伊藤とサトウ

海野 次朗

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第五章・出会い

第27話 姫島行き

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 六月十八日、俊輔、聞多、サトウの三人はイギリスの軍艦バロッサ号に乗って横浜を出発した。
 さらにバロッサ号には砲艦コーモラント号も随伴ずいはんして、二隻の船団で長州へ向かうことになった。
 この時バロッサ号にはサトウの日本語教師の中沢見作けんさくも同乗しており、俊輔、聞多、サトウ、中沢の四人は協力して長州藩に提出する通告書を日本語に翻訳した。
 この通告書の内容は、要約すると
「長州藩の下関での暴挙は万国ばんこく公法こうほうに違反している。それゆえ四ヶ国は長州を討伐とうばつする。四ヶ国の軍事力は長州をはるかに凌駕りょうがしており、長州の負けは確実である。英国留学をしていた二人を長州へ派遣するのは最後通牒である。長州は攘夷政策を捨てて開国政策へ転換せよ。さもないと討伐する」
 といったような内容であった。実際にはかなりの長文だったので翻訳はなかなか大変だった。

 翻訳作業が終わったあと俊輔はサトウに話しかけた。
「サトウさんは本当に日本語が達者たっしゃですな。恥ずかしながらワシの英語より断然だんぜん上手うまい」
 サトウは笑って答えた。
「ハハハ。おだてともっこにゃ乗りたくねえ」
 俊輔はあっけにとられてポカーンという表情になった。
(し、しまった!ウケない!)
 サトウはあせった。
「ま、まあ伊藤さんも英語でジョークの一つも言えるようになれば本物ですよ」

 どこから出て来た歴史ネタなのか筆者もよく知らないのだが、サトウはこの「おだてともっこにゃ乗りたくねえ」というタンカを外国人ながらも使った、という話を時々見かける。筆者が読んだなかで一番古そうな元ネタは平尾ひらお道雄みちお氏の「坂本龍馬・海援隊かいえんたい始末記しまつき」だと思う。ちなみに「もっこ」というのは網状あみじょうんだ運搬うんぱん用具のことで、江戸時代には罪人を運ぶ際にも使ったらしい。

 このあと俊輔がロンドンで生活していた話をサトウにすると、やはり当然の結果として、二人が通っていたロンドン大学(ユニヴァーシティ・カレッジ)の話になった。
「そうか。サトウさんも同じ学校に通っていたのか。あの学校のウィリアムソン教授には大変世話になった」
「私も驚きました。日本人であの学校に入ったのは、間違いなくあなたたちが初めてでしょう」
「実はまだロンドンに残ってあの学校へ通っている長州人が三人いる。そうだ、この写真をサトウさんに差し上げよう。もしワシと井上が死んでしまったら、この三人にしらせてやって欲しい」
 俊輔は、五人がロンドンで撮った写真をふところから取り出してサトウに渡した。
「……わかりました。それで、彼らに何と伝えるのですか?自分たちのあとに続いて帰国せよ、ですか?」
「いや。そのままイギリスに残って勉強を続けろ、と伝えて欲しい。攘夷の犠牲になるのはワシと井上だけで十分だ。あの三人はきっと日本とイギリスのけ橋になってくれるだろう」
「そうですか。しかし死に急いではいけません。日本人はすぐに死のうとする。悪いくせです。生きて自分で始末をつけるよう努力してください」
「ハハハ……。サトウさんは桂さんと同じことを言うなあ」
「桂サン?」
「桂さんはワシのボス(上司)で、兄のような人です」
「それにしても、なぜ長州の人たちはそんなに外国へ行きたがるのですか?長州は特別ですか?」
「ワシが思うに多分、長州には吉田松陰先生がいたからでしょう。松陰先生のこと、ご存知ですか?」
「いいえ。知りません」
「十年前、松陰先生がペリーのアメリカ船に乗って密航しようとしたのです。ワシらはそれに続いたのです」
「うーん、昔読んだフランシス・ホークの『ペリー日本遠征記』にそんな話があったような……。でも密航しようとした日本人はヨシダという名前ではなかったですね。イサギ・コーダとか、クワ何とかマンジという名前だったような……」
「ほう、アメリカの本に密航者の名前が書いてあるんですか。じゃあ松陰先生以外でも、ペリーの船に乗り込もうとした日本人がいたのかも知れんなあ……」

 吉田松陰はペリーの黒船に乗り込もうとした時、瓜中万二(かのうち まんじ)と偽名ぎめいを使い、おとも金子かねこ重之輔しげのすけは市木公太(いちき こうた)と偽名を使った。フランシス・ホークが書いた『ペリー日本遠征記』には松陰たちの密航のことが書かれているが、二人の名前は「KWANSUCHI MANJI」と「ISAGI KOODA」と記載されている。
 俊輔は、松陰たちがそういった偽名を使ったことを知らなかったので、サトウが実はちゃんと松陰のことを話しているにもかかわらず話がかみ合わなかったのである。


 さて、俊輔やサトウたちが乗ったバロッサ号は四国の南方をまわって豊後ぶんご水道すいどうへ入り、国東くにさき半島の少し北方にある姫島ひめしまに到着した。横浜を出て六日後のことであった。
 この姫島から北へ数十キロ行くと長州の富海とのみ三田尻みたじり防府ほうふ東隣ひがしとなりにある港)がある。
 俊輔と聞多は姫島で小舟をやとって富海に上陸することにした。
 洋服を着たままでは当然あやしまれるので横浜で買った和服に着がえて姫島に上陸した。サトウたちイギリス側へ返事を持ってくるのは十一日後と約束して、二人は小舟に乗って富海へ向かった。

 その小舟が遠くへ去って行くのを、サトウと中沢はバロッサ号の船上で見送った。そして中沢はサトウに言った。
「おそらく長州藩はあの二人の首を斬ってしまうでしょう。私の見立みたてでは七割方、そうなると思います。残念ながら彼らと再会することはないでしょう」
 サトウは答えた。
「じゃあ私はあの二人が生きて帰ってくるほうにけよう。あの二人はきっと生きのびるよ。今ふところにある一分いちぶぎん、全部賭けてもいい」


 俊輔と聞多は富海に上陸して、それからすぐに三田尻の代官、かわ平馬へいまを訪問した。
 二人の姿を見て湯川は驚いた。二人は町人の姿をして大小の刀も差していなかったからだ。
 聞多は湯川に事情を話した。
「実は我々二人は外国の船に乗って江戸からやって来た。船は今、姫島にいる。だが戦争をしに来ている訳ではないので、こちらから手を出してはならぬ。我々二人は外国との調停のために山口へ行きたい。どうか手配を頼む」
「事情は承知した。しかし今、長州は攘夷一色だから調停は難しいだろう。婦女子でさえも敵の襲来しゅうらいに備えて薙刀なぎなたの訓練にはげんでいるぐらいだ。とにかく、二人が山口へ行けるよう通行手形を出す。それと、その風体ふうていでは怪し過ぎる。羽織はおりはかまと大小も貸そう」
 二人はすぐに着替えて、駕籠かごに乗って山口を目指した。前年下関で外国船を砲撃した場面で少し触れたが、この当時、藩主は萩の城から山口の政事堂せいじどうへ移っていた。

 長州はすでに京都へ向けて軍勢を出発させていた。
 俊輔と聞多が到着する十日ほど前に来島きじま又兵衛またべえ、福原越後えちご真木まき和泉いずみ、久坂玄瑞らの第一陣が出発した。その第一陣はちょうどこの頃、京都郊外に到着していた。さらに益田ますだ右衛門介うえもんのすけ国司くにし信濃しなのたちの第二陣が出発準備中で、その後、世子せいし定広さだひろの本隊が出発する計画となっていた。
 長州からすれば京都の幕府、諸藩しょはん連合軍は前門の虎で、下関の四ヶ国連合艦隊は後門の狼という状況であり、長州はまさに「最悪の正面しょうめん作戦」に突入しようとしていた。

 俊輔と聞多はこの日の夜遅く山口に入り、翌日から藩の上層部の説得を開始した。
 二人は上層部に外国、特にイギリスの事情を説明して「攘夷の不可」をいた。世界地図を見せて海外の情勢を説明し、イギリスの海軍力も説明した。
 実は藩の上層部も外国艦隊の襲来を知らなかった訳ではない。
 すでに長崎から「四ヶ国艦隊が下関を攻めるかもしれない」という情報が入っていたのである。今回、俊輔と聞多が持ってきた情報によって、いよいよそれが事実であったと思い知らされる形となった。
 けれども、俊輔と聞多が覚悟していた通り、藩の上層部で二人に賛成する者は誰もいなかった。

 この頃の長州藩は骨のずいまで「尊王攘夷」一色であった。
 そもそも藩内では「いわゆる正義派」と呼ばれる尊王攘夷色の強い急進派と、「いわゆる俗論派ぞくろんは」と呼ばれる穏健派おんけんはの対立があり、この頃は「いわゆる正義派」が藩の実権を握っていた。
 彼ら正義派からすれば尊王攘夷の方針を捨てるということは俗論派ぞくろんはの方針を認めることになる。今さらそんなことが彼らにできる訳がなかった。彼らの意見は「たとえ長州全土が焦土しょうどしても攘夷をやるのだ」というものであった。
 それでも俊輔と聞多は説得をくり返し、聞多はその日のうちに藩主慶親よしちか御前ごぜんで意見を具申ぐしんすることができた。そして翌日には俊輔も一緒に御前会議に出席した。

 結局のところ、俊輔と聞多は、サトウと一緒に翻訳した通告書を御前会議に提出しなかった。
 いや、提出できなかったと言うべきだろう。藩内の攘夷色があまりに強すぎて、四カ国側の強硬な意見を開陳かいちんすることがはばかられたのだ。この強硬な通告書を見せればかえって藩内の人々は逆上ぎゃくじょうするであろうし、さらに言えば、二人がイギリスの手先てさきとして見られる可能性もある。そう判断して、二人は提出しなかったのだ。
 しかしこの通告書を提出しなかったにもかかわらず、結局二人は藩内の攘夷派から「売国奴ばいこくど」と呼ばれ、命を狙われることになった。もし通告書を提出していたら二人はたちまち殺されていたであろう。


 同じ頃、サトウは姫島に上陸して島の様子を観察していた。
 当時姫島では製塩せいえん業が盛んだったようで、サトウの日記にはそのことが記されている。サトウが食料を調達するために住民と交渉してみたところ、魚はたくさん売ってくれたものの家畜かちく、特に牛の購入は強く拒絶された。当時の日本人の感覚では牛などの家畜は家族同然に扱っていたので、それもまあ当然の反応だろう。
 その後サトウが乗船していたバロッサ号と僚艦のコーモラント号は、この遠征の主目的である下関海峡の偵察に向かった。そして下関対岸の小倉藩領の田野たのうらから、長州が配備した砲台群を偵察した。
 このとき下関の砲台は、前年にフランス、オランダ、アメリカと戦った時よりも格段に増強されていた。
 特に主力の前田砲台が強化され、ここには20門の大砲を配備していた。長州藩が下関海峡全体に配備した大砲は120門にも及んでいた。
 バロッサ号とコーモラント号が下関海峡にあらわれると長州側は信号弾をあげて警戒態勢に入った。さらに砲台から二隻へ向けて砲弾も発射された。もっとも、二隻は長州砲台の射程圏外から偵察していたので、砲弾はかなり手前に着弾しただけだった。

 下関海峡の偵察から姫島に戻ったサトウは再び島内を散策した。そして神社の近くで四人の武士と出会った。
(この連中は間違いなく攘夷派だろう。見るからに憎たらしい表情でこちらをにらんでいる)
 サトウは武士たちの表情から一瞬でそのように感じ取ったが、一応丁寧に話しかけてみた。
「こんにちは。どちらから来られたのですか?」
「遠くからだ」
 彼らの内の一人が、そうてるように答えただけで、彼らはサトウが船に戻るまでずっとサトウのことをにらみ続けていた。彼らは豊後ぶんごから島へ渡って来た武士だったようで、イギリス人たちの様子を調べに来た攘夷派の武士だった。
 サトウは「見るのもいやなくらい悪党ヅラだった」と感想を書き残している。


 それから数日後の七月五日、俊輔と聞多は夜になってから人目を避けるように小舟に乗り、姫島のバロッサ号へ向かった。
 二人は沈痛ちんつう面持おももちで暗い夜の海を進んだ。

 無論、藩の回答は「通告を拒絶する」というものだった。
 それもただの拒絶ではなくて「三ヶ月延期して欲しい」というもので、しかも「三ヶ月延期できないのであれば仕方がない。一戦いっせんお相手する」という回答だった。
 聞多は藩の重役に激怒げきどした。なにしろのちに「かみなりじじい」とあだ名される男である。
「戦争準備に三ヶ月かかるので待ってくださいなどと、こんな理不尽りふじんな回答をイギリスへ伝えられるものか! とても人のかわをかぶって言える言葉ではない!」
 ただし一応この「三ヶ月延期して欲しい」というのにも理由はある。長州側の言い分としては
「長州が外国船を砲撃したのは朝廷と幕府から攘夷実行を命じられたからである。それで今回の通告についても朝廷と幕府に確認する必要があるので、三ヶ月延期して欲しい」
 というものであった。

 しかしそうは言っても、所詮イギリスからすれば日本の国内事情など意にかいするところではなく、結局は「長州が下関での外国船砲撃をやめるのか、やめないのか」関心があるのはそこだけなのである。このような長州側の理屈が通用するはずがなかった。
 俊輔は、聞多が藩の重役を散々にののしっているのを見て、聞多をなだめた。
「確かにお主の言う通りだが、我々は死を決してロンドンから戻ってきたのではないか。たとえどのような返事であっても、それをサトウさんに伝える義務がワシらにはあるだろう」
 俊輔からそう言われて聞多も渋々しぶしぶバロッサ号へ向かうことに同意したのだった。

 船室にいたサトウは、俊輔と聞多が生きて帰って来たことを聞いて、急いで二人のもとへ駆けつけた。
「伊藤さん、井上さん、よく戻って来ました。我々はあなたたちが死んだと思って、明日横浜へ帰るつもりだったのですよ」
 俊輔は力なく微笑ほほえんで答えた。
「生きて戻りはしたが、そちらが期待する回答とは程遠ほどとおいものだ……」
「とにかく、詳しい話は艦長室で聞きます」
 サトウは二人をダウエル艦長のところへ連れて行った。

 そして二人は艦長とサトウの前で長州藩の回答を述べた。ただし「三ヶ月延期できないのであれば仕方がない。一戦いっせんお相手する」という部分は言わなかった。
 回答を聞いた艦長は二人にただした。
「その回答を文書で持ってきてないのか?それは日本の習慣なのか?」
 これに聞多が答えた。
「朝廷と幕府に確認して最終的な回答を渡すまでは、藩主は文書で回答するつもりはない、とのことである」
「四ヶ国はこのような回答に満足するはずがない。藩主へそのように伝えなさい」
「朝廷と将軍からの攘夷実行の命令書を横浜へ送っても良いか?」
「どうしようと藩主の自由である」
 会談は以上で終了した。

 この会談を通訳したサトウは、この日の議事録ぎじろくで次のように書いている。
「二人の答えを聞いていると、本来の藩主の答えはもっと強硬な内容だったのではないか?と私には思えてならない」
 どうやらサトウには長州の本音が見えていたようである。
 このあと二人が船を去る前に、サトウは二人と少しだけ話をした。
 俊輔はサトウに長州藩の事情を説明した。
「もともと藩主は外国人に好意をよせていたのだが、今では攘夷に深入りし過ぎて取り返しがつかなくなってしまったのだ。このままいけば、おそらく戦争は避けられないだろう」
 俊輔は続けて言った。
「イギリスや諸外国は将軍を見限って大坂湾へ行き、直接朝廷を相手にしたほうが良い。我々が幕府を批判するのは幕府が横浜や長崎といった貿易港を独占しているからだ。これは我々だけではなくて多くの日本人がそう思っているのだ」

 そして俊輔と聞多はバロッサ号から去って行った。
 サトウはバロッサ号の船上から二人を見送った。後年サトウは次のように手記で語っている。
「これは私が反大君タイクン(将軍)派の人々と腹蔵ふくぞうなく話し合った最初の機会であった。伊藤たちは夜のうちに再び去って行った。ヨーロッパからわざわざ帰って来て藩主を説得できなかった二人は大変気の毒だったが、どうしようもなかった」


 七月九日、横浜に戻って来たサトウはオールコックに交渉の経緯を報告した。
 報告を聞いたオールコックはさっそく四ヶ国艦隊を下関へ派遣する手続きに取りかかった。
 英仏蘭米の四ヶ国代表は協議して「下関の砲台を破壊して、下関海峡の通航を確保する」という覚書おぼえがきを作成した。
 この頃フランスの公使はベルクールからロッシュに変わっていた。
 ロッシュはこの年の三月、日本に着任した。以後、フランスは幕府寄りの姿勢を強めていくことになる。ちなみにオランダ代表は前年下関で砲撃をくらったポルスブルック総領事で、アメリカ代表はプリュイン公使である。もっともアメリカは南北戦争の都合もあって、商船一隻しか四ヶ国艦隊に参加させられなかった。

 七月十八日、四ヶ国代表は幕府高官に連合艦隊の出発を通告するため、横浜で会談をおこなった。
 実際のところ、四ヶ国代表、特にオールコックと幕府との間で下関遠征について話し合うのはこれが初めてではなく、ここ数ケ月、何度も話し合われてきた。そして幕府はその都度つど、次のように答えていた。
「四ヶ国が長州を征伐しようとする気持ちはわかるが、長州の処分は幕府がやるので外国が手を出すのは控えてもらいたい」
 「内政ないせい不干渉ふかんしょう」という一般的な通念から見ても、幕府の回答はもっともであるように見える。ただし、この幕府の回答が一筋ひとすじなわでいかないのは、幕府は「長州の処分は幕府がやる」と言いつつも実際幕府は実力をもって長州を処分するつもりはなく、とにかく「様子を見る」=「何もしない」というのが幕府の基本方針なのである(実際に長州に手を出して痛い目にうのは、もっと先の話である)。
 確かに幕府が長州に実力行使をした場合、国内で内戦を引き起こす恐れもある。また「長州は幕府にわって外国船を砲撃している」という見方も日本人の間では強かったので、その長州を幕府が攻めるとなるとそういった人々からの批判を招く恐れもある。
 そして一番大きな理由は、幕府には長州を処分できるだけの軍事力が無かった、ということだった。
 それゆえ、幕府は「様子を見る」=「何もしない」という方針を堅持けんじしていた。四ヶ国艦隊の下関遠征についても反対意見は述べるものの、別にそれを実力で阻止するつもりもない。
 オールコックは「幕府は長州に対して何もする気がない」ということを見抜いていた。
 だからこそ自分たちの手で長州を征伐する気になったのである。


 ところが、この幕府との会談をおこなっている最中に思わぬ連絡が届いた。
 横浜鎖港談判のためにヨーロッパへ行っていた「池田使節」が、この時ちょうど横浜へ帰ってきたのである。

 慶喜が「池田使節が三、四年海外を回っている間に、人心も落ち着くだろう」と見込んで送り出したのに、あにはからんや彼らはたった半年で帰って来てしまったのだった。
 しかも彼らは横浜鎖港を英仏に要求するどころか、上海でオールコックに説教され、フランスではフランス政府に説教され、結局西洋人の「自由貿易主義」に感化されてしまい、フランス政府と貿易拡大を認めるような条約を結び、さらに「フランス艦隊の力を借りて下関を叩く」という条約も結んでしまった。
 この辺りの事情は使節に参加した田辺太一たいちの『幕末外交談』に詳しいが、田辺は当時をふり返って
「恥ずかしさもきわまって、思わず背中一面に汗がにじみ、涙がとめどなく流れてくる」
 と述べている。フランス政府の口車くちぐるまに乗せられたことをやんでの発言と思われる。そして彼らはイギリスへは行くことなく、そのまま日本へ帰って来たのであった。

 もしこのフランスとの条約を幕府が認めれば(批准ひじゅんすれば)フランスはオールコックが計画した四ヶ国連合艦隊から外れることになり、計画は白紙になってしまう。
 オールコックの下関遠征の計画は、俊輔と聞多の帰国によって一度延期され、今度は池田使節の帰国によって二度目の延期に直面したのである。

 しかしながら七月二十四日、幕府は池田使節が結んできたフランスとの条約を破棄すると四ヶ国に伝え、その数日後、下関へ向かう英仏蘭米の四ヶ国艦隊は横浜を出発することになったのである。
 ちなみにこの一ヵ月前にイギリスのラッセル外相はオールコックから下関遠征の計画を知らされ、オールコックに対して「下関遠征の中止」を命令していた。
 日英の全面戦争になる可能性が、ないとは言えなかったからである。
 しかしこの物語で何度か書いているように当時日本とヨーロッパの移動には約二ヶ月かかったので「下関遠征の中止」の命令はまだオールコックの手元に届いていなかった。それが届くのは一ヵ月後のことである。
 もし俊輔たちの帰国や池田使節の帰国のような延期案件がもっと重なっていれば、四ヶ国艦隊の出発前にラッセル外相からの「下関遠征の中止」命令が横浜に届き、下関遠征は中止になっていただろう。
 
 遠征が計画通り実行されたのは偶然ぐうぜん産物さんぶつと言って良く、オールコックにとっては幸運であり、長州にとっては不運であったと言える。
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