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第四章・イギリス
第24話 長州ファイブ(中編)
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俊輔たち五人がロンドンへ渡っている最中に、日本では大きな政変が起こっていた。
いわゆる「八月十八日の政変」である。
ものすごく簡単に言ってしまえば
「京都で日の出の勢いだった長州藩が、中川宮(朝彦親王)の支持と孝明天皇の承認を得た会津・薩摩両藩によって京都から追放されたクーデター事件」
ということである。
この政変には俊輔もサトウもまったく関係していないので、実際のところこれだけの説明で終わらせてしまっても構わないのだが、それだとあまりにも味気ないので多少解説を入れておきたいと思う。
この政変が起こる直前に京都の尊王攘夷派は「大和行幸」を計画していた。
この物語では以前、この数ヶ月前にあった「賀茂社行幸」と「石清水八幡行幸」のことは書いた。今回の「大和行幸」もその延長線上にあるとは言えるが、今回の行幸はその目的がまったく違う。
以前の二つは天皇による「攘夷祈願」が目的だった。しかし今回の行幸は天皇による「攘夷親征」が目的だったのである。天皇の軍として攘夷戦争をやる、ということである。しかもこの計画には「錦旗」を押し立てて幕府を討つ、という噂もあった。
孝明天皇は攘夷を望んではいるものの、討幕の意志などまったくない。
何よりも天皇の妹である和宮が将軍家茂に嫁いでいる。その幕府を天皇が討とうなどと考えるはずがない。
そこで薩摩藩と会津藩が手を結び、中川宮経由で孝明天皇の承認を得て、長州藩を御所から締め出すクーデターを起こした。
ただしあくまでクーデターの主兵力は会津藩である。この頃薩摩は薩英戦争との兼ね合いもあり京都にあまり兵を置いていなかった。まあ意地の悪い言い方をすると「薩摩藩が会津藩を上手くそそのかした」とも言えるだろう。とにかくこれで、長州藩の憎しみは会津藩へ向かうことになった(もちろん薩摩藩も憎しみの対象ではあるのだが)。
長州藩と真木和泉を筆頭にした尊王攘夷派は、すんなりと引き下がった訳ではない。このとき両者の兵力にそれほど差はなかった。桂小五郎や久坂玄瑞などは主戦論を唱えた。
「我々の独断で戦ったことにすれば良い。国元の君公(藩主慶親)に迷惑が及ばないのであれば、仮に負けても害は少ないではないか」
しかしこの主戦論を長州藩の支藩、岩国藩の藩主・吉川監物が止めた。
「一時の激情で藩を朝敵にしてはならん!」
この岩国の吉川家のルーツをたどると、関ヶ原の戦いの際に家康本陣背後の南宮山でお昼ご飯を食べてて戦いに参加しなかった吉川広家に繋がる家系だが、そんな余談はここでは割愛するとして、とにかくこの吉川監物の判断によって長州勢は国元に引き揚げることになった。
いわゆる「雨の中の七卿落ち」で有名な都落ちの場面が、まさしくそれである。
このことによって、「大和行幸」をくわだてた一派は吉野の山中で壊滅した(天誅組の変)。さらにその二ヶ月後には但馬の生野(兵庫県朝来市生野町)でも討幕挙兵の事件が起きたが、それもむなしく鎮圧されている(生野の変)。
ともかくも、こうして京都では長州の力が後退し、結果的に幕府が力を取り戻すことになった。
九月二十八日(11月9日)、横浜のイギリス公使館で薩英戦争の戦後交渉が開始された。
薩摩藩からは数人の使者がやって来たが主に談判役を担当したのは重野厚之丞(後の安繹)である。
イギリス側の代表はもちろんニール代理公使である。通訳は誰がやったのか不明だがおそらくサトウではなくてシーボルトが担当しただろう。ニールが代理公使在任中は主にシーボルトを通訳として重用していたようなので、まだ経験の浅いサトウはサブの扱いだっただろう。サトウが表舞台に出て来るのは、もうすぐ日本に戻ってくるオールコック公使が日本に到着してからのことになる。ちなみに、この交渉の席には幕府の役人も立ち会っていた。
この日の第一回会談と五日後の第二回会談は双方が主張を譲らず、お互い相手を批判するばかりで議論には何の進展もなかった。
ニールが重野に対して事の発端となった生麦事件の非を責めれば、重野は「日本では大名行列を妨げることは外国人といえども許されない」と答え、重野がニールに対して開戦の原因となった蒸気船三隻の拿捕を咎めれば、ニールは「元々開戦の意志などなく、ヨーロッパでは船を差し押さえて談判を求めることはよくある」と答えた。談判は終始そんな状態だった。
談判はもはや決裂寸前だった。
とはいえイギリス側には「再度、艦隊で鹿児島湾へ行くぞ」という脅しのカードがある。本音ではニールも再び戦争することは避けたいのだが、少なくとも脅しのカードにはなる。そのカードを使ってなんとか重野から妥協を引き出して、賠償金2万5千ポンド(10万ドル)を獲得しようとした。
十月五日(11月15日)の第三回会談で重野が意外な提案をした。
重野はニールに対して
「賠償金を支払う代わりに、イギリスに軍艦の購入を依頼したい」
と述べた。
最初ニールはこの提案の真意をはかりかねて「双方の関係が今のように険悪な状態では軍艦など売れない」と一旦は断ったが、その後「関係が良好な状態へ向かえば考える余地はある」と多少態度を軟化させた。
そこで重野は続けて
「軍艦の購入を依頼すること自体が関係改善を求めている証である」
と述べ、さらに航海訓練用のイギリス人教師の雇用およびイギリスへの留学生の派遣なども依頼した。
よくこんな話を幕府役人が立ち会っている目の前でやったものだと、その大胆さに驚かざるを得ない。とにかくこれ以降ニールと重野の交渉は順調に進みはじめ、とうとう妥結することになった。
ところが薩摩は「財政が苦しくイギリスに賠償金を支払えないので金を貸してもらいたい」と幕府に願い出た。
大久保一蔵が老中の板倉勝静のところへ重野たちを派遣して七万両(ほぼ賠償金の10万ドル分)を借りようとした。大久保は前年、勅使の大原重徳が江戸へ来た時も板倉に対して「脅し」を使って薩摩の要求を飲ませているが、どうやらこの時も切腹するだのイギリス人を斬るだのと「脅し」を使って板倉から七万両を引き出したらしい。
そして十一月一日(12月11日)、薩摩は幕府から借りた金でイギリスに10万ドルを支払った。
ただし支払い名義は薩摩本藩ではなくて同じ島津氏支族の佐土原藩の名義で支払った。薩摩藩内は無論のこと、藩外でもイギリスに対して賠償金を支払うことには反感を持つ者が多く、これだけイギリスとの交渉に尽力した重野でさえ攘夷派から命を狙われるという有り様だった。
ちなみにもう一つのイギリス側の要求だった生麦事件の犯人の処刑については「犯人捜査中」ということでウヤムヤのまま消滅した。
後年サトウは次のように手記で語っている。
「薩摩はイギリスに賠償金を支払った。ただし薩摩が大君(幕府)の国庫からこの金を借用したことは言っておくべきだろう。しかも私はその後、その借金が返されたという話を聞いたことがない」
そのサトウ自身はこの頃「日本に残るべきか、日本を去るべきか」悩んでいた。
この時サトウは二十歳である。
日本に来てから一年ちょっとが過ぎた頃である。
まず悩みの第一は仕事についてであった。
サトウは自分の日本語能力にかなり自信をつけてきていた。しかし相変わらず身分は通訳生のままだった。彼は思い切ってニール代理公使に昇進願いを提出した。この願いは本国外務省にも連絡が行き、今は返事待ちの状態である。
もしこれで昇進できなかった場合、日本を去るべきかどうか。彼はこのことをロンドンの父に手紙で相談した。10月15日(九月三日)のことである。
やがて12月10日(十月三十日)付けで父から返事が届いた(おそらく受け取ったのはこの日付の二ヶ月後ぐらいのことと思われる)。
「もしお前がイギリスに帰り法律を勉強するというのなら年額百ポンドを支援する」
父からの手紙には、そう書いてあった。
この時「日本語通訳生」としてのサトウの給料は年額二百ポンドだった。
この父からの申し出はサトウにとってかなり恵まれた話だったと言える。
思いもよらない恵まれた話を父からもらって、逆にサトウは困惑してしまった。
そしてサトウの第二の悩みは遠い将来についてであった。
もしイギリスへ帰れば、確約されたものではないにしろ、落ち着いて安定した生活を送ることができて、普通に結婚もしてきちんとした人生を送ることができるだろう。それにヨーロッパの文化、特に自分の大好きなヨーロッパの音楽を享受することもできる。
日本での乱れた生活、不安定な身分、さらに戦争やテロに囲まれた危険な環境と比べれば、イギリスへ帰ったほうがどれだけ良いか分からない。
そんな訳でしばらくサトウは「日本に残るべきか、日本を去るべきか」悩んでいた。
そしてどちらかというと「日本を去る」という方向に傾きはじめ、イギリスの友人たちへもそういった手紙を書いたりした。
少し先の話になってしまうけれども、それでも結局サトウは日本に残ることを決めたのである。
もうしばらくするとオールコック公使が日本に戻ってくるのだが、そのオールコックがサトウの昇進を後押しすると確約したのだ。
ただしサトウは、それが自分の日本残留の決め手だったかどうか、自分でもよくわからないと日記に記している。
以下、本作品の主要参考文献である萩原延壽先生の『遠い崖』2巻 (朝日新聞社)よりそのまま引用する。
「昇進の望みがひらけたことが、その理由のすべてであったかどうか、自分にもよくわからない。というのは、昇進は、けっきょく、小さな慰めでしかないのだから」
「おそらく、いっそう大きな理由は、日本を去り、あの退屈な故国イギリスにかえることは、わたしの人生の真の幸福を破壊し、過去二年半の間に、わたしがつちかってきたすべての絆を断ち切ることになる、と自分で感じたためである」
「友情の絆ばかりではなく、日本という国、日本語、そして日本人にたいする愛着を断ち切ることになるからである」
「いまや、歩むべき道をきめたのだから、あくまでもそれをつらぬき、すぐれた日本学者の地位を得るようつとめなければならない。というのは、日本語を十分に知ることが、わたしの目的であり、わたしの努力のすべては、その目標にむけられているのだから」
「もはや、ヨーロッパの本を、わたしがひもとくことは、めったにない。そして、しだいに、わたしが身につけているヨーロッパの古典についての知識は、色あせたものになってゆく。それだけに、報われるものが大きいことを、わたしはねがっている」(以上、引用終了)
こうして、サトウは日本に残留することを決めたのである。
さて、この頃日本国内の政局では「横浜鎖港」問題が大きく取り上げられるようになっていた。「鎖港」とは横浜の港を閉じるということをさす。
言ってしまえばこれも“攘夷”の一種ではあるのだが、この頃になると全面的な“攘夷”を掲げるというよりも、この横浜鎖港の話が“攘夷”の主要課題になってしまっていたのである。
以前に書いた清河八郎の横浜襲撃計画も、さらにちょうどこのころ武州榛沢郡血洗島村(現、埼玉県深谷市)の渋沢栄一が、その一族とくわだてた横浜襲撃計画も、まさにその一環であった。要するに「横浜から異人を追い出す」というのがその目的だった訳である。
余談ながら、渋沢栄一が横浜襲撃計画を進めていたこの頃、その隣郡、武州幡羅郡の下奈良村(現、埼玉県熊谷市)には後に「東の渋沢・西の五代」と並び称される五代才助(友厚)が清水卯三郎の手引きによって潜伏していた。ただし結局渋沢たちによる横浜襲撃計画は実行されずに消滅し、渋沢はとりあえず京都へ逃れることになる。そして江戸で知遇を得ていた一橋家の家臣、平岡円四郎からの勧めで一橋家に仕官することになるのであるが、これは本作品とは関係の無い話である。
とにかく、幕府としては長崎、箱館(函館)はそのままにして手を付けず、とりあえず横浜鎖港さえ唱えていれば「攘夷をやっているフリができる」という腹積もりであった。
しかしながら横浜は当時日本最大の貿易港だった。
輸出の八割以上、輸入の六割を横浜が占めていたのである。その輸出の大半は生糸だった。幕府は生糸貿易の統制を強めて(詳細は割愛するがこの数年前に発令した「五品江戸廻送令」などを強化して)横浜の貿易に圧力をかけはじめていた。もちろんイギリスはこの圧力に激しく反発した。なにしろイギリスは横浜の貿易総額の八割を占めていたのだから当然の反応と言えよう。
それにしても不思議なのは、本来幕府の政策は開国であり、以前書いたように慶喜も開国派だった。
「八月十八日の政変」によって幕府が力を取り戻しつつあるこのタイミングであれば、これまで長州が唱えていた攘夷を完全に放棄して、幕府が開国路線を明確に打ち出しても良さそうなものである。
けれども幕府中枢も慶喜も、そうはしなかった。
慶喜の伝記などを見ると
「自分はこの際だから開国の路線に切り替えれば良いではないか?と幕府中枢に進言したところ、以前は長州の攘夷に振り回され、今度は薩摩の開国に振り回されるということになれば幕府の立場がない。薩摩が開国を唱える以上は幕府は攘夷をとるべきだ、と幕府中枢から言われ、将軍(家茂)もそれに同意した。だから自分も攘夷(横浜鎖港)に同意したのだ」
ということらしい。
だからこそ、慶喜は中川宮邸で島津久光ら参与三人を相手にわざと酔っ払って
「この三人は天下の大愚物、天下の大奸物でござる!」
とクダをまいて参与会議をぶち壊した、ということらしい。
ただしこの見方には異論もある。岡山藩主の池田茂政、鳥取藩主の池田慶徳などは徳川斉昭の息子で尊王攘夷の色が強く、しかもこの二人は慶喜の兄弟でもあった。慶喜は藩主ではなく、ただの一橋家の当主なので藩兵による力の後ろ盾がない。だから慶喜は彼ら兄弟の後ろ盾を得るために攘夷へと走った、という異論である。
ただ、いずれにせよ将軍家茂が孝明天皇との関係 (家茂の御台所である和宮のことも含めて)を配慮して攘夷を重視したのだろうから、どのみち幕府は急な開国路線への変更は出来なかったということだろう。
幕府はこの横浜鎖港をイギリス、フランスなどの本国政府と談判するため再び遣欧使節を送ることにした。
いわゆる「池田使節団」である。
スフィンクスの前で侍たちが写っている有名な写真があるが、あれがこの使節団の時に撮った写真である。
使節の代表は外国奉行の池田長発(筑後守)で、この使節には福地源一郎の兄貴分である田辺太一も参加している。
ところで、「横浜を閉ざす」などという話が外国に通用するはずがない、ということは当然幕府も分かっている。
先ほど慶喜が酔っ払って久光に暴言を吐いたやり取りのことを書いたが、それとちょうど同じ頃のエピソードとして次のようなやり取りもあった。
久光は、幕府は横浜鎖港政策を止めるべきだ、と慶喜に意見した。
「横浜鎖港の談判使節を欧州に派遣するのは止めるべきだと私は思います」
これに慶喜が答えた。
「あなたの話はもっともですが、横浜だけでも閉ざさなければ人心がおさまりません」
「横浜を閉ざす費用はどれぐらいかかりますか?」
「多分、数百万両はかかるでしょう」
「そのような大金を横浜鎖港に使うぐらいなら軍備増強に使ったほうが良いではないですか」
「もう出発してしまったのですから今さら呼び戻せません」
「急いで連絡すれば遅すぎるということはないでしょう。今すぐでも呼び戻すべきです」
「談判の成否など問題ではありません。欧州は遠いのです。使節が帰ってくるのは三、四年先のことです。その頃になれば人心も落ち着いているでしょう」
「それは実に姑息な手段と言わざるを得ません」
要するに、前述したように幕府としては「攘夷をやっているフリ」ができれば、それで良いのである。
幕府は攘夷が不可能なことは分かっている。ただ、「欧州まで行って鎖港談判をやってこい。ただし本当に談判を成功させる必要はない」と命令された池田使節一行の心境は複雑だったであろう。
ちなみにこの使節の役目の中には、九月二日に横浜近郊の井土ヶ谷村で起きたフランス人士官殺害事件の謝罪および賠償交渉の任務も含まれていた。
十二月二十九日、彼ら35名の使節団はフランス軍艦ル・モンジュ号に乗って横浜を出発した。
使節団は一月上旬に上海に到着し、そこで日本に帰任する途中だったイギリスのオールコック公使と出会った。
オールコックは使節団から欧州行きの目的を聞き、厳しく反論した。
「もしイギリス政府に対してそのような談判をおこなったらイギリスはそれを挑戦と捉えるだろう。これは両国間の親交を保持するものではなく、かえって戦争の機会を促進するものである。私が再び日本へ赴くのは、横浜の鎖港なんぞは論外で、かつてロンドンで調印した開市開港延期の取り決めを廃止して、すぐにでも開市開港を要求するためである」
この中の「ロンドンで調印した開市開港延期の取り決め」というのは以前触れた「ロンドン覚書」のことで、竹内使節がロンドンで江戸・大坂・兵庫・新潟の開市開港を1868年1月1日まで延期するよう約束した取り決めのことである。
この取り決めの中には
「日本が約束不履行の場合は即座に開市開港を要求できる」
との規定があったことも、その時に指摘しておいた。
だからこそ、オールコックは約束を破った日本に対して
「横浜を閉じるどころか、逆に江戸・大坂・兵庫・新潟を即座に開け!」
と要求している訳である。
池田や田辺たちの使節は出発していきなり、オールコックからきついお灸をすえられる形となった。
そのオールコックは翌文久四年一月二十四日(3月2日)、二年間の賜暇を終えて日本に帰任した。
そして彼の留守中に代理公使を務めていたニールは入れ替わるようにイギリスへ帰っていった。
サトウは後に語っている。
「公使館員はニールのために送別会を開いた。彼はその席上で部下として働いた人々に対して彼らの将来を予想した。私については『きっとイギリスの大学で日本語教師になっているだろう』と予想したが、これは今までのところ、まだ実現していない」
二年ぶりに帰って来たオールコックは日本の現状を詳しく調べ直し、攘夷の風潮がますます厳しくなっていることを痛感した。
そして彼は英仏蘭米の四ヶ国連合艦隊を下関へ派遣する意志を固めたのであった。
ちなみに文久四年二月二十日、甲子改元の慣例に従って元号が元治に改元された。
いわゆる「八月十八日の政変」である。
ものすごく簡単に言ってしまえば
「京都で日の出の勢いだった長州藩が、中川宮(朝彦親王)の支持と孝明天皇の承認を得た会津・薩摩両藩によって京都から追放されたクーデター事件」
ということである。
この政変には俊輔もサトウもまったく関係していないので、実際のところこれだけの説明で終わらせてしまっても構わないのだが、それだとあまりにも味気ないので多少解説を入れておきたいと思う。
この政変が起こる直前に京都の尊王攘夷派は「大和行幸」を計画していた。
この物語では以前、この数ヶ月前にあった「賀茂社行幸」と「石清水八幡行幸」のことは書いた。今回の「大和行幸」もその延長線上にあるとは言えるが、今回の行幸はその目的がまったく違う。
以前の二つは天皇による「攘夷祈願」が目的だった。しかし今回の行幸は天皇による「攘夷親征」が目的だったのである。天皇の軍として攘夷戦争をやる、ということである。しかもこの計画には「錦旗」を押し立てて幕府を討つ、という噂もあった。
孝明天皇は攘夷を望んではいるものの、討幕の意志などまったくない。
何よりも天皇の妹である和宮が将軍家茂に嫁いでいる。その幕府を天皇が討とうなどと考えるはずがない。
そこで薩摩藩と会津藩が手を結び、中川宮経由で孝明天皇の承認を得て、長州藩を御所から締め出すクーデターを起こした。
ただしあくまでクーデターの主兵力は会津藩である。この頃薩摩は薩英戦争との兼ね合いもあり京都にあまり兵を置いていなかった。まあ意地の悪い言い方をすると「薩摩藩が会津藩を上手くそそのかした」とも言えるだろう。とにかくこれで、長州藩の憎しみは会津藩へ向かうことになった(もちろん薩摩藩も憎しみの対象ではあるのだが)。
長州藩と真木和泉を筆頭にした尊王攘夷派は、すんなりと引き下がった訳ではない。このとき両者の兵力にそれほど差はなかった。桂小五郎や久坂玄瑞などは主戦論を唱えた。
「我々の独断で戦ったことにすれば良い。国元の君公(藩主慶親)に迷惑が及ばないのであれば、仮に負けても害は少ないではないか」
しかしこの主戦論を長州藩の支藩、岩国藩の藩主・吉川監物が止めた。
「一時の激情で藩を朝敵にしてはならん!」
この岩国の吉川家のルーツをたどると、関ヶ原の戦いの際に家康本陣背後の南宮山でお昼ご飯を食べてて戦いに参加しなかった吉川広家に繋がる家系だが、そんな余談はここでは割愛するとして、とにかくこの吉川監物の判断によって長州勢は国元に引き揚げることになった。
いわゆる「雨の中の七卿落ち」で有名な都落ちの場面が、まさしくそれである。
このことによって、「大和行幸」をくわだてた一派は吉野の山中で壊滅した(天誅組の変)。さらにその二ヶ月後には但馬の生野(兵庫県朝来市生野町)でも討幕挙兵の事件が起きたが、それもむなしく鎮圧されている(生野の変)。
ともかくも、こうして京都では長州の力が後退し、結果的に幕府が力を取り戻すことになった。
九月二十八日(11月9日)、横浜のイギリス公使館で薩英戦争の戦後交渉が開始された。
薩摩藩からは数人の使者がやって来たが主に談判役を担当したのは重野厚之丞(後の安繹)である。
イギリス側の代表はもちろんニール代理公使である。通訳は誰がやったのか不明だがおそらくサトウではなくてシーボルトが担当しただろう。ニールが代理公使在任中は主にシーボルトを通訳として重用していたようなので、まだ経験の浅いサトウはサブの扱いだっただろう。サトウが表舞台に出て来るのは、もうすぐ日本に戻ってくるオールコック公使が日本に到着してからのことになる。ちなみに、この交渉の席には幕府の役人も立ち会っていた。
この日の第一回会談と五日後の第二回会談は双方が主張を譲らず、お互い相手を批判するばかりで議論には何の進展もなかった。
ニールが重野に対して事の発端となった生麦事件の非を責めれば、重野は「日本では大名行列を妨げることは外国人といえども許されない」と答え、重野がニールに対して開戦の原因となった蒸気船三隻の拿捕を咎めれば、ニールは「元々開戦の意志などなく、ヨーロッパでは船を差し押さえて談判を求めることはよくある」と答えた。談判は終始そんな状態だった。
談判はもはや決裂寸前だった。
とはいえイギリス側には「再度、艦隊で鹿児島湾へ行くぞ」という脅しのカードがある。本音ではニールも再び戦争することは避けたいのだが、少なくとも脅しのカードにはなる。そのカードを使ってなんとか重野から妥協を引き出して、賠償金2万5千ポンド(10万ドル)を獲得しようとした。
十月五日(11月15日)の第三回会談で重野が意外な提案をした。
重野はニールに対して
「賠償金を支払う代わりに、イギリスに軍艦の購入を依頼したい」
と述べた。
最初ニールはこの提案の真意をはかりかねて「双方の関係が今のように険悪な状態では軍艦など売れない」と一旦は断ったが、その後「関係が良好な状態へ向かえば考える余地はある」と多少態度を軟化させた。
そこで重野は続けて
「軍艦の購入を依頼すること自体が関係改善を求めている証である」
と述べ、さらに航海訓練用のイギリス人教師の雇用およびイギリスへの留学生の派遣なども依頼した。
よくこんな話を幕府役人が立ち会っている目の前でやったものだと、その大胆さに驚かざるを得ない。とにかくこれ以降ニールと重野の交渉は順調に進みはじめ、とうとう妥結することになった。
ところが薩摩は「財政が苦しくイギリスに賠償金を支払えないので金を貸してもらいたい」と幕府に願い出た。
大久保一蔵が老中の板倉勝静のところへ重野たちを派遣して七万両(ほぼ賠償金の10万ドル分)を借りようとした。大久保は前年、勅使の大原重徳が江戸へ来た時も板倉に対して「脅し」を使って薩摩の要求を飲ませているが、どうやらこの時も切腹するだのイギリス人を斬るだのと「脅し」を使って板倉から七万両を引き出したらしい。
そして十一月一日(12月11日)、薩摩は幕府から借りた金でイギリスに10万ドルを支払った。
ただし支払い名義は薩摩本藩ではなくて同じ島津氏支族の佐土原藩の名義で支払った。薩摩藩内は無論のこと、藩外でもイギリスに対して賠償金を支払うことには反感を持つ者が多く、これだけイギリスとの交渉に尽力した重野でさえ攘夷派から命を狙われるという有り様だった。
ちなみにもう一つのイギリス側の要求だった生麦事件の犯人の処刑については「犯人捜査中」ということでウヤムヤのまま消滅した。
後年サトウは次のように手記で語っている。
「薩摩はイギリスに賠償金を支払った。ただし薩摩が大君(幕府)の国庫からこの金を借用したことは言っておくべきだろう。しかも私はその後、その借金が返されたという話を聞いたことがない」
そのサトウ自身はこの頃「日本に残るべきか、日本を去るべきか」悩んでいた。
この時サトウは二十歳である。
日本に来てから一年ちょっとが過ぎた頃である。
まず悩みの第一は仕事についてであった。
サトウは自分の日本語能力にかなり自信をつけてきていた。しかし相変わらず身分は通訳生のままだった。彼は思い切ってニール代理公使に昇進願いを提出した。この願いは本国外務省にも連絡が行き、今は返事待ちの状態である。
もしこれで昇進できなかった場合、日本を去るべきかどうか。彼はこのことをロンドンの父に手紙で相談した。10月15日(九月三日)のことである。
やがて12月10日(十月三十日)付けで父から返事が届いた(おそらく受け取ったのはこの日付の二ヶ月後ぐらいのことと思われる)。
「もしお前がイギリスに帰り法律を勉強するというのなら年額百ポンドを支援する」
父からの手紙には、そう書いてあった。
この時「日本語通訳生」としてのサトウの給料は年額二百ポンドだった。
この父からの申し出はサトウにとってかなり恵まれた話だったと言える。
思いもよらない恵まれた話を父からもらって、逆にサトウは困惑してしまった。
そしてサトウの第二の悩みは遠い将来についてであった。
もしイギリスへ帰れば、確約されたものではないにしろ、落ち着いて安定した生活を送ることができて、普通に結婚もしてきちんとした人生を送ることができるだろう。それにヨーロッパの文化、特に自分の大好きなヨーロッパの音楽を享受することもできる。
日本での乱れた生活、不安定な身分、さらに戦争やテロに囲まれた危険な環境と比べれば、イギリスへ帰ったほうがどれだけ良いか分からない。
そんな訳でしばらくサトウは「日本に残るべきか、日本を去るべきか」悩んでいた。
そしてどちらかというと「日本を去る」という方向に傾きはじめ、イギリスの友人たちへもそういった手紙を書いたりした。
少し先の話になってしまうけれども、それでも結局サトウは日本に残ることを決めたのである。
もうしばらくするとオールコック公使が日本に戻ってくるのだが、そのオールコックがサトウの昇進を後押しすると確約したのだ。
ただしサトウは、それが自分の日本残留の決め手だったかどうか、自分でもよくわからないと日記に記している。
以下、本作品の主要参考文献である萩原延壽先生の『遠い崖』2巻 (朝日新聞社)よりそのまま引用する。
「昇進の望みがひらけたことが、その理由のすべてであったかどうか、自分にもよくわからない。というのは、昇進は、けっきょく、小さな慰めでしかないのだから」
「おそらく、いっそう大きな理由は、日本を去り、あの退屈な故国イギリスにかえることは、わたしの人生の真の幸福を破壊し、過去二年半の間に、わたしがつちかってきたすべての絆を断ち切ることになる、と自分で感じたためである」
「友情の絆ばかりではなく、日本という国、日本語、そして日本人にたいする愛着を断ち切ることになるからである」
「いまや、歩むべき道をきめたのだから、あくまでもそれをつらぬき、すぐれた日本学者の地位を得るようつとめなければならない。というのは、日本語を十分に知ることが、わたしの目的であり、わたしの努力のすべては、その目標にむけられているのだから」
「もはや、ヨーロッパの本を、わたしがひもとくことは、めったにない。そして、しだいに、わたしが身につけているヨーロッパの古典についての知識は、色あせたものになってゆく。それだけに、報われるものが大きいことを、わたしはねがっている」(以上、引用終了)
こうして、サトウは日本に残留することを決めたのである。
さて、この頃日本国内の政局では「横浜鎖港」問題が大きく取り上げられるようになっていた。「鎖港」とは横浜の港を閉じるということをさす。
言ってしまえばこれも“攘夷”の一種ではあるのだが、この頃になると全面的な“攘夷”を掲げるというよりも、この横浜鎖港の話が“攘夷”の主要課題になってしまっていたのである。
以前に書いた清河八郎の横浜襲撃計画も、さらにちょうどこのころ武州榛沢郡血洗島村(現、埼玉県深谷市)の渋沢栄一が、その一族とくわだてた横浜襲撃計画も、まさにその一環であった。要するに「横浜から異人を追い出す」というのがその目的だった訳である。
余談ながら、渋沢栄一が横浜襲撃計画を進めていたこの頃、その隣郡、武州幡羅郡の下奈良村(現、埼玉県熊谷市)には後に「東の渋沢・西の五代」と並び称される五代才助(友厚)が清水卯三郎の手引きによって潜伏していた。ただし結局渋沢たちによる横浜襲撃計画は実行されずに消滅し、渋沢はとりあえず京都へ逃れることになる。そして江戸で知遇を得ていた一橋家の家臣、平岡円四郎からの勧めで一橋家に仕官することになるのであるが、これは本作品とは関係の無い話である。
とにかく、幕府としては長崎、箱館(函館)はそのままにして手を付けず、とりあえず横浜鎖港さえ唱えていれば「攘夷をやっているフリができる」という腹積もりであった。
しかしながら横浜は当時日本最大の貿易港だった。
輸出の八割以上、輸入の六割を横浜が占めていたのである。その輸出の大半は生糸だった。幕府は生糸貿易の統制を強めて(詳細は割愛するがこの数年前に発令した「五品江戸廻送令」などを強化して)横浜の貿易に圧力をかけはじめていた。もちろんイギリスはこの圧力に激しく反発した。なにしろイギリスは横浜の貿易総額の八割を占めていたのだから当然の反応と言えよう。
それにしても不思議なのは、本来幕府の政策は開国であり、以前書いたように慶喜も開国派だった。
「八月十八日の政変」によって幕府が力を取り戻しつつあるこのタイミングであれば、これまで長州が唱えていた攘夷を完全に放棄して、幕府が開国路線を明確に打ち出しても良さそうなものである。
けれども幕府中枢も慶喜も、そうはしなかった。
慶喜の伝記などを見ると
「自分はこの際だから開国の路線に切り替えれば良いではないか?と幕府中枢に進言したところ、以前は長州の攘夷に振り回され、今度は薩摩の開国に振り回されるということになれば幕府の立場がない。薩摩が開国を唱える以上は幕府は攘夷をとるべきだ、と幕府中枢から言われ、将軍(家茂)もそれに同意した。だから自分も攘夷(横浜鎖港)に同意したのだ」
ということらしい。
だからこそ、慶喜は中川宮邸で島津久光ら参与三人を相手にわざと酔っ払って
「この三人は天下の大愚物、天下の大奸物でござる!」
とクダをまいて参与会議をぶち壊した、ということらしい。
ただしこの見方には異論もある。岡山藩主の池田茂政、鳥取藩主の池田慶徳などは徳川斉昭の息子で尊王攘夷の色が強く、しかもこの二人は慶喜の兄弟でもあった。慶喜は藩主ではなく、ただの一橋家の当主なので藩兵による力の後ろ盾がない。だから慶喜は彼ら兄弟の後ろ盾を得るために攘夷へと走った、という異論である。
ただ、いずれにせよ将軍家茂が孝明天皇との関係 (家茂の御台所である和宮のことも含めて)を配慮して攘夷を重視したのだろうから、どのみち幕府は急な開国路線への変更は出来なかったということだろう。
幕府はこの横浜鎖港をイギリス、フランスなどの本国政府と談判するため再び遣欧使節を送ることにした。
いわゆる「池田使節団」である。
スフィンクスの前で侍たちが写っている有名な写真があるが、あれがこの使節団の時に撮った写真である。
使節の代表は外国奉行の池田長発(筑後守)で、この使節には福地源一郎の兄貴分である田辺太一も参加している。
ところで、「横浜を閉ざす」などという話が外国に通用するはずがない、ということは当然幕府も分かっている。
先ほど慶喜が酔っ払って久光に暴言を吐いたやり取りのことを書いたが、それとちょうど同じ頃のエピソードとして次のようなやり取りもあった。
久光は、幕府は横浜鎖港政策を止めるべきだ、と慶喜に意見した。
「横浜鎖港の談判使節を欧州に派遣するのは止めるべきだと私は思います」
これに慶喜が答えた。
「あなたの話はもっともですが、横浜だけでも閉ざさなければ人心がおさまりません」
「横浜を閉ざす費用はどれぐらいかかりますか?」
「多分、数百万両はかかるでしょう」
「そのような大金を横浜鎖港に使うぐらいなら軍備増強に使ったほうが良いではないですか」
「もう出発してしまったのですから今さら呼び戻せません」
「急いで連絡すれば遅すぎるということはないでしょう。今すぐでも呼び戻すべきです」
「談判の成否など問題ではありません。欧州は遠いのです。使節が帰ってくるのは三、四年先のことです。その頃になれば人心も落ち着いているでしょう」
「それは実に姑息な手段と言わざるを得ません」
要するに、前述したように幕府としては「攘夷をやっているフリ」ができれば、それで良いのである。
幕府は攘夷が不可能なことは分かっている。ただ、「欧州まで行って鎖港談判をやってこい。ただし本当に談判を成功させる必要はない」と命令された池田使節一行の心境は複雑だったであろう。
ちなみにこの使節の役目の中には、九月二日に横浜近郊の井土ヶ谷村で起きたフランス人士官殺害事件の謝罪および賠償交渉の任務も含まれていた。
十二月二十九日、彼ら35名の使節団はフランス軍艦ル・モンジュ号に乗って横浜を出発した。
使節団は一月上旬に上海に到着し、そこで日本に帰任する途中だったイギリスのオールコック公使と出会った。
オールコックは使節団から欧州行きの目的を聞き、厳しく反論した。
「もしイギリス政府に対してそのような談判をおこなったらイギリスはそれを挑戦と捉えるだろう。これは両国間の親交を保持するものではなく、かえって戦争の機会を促進するものである。私が再び日本へ赴くのは、横浜の鎖港なんぞは論外で、かつてロンドンで調印した開市開港延期の取り決めを廃止して、すぐにでも開市開港を要求するためである」
この中の「ロンドンで調印した開市開港延期の取り決め」というのは以前触れた「ロンドン覚書」のことで、竹内使節がロンドンで江戸・大坂・兵庫・新潟の開市開港を1868年1月1日まで延期するよう約束した取り決めのことである。
この取り決めの中には
「日本が約束不履行の場合は即座に開市開港を要求できる」
との規定があったことも、その時に指摘しておいた。
だからこそ、オールコックは約束を破った日本に対して
「横浜を閉じるどころか、逆に江戸・大坂・兵庫・新潟を即座に開け!」
と要求している訳である。
池田や田辺たちの使節は出発していきなり、オールコックからきついお灸をすえられる形となった。
そのオールコックは翌文久四年一月二十四日(3月2日)、二年間の賜暇を終えて日本に帰任した。
そして彼の留守中に代理公使を務めていたニールは入れ替わるようにイギリスへ帰っていった。
サトウは後に語っている。
「公使館員はニールのために送別会を開いた。彼はその席上で部下として働いた人々に対して彼らの将来を予想した。私については『きっとイギリスの大学で日本語教師になっているだろう』と予想したが、これは今までのところ、まだ実現していない」
二年ぶりに帰って来たオールコックは日本の現状を詳しく調べ直し、攘夷の風潮がますます厳しくなっていることを痛感した。
そして彼は英仏蘭米の四ヶ国連合艦隊を下関へ派遣する意志を固めたのであった。
ちなみに文久四年二月二十日、甲子改元の慣例に従って元号が元治に改元された。
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