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第二章・尊王攘夷
第11話 御殿山と塙次郎(後編)
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俊輔が土蔵相模の仲間のところへ戻ってみると放火用の焼玉が届いていた。
しかし部屋の隅では福原乙之進が黒いゲロを吐きながら倒れていた。
福原たちは先日来、桜田藩邸の有備館で焼玉を作りつづけてようやく完成させた。そしてこの日、数人が別々のルートで焼玉をこの土蔵相模に運んできたのだが、福原だけは途中の辻番所で立ち小便をした際に番人に咎められ、とっさに証拠隠滅のため焼玉を食べてしまったのだ。一応、他の連中が運んできた焼玉は無事届いたので焼き討ち作戦はそのまま続行されることになった。
俊輔と聞多は焼玉を一つずつ手に取った。
焼き討ちの際、この二人は火付けの実行部隊である。
「だけど聞多よ。これを明日の夜まで持っているというのも心配だな。どこかに隠しておくか」
「よし。それならお里の部屋の額の裏に隠しておこう」
そんな訳で俊輔と聞多の焼玉は、聞多の馴染みであるお里の部屋に隠しておいた。
そして翌日の十二月十二日になった。
西暦で言えば1月31日であり、寒さの一番厳しい時期である。
この日の夜九つ半(午前一時)高杉たち一同は土蔵相模を出て、すぐ近くにそそり立っている御殿山へ向かった。夜分とはいえ遊郭から出て来る男たちなのだから別に誰もこれをあやしまなかった。
俊輔は意気揚々と歩いている聞多に念のため焼玉のことを聞いてみた。
「聞多、抜かりはなかろうな?」
「俺に手落ちがあるものか」
御殿山には警固用として周囲に空堀りが掘られ、山上には木製の柵が張り巡らしてあった。一同は空堀りを渡って御殿山の上によじ登った。
ところが彼らは山上にある柵のことまで頭が回っていなかった。この柵をよじ登って中へ入るのは相当難儀に思えた。
久坂が嘆いた。
「誰もこの柵のことに気づかなかったとは無念だ」
そこですかさず俊輔が
「こんなこともあろうかと、ワシがのこぎりを用意しておいた」
と土蔵相模の天水桶のところに隠しておいたノコギリを取り出してギコギコと柵を切断し始めた。
これだけの頭数がいながらノコギリが必要であることに俊輔以外誰も気がつかないというのもノー天気な話だが、たった一本のノコギリでギコギコと出入り口を作っているこの連中に気がつかない幕府警備陣も、よほど間抜けだったと言えよう。
一同はノコギリで開けたところを通って中へ入った。
が、敷地内でとうとう番人に見つかった。
「何者だ!そこで何をしている!」
「我々は天下の志士だ!この山の上に漂っている妖気を払うために来たのだ!」
高杉がそう叫んで、番人がぶら下げていた葵の紋章が入った提灯をブチ斬ったところ、その番人は一目散に逃げていった。
すかさず俊輔や聞多たち火付けの実行部隊がイギリス公使館の中へ入っていった。
「よし、聞多、焼玉を出せ!」
「しまった!お里の部屋に置き忘れてきた!」
「肝心な時に役に立たんな、聞多よ!」
とにかく別のもう一人が持っていた焼玉を使い、その周りに燃えやすいものを集めて火を付けたところ、なんとか炎を作り出せた。けれどもそれだけでは心もとないので炎の中に燃えそうなものを何でもかんでも投げ入れた。するとたちまち部屋中に火が燃え広がり、俊輔たちは建物から急いで逃げ出した。
この時俊輔はあわてて逃げたため土蔵相模の馴染みの妓からもらった文を犯行現場に落っことしてしまった。それに気がついたのは御殿山から逃走した後のことだった。
一方聞多は聞多で、ノコギリで作った出入り口の場所がわからず、仕方がないので柵をよじ登って外に降りた。ところが目測を誤ってそのまま空堀りまで転げ落ちてしまった。
山頂から空堀りまで落ちたのだから数十メートルは落下したであろう。
死ぬか骨折してもおかしくはなかったのだが、この殺しても死にそうにない頑丈な体の持ち主は泥だらけにはなったものの、そのままむくりと立ち上がって空堀りをよじ登りはじめた。
その後あちこちと道に迷ったあげく、どうにかこうにか高輪の近くまで来て武蔵屋という顔なじみの引手茶屋(客を遊郭へ案内する茶屋)に入った。
茶屋の女将は全身泥だらけの聞多を見てビックリした。
「これはまあ、一体どうしたことでございますか」
「いや、たった今御殿山で火事があって火消しが大勢走ってきたもんだから、それを避けようとしたら道端のドブに落っこちたのだ。えらい災難だった。それにしてもあんな所で火事が起こるなんて物騒な世の中じゃ」
そう平然と答えた聞多は、風呂で泥を洗い落として服を着替えた。そして駕籠で土蔵相模へ送ってもらった。
他の連中も皆上手く逃げおおせた。
高杉と久坂は芝浦の海月楼まで逃げ、ここの二階から御殿山の火事をながめつつ酒を痛飲した。
そしてその周囲の部屋でも一般客たちが火事をながめて騒いでいた。
「御殿山の異人館が景気よく燃えてやがらあ!」
「ざまあみろ!俺たちから御殿山を取り上げた罰だ!」
町人らしい真っ正直さ、かつ無責任さで彼らはこの焼き討ちを歓迎しているようであった。
そしてそのころ俊輔は、近くの農家の肥溜め小屋で藁の中に隠れて夜が明けるのを待っていた。
駕籠で土蔵相模へ戻った聞多は、すぐにお里の部屋へ向かった。
いや。いくら聞多とはいえ、このボロ雑巾のようにくたびれ果てた状態でそれほどの精力はない。
例の置き忘れてきた焼玉が心配だったのだ。
誤って土蔵相模で爆発させたらお里の部屋はおろか、建物中が火の海になる。それに万一あれが幕府役人に見つかったら放火の犯人が聞多であるとバレてしまう。バレれば死罪は間違いない。
「お里、実はちょっといたずらをして額の裏に炭団を隠しておいたのだが……」
「あなたは本当に乱暴ないたずらをなさいます。今、取り出して炭箱の中に入れたところです。お体も冷えてらっしゃるでしょうから、すぐに火鉢へ入れましょう」
お里はそう言うや、炭団を火にくべようとした。
焦った聞多はすかさずお里を止めようとした。焼玉を火にくべたら爆発してしまう。
「バカっ、やめろ!」
「まあ、ひどい言い草。炭団を火鉢へ入れるのにバカとは何です」
聞多は有無を言わさずお里から炭団を取り上げた。しかしお里は笑いながら言った。
「本当にそれはただの炭団です。ちょっと驚かせてみただけですわ。あなたが隠しておいた焼玉は私がさっき海に捨てました」
聞多はギョッとした。そして怖い目でお里をにらんで言った。
「焼玉だと?お前、なぜそれを知っている?」
「あのようにいつも大声でしゃべっていれば、あなたがたの計画は部屋の外まで筒抜けです。あの火事はあなたがたの仕業でしょう?まったく見損なわれたものですわ。どうして私があなたのためにならぬことを致しましょう」
お里は涙を流しながら、そう聞多に言った。
聞多は「すまん、お里すまん」と深くお里に謝って、そのまま土蔵相模で泥のように眠った。
翌朝、火災現場を調べたところ遺留品は「ヤーゲル銃一丁、ノコギリ一丁、下駄片足、遊女の艶書が一通」だった。もちろん「遊女の艶書」は俊輔が落としたものである。手紙の差し出し人のところに「お花」と書いてあるだけで相模屋の名も俊輔の名も入ってなかったので俊輔が犯人とはバレなかった。「お花」という名の遊女は品川に掃いて捨てるほどおり、幕府の役人も犯人を調べようがなかった。
ただし実際のところを言えば、幕府は「犯人は長州藩の連中である」と目星をつけていたらしい。
けれどもこの当時勢いのあった長州藩に遠慮したことと、さらにこの御殿山に公使館を建てることには朝廷(天皇)からの反対も強く、しかも江戸の民衆からの反対も強かったので、いっそこのままウヤムヤにしてしまったほうが好都合である、と幕府は考えたようである。
とにかくこれで、サトウが抱いていた江戸居住の夢は水泡に帰したのであった。
ところで後年、サトウは次のように手記で語っている。
「その後、幾年か経って、確かな筋から放火犯人は大部分が攘夷党の長州藩士であった事を聞いた。少なくともその中の三人は後に政府の高官に出世している。それは総理大臣伊藤伯爵と井上馨伯爵とで、もう一人は誰であったか思い出せない」
この「もう一人」は後の工部卿(明治初年の一時期、殖産興業政策を担当した工部省の長官)山尾庸三子爵のことで間違いなかろう。ちなみにこれは明治十九年(1886年)段階の爵位なので実際「俊輔」こと伊藤博文の最終爵位は最上位の公爵で、「聞多」こと井上馨はそれに次ぐ侯爵である。
それから八日後の十二月二十一日の夜。場所は番町。
この頃の江戸切絵図で番町の地図を見ると御厩谷坂をのぼった辺りに塙次郎の屋敷が見える。
表六番丁通りに面していて、対角の向かい側には下野佐野藩の堀田摂津守の藩邸がある。現在の住所で言えば千代田区三番町で、靖国神社の南側の辺りである。
大妻女子大学の北隣りの辺りが塙次郎の屋敷があった場所に該当すると思われる。現在靖国神社の中に「練兵館跡」の史跡が残っているように、そこには当時、桂や山尾が通った斎藤弥九郎の剣術道場、練兵館があった。この場所は塙次郎の屋敷から100メートルぐらいしか離れていない。
余談ではあるが、塙次郎の屋敷の少し東のほうには村田蔵六が開塾した鳩居堂があった(現在の千鳥ケ淵戦没者墓苑の辺り)。そして塙次郎の屋敷から少し南のほうには、後にサトウがその地に桜を植えることになる現・駐日イギリス大使館がある。
練兵館に通っていた山尾はこの辺りの地理に詳しかった。
数日前、山尾は俊輔を連れて塙の屋敷を訪れ、二人で弟子入りを申し込んだ。
なぜそんなことをしたのか?というと、あらかじめ塙の顔を確認しておきたかったからである。
俊輔や山尾が塙を狙う理由はすでに書いた通りだが、このころ世間の攘夷熱が最高潮に達していたことも俊輔と山尾の心理状態に多少の影響を与えていたであろう。
おそらくこの前後の頃と思われるが、桜田藩邸の有備館で幕府のスパイと見られていた宇野八郎が高杉晋作によって斬り殺された(この事件には俊輔も関与した)。そしてこの塙次郎を狙った日の四日前には横井小楠が攘夷派に襲撃されている(小楠は助かったがこの事件が原因で失脚した)。
このころ京都で“天誅”と称する暗殺事件が頻発していたことは俊輔が京都にいた頃の場面ですでに解説済みである。そしてこの八日前には俊輔と山尾も参加して御殿山を焼き討ちした。
こういった当時の攘夷熱が、俊輔と山尾の暗殺に対する拒否反応をやわらげてしまったことは、おそらく事実であったろう。
この日、塙次郎は駿河台の中坊某の歌会に出席していた。
俊輔と山尾はその帰りを狙って九段坂上で待ち伏せることにした。昼のうちに九段坂上の練兵館に入って(練兵館は長州系志士の巣窟のような場所である)そこで夜を待った。そして頃合いになったので二人は外へ出て、建物の陰から塙がやって来るのを見張った。
「寒いのう、俊輔」
「寒いと言うて寒さがおさまるものか。とにかく打ち合わせ通り、供の者はお主に任せる。ワシは塙を狙う」
「まあ仕方あるまい。剣の腕から考えれば俺が厳しいほうにあたるしかなかろうしな。だけど俊輔、お前は本当に人斬りが初めてなのか?どうしてそんなに落ちついていられるんだ?」
「バカを言え。落ちついてなどいるものか。ただ、今さらジタバタしても始まらんからな。俺はやれる。きっと上手く行く。そう開き直っているだけのことだ」
「そのクソ度胸を見習いたいものだ」
「何を言うか。お主のほうがワシより強いのだぞ。ワシがお主を見習いたいぐらいだ。大丈夫、お主ならきっと上手くやれ……。おい、どうやら塙が来たようだぞ」
そう言って俊輔は自分の顔を隠すために頭巾をかぶった。すかさず山尾も頭巾をかぶった。
遠くから塙家の家紋が入った提灯が近づいてくるのが見える。人数はどうやら三人らしい。先頭に提灯を持っている若党がいて、その後ろに付き人らしい若い男と、塙がいる。
俊輔と山尾は息を凝らして三人が近づいてくるのを待った。が、二人にはお互いの「ハア、ハア」という緊張した息づかいがハッキリと聞こえてきた。
三人はひたひたと歩いてくる。そしてついに三人は俊輔たちの目の前まで来た。
提灯を持った若党はやり過ごした。
次に続く付き人らしい若い男が近づいた時、俊輔と山尾は物陰から飛び出した。
山尾が付き人の若い男に無言で斬りつけた。
手ごたえがあった。かなりの深手を与えたことは間違いなさそうだった。
俊輔は「国賊!」と叫んで塙へ向かって突き進んだ。そして塙に斬りつけたが、かすっただけだった。
山尾は若い男に斬りつけた後、すかさず振り向いて提灯を持った若党に向かって斬りつけに行った。しかしその男は叫び声をあげ、提灯を捨てて逃げて行った。
塙は老齢の身でありながら刀を抜いて俊輔と対峙した。
「闇討ちとは卑怯なり!名を名乗れ!」
俊輔は名乗らなかった。そしてもう一度塙に斬りつけたが、塙はそれを刀で受け流した。
「貴様、こんな卑怯なマネをして。親が知ったら泣くぞ!」
親思いの俊輔にとって親のことを言われるのはつらい。俊輔は一瞬ひるんだ。
「ほう、貴様存外正直ものだな」
そう言って今度は塙が俊輔に斬りつけてきたところ、俊輔はとっさに横っ飛びをして、かろうじて塙の刀を避けた。そしてすかさず体ごと塙に飛び込んで、腰にくらいついて押し倒した。
転びながら塙は、しがみついている俊輔に対して叫んだ。
「暗殺者はいずれ必ず暗殺者に殺されるぞ!」
俊輔は構わず塙に馬乗りになって胸のあたりを何度も突き刺した。
噴き出した血が俊輔の顔と胸のあたりを真っ赤に染めた。
少し離れた所では山尾が付き人の若い男にとどめを刺していた。
そしてこの路上での騒ぎを、おそるおそる遠くからうかがっている人影がチラホラと目につくようになった。
山尾が俊輔に呼びかけた。
「やったか?」
俊輔は無我夢中で塙を刺していた。
「ハアハア……。ああ、やった。すぐに逃げよう」
二人は足早にその場から逃げ去った。
後年、伊藤はこの時のことを次のように回顧している。
「あの時は実に危うかった。というのは吾輩の衣類に血がついていた。その血のついたままで幕吏の前を通り抜けた。もしあの時捕縛されていればその血が証拠となって、ついに罪を免れることは出来なかっただろう。しかし幸いにして無事に通り抜けた」
俊輔たちは後日、この犯行現場の近くに捨て札を立てた。
「この者儀、昨年安藤対馬守と同腹致し、かねて御国体をわきまえながら前田健助と共に恐れ多くもいわれなき古の記録を取調べ候段、大逆の至りなり。これによって三番町において天誅を加えるものなり」
さて、最後に一つだけ後年のエピソードを述べておきたい。
明治時代になってから山尾庸三は盲学校、聾学校の建設を積極的に主張し、障害者教育に熱心に取り組んだ。久田信行氏の調べによると、山尾が設立に尽力した東京盲唖学校の設立記念日は、皇室から三千円の下賜金が寄付された明治九年12月22日の日付となっているそうである。
俊輔と山尾が塙次郎を襲ったのは十二月二十一日だが、実際に塙次郎が亡くなったのはその翌日の十二月二十二日である。
旧暦と西暦の違いがあるとはいえ、この「十二月二十二日」が偶然の一致とは思えない。
塙次郎の父は「盲目の学者」として有名だった塙保己一である。
山尾がこの時の暗殺を懺悔して、これらの福祉活動に尽力したことは間違いなさそうである(※以上の事は久田信行氏の「盲唖学校の設立と山尾庸三 (補遺)」を参照にした)。
年が明けて一月五日、高杉晋作は小塚原に埋葬されていた松陰の遺骨を若林の大夫山(現在世田谷にある松陰神社の地)へ改葬した。俊輔と山尾も遺骨を運ぶ改葬の列に参加した。
その途中、馬に乗った高杉が上野山下の三枚橋を渡る際に、将軍しか通ることの出来ない真ん中の橋を押し渡ったというのは有名なエピソードであろう。
橋守をしていた番人が高杉を止めようとしたところ、たちまち高杉が刀を引き抜いて
「朝廷からの勅旨によって勤王志士の遺骨を葬るのだ。将軍の通る道もクソもあるか。貴様、邪魔すると叩っ斬るぞ!」
と叫んだ。
番人は驚倒してあたふたと逃げて行った。
こうして物語は文久三年へと突入することになる。
しかし部屋の隅では福原乙之進が黒いゲロを吐きながら倒れていた。
福原たちは先日来、桜田藩邸の有備館で焼玉を作りつづけてようやく完成させた。そしてこの日、数人が別々のルートで焼玉をこの土蔵相模に運んできたのだが、福原だけは途中の辻番所で立ち小便をした際に番人に咎められ、とっさに証拠隠滅のため焼玉を食べてしまったのだ。一応、他の連中が運んできた焼玉は無事届いたので焼き討ち作戦はそのまま続行されることになった。
俊輔と聞多は焼玉を一つずつ手に取った。
焼き討ちの際、この二人は火付けの実行部隊である。
「だけど聞多よ。これを明日の夜まで持っているというのも心配だな。どこかに隠しておくか」
「よし。それならお里の部屋の額の裏に隠しておこう」
そんな訳で俊輔と聞多の焼玉は、聞多の馴染みであるお里の部屋に隠しておいた。
そして翌日の十二月十二日になった。
西暦で言えば1月31日であり、寒さの一番厳しい時期である。
この日の夜九つ半(午前一時)高杉たち一同は土蔵相模を出て、すぐ近くにそそり立っている御殿山へ向かった。夜分とはいえ遊郭から出て来る男たちなのだから別に誰もこれをあやしまなかった。
俊輔は意気揚々と歩いている聞多に念のため焼玉のことを聞いてみた。
「聞多、抜かりはなかろうな?」
「俺に手落ちがあるものか」
御殿山には警固用として周囲に空堀りが掘られ、山上には木製の柵が張り巡らしてあった。一同は空堀りを渡って御殿山の上によじ登った。
ところが彼らは山上にある柵のことまで頭が回っていなかった。この柵をよじ登って中へ入るのは相当難儀に思えた。
久坂が嘆いた。
「誰もこの柵のことに気づかなかったとは無念だ」
そこですかさず俊輔が
「こんなこともあろうかと、ワシがのこぎりを用意しておいた」
と土蔵相模の天水桶のところに隠しておいたノコギリを取り出してギコギコと柵を切断し始めた。
これだけの頭数がいながらノコギリが必要であることに俊輔以外誰も気がつかないというのもノー天気な話だが、たった一本のノコギリでギコギコと出入り口を作っているこの連中に気がつかない幕府警備陣も、よほど間抜けだったと言えよう。
一同はノコギリで開けたところを通って中へ入った。
が、敷地内でとうとう番人に見つかった。
「何者だ!そこで何をしている!」
「我々は天下の志士だ!この山の上に漂っている妖気を払うために来たのだ!」
高杉がそう叫んで、番人がぶら下げていた葵の紋章が入った提灯をブチ斬ったところ、その番人は一目散に逃げていった。
すかさず俊輔や聞多たち火付けの実行部隊がイギリス公使館の中へ入っていった。
「よし、聞多、焼玉を出せ!」
「しまった!お里の部屋に置き忘れてきた!」
「肝心な時に役に立たんな、聞多よ!」
とにかく別のもう一人が持っていた焼玉を使い、その周りに燃えやすいものを集めて火を付けたところ、なんとか炎を作り出せた。けれどもそれだけでは心もとないので炎の中に燃えそうなものを何でもかんでも投げ入れた。するとたちまち部屋中に火が燃え広がり、俊輔たちは建物から急いで逃げ出した。
この時俊輔はあわてて逃げたため土蔵相模の馴染みの妓からもらった文を犯行現場に落っことしてしまった。それに気がついたのは御殿山から逃走した後のことだった。
一方聞多は聞多で、ノコギリで作った出入り口の場所がわからず、仕方がないので柵をよじ登って外に降りた。ところが目測を誤ってそのまま空堀りまで転げ落ちてしまった。
山頂から空堀りまで落ちたのだから数十メートルは落下したであろう。
死ぬか骨折してもおかしくはなかったのだが、この殺しても死にそうにない頑丈な体の持ち主は泥だらけにはなったものの、そのままむくりと立ち上がって空堀りをよじ登りはじめた。
その後あちこちと道に迷ったあげく、どうにかこうにか高輪の近くまで来て武蔵屋という顔なじみの引手茶屋(客を遊郭へ案内する茶屋)に入った。
茶屋の女将は全身泥だらけの聞多を見てビックリした。
「これはまあ、一体どうしたことでございますか」
「いや、たった今御殿山で火事があって火消しが大勢走ってきたもんだから、それを避けようとしたら道端のドブに落っこちたのだ。えらい災難だった。それにしてもあんな所で火事が起こるなんて物騒な世の中じゃ」
そう平然と答えた聞多は、風呂で泥を洗い落として服を着替えた。そして駕籠で土蔵相模へ送ってもらった。
他の連中も皆上手く逃げおおせた。
高杉と久坂は芝浦の海月楼まで逃げ、ここの二階から御殿山の火事をながめつつ酒を痛飲した。
そしてその周囲の部屋でも一般客たちが火事をながめて騒いでいた。
「御殿山の異人館が景気よく燃えてやがらあ!」
「ざまあみろ!俺たちから御殿山を取り上げた罰だ!」
町人らしい真っ正直さ、かつ無責任さで彼らはこの焼き討ちを歓迎しているようであった。
そしてそのころ俊輔は、近くの農家の肥溜め小屋で藁の中に隠れて夜が明けるのを待っていた。
駕籠で土蔵相模へ戻った聞多は、すぐにお里の部屋へ向かった。
いや。いくら聞多とはいえ、このボロ雑巾のようにくたびれ果てた状態でそれほどの精力はない。
例の置き忘れてきた焼玉が心配だったのだ。
誤って土蔵相模で爆発させたらお里の部屋はおろか、建物中が火の海になる。それに万一あれが幕府役人に見つかったら放火の犯人が聞多であるとバレてしまう。バレれば死罪は間違いない。
「お里、実はちょっといたずらをして額の裏に炭団を隠しておいたのだが……」
「あなたは本当に乱暴ないたずらをなさいます。今、取り出して炭箱の中に入れたところです。お体も冷えてらっしゃるでしょうから、すぐに火鉢へ入れましょう」
お里はそう言うや、炭団を火にくべようとした。
焦った聞多はすかさずお里を止めようとした。焼玉を火にくべたら爆発してしまう。
「バカっ、やめろ!」
「まあ、ひどい言い草。炭団を火鉢へ入れるのにバカとは何です」
聞多は有無を言わさずお里から炭団を取り上げた。しかしお里は笑いながら言った。
「本当にそれはただの炭団です。ちょっと驚かせてみただけですわ。あなたが隠しておいた焼玉は私がさっき海に捨てました」
聞多はギョッとした。そして怖い目でお里をにらんで言った。
「焼玉だと?お前、なぜそれを知っている?」
「あのようにいつも大声でしゃべっていれば、あなたがたの計画は部屋の外まで筒抜けです。あの火事はあなたがたの仕業でしょう?まったく見損なわれたものですわ。どうして私があなたのためにならぬことを致しましょう」
お里は涙を流しながら、そう聞多に言った。
聞多は「すまん、お里すまん」と深くお里に謝って、そのまま土蔵相模で泥のように眠った。
翌朝、火災現場を調べたところ遺留品は「ヤーゲル銃一丁、ノコギリ一丁、下駄片足、遊女の艶書が一通」だった。もちろん「遊女の艶書」は俊輔が落としたものである。手紙の差し出し人のところに「お花」と書いてあるだけで相模屋の名も俊輔の名も入ってなかったので俊輔が犯人とはバレなかった。「お花」という名の遊女は品川に掃いて捨てるほどおり、幕府の役人も犯人を調べようがなかった。
ただし実際のところを言えば、幕府は「犯人は長州藩の連中である」と目星をつけていたらしい。
けれどもこの当時勢いのあった長州藩に遠慮したことと、さらにこの御殿山に公使館を建てることには朝廷(天皇)からの反対も強く、しかも江戸の民衆からの反対も強かったので、いっそこのままウヤムヤにしてしまったほうが好都合である、と幕府は考えたようである。
とにかくこれで、サトウが抱いていた江戸居住の夢は水泡に帰したのであった。
ところで後年、サトウは次のように手記で語っている。
「その後、幾年か経って、確かな筋から放火犯人は大部分が攘夷党の長州藩士であった事を聞いた。少なくともその中の三人は後に政府の高官に出世している。それは総理大臣伊藤伯爵と井上馨伯爵とで、もう一人は誰であったか思い出せない」
この「もう一人」は後の工部卿(明治初年の一時期、殖産興業政策を担当した工部省の長官)山尾庸三子爵のことで間違いなかろう。ちなみにこれは明治十九年(1886年)段階の爵位なので実際「俊輔」こと伊藤博文の最終爵位は最上位の公爵で、「聞多」こと井上馨はそれに次ぐ侯爵である。
それから八日後の十二月二十一日の夜。場所は番町。
この頃の江戸切絵図で番町の地図を見ると御厩谷坂をのぼった辺りに塙次郎の屋敷が見える。
表六番丁通りに面していて、対角の向かい側には下野佐野藩の堀田摂津守の藩邸がある。現在の住所で言えば千代田区三番町で、靖国神社の南側の辺りである。
大妻女子大学の北隣りの辺りが塙次郎の屋敷があった場所に該当すると思われる。現在靖国神社の中に「練兵館跡」の史跡が残っているように、そこには当時、桂や山尾が通った斎藤弥九郎の剣術道場、練兵館があった。この場所は塙次郎の屋敷から100メートルぐらいしか離れていない。
余談ではあるが、塙次郎の屋敷の少し東のほうには村田蔵六が開塾した鳩居堂があった(現在の千鳥ケ淵戦没者墓苑の辺り)。そして塙次郎の屋敷から少し南のほうには、後にサトウがその地に桜を植えることになる現・駐日イギリス大使館がある。
練兵館に通っていた山尾はこの辺りの地理に詳しかった。
数日前、山尾は俊輔を連れて塙の屋敷を訪れ、二人で弟子入りを申し込んだ。
なぜそんなことをしたのか?というと、あらかじめ塙の顔を確認しておきたかったからである。
俊輔や山尾が塙を狙う理由はすでに書いた通りだが、このころ世間の攘夷熱が最高潮に達していたことも俊輔と山尾の心理状態に多少の影響を与えていたであろう。
おそらくこの前後の頃と思われるが、桜田藩邸の有備館で幕府のスパイと見られていた宇野八郎が高杉晋作によって斬り殺された(この事件には俊輔も関与した)。そしてこの塙次郎を狙った日の四日前には横井小楠が攘夷派に襲撃されている(小楠は助かったがこの事件が原因で失脚した)。
このころ京都で“天誅”と称する暗殺事件が頻発していたことは俊輔が京都にいた頃の場面ですでに解説済みである。そしてこの八日前には俊輔と山尾も参加して御殿山を焼き討ちした。
こういった当時の攘夷熱が、俊輔と山尾の暗殺に対する拒否反応をやわらげてしまったことは、おそらく事実であったろう。
この日、塙次郎は駿河台の中坊某の歌会に出席していた。
俊輔と山尾はその帰りを狙って九段坂上で待ち伏せることにした。昼のうちに九段坂上の練兵館に入って(練兵館は長州系志士の巣窟のような場所である)そこで夜を待った。そして頃合いになったので二人は外へ出て、建物の陰から塙がやって来るのを見張った。
「寒いのう、俊輔」
「寒いと言うて寒さがおさまるものか。とにかく打ち合わせ通り、供の者はお主に任せる。ワシは塙を狙う」
「まあ仕方あるまい。剣の腕から考えれば俺が厳しいほうにあたるしかなかろうしな。だけど俊輔、お前は本当に人斬りが初めてなのか?どうしてそんなに落ちついていられるんだ?」
「バカを言え。落ちついてなどいるものか。ただ、今さらジタバタしても始まらんからな。俺はやれる。きっと上手く行く。そう開き直っているだけのことだ」
「そのクソ度胸を見習いたいものだ」
「何を言うか。お主のほうがワシより強いのだぞ。ワシがお主を見習いたいぐらいだ。大丈夫、お主ならきっと上手くやれ……。おい、どうやら塙が来たようだぞ」
そう言って俊輔は自分の顔を隠すために頭巾をかぶった。すかさず山尾も頭巾をかぶった。
遠くから塙家の家紋が入った提灯が近づいてくるのが見える。人数はどうやら三人らしい。先頭に提灯を持っている若党がいて、その後ろに付き人らしい若い男と、塙がいる。
俊輔と山尾は息を凝らして三人が近づいてくるのを待った。が、二人にはお互いの「ハア、ハア」という緊張した息づかいがハッキリと聞こえてきた。
三人はひたひたと歩いてくる。そしてついに三人は俊輔たちの目の前まで来た。
提灯を持った若党はやり過ごした。
次に続く付き人らしい若い男が近づいた時、俊輔と山尾は物陰から飛び出した。
山尾が付き人の若い男に無言で斬りつけた。
手ごたえがあった。かなりの深手を与えたことは間違いなさそうだった。
俊輔は「国賊!」と叫んで塙へ向かって突き進んだ。そして塙に斬りつけたが、かすっただけだった。
山尾は若い男に斬りつけた後、すかさず振り向いて提灯を持った若党に向かって斬りつけに行った。しかしその男は叫び声をあげ、提灯を捨てて逃げて行った。
塙は老齢の身でありながら刀を抜いて俊輔と対峙した。
「闇討ちとは卑怯なり!名を名乗れ!」
俊輔は名乗らなかった。そしてもう一度塙に斬りつけたが、塙はそれを刀で受け流した。
「貴様、こんな卑怯なマネをして。親が知ったら泣くぞ!」
親思いの俊輔にとって親のことを言われるのはつらい。俊輔は一瞬ひるんだ。
「ほう、貴様存外正直ものだな」
そう言って今度は塙が俊輔に斬りつけてきたところ、俊輔はとっさに横っ飛びをして、かろうじて塙の刀を避けた。そしてすかさず体ごと塙に飛び込んで、腰にくらいついて押し倒した。
転びながら塙は、しがみついている俊輔に対して叫んだ。
「暗殺者はいずれ必ず暗殺者に殺されるぞ!」
俊輔は構わず塙に馬乗りになって胸のあたりを何度も突き刺した。
噴き出した血が俊輔の顔と胸のあたりを真っ赤に染めた。
少し離れた所では山尾が付き人の若い男にとどめを刺していた。
そしてこの路上での騒ぎを、おそるおそる遠くからうかがっている人影がチラホラと目につくようになった。
山尾が俊輔に呼びかけた。
「やったか?」
俊輔は無我夢中で塙を刺していた。
「ハアハア……。ああ、やった。すぐに逃げよう」
二人は足早にその場から逃げ去った。
後年、伊藤はこの時のことを次のように回顧している。
「あの時は実に危うかった。というのは吾輩の衣類に血がついていた。その血のついたままで幕吏の前を通り抜けた。もしあの時捕縛されていればその血が証拠となって、ついに罪を免れることは出来なかっただろう。しかし幸いにして無事に通り抜けた」
俊輔たちは後日、この犯行現場の近くに捨て札を立てた。
「この者儀、昨年安藤対馬守と同腹致し、かねて御国体をわきまえながら前田健助と共に恐れ多くもいわれなき古の記録を取調べ候段、大逆の至りなり。これによって三番町において天誅を加えるものなり」
さて、最後に一つだけ後年のエピソードを述べておきたい。
明治時代になってから山尾庸三は盲学校、聾学校の建設を積極的に主張し、障害者教育に熱心に取り組んだ。久田信行氏の調べによると、山尾が設立に尽力した東京盲唖学校の設立記念日は、皇室から三千円の下賜金が寄付された明治九年12月22日の日付となっているそうである。
俊輔と山尾が塙次郎を襲ったのは十二月二十一日だが、実際に塙次郎が亡くなったのはその翌日の十二月二十二日である。
旧暦と西暦の違いがあるとはいえ、この「十二月二十二日」が偶然の一致とは思えない。
塙次郎の父は「盲目の学者」として有名だった塙保己一である。
山尾がこの時の暗殺を懺悔して、これらの福祉活動に尽力したことは間違いなさそうである(※以上の事は久田信行氏の「盲唖学校の設立と山尾庸三 (補遺)」を参照にした)。
年が明けて一月五日、高杉晋作は小塚原に埋葬されていた松陰の遺骨を若林の大夫山(現在世田谷にある松陰神社の地)へ改葬した。俊輔と山尾も遺骨を運ぶ改葬の列に参加した。
その途中、馬に乗った高杉が上野山下の三枚橋を渡る際に、将軍しか通ることの出来ない真ん中の橋を押し渡ったというのは有名なエピソードであろう。
橋守をしていた番人が高杉を止めようとしたところ、たちまち高杉が刀を引き抜いて
「朝廷からの勅旨によって勤王志士の遺骨を葬るのだ。将軍の通る道もクソもあるか。貴様、邪魔すると叩っ斬るぞ!」
と叫んだ。
番人は驚倒してあたふたと逃げて行った。
こうして物語は文久三年へと突入することになる。
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