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第四章・イギリス
第22話 薩英戦争(後編)
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蒸気船三隻を拿捕することに成功したアーガス号たち別働隊は、このあと拿捕した船を牽引して本隊のところへ帰還した。
ニールは満足そうにキューパー提督に語りかけた。
「無事、薩摩の蒸気船を拿捕できて良かったですな、提督」
「うむ。これで薩摩も我々に歩み寄って来るだろう」
「ええ。しばらくすれば薩摩から交渉の使者がやって来るでしょう」
「なんならこのまま戦利品として横浜へ持ち帰って、改めて薩摩の出方を待っても良いんだがな。ハハハ」
当時イギリス海軍では船を分捕った場合、その価値(この場合は30万ドル)に応じて軍人は賞金(ボーナス)がもらえたと、サトウの手記には書かれている。
この時キューパー提督の気分はまさに有頂天であった。
ところが、である。
逆にこの蒸気船三隻の拿捕をうけて、千眼寺の薩摩藩本営は開戦を決意したのであった。
薩摩藩の各砲台は数日前から応戦準備を整えており、砲撃命令を今か今かと待ち焦がれていた。
正午頃、天保山砲台に命令を伝えにいった大久保一蔵が「砲撃開始!」と言うが早いか、天保山砲台は即座に砲撃を開始した。そしてこの一発を口火にして、他の砲台も一斉に砲撃を開始した。
この時イギリス側はちょうどランチタイムだった。サトウとウィリスもランチを食べていた。
「何か今、大砲の音がしなかった?ウィリス」
「多分、正午の合図の号砲だろ」
同時にユーリアラス号の司令室でランチを食べていたニールとキューパー提督に「薩摩が砲撃を開始した」との連絡が入った。
二人は食べてた食事を噴き出しそうになるぐらい驚いた。
イギリス艦隊は念のため砲台から離れた位置に停泊していた。しかし旗艦ユーリアラス号だけは射程圏内に入っていた。それでも最初は照準が合わず砲弾は届かなかったが薩摩側は徐々に照準を修正して、少しずつユーリアラス号の近くに着弾するようになった。
またパーシュース号も桜島の袴腰砲台のすぐ近くにいた。イギリス側はそこに砲台があることに気がついていなかったのだ。不意を突かれたパーシュース号は錨を上げる余裕もなく、錨の鎖を切断して緊急退避した。
ニールとキューパー提督は困惑していた。
そもそも横浜出発の当初から「薩摩が攻撃してくる」ということをまったく想定していなかったのである。
ユーリアラス号のジョスリング艦長がキューパー提督に急いで反撃するよう進言した。
「提督!こうなった以上、薩摩を壊滅させるしかありませんよ!」
「うーん……」
キューパー提督はまだ迷っている。
そこへニールもキューパー提督に急いで反撃するよう促した。
「提督!何をためらってるんですか!艦長の言う通り、薩摩を叩きましょう!」
「しかし、そうなると拿捕した蒸気船三隻が足手まといになる……」
「焼却処分するしかないでしょう。戦闘の邪魔ですから」
「うーん……」
せっかくの戦利品を焼却するのは惜しかったが、結局キューパー提督は、サトウが乗っているアーガス号など三隻に拿捕した蒸気船の焼却処分を命じた。
焼却命令を受けたアーガス号の水兵たちは、さっそく船内の付属物の掠奪を開始した。
サトウもこれに便乗した。どうせ焼いてしまうのだから、良く言えば「有効活用」といった気持ちもあったろう(悪く言えば文字通り、火事場泥棒だが)。
彼らは武器、甲冑、酒、調度品などを奪い去った。運良く一分銀など現金をせしめた者もいた。サトウは陣笠と火縄銃を手に入れた。
後にサトウは語っている。
「砲弾の下にさらされると異常な興奮を覚えるものだが、荒れ狂う天候がいっそう人々の心を揺さぶった」
そういった掠奪活動が一時間ほど続き、その後、船底に穴をあけて火を放った。
総額30万ドルという賠償金の三倍の金額で薩摩藩が購入した三隻の蒸気船は、こうして海の藻屑と消えたのである。
この間、イギリス艦隊の本隊がどうしていたのか?というと、実はあまり反撃できていなかった。
旗艦ユーリアラス号の戦闘準備が二時間遅れたためである。
その原因は、これはサトウの手記が引用元となって広く知れ渡っている話だが、幕府から支払われた生麦賠償金の十数万ドルが弾薬庫の前に山積みされていて、戦闘の邪魔をしていたからだった。この事は、ニールやキューパー提督が薩摩との戦争をまったく想定してなかったことを裏付けていると言えよう。
午後二時、イギリス艦隊はようやく本格的に反撃を開始した。
旗艦ユーリアラス号を先頭に単縦陣を組んで、湾の北側にある祇園之洲砲台へ攻撃に向かった。
艦隊から集中砲火を浴びた祇園之洲砲台はあっという間に壊滅した。
イギリス艦隊はそこから南下して、次の砲台へ攻撃に向かった。
ところが暴風雨の影響もあり、この時イギリス艦隊は薩摩側の射程圏内に入り込み過ぎていた。
まさにこの暴風雨は薩摩にとって「神風」と呼ぶべきものであったろう。
イギリス艦隊の行く手に待ち構えていた新波止、弁天波止、南波止、大門口、天保山の各砲台が、この時イギリス艦隊に集中砲火を浴びせた。
後年サトウは次のように手記で語っている。
「パッと立ち上がる砲煙の只中で、まず火炎の噴き出すのが見えて、それから奇妙な丸い真っ黒なものが我々めがけて一直線に飛んできた。その時の興味と興奮を私は決して忘れることができない。しかしその砲弾は、まさに私たちに命中するかと思った瞬間、いきなり空中高く飛び上がって頭上を通過したのである」
この時イギリス艦隊は旗艦ユーリアラス号を先頭にして進んでいたので、当然の如く、そのユーリアラス号に砲撃が集中した。
日本語文書を翻訳するためにユーリアラス号に乗っていた清水卯三郎は
「これは大将の船だから必ず最後尾を行くものと思いきや、真っ先に進んでいったので驚いた。砲煙に包まれて周囲が見えないと思っていた矢先に艦の砲門にガラリと弾丸が飛び込み炸裂して五、六人打ち倒れた。また来た弾丸が炸裂してキャプテンとコマンダーの二人が討ち取られた」
と手記で述べている。
「艦の砲門にガラリと弾丸が飛び込み」というのは右舷三番砲台への直撃弾のことで、「キャプテンとコマンダーの二人が」というのはキューパー提督のすぐ近くに立っていたジョスリング艦長とウィルモット副艦長が被弾して即死したことをさす。この時キューパー提督も軽傷を負った。さらに短艇付近への直撃弾で20数名が死傷した。
確かに砲撃による被害が集中したのは旗艦ユーリアラス号だったが、他の軍艦のほとんどが、程度の差こそあれ被害を受けた。
かたや薩摩側もイギリス艦隊の砲撃によってほとんどの砲台が使用不能に陥っていた。
この戦いで初めて実戦投入された、長射程で、しかも速射可能なイギリスのアームストロング砲が威力を発揮したのである。
ユーリアラス号は合計13門のアームストロング砲を搭載していたが、その内の1門は前部甲板に設置してあり、この戦いでも大いに活躍していた。
ところがそのアームストロング砲の尾栓が突如暴発を起こし、数名の砲手が負傷した。実戦初投入というアームストロング砲のリスクが、このとき表面化してしまったのだ。
すでに集中砲火を浴びて艦長・副艦長が戦死していた旗艦ユーリアラス号は、この暴発事故がダメ押しとなって戦闘を停止した。
同じ頃、戦列の後ろの方にいたレースホース号が祇園之洲砲台近くの浅瀬で座礁していた。祇園之洲砲台は真っ先に攻撃されて砲台は使用不能になっていたので、目の前に座礁しているレースホース号を攻撃することはできなかった。
このレースホース号を救出するためにサトウが乗ったアーガス号と、さらにコケット号が救援に向かった。アーガス号はレースホース号をロープで引っ張るために、ボートを降ろしてロープを繋ぎに行かせた。
サトウはそれを心配そうに船の上から見守った。
(この嵐の中、ボートであそこまでたどり着けるんだろうか?)
薩摩の砲台は壊滅していたとはいえ、ごく一部発射可能な大砲があり、それが時々サトウたちのアーガス号めがけて砲撃をおこなった。その内の数発がアーガス号のマストと舷側を直撃してサトウは「うわっ!」と驚いた。しかし幸い大事には至らなかった。
そしてついに、アーガス号がロープで引っ張ってレースホース号は離礁に成功した。
その後もイギリス艦隊の一部は攻撃を続行して磯の集成館工場群を砲撃で破壊し、その近くに停泊していた琉球船などの船団を焼き払った。
さらに追い討ちをかけたのがロケット弾による市街地への攻撃であった。
このロケット弾によって市街地で火災が発生。その火災が折からの強風にあおられて燃え広がり、市街地北部の広い範囲が焼き払われた。
事前に市街地から町人を退去させていた薩摩藩の判断は、まさしく正解だったと言えよう。鹿児島の大火災は一晩中燃えつづけた。
この日の晩、イギリス艦隊は桜島の近くに停泊した。そしてサトウとウィリスはアーガス号からこの火事の景色をながめていた。
後にサトウは語っている。
「たちのぼる煙や炎が火柱のように見えた。空一面に広がった煙が炎に照らし出され、恐ろしくもあり、また壮観な眺めであった」
同じくウィリスは次のように手紙に書き記している。
「これが戦争というものの恐ろしい現実であり、噂でしか戦争を知らない者は幸せだと、深く実感したのです」
実際、この鹿児島の市街地を焼いたことは、後にイギリス議会で追及されることになる。
その頃ユーリアラス号の捕虜収容室には清水卯三郎が来ていた。
「カシワという名の、英語を話す日本人がいると聞いて来たのですが、やはりあなたでしたか」
「いや驚いた。まさかこんな所で卯三郎さんに会えるとは思わなかった」
「松木先生に英語を習ったおかげで、私もこうして鹿児島まで罷り越しました」
五代と松木はこの時捕虜となってユーリアラス号の一室にいたのだが、その二人に卯三郎が会いに来たのだった。
松木は薩摩人だが江戸での滞在経験が長く、また江戸では有名な蘭学者の一人だった。さらに横浜の運上所で通訳として勤めていたこともあった。ちなみに横浜にいた時は福地源一郎が松木の隣りに住んでいた。そしてその頃、卯三郎は松木から英語を習っていたのだった。
五代が卯三郎にたずねた。
「ところで、戦の様子はどうなった?」
卯三郎は五代と松木に戦争の様子を詳しく語った。
松木はつぶやいた。
「そうか。鹿児島の町は焼かれ、蒸気船三隻も焼き払われてしまったか…」
五代は悔しそうに叫んだ。
「だから戦なんか止めろといったんだ!」
「しかしイギリスも艦長が戦死していたとは……。なんとなく船内の様子で、ただならぬ気配を感じてはいたが…」
と松木がつぶやいた。
それから卯三郎は二人に用件を伝えた。
「それで提督がお二人に聞きたい事があるので司令室に上がって来るようにと申しておりました」
司令室ではニールがキューパー提督に戦争の継続を訴えていた。
「提督。ひょっとしてこのまま艦隊を帰還させるつもりではないでしょうな?」
キューパー提督はその質問に答えなかった。ニールが話を続けた。
「薩摩の砲台を壊滅させたと言っても、あれでは後日すぐに復旧されてしまいますぞ。上陸作戦を決行すべきです!兵を上陸させて、少なくとも大砲だけは分捕ってくるべきです!」
そこへ卯三郎と一緒に五代と松木がやってきた。
五代はオタニと名乗り、松木はカシワと名乗った。二人とも身元が判明しないように変名を名乗ったのだ。
イギリス側は二人に薩摩側の防御態勢について問い質した。
オタニ(五代)が答えた。
「我が薩摩は武勇を重んじる国柄である。陸上には死を恐れない十万の精鋭が待ち構えている。陸戦では貴国に勝ち目はない。無益な戦いはやめて、和平交渉の道を探るべきである」
それをカシワ(松木)が通訳した。それからしばらく色んな質問に答えた後、捕虜の二人は再び捕虜収容室へ戻っていった。
再びニールがキューパー提督に戦争の継続を訴えた。
「陸上に十万の兵力がいるなど、ウソっぱちに決まってるではないですか!」
オタニ(五代)の口述には多少大げさな表現があるとはいえ、薩摩藩は他藩と比較すると武士の数が桁違いで、この時五万人を動員していたと言われている。後の西南戦争のことを考えても、薩摩藩の動員力は他藩とは桁違いである。
一方この時イギリス側は陸戦のことなどほとんど想定してなかったので、詳しい史料は不明だが、多めに見積もっても陸戦兵力は千名前後だったのではなかろうか。無論イギリス側には優秀な銃火器があるのだから人数だけで判断しても意味はないのだが(一説によるとこの時薩摩は外国を嫌うあまり装備を火縄銃に戻していたともいう)。
ニールが続けて「ぜひとも陸戦隊の上陸作戦を……」と言おうとした時に、キューパー提督がキッパリと言い放った。
「一兵たりとも上陸はさせん!作戦実行の責任者は私である。これ以上、作戦実行への介入は慎んでもらいたい」
ニールは食い下がった。
「この遠征の目的を果たさないまま帰還する気ですか!」
それでもキューパー提督の考えは変わらなかった。
「それほど薩摩を叩きのめしたいのなら、もっと周到に準備をして改めてここへやって来るべきである」
結局イギリスは上陸作戦を取りやめた。
この後、翌日にも小競り合いはあったものの、これ以降の戦いは割愛することにする。
イギリス艦隊は応急修理のために二日ほど鹿児島湾内に(もちろん射程圏外で)停泊して、そのあと横浜へ帰って行った。
一応数字で表すと、この戦争の結果は次の通りである。
イギリス:戦死者13名、負傷者50名 (戦死者にはユーリアラス号の艦長、副艦長を含む)
薩摩藩:戦死者5名、負傷者10数名
(※一般に広く伝わっている説に基づく数字。イギリス側はキューパー提督の報告書によるもの)
イギリス艦隊はハボック号以外、すべての艦で負傷者が出ており、特にその大半は旗艦ユーリアラス号に集中していた。
一方、薩摩側は死傷者数こそ少ないものの、全砲台を破壊され、市街地の約一割が焼失し、30万ドルで買った三隻の蒸気船が沈没、さらに琉球船などの船団が焼き払われ、集成館の工場群も破壊された。
薩摩は建前上「勝利」と喧伝しているが、客観的に見てこれは「勝利」と言えないであろう。
この戦争の後、薩摩藩内では紆余曲折はあったもののイギリスと和議を結ぶという方針に決まった。
元々薩摩藩は「過激な攘夷は不可」の方針であったが、薩英戦争を経験することによってはからずもその方針がより明確となった。薩摩藩はこれ以降「大攘夷」(目先の攘夷よりも富国強兵を優先する)の道を突き進むのである。
かたや撤退していったイギリス艦隊のほうではキューパー提督の消極策に不満を唱える声が多かった。
サトウはこの当時、次のような感想を日記に書いている。
「我々のほとんどは強い不満を抱いたまま引き上げた。もし、あと数日間、艦砲射撃を続行してその後、上陸作戦を実行するか、または沖合に停泊し続けたならば、こちらの要求は通っただろう。ジョスリング艦長たちの死を無駄にしないためにも、そうすべきだったのだ」
しかし後年になって書いた手記では、サトウは次のように語っている。
「石炭、食料、弾薬の補給を確保できないことが撤退の原因だったかも知れない」
ところで、ユーリアラス号の捕虜として横浜へ連れていかれた五代と松木は、イギリス軍から解放されたものの、薩摩藩はもちろんのこと幕府の目からも逃れる必要があったので、そのまま清水卯三郎が手引きをして二人を匿った。
卯三郎は二人を熊谷の親類のところへ連れて行き、そこでしばらく潜伏させた。
この二人が歴史の表舞台へ帰ってくるのは再来年のことになる。
ニールは満足そうにキューパー提督に語りかけた。
「無事、薩摩の蒸気船を拿捕できて良かったですな、提督」
「うむ。これで薩摩も我々に歩み寄って来るだろう」
「ええ。しばらくすれば薩摩から交渉の使者がやって来るでしょう」
「なんならこのまま戦利品として横浜へ持ち帰って、改めて薩摩の出方を待っても良いんだがな。ハハハ」
当時イギリス海軍では船を分捕った場合、その価値(この場合は30万ドル)に応じて軍人は賞金(ボーナス)がもらえたと、サトウの手記には書かれている。
この時キューパー提督の気分はまさに有頂天であった。
ところが、である。
逆にこの蒸気船三隻の拿捕をうけて、千眼寺の薩摩藩本営は開戦を決意したのであった。
薩摩藩の各砲台は数日前から応戦準備を整えており、砲撃命令を今か今かと待ち焦がれていた。
正午頃、天保山砲台に命令を伝えにいった大久保一蔵が「砲撃開始!」と言うが早いか、天保山砲台は即座に砲撃を開始した。そしてこの一発を口火にして、他の砲台も一斉に砲撃を開始した。
この時イギリス側はちょうどランチタイムだった。サトウとウィリスもランチを食べていた。
「何か今、大砲の音がしなかった?ウィリス」
「多分、正午の合図の号砲だろ」
同時にユーリアラス号の司令室でランチを食べていたニールとキューパー提督に「薩摩が砲撃を開始した」との連絡が入った。
二人は食べてた食事を噴き出しそうになるぐらい驚いた。
イギリス艦隊は念のため砲台から離れた位置に停泊していた。しかし旗艦ユーリアラス号だけは射程圏内に入っていた。それでも最初は照準が合わず砲弾は届かなかったが薩摩側は徐々に照準を修正して、少しずつユーリアラス号の近くに着弾するようになった。
またパーシュース号も桜島の袴腰砲台のすぐ近くにいた。イギリス側はそこに砲台があることに気がついていなかったのだ。不意を突かれたパーシュース号は錨を上げる余裕もなく、錨の鎖を切断して緊急退避した。
ニールとキューパー提督は困惑していた。
そもそも横浜出発の当初から「薩摩が攻撃してくる」ということをまったく想定していなかったのである。
ユーリアラス号のジョスリング艦長がキューパー提督に急いで反撃するよう進言した。
「提督!こうなった以上、薩摩を壊滅させるしかありませんよ!」
「うーん……」
キューパー提督はまだ迷っている。
そこへニールもキューパー提督に急いで反撃するよう促した。
「提督!何をためらってるんですか!艦長の言う通り、薩摩を叩きましょう!」
「しかし、そうなると拿捕した蒸気船三隻が足手まといになる……」
「焼却処分するしかないでしょう。戦闘の邪魔ですから」
「うーん……」
せっかくの戦利品を焼却するのは惜しかったが、結局キューパー提督は、サトウが乗っているアーガス号など三隻に拿捕した蒸気船の焼却処分を命じた。
焼却命令を受けたアーガス号の水兵たちは、さっそく船内の付属物の掠奪を開始した。
サトウもこれに便乗した。どうせ焼いてしまうのだから、良く言えば「有効活用」といった気持ちもあったろう(悪く言えば文字通り、火事場泥棒だが)。
彼らは武器、甲冑、酒、調度品などを奪い去った。運良く一分銀など現金をせしめた者もいた。サトウは陣笠と火縄銃を手に入れた。
後にサトウは語っている。
「砲弾の下にさらされると異常な興奮を覚えるものだが、荒れ狂う天候がいっそう人々の心を揺さぶった」
そういった掠奪活動が一時間ほど続き、その後、船底に穴をあけて火を放った。
総額30万ドルという賠償金の三倍の金額で薩摩藩が購入した三隻の蒸気船は、こうして海の藻屑と消えたのである。
この間、イギリス艦隊の本隊がどうしていたのか?というと、実はあまり反撃できていなかった。
旗艦ユーリアラス号の戦闘準備が二時間遅れたためである。
その原因は、これはサトウの手記が引用元となって広く知れ渡っている話だが、幕府から支払われた生麦賠償金の十数万ドルが弾薬庫の前に山積みされていて、戦闘の邪魔をしていたからだった。この事は、ニールやキューパー提督が薩摩との戦争をまったく想定してなかったことを裏付けていると言えよう。
午後二時、イギリス艦隊はようやく本格的に反撃を開始した。
旗艦ユーリアラス号を先頭に単縦陣を組んで、湾の北側にある祇園之洲砲台へ攻撃に向かった。
艦隊から集中砲火を浴びた祇園之洲砲台はあっという間に壊滅した。
イギリス艦隊はそこから南下して、次の砲台へ攻撃に向かった。
ところが暴風雨の影響もあり、この時イギリス艦隊は薩摩側の射程圏内に入り込み過ぎていた。
まさにこの暴風雨は薩摩にとって「神風」と呼ぶべきものであったろう。
イギリス艦隊の行く手に待ち構えていた新波止、弁天波止、南波止、大門口、天保山の各砲台が、この時イギリス艦隊に集中砲火を浴びせた。
後年サトウは次のように手記で語っている。
「パッと立ち上がる砲煙の只中で、まず火炎の噴き出すのが見えて、それから奇妙な丸い真っ黒なものが我々めがけて一直線に飛んできた。その時の興味と興奮を私は決して忘れることができない。しかしその砲弾は、まさに私たちに命中するかと思った瞬間、いきなり空中高く飛び上がって頭上を通過したのである」
この時イギリス艦隊は旗艦ユーリアラス号を先頭にして進んでいたので、当然の如く、そのユーリアラス号に砲撃が集中した。
日本語文書を翻訳するためにユーリアラス号に乗っていた清水卯三郎は
「これは大将の船だから必ず最後尾を行くものと思いきや、真っ先に進んでいったので驚いた。砲煙に包まれて周囲が見えないと思っていた矢先に艦の砲門にガラリと弾丸が飛び込み炸裂して五、六人打ち倒れた。また来た弾丸が炸裂してキャプテンとコマンダーの二人が討ち取られた」
と手記で述べている。
「艦の砲門にガラリと弾丸が飛び込み」というのは右舷三番砲台への直撃弾のことで、「キャプテンとコマンダーの二人が」というのはキューパー提督のすぐ近くに立っていたジョスリング艦長とウィルモット副艦長が被弾して即死したことをさす。この時キューパー提督も軽傷を負った。さらに短艇付近への直撃弾で20数名が死傷した。
確かに砲撃による被害が集中したのは旗艦ユーリアラス号だったが、他の軍艦のほとんどが、程度の差こそあれ被害を受けた。
かたや薩摩側もイギリス艦隊の砲撃によってほとんどの砲台が使用不能に陥っていた。
この戦いで初めて実戦投入された、長射程で、しかも速射可能なイギリスのアームストロング砲が威力を発揮したのである。
ユーリアラス号は合計13門のアームストロング砲を搭載していたが、その内の1門は前部甲板に設置してあり、この戦いでも大いに活躍していた。
ところがそのアームストロング砲の尾栓が突如暴発を起こし、数名の砲手が負傷した。実戦初投入というアームストロング砲のリスクが、このとき表面化してしまったのだ。
すでに集中砲火を浴びて艦長・副艦長が戦死していた旗艦ユーリアラス号は、この暴発事故がダメ押しとなって戦闘を停止した。
同じ頃、戦列の後ろの方にいたレースホース号が祇園之洲砲台近くの浅瀬で座礁していた。祇園之洲砲台は真っ先に攻撃されて砲台は使用不能になっていたので、目の前に座礁しているレースホース号を攻撃することはできなかった。
このレースホース号を救出するためにサトウが乗ったアーガス号と、さらにコケット号が救援に向かった。アーガス号はレースホース号をロープで引っ張るために、ボートを降ろしてロープを繋ぎに行かせた。
サトウはそれを心配そうに船の上から見守った。
(この嵐の中、ボートであそこまでたどり着けるんだろうか?)
薩摩の砲台は壊滅していたとはいえ、ごく一部発射可能な大砲があり、それが時々サトウたちのアーガス号めがけて砲撃をおこなった。その内の数発がアーガス号のマストと舷側を直撃してサトウは「うわっ!」と驚いた。しかし幸い大事には至らなかった。
そしてついに、アーガス号がロープで引っ張ってレースホース号は離礁に成功した。
その後もイギリス艦隊の一部は攻撃を続行して磯の集成館工場群を砲撃で破壊し、その近くに停泊していた琉球船などの船団を焼き払った。
さらに追い討ちをかけたのがロケット弾による市街地への攻撃であった。
このロケット弾によって市街地で火災が発生。その火災が折からの強風にあおられて燃え広がり、市街地北部の広い範囲が焼き払われた。
事前に市街地から町人を退去させていた薩摩藩の判断は、まさしく正解だったと言えよう。鹿児島の大火災は一晩中燃えつづけた。
この日の晩、イギリス艦隊は桜島の近くに停泊した。そしてサトウとウィリスはアーガス号からこの火事の景色をながめていた。
後にサトウは語っている。
「たちのぼる煙や炎が火柱のように見えた。空一面に広がった煙が炎に照らし出され、恐ろしくもあり、また壮観な眺めであった」
同じくウィリスは次のように手紙に書き記している。
「これが戦争というものの恐ろしい現実であり、噂でしか戦争を知らない者は幸せだと、深く実感したのです」
実際、この鹿児島の市街地を焼いたことは、後にイギリス議会で追及されることになる。
その頃ユーリアラス号の捕虜収容室には清水卯三郎が来ていた。
「カシワという名の、英語を話す日本人がいると聞いて来たのですが、やはりあなたでしたか」
「いや驚いた。まさかこんな所で卯三郎さんに会えるとは思わなかった」
「松木先生に英語を習ったおかげで、私もこうして鹿児島まで罷り越しました」
五代と松木はこの時捕虜となってユーリアラス号の一室にいたのだが、その二人に卯三郎が会いに来たのだった。
松木は薩摩人だが江戸での滞在経験が長く、また江戸では有名な蘭学者の一人だった。さらに横浜の運上所で通訳として勤めていたこともあった。ちなみに横浜にいた時は福地源一郎が松木の隣りに住んでいた。そしてその頃、卯三郎は松木から英語を習っていたのだった。
五代が卯三郎にたずねた。
「ところで、戦の様子はどうなった?」
卯三郎は五代と松木に戦争の様子を詳しく語った。
松木はつぶやいた。
「そうか。鹿児島の町は焼かれ、蒸気船三隻も焼き払われてしまったか…」
五代は悔しそうに叫んだ。
「だから戦なんか止めろといったんだ!」
「しかしイギリスも艦長が戦死していたとは……。なんとなく船内の様子で、ただならぬ気配を感じてはいたが…」
と松木がつぶやいた。
それから卯三郎は二人に用件を伝えた。
「それで提督がお二人に聞きたい事があるので司令室に上がって来るようにと申しておりました」
司令室ではニールがキューパー提督に戦争の継続を訴えていた。
「提督。ひょっとしてこのまま艦隊を帰還させるつもりではないでしょうな?」
キューパー提督はその質問に答えなかった。ニールが話を続けた。
「薩摩の砲台を壊滅させたと言っても、あれでは後日すぐに復旧されてしまいますぞ。上陸作戦を決行すべきです!兵を上陸させて、少なくとも大砲だけは分捕ってくるべきです!」
そこへ卯三郎と一緒に五代と松木がやってきた。
五代はオタニと名乗り、松木はカシワと名乗った。二人とも身元が判明しないように変名を名乗ったのだ。
イギリス側は二人に薩摩側の防御態勢について問い質した。
オタニ(五代)が答えた。
「我が薩摩は武勇を重んじる国柄である。陸上には死を恐れない十万の精鋭が待ち構えている。陸戦では貴国に勝ち目はない。無益な戦いはやめて、和平交渉の道を探るべきである」
それをカシワ(松木)が通訳した。それからしばらく色んな質問に答えた後、捕虜の二人は再び捕虜収容室へ戻っていった。
再びニールがキューパー提督に戦争の継続を訴えた。
「陸上に十万の兵力がいるなど、ウソっぱちに決まってるではないですか!」
オタニ(五代)の口述には多少大げさな表現があるとはいえ、薩摩藩は他藩と比較すると武士の数が桁違いで、この時五万人を動員していたと言われている。後の西南戦争のことを考えても、薩摩藩の動員力は他藩とは桁違いである。
一方この時イギリス側は陸戦のことなどほとんど想定してなかったので、詳しい史料は不明だが、多めに見積もっても陸戦兵力は千名前後だったのではなかろうか。無論イギリス側には優秀な銃火器があるのだから人数だけで判断しても意味はないのだが(一説によるとこの時薩摩は外国を嫌うあまり装備を火縄銃に戻していたともいう)。
ニールが続けて「ぜひとも陸戦隊の上陸作戦を……」と言おうとした時に、キューパー提督がキッパリと言い放った。
「一兵たりとも上陸はさせん!作戦実行の責任者は私である。これ以上、作戦実行への介入は慎んでもらいたい」
ニールは食い下がった。
「この遠征の目的を果たさないまま帰還する気ですか!」
それでもキューパー提督の考えは変わらなかった。
「それほど薩摩を叩きのめしたいのなら、もっと周到に準備をして改めてここへやって来るべきである」
結局イギリスは上陸作戦を取りやめた。
この後、翌日にも小競り合いはあったものの、これ以降の戦いは割愛することにする。
イギリス艦隊は応急修理のために二日ほど鹿児島湾内に(もちろん射程圏外で)停泊して、そのあと横浜へ帰って行った。
一応数字で表すと、この戦争の結果は次の通りである。
イギリス:戦死者13名、負傷者50名 (戦死者にはユーリアラス号の艦長、副艦長を含む)
薩摩藩:戦死者5名、負傷者10数名
(※一般に広く伝わっている説に基づく数字。イギリス側はキューパー提督の報告書によるもの)
イギリス艦隊はハボック号以外、すべての艦で負傷者が出ており、特にその大半は旗艦ユーリアラス号に集中していた。
一方、薩摩側は死傷者数こそ少ないものの、全砲台を破壊され、市街地の約一割が焼失し、30万ドルで買った三隻の蒸気船が沈没、さらに琉球船などの船団が焼き払われ、集成館の工場群も破壊された。
薩摩は建前上「勝利」と喧伝しているが、客観的に見てこれは「勝利」と言えないであろう。
この戦争の後、薩摩藩内では紆余曲折はあったもののイギリスと和議を結ぶという方針に決まった。
元々薩摩藩は「過激な攘夷は不可」の方針であったが、薩英戦争を経験することによってはからずもその方針がより明確となった。薩摩藩はこれ以降「大攘夷」(目先の攘夷よりも富国強兵を優先する)の道を突き進むのである。
かたや撤退していったイギリス艦隊のほうではキューパー提督の消極策に不満を唱える声が多かった。
サトウはこの当時、次のような感想を日記に書いている。
「我々のほとんどは強い不満を抱いたまま引き上げた。もし、あと数日間、艦砲射撃を続行してその後、上陸作戦を実行するか、または沖合に停泊し続けたならば、こちらの要求は通っただろう。ジョスリング艦長たちの死を無駄にしないためにも、そうすべきだったのだ」
しかし後年になって書いた手記では、サトウは次のように語っている。
「石炭、食料、弾薬の補給を確保できないことが撤退の原因だったかも知れない」
ところで、ユーリアラス号の捕虜として横浜へ連れていかれた五代と松木は、イギリス軍から解放されたものの、薩摩藩はもちろんのこと幕府の目からも逃れる必要があったので、そのまま清水卯三郎が手引きをして二人を匿った。
卯三郎は二人を熊谷の親類のところへ連れて行き、そこでしばらく潜伏させた。
この二人が歴史の表舞台へ帰ってくるのは再来年のことになる。
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