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第四章・イギリス
第21話 薩英戦争(中編)
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翌六月二十九日(8月13日)、薩摩側では軍議が開かれ、海江田信義と奈良原喜左衛門が奇襲作戦を進言した。
実はこの二人、生麦事件の主犯格である。
奈良原は最初にリチャードソンに斬りつけた人物で、海江田はそのとどめを刺した人物である(ただしリチャードソンに斬りつけたのは喜左衛門ではなくて弟の繁である、という説もある)。
ちなみに二人が提案した奇襲作戦とは次の通りである。
「斬り込み隊を各十名ずつ小舟に乗せて、敵の各艦に接舷する」
「その際、斬り込み隊はスイカ売りに化けておく。そしてスイカを売ると称して敵艦に乗り込む」
「大砲の合図で一斉に斬りかかって、敵艦を奪取する」
段取りは以上である。
軍役掛家老の小松帯刀は唖然とした。
(なんちゅう無謀な作戦じゃ……)
しかし久光はこの作戦を了承した。
「うむ。それはすこぶる良案である。ただし、敵の軍艦は無傷で手に入れたい。大砲は実弾ではなくて空砲を使うように」
「チェストー!承知しもした!」
この「スイカ売り奇襲作戦」は久光の裁可を得て、即日実行に移されることになった。ただし旗艦ユーリアラス号に対しては「高官が要求書の返答を持ってきた」との口実で乗り込むことにした。
陸から小舟が数隻、それぞれ狙いを定めたイギリス艦へ向かって漕ぎ寄せて行った。
ユーリアラス号へは海江田と奈良原、さらに三十名ほどの藩士たちが向かった。海江田は「高官」と称して返答書を持参している名目であるが、実はそんなものは持って来ていない。
海江田たちの小舟はユーリアラス号の舷側に接近した。それを見つけたシーボルトが海江田に声をかけた。
「何の用ですか?」
「返書を持参したので船にあげてほしい」
「では、返書を持っている人、一人、上がってきなさい」
薩摩藩士が一人、タラップをあがっていった。その男にシーボルトがたずねた。
「あなた、返書を持ってますか?」
「いや」
「返書を持ってないのになぜ上がってきたのですか!?」
次にまた一人、薩摩藩士があがっていった。
「あなた、返書を持ってますか?」
「いや」
その後も次々と薩摩藩士たちはタラップをあがっていった。シーボルトは怒って大声で注意した。
「ダメです!降りなさい!」
薩摩藩士たちが反論した。
「“高官”が応接に出向く際は、多数の従者がお伴をする。それが我が国の礼儀である」
ここでさすがにシーボルトもこの連中の怪しさに気がつき、急いで司令室へ連絡に行った。
すると小銃を持った水兵たちが一斉に甲板にあらわれて海江田たちを包囲した。水兵は全員小銃を海江田たちに向けていつでも発射できる態勢をとった。そしてニールも様子を見るために甲板へやって来た。
薩摩側は海江田、奈良原など十数名の藩士たちがすでにユーリアラス号の甲板にあがっていた。
海江田は奈良原に自分の考えを伝えた。
「思ったよりも警戒が厳しいが、こうなったら斬り死にするまででごわす」
「承知しもした」
シーボルトは海江田に船内へ入るように言った。
「それでは返書を持っている人は船内に入ってください」
海江田と奈良原は「おう」と答えて船内へ向かおうとした。もはや全員、船の上で斬り死にするつもりである。
ところがちょうどその時、別の小舟がユーリアラス号に近づいてきた。
「おーい、海江田ー、奈良原ー!引っ返せー!君命じゃー、引っ返せー!」
それは計画中止を知らせる小舟であった。
陸から作戦の動向を監視していた小松帯刀が、計画中止の決断を下したのだった。
旗艦ユーリアラス号では武装したイギリス兵たちに包囲され、それ以外の艦では言葉が通じず、スイカ売りに変装した斬り込み隊は甲板に上がることすら出来なかった。そのため小松が中止を決断したのだった。
海江田はシーボルトに事情を説明した。
「返書の内容に誤りがあったので、すぐに引き返すよう命令があった。返書は後で改めて持参する」
そう言って全員ユーリアラス号から引きあげていった。
ニールはこの薩摩側の行動に不審な点を感じたものの、まさかこんな小人数で船の分捕りに来るとは考えもしなかった。
しかも自分の目の前に「生麦事件の犯人」がいるとは想像もしなかった。それでニールは「偵察が目的だったのだろう」と、彼らの目的を結論づけた。
後年サトウは次のように手記で語っている。
「彼らは隙を狙ってイギリス士官を急襲して何とかその主だった者を殺害しようと抜け目のない計画を立てたのだ。そして旗艦を分捕るつもりだったのだ。それは大胆不敵な考えだったがこちらの警戒が甘かったら、あるいは成功したかもしれない」
余談だが、現在法政大学80年館(靖国神社の裏手)のところに当大学が建てたサトウの記念碑がある。ここはサトウ家の住宅があった場所で、サトウが購入する前にその家を所有していたのは海江田信義であるらしい。なんとも不思議な因縁である。
そしてこの日の夜、薩摩側からユーリアラス号に返書が届けられた。日本語の読解には時間がかかるため、ニールは翌日回答することにした。
この日本語の読解にシーボルトとサトウが関わったのはもちろんのこととして、実はこの時一人の日本人がこの読解に関わっている。
清水卯三郎という人物である。
彼は武州羽生(埼玉県羽生市)出身の商人で、以前から蘭学や洋学を志していたので英語もそれなりに出来た。今回のイギリス艦隊の鹿児島遠征で、薩摩が提出してくる日本語文書をすぐに読める人間を探していたところ、彼に白羽の矢が立ったのだった。他の日本人は後難(イギリス人に協力したことによる後難)を怖れて誰も引き受けなかったが、彼は「面白そうだから行ってみよう」と引き受けてユーリアラス号に乗り込んだのである。余談ながら、清河八郎が創設した(近藤勇や芹沢鴨も参加した)浪士組の一番組を率いていた根岸友山は、卯三郎の伯父であり勉学の師匠でもある。ただし友山は卯三郎と違ってガチガチの尊王攘夷論者であった。
サトウたちが返書の読解作業を進めていくと、書き出しこそ「人命より尊いものはなく、殺人犯を死刑にするのは当然である」とイギリス側の主張を認めているものの、読み進めていくと
「犯人を見つけ出すことは難しい」
「大名行列を妨げてはならないことを条約に書かなかった幕府の責任である」
「今回のイギリス艦隊の来訪について幕府から何も聞いていないので我々の一存では決められない」
といったようなことが書かれており、イギリス側の要求に対して全くの「ゼロ回答」という内容だった。
当然の如く、ニールは激怒した。
翌七月一日(8月14日)の朝、薩摩藩の伊地知正治が再び使者としてニールに会いに来た。
しかしニールは面会を拒絶。
代わってシーボルトが返書に対するイギリス側の回答を読み上げた。
「イギリスの要求を薩摩が拒絶したので、もはやキューパー提督に事態の解決について一任した。今後談判を求める場合は、白旗を掲げて来ない限りは応じない。以上である」
宣戦布告に等しい宣告だった。
これを受けて薩摩側は臨戦態勢に入った。
ただし各砲台には改めて「命令があるまで絶対に撃ってはならぬ」と厳命した。そして鶴丸城は攻撃目標にされやすいので本営を千眼寺に移転した。
この日は午後から天候が崩れ、風も強く吹き始めた。嵐の前ぶれである。
ニールから事態の解決について一任されたキューパー提督は、二日前にニールと話し合って決めた通り、薩摩の蒸気船三隻を拿捕することに決めた。
キューパー提督はパール号の艦長を呼んで、翌朝、艦隊の一部をひきいて薩摩の蒸気船を拿捕するように命じた。
薩摩藩がこの蒸気船三隻を買うために賠償金の三倍の額を支払っている、ということをイギリス側は知っていた。ニールもキューパー提督も、これを質に取れば薩摩も歩み寄って来るだろうと思ったのである。
翌七月二日(8月15日)、天候は前日よりもさらに悪化した。どうやら台風が来たようだった。
この日の早朝、サトウが乗っているアーガス号を含めた五隻の艦隊が、薩摩の蒸気船三隻を拿捕するため風雨をついて重富へ向かった。
そしてサトウもアーガス号の隊長の通訳として敵艦に乗り込むことになった。
サトウが実戦の現場で働くことになるのは、これが初めてである。もちろんサトウは非常に緊張した。しかしまた興奮もしていた。
サトウが乗ったアーガス号は薩摩の青鷹丸に、今まさに接舷しようとしていた。
その時、青鷹丸の艦内では艦長の五代がいきり立つ乗組員たちを押しとどめて、船から退去するよう説得していた。
「手向かってはならん!総員、船から退去せよ!」
しかし乗組員たちは異議を唱えた。
「ないごてでごわすか?」
「まだ開戦の命令は出ておらん!」
「じゃっどん、敵から仕掛けて来とるのに、反撃せんのでごわすか?!」
「まだ戦と決まった訳ではない!今ここで抵抗しないのは、この船を一旦イギリスに預けるだけのことだ。この船は軍艦ではない。奴らの軍艦と戦うことはできん」
五代は説得を続けた。
「ただし、奴らが無茶を言うようなら俺が用意した爆弾で、イギリス人を道連れに船ごと自爆する」
こういった五代の説得によって乗組員たちは総員、船から退去した。青鷹丸には五代と松木だけが残った。
乗組員たちの退去と入れ替わるように、青鷹丸に接舷したアーガス号から水兵たちが乗り込んで来た。もちろんサトウも一緒である。
サトウは隊長と一緒に船の司令室に入った。そこには五代と松木がいた。
そこでサトウは日本語で「手を挙げなさい」と言った。
五代と松木は素直に両手を挙げたが、松木が英語でサトウに問いかけた。
「宣戦布告もなく、いきなり当方の船を略奪するとは不法行為ではないのか?」
サトウは驚いた。
(こんな所に英語を話す日本人がいるとは……)
そしてサトウは松木の質問に英語で答えた。
「不法行為はあなたたちの生麦での殺人である」
松木はそれ以上何も言わなかった。代わりに五代がサトウにたずねた。無論、日本語である。
「私は船長の五代と申す。抵抗するつもりはないので乗組員が退去するのを見逃して欲しい。まだ逃げ遅れている乗組員もいると思うが、彼らをそのまま逃がしてもらいたい」
サトウは水兵の隊長に通訳して、そのことの確認をとった。
「よろしい。武器を捨てて全員速やかに退去するように」
この頃にはアーガス以外のイギリス軍艦が他の二隻(天祐丸と白鳳丸)にも接舷して拿捕の作業にかかりつつあった。しかし他の二隻にもあらかじめ抵抗しないよう五代から通知してあったので、同じように乗組員は総員退去した。ただし天祐丸では小競り合いが発生して薩摩藩士一人が死亡、負傷者も二、三人出た。
五代はサトウに話しかけた。
「ところであなたの名前は?」
「私の名前はサトウです」
「サトウ?また日本人のような名前だな」
「いつも日本人から言われます」
「ところでどうだろう?サトウさん。我々をこのままロンドンまで連れて行ってもらえないだろうか?」
「ロンドンへ行ってどうするつもりですか?」
ここで松木が代わってサトウに話を続けた。
「我々二人は日英の戦争が無益であると知っている。そのことをイギリス政府に説明したいのだ」
「……どのみち私が決められることではありません」
サトウは水兵の隊長にこのことを話してみた。
「それはやはり無理な話ですね。それに我々は捕虜をとるつもりはありません。あなたたちもすぐに退去してください」
そこで松木が必死の形相でサトウに向かって言った。
「我々はもう鹿児島へは戻れないのだ。戻れば死罪か切腹である。……実はこの船には爆弾が仕掛けてある」
松木の発言を聞いてサトウは仰天した。
「何ですって?!」
五代は松木の発言をさえぎろうとした。
「松木さん!なぜそのことを……」
「五代君。今ここで自爆してサトウ君たちを道連れにしても、犬死にじゃないか」
サトウは慌てて爆弾のことを隊長に説明した。
「分かりました。それではあなた方を旗艦へ連行します。しかしその前に、その爆弾のある場所を教えてください」
五代と松木は船内に仕掛けてあった爆弾の場所をサトウに教え、そのあとユーリアラス号へ連れて行かれた。
サトウとしてはまったく命拾いをしたような心持ちだった。
実はこの二人、生麦事件の主犯格である。
奈良原は最初にリチャードソンに斬りつけた人物で、海江田はそのとどめを刺した人物である(ただしリチャードソンに斬りつけたのは喜左衛門ではなくて弟の繁である、という説もある)。
ちなみに二人が提案した奇襲作戦とは次の通りである。
「斬り込み隊を各十名ずつ小舟に乗せて、敵の各艦に接舷する」
「その際、斬り込み隊はスイカ売りに化けておく。そしてスイカを売ると称して敵艦に乗り込む」
「大砲の合図で一斉に斬りかかって、敵艦を奪取する」
段取りは以上である。
軍役掛家老の小松帯刀は唖然とした。
(なんちゅう無謀な作戦じゃ……)
しかし久光はこの作戦を了承した。
「うむ。それはすこぶる良案である。ただし、敵の軍艦は無傷で手に入れたい。大砲は実弾ではなくて空砲を使うように」
「チェストー!承知しもした!」
この「スイカ売り奇襲作戦」は久光の裁可を得て、即日実行に移されることになった。ただし旗艦ユーリアラス号に対しては「高官が要求書の返答を持ってきた」との口実で乗り込むことにした。
陸から小舟が数隻、それぞれ狙いを定めたイギリス艦へ向かって漕ぎ寄せて行った。
ユーリアラス号へは海江田と奈良原、さらに三十名ほどの藩士たちが向かった。海江田は「高官」と称して返答書を持参している名目であるが、実はそんなものは持って来ていない。
海江田たちの小舟はユーリアラス号の舷側に接近した。それを見つけたシーボルトが海江田に声をかけた。
「何の用ですか?」
「返書を持参したので船にあげてほしい」
「では、返書を持っている人、一人、上がってきなさい」
薩摩藩士が一人、タラップをあがっていった。その男にシーボルトがたずねた。
「あなた、返書を持ってますか?」
「いや」
「返書を持ってないのになぜ上がってきたのですか!?」
次にまた一人、薩摩藩士があがっていった。
「あなた、返書を持ってますか?」
「いや」
その後も次々と薩摩藩士たちはタラップをあがっていった。シーボルトは怒って大声で注意した。
「ダメです!降りなさい!」
薩摩藩士たちが反論した。
「“高官”が応接に出向く際は、多数の従者がお伴をする。それが我が国の礼儀である」
ここでさすがにシーボルトもこの連中の怪しさに気がつき、急いで司令室へ連絡に行った。
すると小銃を持った水兵たちが一斉に甲板にあらわれて海江田たちを包囲した。水兵は全員小銃を海江田たちに向けていつでも発射できる態勢をとった。そしてニールも様子を見るために甲板へやって来た。
薩摩側は海江田、奈良原など十数名の藩士たちがすでにユーリアラス号の甲板にあがっていた。
海江田は奈良原に自分の考えを伝えた。
「思ったよりも警戒が厳しいが、こうなったら斬り死にするまででごわす」
「承知しもした」
シーボルトは海江田に船内へ入るように言った。
「それでは返書を持っている人は船内に入ってください」
海江田と奈良原は「おう」と答えて船内へ向かおうとした。もはや全員、船の上で斬り死にするつもりである。
ところがちょうどその時、別の小舟がユーリアラス号に近づいてきた。
「おーい、海江田ー、奈良原ー!引っ返せー!君命じゃー、引っ返せー!」
それは計画中止を知らせる小舟であった。
陸から作戦の動向を監視していた小松帯刀が、計画中止の決断を下したのだった。
旗艦ユーリアラス号では武装したイギリス兵たちに包囲され、それ以外の艦では言葉が通じず、スイカ売りに変装した斬り込み隊は甲板に上がることすら出来なかった。そのため小松が中止を決断したのだった。
海江田はシーボルトに事情を説明した。
「返書の内容に誤りがあったので、すぐに引き返すよう命令があった。返書は後で改めて持参する」
そう言って全員ユーリアラス号から引きあげていった。
ニールはこの薩摩側の行動に不審な点を感じたものの、まさかこんな小人数で船の分捕りに来るとは考えもしなかった。
しかも自分の目の前に「生麦事件の犯人」がいるとは想像もしなかった。それでニールは「偵察が目的だったのだろう」と、彼らの目的を結論づけた。
後年サトウは次のように手記で語っている。
「彼らは隙を狙ってイギリス士官を急襲して何とかその主だった者を殺害しようと抜け目のない計画を立てたのだ。そして旗艦を分捕るつもりだったのだ。それは大胆不敵な考えだったがこちらの警戒が甘かったら、あるいは成功したかもしれない」
余談だが、現在法政大学80年館(靖国神社の裏手)のところに当大学が建てたサトウの記念碑がある。ここはサトウ家の住宅があった場所で、サトウが購入する前にその家を所有していたのは海江田信義であるらしい。なんとも不思議な因縁である。
そしてこの日の夜、薩摩側からユーリアラス号に返書が届けられた。日本語の読解には時間がかかるため、ニールは翌日回答することにした。
この日本語の読解にシーボルトとサトウが関わったのはもちろんのこととして、実はこの時一人の日本人がこの読解に関わっている。
清水卯三郎という人物である。
彼は武州羽生(埼玉県羽生市)出身の商人で、以前から蘭学や洋学を志していたので英語もそれなりに出来た。今回のイギリス艦隊の鹿児島遠征で、薩摩が提出してくる日本語文書をすぐに読める人間を探していたところ、彼に白羽の矢が立ったのだった。他の日本人は後難(イギリス人に協力したことによる後難)を怖れて誰も引き受けなかったが、彼は「面白そうだから行ってみよう」と引き受けてユーリアラス号に乗り込んだのである。余談ながら、清河八郎が創設した(近藤勇や芹沢鴨も参加した)浪士組の一番組を率いていた根岸友山は、卯三郎の伯父であり勉学の師匠でもある。ただし友山は卯三郎と違ってガチガチの尊王攘夷論者であった。
サトウたちが返書の読解作業を進めていくと、書き出しこそ「人命より尊いものはなく、殺人犯を死刑にするのは当然である」とイギリス側の主張を認めているものの、読み進めていくと
「犯人を見つけ出すことは難しい」
「大名行列を妨げてはならないことを条約に書かなかった幕府の責任である」
「今回のイギリス艦隊の来訪について幕府から何も聞いていないので我々の一存では決められない」
といったようなことが書かれており、イギリス側の要求に対して全くの「ゼロ回答」という内容だった。
当然の如く、ニールは激怒した。
翌七月一日(8月14日)の朝、薩摩藩の伊地知正治が再び使者としてニールに会いに来た。
しかしニールは面会を拒絶。
代わってシーボルトが返書に対するイギリス側の回答を読み上げた。
「イギリスの要求を薩摩が拒絶したので、もはやキューパー提督に事態の解決について一任した。今後談判を求める場合は、白旗を掲げて来ない限りは応じない。以上である」
宣戦布告に等しい宣告だった。
これを受けて薩摩側は臨戦態勢に入った。
ただし各砲台には改めて「命令があるまで絶対に撃ってはならぬ」と厳命した。そして鶴丸城は攻撃目標にされやすいので本営を千眼寺に移転した。
この日は午後から天候が崩れ、風も強く吹き始めた。嵐の前ぶれである。
ニールから事態の解決について一任されたキューパー提督は、二日前にニールと話し合って決めた通り、薩摩の蒸気船三隻を拿捕することに決めた。
キューパー提督はパール号の艦長を呼んで、翌朝、艦隊の一部をひきいて薩摩の蒸気船を拿捕するように命じた。
薩摩藩がこの蒸気船三隻を買うために賠償金の三倍の額を支払っている、ということをイギリス側は知っていた。ニールもキューパー提督も、これを質に取れば薩摩も歩み寄って来るだろうと思ったのである。
翌七月二日(8月15日)、天候は前日よりもさらに悪化した。どうやら台風が来たようだった。
この日の早朝、サトウが乗っているアーガス号を含めた五隻の艦隊が、薩摩の蒸気船三隻を拿捕するため風雨をついて重富へ向かった。
そしてサトウもアーガス号の隊長の通訳として敵艦に乗り込むことになった。
サトウが実戦の現場で働くことになるのは、これが初めてである。もちろんサトウは非常に緊張した。しかしまた興奮もしていた。
サトウが乗ったアーガス号は薩摩の青鷹丸に、今まさに接舷しようとしていた。
その時、青鷹丸の艦内では艦長の五代がいきり立つ乗組員たちを押しとどめて、船から退去するよう説得していた。
「手向かってはならん!総員、船から退去せよ!」
しかし乗組員たちは異議を唱えた。
「ないごてでごわすか?」
「まだ開戦の命令は出ておらん!」
「じゃっどん、敵から仕掛けて来とるのに、反撃せんのでごわすか?!」
「まだ戦と決まった訳ではない!今ここで抵抗しないのは、この船を一旦イギリスに預けるだけのことだ。この船は軍艦ではない。奴らの軍艦と戦うことはできん」
五代は説得を続けた。
「ただし、奴らが無茶を言うようなら俺が用意した爆弾で、イギリス人を道連れに船ごと自爆する」
こういった五代の説得によって乗組員たちは総員、船から退去した。青鷹丸には五代と松木だけが残った。
乗組員たちの退去と入れ替わるように、青鷹丸に接舷したアーガス号から水兵たちが乗り込んで来た。もちろんサトウも一緒である。
サトウは隊長と一緒に船の司令室に入った。そこには五代と松木がいた。
そこでサトウは日本語で「手を挙げなさい」と言った。
五代と松木は素直に両手を挙げたが、松木が英語でサトウに問いかけた。
「宣戦布告もなく、いきなり当方の船を略奪するとは不法行為ではないのか?」
サトウは驚いた。
(こんな所に英語を話す日本人がいるとは……)
そしてサトウは松木の質問に英語で答えた。
「不法行為はあなたたちの生麦での殺人である」
松木はそれ以上何も言わなかった。代わりに五代がサトウにたずねた。無論、日本語である。
「私は船長の五代と申す。抵抗するつもりはないので乗組員が退去するのを見逃して欲しい。まだ逃げ遅れている乗組員もいると思うが、彼らをそのまま逃がしてもらいたい」
サトウは水兵の隊長に通訳して、そのことの確認をとった。
「よろしい。武器を捨てて全員速やかに退去するように」
この頃にはアーガス以外のイギリス軍艦が他の二隻(天祐丸と白鳳丸)にも接舷して拿捕の作業にかかりつつあった。しかし他の二隻にもあらかじめ抵抗しないよう五代から通知してあったので、同じように乗組員は総員退去した。ただし天祐丸では小競り合いが発生して薩摩藩士一人が死亡、負傷者も二、三人出た。
五代はサトウに話しかけた。
「ところであなたの名前は?」
「私の名前はサトウです」
「サトウ?また日本人のような名前だな」
「いつも日本人から言われます」
「ところでどうだろう?サトウさん。我々をこのままロンドンまで連れて行ってもらえないだろうか?」
「ロンドンへ行ってどうするつもりですか?」
ここで松木が代わってサトウに話を続けた。
「我々二人は日英の戦争が無益であると知っている。そのことをイギリス政府に説明したいのだ」
「……どのみち私が決められることではありません」
サトウは水兵の隊長にこのことを話してみた。
「それはやはり無理な話ですね。それに我々は捕虜をとるつもりはありません。あなたたちもすぐに退去してください」
そこで松木が必死の形相でサトウに向かって言った。
「我々はもう鹿児島へは戻れないのだ。戻れば死罪か切腹である。……実はこの船には爆弾が仕掛けてある」
松木の発言を聞いてサトウは仰天した。
「何ですって?!」
五代は松木の発言をさえぎろうとした。
「松木さん!なぜそのことを……」
「五代君。今ここで自爆してサトウ君たちを道連れにしても、犬死にじゃないか」
サトウは慌てて爆弾のことを隊長に説明した。
「分かりました。それではあなた方を旗艦へ連行します。しかしその前に、その爆弾のある場所を教えてください」
五代と松木は船内に仕掛けてあった爆弾の場所をサトウに教え、そのあとユーリアラス号へ連れて行かれた。
サトウとしてはまったく命拾いをしたような心持ちだった。
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織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
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