸際だ。万一長州が死ねば、どのみち我々は生きておれんのだ。その時は俺も腹を切って貴様の後を追う。だが、俺は君公父子を朝鮮へ担いで逃げてでも、長州を生き残らせてみせるぞ」
このあと聞多は山口へ帰っていった。
余談ながら聞多はこの日の前日、萩の武家へ嫁に行った姉・常子にも会っているのだが、そのとき萩の志道家の縁者が聞多を訪ねて来た。志道家とは、以前聞多が養子に入っていた家のことで、密航留学をする直前に密航の罪が及ぶのを怖れて離縁したことは、以前書いた。
この志道家の縁者は、五才になった聞多の娘・芳子に一目会っていくよう聞多に伝えるため、訪ねて来たのだった。けれども聞多は「世間の義理もあるから」などと答えて、その申し出を断った。
その日の夜、聞多が姉・常子の家で寝ていると常子が聞多を起こしに来て「志道家の母と祖母が芳子を連れて会いに来ている」と聞多に告げた。聞多と常子は押し問答をくり返したが結局、娘の芳子が聞多の膝のところへやって来て
「お父さま!」
と一言発すると、聞多も涙ながらに娘を抱きよせ、形見の品を分け与えた、などといったエピソードも残っている。
七月二十三日、山口に戻った聞多は御前会議に出席した。
この前日、長崎から「四ヶ国艦隊が二十一日、いよいよ横浜を出発した」という情報が入った。もっとも、この情報は誤りだった。実際に四ヶ国艦隊が横浜を出発するのは二十七日の予定だったのだ。ただしこの際、日付のことは問題ではない。
「近日中に四ヶ国艦隊が下関へやって来る」
このことが確実になった、ということが重要なのである。
この日の御前会議では「この四ヶ国艦隊の襲来にどう対処するか?」ということが話し合われた。
藩論は、またもや一変した。
「今、京都へ軍勢を送り出しているのに、こんな時に外国と戦うのは得策ではない。井上聞多と杉徳輔を馬関へ派遣して、和議の談判をさせるべきである」
藩の上層部は従来の意見を一変して、聞多たちに四ヶ国と和議を結ぶよう命じたのである。
無論、聞多は激怒した。
「私と伊藤がわざわざロンドンから馳せ戻って『攘夷をやめるべきだ』と進言したにもかかわらず、この前あなたたちは『たとえ長州全土が焦土と化しても攘夷をやるのだ』と言ったではないか!今がその時期である!一度攘夷をやると決めたからには徹底的に攘夷をやるしかないのだ!」
これをうけて上層部の一人が聞多に向かって言った。
「お前は藩に攘夷を止めさせるためロンドンから戻って来たのだろう?そのお前が『攘夷をやれ』などと言うのは矛盾しているではないか?」
聞多は答えた。
「もう手遅れである!一度彼らの通告を蹴った以上、彼らは有無を言わさず我々を攻撃してくるであろう。事ここに至っては戦うしか道はない。百年後、長州人は頑固で訳の分からぬ連中であったが、ともかく尊王攘夷を貫いて滅亡した、そういう筋の通った歴史さえ残れば十分である。もはや各々方、討ち死にの覚悟を決しなされ!」
こういった侃侃諤諤の議論がおこなわれている最中に、はからずも「禁門の変」における長州軍の敗報が届いた。
このタイミングは、まさに劇的と言うしかない。
会議は水を打ったように静まり返った。
京都で戦いがあったのはこの四日前、七月十九日のことであった。
前年の「八月十八日の政変」で京都から追放された長州藩および三条実美ら七卿はずっと再入京の許しを訴えていた。
しかし池田屋事件などもあって談判は決裂した。その後、長州側は軍勢を率いて上京し、すでに先月から京都郊外に陣取っていた。
戦い前日の軍議では来島又兵衛が即時進撃を叫んだ。
一方、久坂玄瑞は慎重論を説いた。「せめて若殿(広公)本隊の到着を待つべきである」と。
その久坂の慎重論に対して来島が「医者坊主!卑怯者!」と罵り「一挙に入京して松平容保を討つべし!」と主張した。そこで久坂は最年長の真木和泉に意見を求めたところ真木は
「形は尊氏になっても、心さえ楠公(楠木正成)であれば良いではないか」
と答え、来島の進撃論に賛成した。
これによって軍議は即時進撃と決定した。余談ながら、後に徳富蘇峰は「如何に尊王の忠誠と言い訳しても、御所に向かって発砲する者は逆賊と言わねばならず、形が尊氏ならば心もまた尊氏である」と批評している。
伏見、嵯峨、山崎に陣取っていた長州軍は十八日の夜に進軍を開始して、十九日未明から戦闘を始めた。
伏見方面から北上した福原越後隊は大垣藩兵などに進路を阻まれ、ほどなく撃退された。
嵯峨方面から東進した来島隊、国司信濃隊は蛤御門、下立売御門、中立売御門の辺りで会津藩兵などと激戦を展開した。その後、西郷吉之助の率いる薩摩藩兵が駆けつけてきて長州勢の側面を突いた。これにより長州勢は総崩れとなり撃退された。来島又兵衛は戦死した。
山崎方面から北上した真木和泉、久坂玄瑞らの隊は堺町御門で越前藩兵などと戦ったが、やはりこれも撃退された。
久坂玄瑞は鷹司邸で自刃した。入江九一は鷹司邸を出たところで討ち取られた。真木和泉は天王山に戻って自害した。
山崎に残っていた益田右衛門介は長州へ退却した。長州兵がたてこもった鷹司邸で発生した火災は広範囲に燃え広がり、京都の二万八千戸を焼失させることになった。
そしてこの戦いの最中、桂小五郎は鳥取藩士と有栖川宮父子との密約によって孝明天皇を比叡山へ動座するという計画を進めていた。
もしこの計画が成功していたら戦いの形勢は一変していたであろうし、また成功する可能性も十分にあった。しかしギリギリのところで鳥取藩兵は桂を見捨てた。それは戦いの形勢が長州にとって不利なこと、さらに禁裏御守衛総督の一橋慶喜および中川宮、松平容保によって孝明天皇の警備が厳重に固められていたことが原因であった。
鳥取藩の河田佐久馬は桂に告げた。
「一体今日の長州の攻撃は何事であるか。御所へ向かって鉄砲を撃つようでは到底長州への協力などできかねる」
「左様でありますか。それではこれまでであります」
桂はそう答えて、すぐにその場から立ち去った。以後、桂はしばらく京都に潜伏し、そのあと但馬の出石へ落ちのびていくのである。
桂が計画した「天皇の動座」に関連して言うと、この禁門の変の少し前(七月十一日)、佐久間象山が京都の木屋町で暗殺されていた。象山が「天皇の彦根動座」を計画していたというのが暗殺の理由であった。
ただし理由はそれだけではなかった。象山が盛んに開国説を唱えていたことも理由の一つとして挙げられていた。象山は松陰の師匠であり、さらに聞多にイギリス密航のヒントを与えた人物でもあり、長州とは浅からぬ縁の持ち主と言うべきであろうが、急進的な尊王攘夷派によって暗殺されてしまったのだった。
犯人は肥後の河上彦斎など数名である。
奇妙な因縁というべきか、河上などの暗殺者たちはそのまま長州軍に参加して禁門の変を戦い、敗戦後は長州へ逃亡している。
ちなみに先述した西郷吉之助は、この年の二月に島流しの罪を赦免され、三月には入京して薩摩藩の軍賦役に就任していた。
これ以降、西郷がどれほど歴史的に重要な役割を担うことになるか、そんなことは今さら書くまでもない話ではあるが、その西郷とサトウが出会うことになるのは、もう少し先の話である。
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(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
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