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第三章・横浜発
第17話 賠償金問題、決着(後編)
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俊輔とサトウが横浜ですれ違っている頃、神奈川奉行の浅野はフランス軍艦セミラミス号を訪れ、ベルクール公使およびジョレス提督と面会していた。
浅野はベルクールにイギリスへの仲裁を申し込んだ。
「ニール殿が我々との交渉を完全に拒絶しているので、貴殿らと相談する以外に術がないのです」
ベルクールは素っ気なく答えた。
「あれだけイギリスに対して無礼な対応をすれば、交渉を拒絶されるのは当たり前だ」
これに重ねるようにジョレスが言った。
「我々は横浜の外国人を守るために海兵隊を上陸させるつもりだ」
浅野は真っ青な表情になって尋ねた。
「それは横浜を占領するという意味なのですか?」
「いや。土地の一部を借りて兵を駐屯させるだけだ。土地の所有権は日本のままである」
このジョレスの答えに対し浅野は汗をかきながら絞り出すように言った。
「……もし横浜で騒乱が発生した場合は、それもやむを得ないと存ずる」
そして会談の争点は「賠償金支払い」と「攘夷実行」の話に移った。浅野は説明した。
「賠償金の支払いを取りやめたのは一橋様が朝廷から“外国人追放令”を受けて、それに従わざるを得ないからです」
“外国人追放令”という言葉を聞いてベルクールとジョレスは怒りをあらわにした。
「外国人追放令?もし本当にそんな命令が出されれば、日本は我々によって完全に破壊されるだろう」
浅野は弁明した。
「いえ。一橋様は“外国人の友”なので本気ではありません。そういうフリをしないと朝廷や攘夷派から責められるからそうしているだけなのです。小笠原殿も一橋様と同じです。小笠原殿は武力に訴えてでも朝廷を説得する覚悟なので、いずれ賠償金は支払われることになるでしょう」
これに対してベルクールが答えた。
「しかしイギリスはもう武力発動の寸前だ。今日の件はイギリスに伝えるが、とにかく早く支払い手続きに入ったほうが良いだろう」
「承知しました。さっそく江戸の幕閣と相談します」
そう答えて浅野は江戸へ向かった。
五月八日、江戸城――。
浅野からの報告を受けても、江戸の幕閣は支払いの決断ができなかった。
江戸の幕閣たちは皆、弱りきっている。
事ここに至っては「もはや支払うしかない」と誰もが分かっているのである。けれどもそれを自ら言い出してしまっては、後々自分が朝廷から責任を追及されることになる。しかも今後攘夷派から命をつけ狙われる可能性もある。だから誰も言い出せないのである。
この時の幕府内の状況を福地源一郎は手記で次のように語っている。
「是(支払い)に同意しては後日の禍ありと恐れ、各々内心『誰かな是を専決せよかし』と祈ったる状況にてありき」
ところがここで小笠原が一人立ち上がって意見を表明した。
「こうなったら私が船で大坂へ行き、直接朝廷を説得する!」
周囲の幕閣たちは怪訝な表情で小笠原に問いかけた。
「今から行くのか?そなたが戻ってくるまでイギリスが待ってはくれまい?」
しかし小笠原は周囲の幕閣たちの声を無視して一人で出て行ってしまった。
そして小笠原は品川で幕府の蒸気船、蟠竜丸に乗り込んだ。余談ながら、この蟠竜丸は安政五年(1858年)の日英修好通商条約調印の際にイギリスから贈呈されたエンペラー号という蒸気船である。
同じ頃、神奈川宿では京都から東海道をゆっくりとやって来た一橋慶喜が到着していた。
その慶喜を神奈川奉行の浅野が訪問した。慶喜は浅野にたずねた。
「役目大儀。ところで、まさかイギリスに賠償金を支払ってはおるまいな?」
これに浅野が答えた。
「はい。『まだ』支払ってはおりません」
慶喜は浅野に目配せをして、それからうなずいてみせた。
浅野は慶喜の合図を受けとって、やはりうなずいて返事をした。
そして慶喜は浅野に命令した。
「至急、馬を用意せよ。これから急いで江戸へ向かう。なんとしても支払いをやめさせなければならぬからな」
慶喜は神奈川から馬で江戸へ向かって急行した。
一方、品川で蟠竜丸に乗り込んだ小笠原は大坂へは向かわず、夜になってから横浜に入港してきた。
小笠原は浅野を蟠竜丸に呼んで、今回の事情を説明した。
「今になっても幕閣は賠償金の支払いを決しかねている。なれど、一度支払うと明言した以上、それを履行せねば日本の恥となるゆえ、余の一存で支払いを実行することにした。ただし、賠償金を支払うのと同時に、この“鎖港通告書”を各国へ通達せよ」
浅野は小笠原の命をうけて、そのままフランス公使館へ直行した。
「賠償金を一括で支払う?!」
ベルクールは目を丸くして驚いた。浅野は賠償金支払いの説明を続けた。
「はい。先ほど小笠原殿から一括支払いの許可が出ました。賠償金はすでに運上所に用意してあり、明日間違いなく支払います。我々はニール殿から一切面会を断られておりますので、この旨、貴殿からニール殿にお伝え頂きたい」
浅野はさらに説明を続けた。
「そしてこれが先日お話しした“外国人追放令”の通告書です。小笠原殿の署名入りです」
「なんと!本気だったのかね、あれは!?」
「いえ。本気ではありません」
ベルクールは困惑せざるを得ない。それで浅野が説明を加えた。
「これは朝廷や攘夷派を刺激しないために書かれた、あくまでタテマエに過ぎないものです」
「とにかく、我々はこのような通告書には断固として抗議する!」
「それこそ我々の望む所なのです。朝廷や攘夷派を説得するために、断固とした抗議声明を通告してください」
さすがにベルクールは呆れた表情で答えた。
「なぜ、そこまで回りくどいやり方をするのか?実力で京都をおさえたほうが手っ取り早いではないか」
これに対し浅野は力強い表情で答えた。
「実はその方策も現在計画中なのです。近いうちに京都へ兵を送る予定なので、いずれ英仏両国に援助を要請するつもりです」
とにかくベルクールは、この浅野からの回答をイギリス公使館のニールへ報告しに行った。
ニールはベルクールから話を聞くと呆れた表情で感想を述べた。
「全くふざけた奴らだ。日本人という連中は。しかし無駄な血を流さずに、しかも一括で賠償金を獲得できたのはもっけの幸いだった。あとは薩摩の賠償金だけだが幕府が支払ったのだから、まあおそらく薩摩も素直に支払うだろう。とにかく、これで一件落着だな」
44万ドルの支払い作業は翌日から三日間かかった。
すべて銀貨で支払われ、清国(中国)人の貨幣検定人が銀貨の検査を担当した。これらの賠償金はイギリス艦隊のユーリアラス号、エンカウンター号、バール号に三分割して積み込まれたのであった。
こうして小笠原の独断によって急転直下賠償金は支払われたのだが、これは最初から慶喜と小笠原が裏で筋書きを描いていた、とも言われている。おそらく神奈川奉行の浅野も途中からその筋書きを知らされていたのだろう。
慶喜は元々開国主義者である。
また小笠原も京都にいた時
「勅命とあらば利害得失も考えずに攘夷を受け入れるのは女子供のやり方で、将軍家のやり方ではない」
と幕閣へ諫言したほどの人物だった。朝廷に従ったまま攘夷を実行するような人物ではない。
しかし慶喜の父は尊王攘夷の元締めだった水戸の烈公・徳川斉昭で、母は公家の有栖川宮家出身の貞芳院である。慶喜は血筋から言っても朝廷尊崇の念が篤く、勅命による攘夷鎖港命令には逆らえない。
それに加えて、幕府があらかじめ期日を定めて賠償金を支払うとなると、それを力ずくで阻止しようとする連中が現れる可能性もあった。慶喜の周囲には水戸から来ている家臣も大勢いる。それゆえ、策謀は極秘のうちに進めなければならなかったのだ。
とにかくこれで、幕府の賠償金支払いの件は落着した。
ただし「外国人追放令」および「幕府(小笠原)の京都への出兵計画」さらには「薩摩藩の賠償金支払いの件」の話がまだ残っている。しかしながらそれらは次回以降で語ることになろう。
今はこの騒ぎと時を同じくして横浜で苦闘している俊輔たちの様子に目を向けなければならない。
聞多は横浜で村田蔵六と面会した。
村田は元々憮然としている表情をさらに憮然とさせて、聞多にたずねた。
「このように騒がしい横浜へ呼び出して、一体何のご用ですか?」
「村田洋学先生。我々五人はロンドンへ洋行することに決めました」
「そうですか。それは素晴らしいことです。これからは英学をおさめるのが一番よろしい」
「ですが、洋行費用として五千両が必要なのです。なんとか先生に藩から五千両を引き出して頂きたい」
「五千両!?そのような大金を私が引き出せるはずがありません」
「私はイギリスの商人に刀を預けて約束してきました。五千両が手に入らなければ私は切腹して死ぬ覚悟です!」
蔵六は黙ったまま何も言わなかった。聞多は嘆願をつづけた。
「あるいは、勝手に村田先生の名目で伊豆倉から五千両を引き出し、あとは村田先生が小田原あたりで誰かに殺された、ということにしてしまえばどうか?と、いきり立っている同志もおります」
これにはさすがに村田もギョッとした。
なにしろ聞多、俊輔、山尾は藩内でも札付きの連中なのである。この連中なら確かにそれぐらいのことはやりかねない。
しかしそう思いながらも、なぜか村田はこの時、目の前にいる聞多のことが哀れに見えた。
せっかく横浜まで来て、洋行を目前にしながら苦心してあえいでいる、この五人の若者たちをどうにかしてロンドンへ送りこんでやりたい。村田は純粋にそう思った。
「わかりました。あなたと一緒に伊豆倉へ行って貞次郎さんに頼んでみましょう」
それから村田と聞多は伊豆倉の貞次郎を訪れ、鉄砲買い付け金の一万両を担保になんとか五千両を貸し出してもらいたいと頭を下げた。特に村田の大きな頭を下げたのが効いたのだろうか、貞次郎は支配役の大黒屋六兵衛の説得を引き受けた。
「まあ周布様とのお約束もございますから。天野屋利兵衛じゃございませんが『貞次郎も男でござる!』。なんとか六兵衛さんを説得してみましょう」
結局、万一問題が起きた時は長州藩では村田蔵六が、大黒屋側では佐藤貞次郎がすべて責任をとるということで、五千両が貸し出されることになった。
これで洋行費用の問題は解消され、さらに日英間の戦争も回避され、ようやく洋行計画が軌道に乗った。
俊輔は五月十日付けで父十蔵宛の手紙を書いた。
その手紙の中で、京都で会っていた時に言えなかったことを釈明した。
「今の急務は外国の事情を知り、海軍の勉強をすることです。長州藩のお役に立つため三年間だけ留学をお許し願いたい」
手紙にはそういった内容のことを書いたのだが、ここで正直に「五年」と書かず「三年」と書いたのは、やはり家族を心配させたくなかったからだろう。
五月十一日の夜、三日間におよんだ横浜での賠償金の積み込み作業が終わりかけていた頃、同じ横浜の佐野茂という料亭で五人の留学生および村田蔵六、佐藤貞次郎が送別の宴を開いた。
生きて帰国できる保証もない彼らにとっては「これが日本で飲む最後の酒になるかも知れない」と感じたか、あるいは「なに、海外といってもどれ程のことはあるまい。五年後には故郷に錦を飾るのだ」と思って飲んだか、少なくとも俊輔や聞多のような楽天家は後者であったろうと思われるが、その予想は大きく外れることになる。
さらにこの日、五千両借用の経緯を書状に書いてまとめ、聞多を筆頭に五人の名前で署名し五月十一日付けで藩に提出した。おそらく書状を預かったのはこの宴の席にいた村田であっただろう。
この書状の中で、藩から勝手に大金を押し借りしたことを謝罪し、その罪は万死に値するが志を果たせない場合は生きて帰らない、決死の覚悟でおこなった非常手段だったのです、と哀訴している。
さらに書状の終わりのところでは「生きた器械を買ったと思ってお許し願いたい」とも書かれている。
俊輔はこの宴の中で歌を詠んだ。
「丈夫の 恥を忍びて行く旅は 皇御国の為とこそ知れ」
この時の俊輔にとっては、この洋行も尊王攘夷の延長線上にあったということである。
そろそろ宴も終わりに近づいてきたので村田が五人に対して最後の訓示を述べた。
「諸君らは西洋の“技術”を身につけた『生きた器械』となりなさい。“技術”こそが物事を解決するのです」
そう言って村田は、これ以降のジャーディン・マセソン商会とのやり取り、および外国船に乗り込む手配を貞次郎に委任した。
貞次郎は五人を引き連れ、夜の横浜の街路を早足で進んだ。運上所の役人に密航がバレれば全員死罪は免れない。貞次郎は慎重に五人を案内し、無事、彼らをジャーディン・マセソン商会の重役宅へ引き入れた。
そしてそこで五人は髷を切り落とし、用意してあった洋服に着替えた。
俊輔たちは切り落とした髷を貞次郎に託した。
「すっかり厄介をかけた。あと、これは最後の願いだ。我らの髷を村田洋学先生に形見として渡してくれ」
「かしこまりました。お気をつけていってらっしゃいまし」
そう言って貞次郎は去って行った。
夜中の零時ごろ、五人はジャーディン・マセソン商会のガウアーの手引きで、重役宅の裏手の海岸からカッター(はしけ船)に乗り込んで沖の蒸気船へと向かった。上海行きのチェルスウィック号という蒸気船である。
その時、五人のうちの誰かが
「まるで夜逃げするみたいだな……」
とつぶやいた。
俊輔は心の中で「何を言うか」と思った。
(お主らは松門ではないから気にも留めまいが、松陰先生が九年前に果たせなかった夢をワシがやり遂げるんだ!)
五人は無事、チェルスウィック号に乗船することが出来た。しかし船員たちは幕府に密航がバレることを怖れ、用心のために五人を石炭置き場に押し込んだ。
ともかくも、こうして長州の五人の若者は密航に成功したのであった。
正式な記録として残っているものでは(また事故で漂流した例などを除けば)この翌年に新島襄が箱館からアメリカへ密航し、更にその翌年には薩摩の五代才助(友厚)、松木弘安(寺島宗則)などがヨーロッパへ密航することになるが(いわゆる薩摩スチューデント)、この「長州ファイブ」の密航は、他と比べると極めて早い時期に敢行されている。
それはやはり「黒船密航を試みた吉田松陰を出した長州藩だからだろう」と筆者などは安直に考えてしまうのだが、ちょっと安直すぎるだろうか。
しかし、危険を冒して海外へ向かう五人の行動とは裏腹に、この二十四時間ほど前(五月十一日の午前二時頃)彼らの故郷長州の下関では、五月十日の攘夷期日に合わせてアメリカ商船に砲撃を開始していたのであった。
彼らはまだ、その事を知らなかった。
浅野はベルクールにイギリスへの仲裁を申し込んだ。
「ニール殿が我々との交渉を完全に拒絶しているので、貴殿らと相談する以外に術がないのです」
ベルクールは素っ気なく答えた。
「あれだけイギリスに対して無礼な対応をすれば、交渉を拒絶されるのは当たり前だ」
これに重ねるようにジョレスが言った。
「我々は横浜の外国人を守るために海兵隊を上陸させるつもりだ」
浅野は真っ青な表情になって尋ねた。
「それは横浜を占領するという意味なのですか?」
「いや。土地の一部を借りて兵を駐屯させるだけだ。土地の所有権は日本のままである」
このジョレスの答えに対し浅野は汗をかきながら絞り出すように言った。
「……もし横浜で騒乱が発生した場合は、それもやむを得ないと存ずる」
そして会談の争点は「賠償金支払い」と「攘夷実行」の話に移った。浅野は説明した。
「賠償金の支払いを取りやめたのは一橋様が朝廷から“外国人追放令”を受けて、それに従わざるを得ないからです」
“外国人追放令”という言葉を聞いてベルクールとジョレスは怒りをあらわにした。
「外国人追放令?もし本当にそんな命令が出されれば、日本は我々によって完全に破壊されるだろう」
浅野は弁明した。
「いえ。一橋様は“外国人の友”なので本気ではありません。そういうフリをしないと朝廷や攘夷派から責められるからそうしているだけなのです。小笠原殿も一橋様と同じです。小笠原殿は武力に訴えてでも朝廷を説得する覚悟なので、いずれ賠償金は支払われることになるでしょう」
これに対してベルクールが答えた。
「しかしイギリスはもう武力発動の寸前だ。今日の件はイギリスに伝えるが、とにかく早く支払い手続きに入ったほうが良いだろう」
「承知しました。さっそく江戸の幕閣と相談します」
そう答えて浅野は江戸へ向かった。
五月八日、江戸城――。
浅野からの報告を受けても、江戸の幕閣は支払いの決断ができなかった。
江戸の幕閣たちは皆、弱りきっている。
事ここに至っては「もはや支払うしかない」と誰もが分かっているのである。けれどもそれを自ら言い出してしまっては、後々自分が朝廷から責任を追及されることになる。しかも今後攘夷派から命をつけ狙われる可能性もある。だから誰も言い出せないのである。
この時の幕府内の状況を福地源一郎は手記で次のように語っている。
「是(支払い)に同意しては後日の禍ありと恐れ、各々内心『誰かな是を専決せよかし』と祈ったる状況にてありき」
ところがここで小笠原が一人立ち上がって意見を表明した。
「こうなったら私が船で大坂へ行き、直接朝廷を説得する!」
周囲の幕閣たちは怪訝な表情で小笠原に問いかけた。
「今から行くのか?そなたが戻ってくるまでイギリスが待ってはくれまい?」
しかし小笠原は周囲の幕閣たちの声を無視して一人で出て行ってしまった。
そして小笠原は品川で幕府の蒸気船、蟠竜丸に乗り込んだ。余談ながら、この蟠竜丸は安政五年(1858年)の日英修好通商条約調印の際にイギリスから贈呈されたエンペラー号という蒸気船である。
同じ頃、神奈川宿では京都から東海道をゆっくりとやって来た一橋慶喜が到着していた。
その慶喜を神奈川奉行の浅野が訪問した。慶喜は浅野にたずねた。
「役目大儀。ところで、まさかイギリスに賠償金を支払ってはおるまいな?」
これに浅野が答えた。
「はい。『まだ』支払ってはおりません」
慶喜は浅野に目配せをして、それからうなずいてみせた。
浅野は慶喜の合図を受けとって、やはりうなずいて返事をした。
そして慶喜は浅野に命令した。
「至急、馬を用意せよ。これから急いで江戸へ向かう。なんとしても支払いをやめさせなければならぬからな」
慶喜は神奈川から馬で江戸へ向かって急行した。
一方、品川で蟠竜丸に乗り込んだ小笠原は大坂へは向かわず、夜になってから横浜に入港してきた。
小笠原は浅野を蟠竜丸に呼んで、今回の事情を説明した。
「今になっても幕閣は賠償金の支払いを決しかねている。なれど、一度支払うと明言した以上、それを履行せねば日本の恥となるゆえ、余の一存で支払いを実行することにした。ただし、賠償金を支払うのと同時に、この“鎖港通告書”を各国へ通達せよ」
浅野は小笠原の命をうけて、そのままフランス公使館へ直行した。
「賠償金を一括で支払う?!」
ベルクールは目を丸くして驚いた。浅野は賠償金支払いの説明を続けた。
「はい。先ほど小笠原殿から一括支払いの許可が出ました。賠償金はすでに運上所に用意してあり、明日間違いなく支払います。我々はニール殿から一切面会を断られておりますので、この旨、貴殿からニール殿にお伝え頂きたい」
浅野はさらに説明を続けた。
「そしてこれが先日お話しした“外国人追放令”の通告書です。小笠原殿の署名入りです」
「なんと!本気だったのかね、あれは!?」
「いえ。本気ではありません」
ベルクールは困惑せざるを得ない。それで浅野が説明を加えた。
「これは朝廷や攘夷派を刺激しないために書かれた、あくまでタテマエに過ぎないものです」
「とにかく、我々はこのような通告書には断固として抗議する!」
「それこそ我々の望む所なのです。朝廷や攘夷派を説得するために、断固とした抗議声明を通告してください」
さすがにベルクールは呆れた表情で答えた。
「なぜ、そこまで回りくどいやり方をするのか?実力で京都をおさえたほうが手っ取り早いではないか」
これに対し浅野は力強い表情で答えた。
「実はその方策も現在計画中なのです。近いうちに京都へ兵を送る予定なので、いずれ英仏両国に援助を要請するつもりです」
とにかくベルクールは、この浅野からの回答をイギリス公使館のニールへ報告しに行った。
ニールはベルクールから話を聞くと呆れた表情で感想を述べた。
「全くふざけた奴らだ。日本人という連中は。しかし無駄な血を流さずに、しかも一括で賠償金を獲得できたのはもっけの幸いだった。あとは薩摩の賠償金だけだが幕府が支払ったのだから、まあおそらく薩摩も素直に支払うだろう。とにかく、これで一件落着だな」
44万ドルの支払い作業は翌日から三日間かかった。
すべて銀貨で支払われ、清国(中国)人の貨幣検定人が銀貨の検査を担当した。これらの賠償金はイギリス艦隊のユーリアラス号、エンカウンター号、バール号に三分割して積み込まれたのであった。
こうして小笠原の独断によって急転直下賠償金は支払われたのだが、これは最初から慶喜と小笠原が裏で筋書きを描いていた、とも言われている。おそらく神奈川奉行の浅野も途中からその筋書きを知らされていたのだろう。
慶喜は元々開国主義者である。
また小笠原も京都にいた時
「勅命とあらば利害得失も考えずに攘夷を受け入れるのは女子供のやり方で、将軍家のやり方ではない」
と幕閣へ諫言したほどの人物だった。朝廷に従ったまま攘夷を実行するような人物ではない。
しかし慶喜の父は尊王攘夷の元締めだった水戸の烈公・徳川斉昭で、母は公家の有栖川宮家出身の貞芳院である。慶喜は血筋から言っても朝廷尊崇の念が篤く、勅命による攘夷鎖港命令には逆らえない。
それに加えて、幕府があらかじめ期日を定めて賠償金を支払うとなると、それを力ずくで阻止しようとする連中が現れる可能性もあった。慶喜の周囲には水戸から来ている家臣も大勢いる。それゆえ、策謀は極秘のうちに進めなければならなかったのだ。
とにかくこれで、幕府の賠償金支払いの件は落着した。
ただし「外国人追放令」および「幕府(小笠原)の京都への出兵計画」さらには「薩摩藩の賠償金支払いの件」の話がまだ残っている。しかしながらそれらは次回以降で語ることになろう。
今はこの騒ぎと時を同じくして横浜で苦闘している俊輔たちの様子に目を向けなければならない。
聞多は横浜で村田蔵六と面会した。
村田は元々憮然としている表情をさらに憮然とさせて、聞多にたずねた。
「このように騒がしい横浜へ呼び出して、一体何のご用ですか?」
「村田洋学先生。我々五人はロンドンへ洋行することに決めました」
「そうですか。それは素晴らしいことです。これからは英学をおさめるのが一番よろしい」
「ですが、洋行費用として五千両が必要なのです。なんとか先生に藩から五千両を引き出して頂きたい」
「五千両!?そのような大金を私が引き出せるはずがありません」
「私はイギリスの商人に刀を預けて約束してきました。五千両が手に入らなければ私は切腹して死ぬ覚悟です!」
蔵六は黙ったまま何も言わなかった。聞多は嘆願をつづけた。
「あるいは、勝手に村田先生の名目で伊豆倉から五千両を引き出し、あとは村田先生が小田原あたりで誰かに殺された、ということにしてしまえばどうか?と、いきり立っている同志もおります」
これにはさすがに村田もギョッとした。
なにしろ聞多、俊輔、山尾は藩内でも札付きの連中なのである。この連中なら確かにそれぐらいのことはやりかねない。
しかしそう思いながらも、なぜか村田はこの時、目の前にいる聞多のことが哀れに見えた。
せっかく横浜まで来て、洋行を目前にしながら苦心してあえいでいる、この五人の若者たちをどうにかしてロンドンへ送りこんでやりたい。村田は純粋にそう思った。
「わかりました。あなたと一緒に伊豆倉へ行って貞次郎さんに頼んでみましょう」
それから村田と聞多は伊豆倉の貞次郎を訪れ、鉄砲買い付け金の一万両を担保になんとか五千両を貸し出してもらいたいと頭を下げた。特に村田の大きな頭を下げたのが効いたのだろうか、貞次郎は支配役の大黒屋六兵衛の説得を引き受けた。
「まあ周布様とのお約束もございますから。天野屋利兵衛じゃございませんが『貞次郎も男でござる!』。なんとか六兵衛さんを説得してみましょう」
結局、万一問題が起きた時は長州藩では村田蔵六が、大黒屋側では佐藤貞次郎がすべて責任をとるということで、五千両が貸し出されることになった。
これで洋行費用の問題は解消され、さらに日英間の戦争も回避され、ようやく洋行計画が軌道に乗った。
俊輔は五月十日付けで父十蔵宛の手紙を書いた。
その手紙の中で、京都で会っていた時に言えなかったことを釈明した。
「今の急務は外国の事情を知り、海軍の勉強をすることです。長州藩のお役に立つため三年間だけ留学をお許し願いたい」
手紙にはそういった内容のことを書いたのだが、ここで正直に「五年」と書かず「三年」と書いたのは、やはり家族を心配させたくなかったからだろう。
五月十一日の夜、三日間におよんだ横浜での賠償金の積み込み作業が終わりかけていた頃、同じ横浜の佐野茂という料亭で五人の留学生および村田蔵六、佐藤貞次郎が送別の宴を開いた。
生きて帰国できる保証もない彼らにとっては「これが日本で飲む最後の酒になるかも知れない」と感じたか、あるいは「なに、海外といってもどれ程のことはあるまい。五年後には故郷に錦を飾るのだ」と思って飲んだか、少なくとも俊輔や聞多のような楽天家は後者であったろうと思われるが、その予想は大きく外れることになる。
さらにこの日、五千両借用の経緯を書状に書いてまとめ、聞多を筆頭に五人の名前で署名し五月十一日付けで藩に提出した。おそらく書状を預かったのはこの宴の席にいた村田であっただろう。
この書状の中で、藩から勝手に大金を押し借りしたことを謝罪し、その罪は万死に値するが志を果たせない場合は生きて帰らない、決死の覚悟でおこなった非常手段だったのです、と哀訴している。
さらに書状の終わりのところでは「生きた器械を買ったと思ってお許し願いたい」とも書かれている。
俊輔はこの宴の中で歌を詠んだ。
「丈夫の 恥を忍びて行く旅は 皇御国の為とこそ知れ」
この時の俊輔にとっては、この洋行も尊王攘夷の延長線上にあったということである。
そろそろ宴も終わりに近づいてきたので村田が五人に対して最後の訓示を述べた。
「諸君らは西洋の“技術”を身につけた『生きた器械』となりなさい。“技術”こそが物事を解決するのです」
そう言って村田は、これ以降のジャーディン・マセソン商会とのやり取り、および外国船に乗り込む手配を貞次郎に委任した。
貞次郎は五人を引き連れ、夜の横浜の街路を早足で進んだ。運上所の役人に密航がバレれば全員死罪は免れない。貞次郎は慎重に五人を案内し、無事、彼らをジャーディン・マセソン商会の重役宅へ引き入れた。
そしてそこで五人は髷を切り落とし、用意してあった洋服に着替えた。
俊輔たちは切り落とした髷を貞次郎に託した。
「すっかり厄介をかけた。あと、これは最後の願いだ。我らの髷を村田洋学先生に形見として渡してくれ」
「かしこまりました。お気をつけていってらっしゃいまし」
そう言って貞次郎は去って行った。
夜中の零時ごろ、五人はジャーディン・マセソン商会のガウアーの手引きで、重役宅の裏手の海岸からカッター(はしけ船)に乗り込んで沖の蒸気船へと向かった。上海行きのチェルスウィック号という蒸気船である。
その時、五人のうちの誰かが
「まるで夜逃げするみたいだな……」
とつぶやいた。
俊輔は心の中で「何を言うか」と思った。
(お主らは松門ではないから気にも留めまいが、松陰先生が九年前に果たせなかった夢をワシがやり遂げるんだ!)
五人は無事、チェルスウィック号に乗船することが出来た。しかし船員たちは幕府に密航がバレることを怖れ、用心のために五人を石炭置き場に押し込んだ。
ともかくも、こうして長州の五人の若者は密航に成功したのであった。
正式な記録として残っているものでは(また事故で漂流した例などを除けば)この翌年に新島襄が箱館からアメリカへ密航し、更にその翌年には薩摩の五代才助(友厚)、松木弘安(寺島宗則)などがヨーロッパへ密航することになるが(いわゆる薩摩スチューデント)、この「長州ファイブ」の密航は、他と比べると極めて早い時期に敢行されている。
それはやはり「黒船密航を試みた吉田松陰を出した長州藩だからだろう」と筆者などは安直に考えてしまうのだが、ちょっと安直すぎるだろうか。
しかし、危険を冒して海外へ向かう五人の行動とは裏腹に、この二十四時間ほど前(五月十一日の午前二時頃)彼らの故郷長州の下関では、五月十日の攘夷期日に合わせてアメリカ商船に砲撃を開始していたのであった。
彼らはまだ、その事を知らなかった。
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かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
異・雨月
筑前助広
歴史・時代
幕末。泰平の世を築いた江戸幕府の屋台骨が揺らぎだした頃、怡土藩中老の三男として生まれた谷原睦之介は、誰にも言えぬ恋に身を焦がしながら鬱屈した日々を過ごしていた。未来のない恋。先の見えた将来。何も変わらず、このまま世の中は当たり前のように続くと思っていたのだが――。
<本作は、小説家になろう・カクヨムに連載したものを、加筆修正し掲載しています>
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・地名とは一切関係ありません。
※この物語は、「巷説江戸演義」と題した筑前筑後オリジナル作品企画の作品群です。舞台は江戸時代ですが、オリジナル解釈の江戸時代ですので、史実とは違う部分も多数ございますので、どうぞご注意ください。また、作中には実際の地名が登場しますが、実在のものとは違いますので、併せてご注意ください。

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。
天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。
岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?
架空戦記 隻眼龍将伝
常陸之介寛浩☆第4回歴史時代小説読者賞
歴史・時代
第四回歴史・時代劇小説大賞エントリー
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あと20年早く生まれてきたら、天下を制する戦いをしていただろうとする奥州覇者、伊達政宗。
そんな伊達政宗に時代と言う風が大きく見方をする時間軸の世界。
この物語は語り継がれし歴史とは大きく変わった物語。
伊達家御抱え忍者・黒脛巾組の暗躍により私たちの知る歴史とは大きくかけ離れた物語が繰り広げられていた。
異時間軸戦国物語、if戦記が今ここに始まる。
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この物語は、作者が連載中の「天寿を全うしたら美少女閻魔大王に異世界に転生を薦められました~戦国時代から宇宙へ~」のように、異能力・オーバーテクノロジーなどは登場しません。
異世界転生者、異次元転生者・閻魔ちゃん・神・宇宙人も登場しません。
作者は時代劇が好き、歴史が好き、伊達政宗が好き、そんなレベルでしかなく忠実に歴史にあった物語を書けるほどの知識を持ってはおりません。
戦国時代を舞台にした物語としてお楽しみください。
ご希望の登場人物がいれば感想に書いていただければ登場を考えたいと思います。

大日本帝国、アラスカを購入して無双する
雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。
大日本帝国VS全世界、ここに開幕!
※架空の日本史・世界史です。
※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。
※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。

新撰組のものがたり
琉莉派
歴史・時代
近藤・土方ら試衛館一門は、もともと尊王攘夷の志を胸に京へ上った。
ところが京の政治状況に巻き込まれ、翻弄され、いつしか尊王攘夷派から敵対視される立場に追いやられる。
近藤は弱気に陥り、何度も「新撰組をやめたい」とお上に申し出るが、聞き入れてもらえない――。
町田市小野路町の小島邸に残る近藤勇が出した手紙の数々には、一般に鬼の局長として知られる近藤の姿とは真逆の、弱々しい一面が克明にあらわれている。
近藤はずっと、新撰組を解散して多摩に帰りたいと思っていたのだ。
最新の歴史研究で明らかになった新撰組の実相を、真正面から描きます。
主人公は土方歳三。
彼の恋と戦いの日々がメインとなります。
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