9 / 62
第二章・尊王攘夷
第9話 土蔵相模
しおりを挟む
ここで高杉晋作という男のことを少し解説しておきたい。
以前、吉田松陰が斬首された場面で松陰と高杉の関係に少しだけ触れた。言うまでもなく高杉と久坂は松陰の松下村塾における二大巨頭である。ただし高杉の場合、その村塾の中でも「暴れ牛」の異名を持つほど負けん気が強く、手の付けられない男として有名だった。
俊輔より二歳年上で、身分は俊輔や山尾などとは比べ物にならない上士の家柄であり、村塾生の中では最高の家格の持ち主だった。彼は藩の学校には飽き足らず、親の目を盗んでこっそりと夜な夜な村塾へ通った。松陰はこの高杉に非常な期待をかけ、熱心に教育した。
松陰の死後、高杉は航海術の修行や剣術の修行などに打ち込んでいたが、この年の夏、上海へ視察に行った。この上海視察のことは第1話でも触れた通り、当時サトウも清国(中国)に滞在中だった。
当時の清国はアロー戦争(第二次アヘン戦争)に敗北してからまだ二年足らずで、しかも上海近辺では太平天国の乱が猛威を振るっていた。そんな上海の治安を清国政府が保てるはずもなく、上海はイギリス軍などの外国人軍隊(常勝軍のウォードやゴードンが有名。ただしウォードはちょうどサトウ来日と同じ月に戦死した)によって守られていた。
サトウの上海滞在中、太平天国軍が上海を襲撃しに来たので彼は拳銃を握ってホテルの外に飛び出てみると上海市民は大混乱になっていた、というサトウの記録も残っている。
五代才助(後の友厚)達と上海の惨状を目の当たりにした高杉は「日本を清国の二の舞にしてはならぬ」と深く心に刻んだ。
読者の方々は「なるほど。だから高杉は帰国後、過激な攘夷活動に走るのだな」と思ったかも知れない。確かにそれは当たっていなくもないのだが、当たっているのは半分だけである。
高杉は開国の必要性はわかっている。なにより彼はこの上海視察の前に「西洋行き」を願い出ているぐらいだった。
ちょうどこの頃、幕府初の遣欧使節団(いわゆる竹内使節)がヨーロッパへ行っている。本来は高杉もこの遣欧使節に加わるはずだったのだが長州からは一名しか加われなかったため代わりに杉徳輔が参加することになった。そのあと高杉は久坂たちと長井雅楽を斬ろうとしていたところ、桂がそれをやめさせるために高杉を上海へ行かせたのだ。
高杉は上海で個人的な買い物として拳銃を二丁買ってきたが、ついでに藩の買い物として蒸気船も一隻、勝手に長崎で契約してきた。ただしこれは後で藩から却下された。
要するに高杉としては
「まともな開国をするためには外国から言われたままの開国ではなく、一回ちゃんと攘夷をやって武士の魂を見せつけてやろう」
と考えた訳であるが、もっと端的に言ってしまえば
「薩摩にも西洋にも負けてたまるか」
という、ただそれだけの気持ちで闘志を燃やしていたのであろう。
常識をもってしては世の中を変えることはできない。師である松陰が高杉たちに「狂挙」をすすめたように、狂人になって猪突猛進しなければ世の中は変わらない。
以後、彼は松陰のあとを引き継ぐかのように「狂挙」を重ねていくことになる。
ここでもう一人、俊輔の友人である志道聞多(後の井上馨)のことについても、その略歴を述べておきたい。
聞多も高杉と同じく上士の身分である。生まれ育った湯田村(現在の山口市湯田温泉)の井上家も上士格だが、後に養子に入った萩の志道家も上士格であり、年齢は高杉より四歳年上である。ただし彼は松下村塾とは関わりがなく、俊輔と知り合ったのは江戸でのことだった。武士の身分でもない俊輔や山尾から「聞多」と呼び捨てにされるというのは面妖な話にも見えるが、どうもそういった部分にはこだわらない性格らしい。そのくせ後世、短気ですぐ怒るので「雷じじい」とあだ名されるというのだから、この男の感覚はまったくつかみどころがない。
後世の話と言えば、彼は明治時代に汚職問題などを引き起こした金権政治家として有名である。西郷隆盛から「三井の番頭さん」と呼ばれたように、実際その後も三井家との昵懇な間柄はつづき、また今度一万円札の顔になる渋沢栄一とも昵懇となる。明治時代の政治や財政にまつわる彼の逸話などはあげればキリがないので割愛するが、ある種のトラブルメーカーであったことは事実であろう。
とにかく大蔵大臣まで務めることになる人間であり、元々金に関することには自信があったものと見え、それは幕末の彼の活動においてもその片鱗が随所でうかがえる。
彼は尊王攘夷の拠点である松下村塾出身という訳でもなく、逆に江戸で蘭学や砲術を学んだ上に横浜で英学修行までしているのだから、本来高杉たちの過激な攘夷グループとは縁がないはずだった。にもかかわらずこの当時率先してイギリス公使襲撃作戦に関わっているのは、よほど高杉に感化されたのか、それとも自分も少し関わった来原良蔵の横浜襲撃未遂事件の影響か、あるいは友人である俊輔からの影響か、その点よくわからない。
なにしろこの男の行動基準というのは(後世も含めて)よくわからないのだ。
高杉が「よし、そいつらを斬ろう!」と叫んだ前回の場面に戻る。
ところがそれを今度は聞多が止めた。
「公使の護衛に討ち取られた場合、あるいは首尾よく公使を斬ったとしても切腹は免れず、どのみち死あるのみだ。それは別に構わんが、今我らはこの相模屋だけでも五十両の借金がある。このまま死んだのでは借金を苦にして死んだと思われるだろう。それでは武士の面目が立たぬ」
高杉が聞多に言い返した。
「俺が上海で買って来た西洋式の鎖時計をお前に渡しただろ。あれを売れと言ったではないか。途中で落っことしたんじゃないだろうな?」
「あんな壊れかけた時計が売れるものか!まず誰かに修理してもらえ!とにかく、他の借金や金沢への討ち入り費用を考えると合計百両の金は必要だ」
これほどの金を用意するとなると、やはり藩の会計に掛け合うしかない。江戸藩邸の会計担当者は来島又兵衛である。
一同は誰が又兵衛に掛け合うかを決めるために藤八拳(お座敷芸の一種で“きつね拳”とも言い、ジャンケンと同じように狐・猟師・庄屋の三種類のポーズで勝ち負けを決める)でホイッ、エイヤッと勝負をして、結局聞多が負けた。
金の工面にかけては自信のある聞多としても今回はさすがに自信がない。
なにしろこの前もらった横浜での英学修行用の百両もすでに使い果たしているのだ。しかしこの晩、聞多はこの土蔵相模で馴染みのお里と寝物語で話している時に一つの妙案を思いついた。
二日後、なぜか当の来島又兵衛が土蔵相模にやって来た。
いや、もちろん聞多たちに会いに来たのではない。又兵衛の馴染みのお夏という女郎に会いに来たのだ。
来島又兵衛というと大体大河ドラマでは禁門の変(蛤御門の変)の場面で馬に乗って槍を振り回して最後には薩摩の西郷に討ち取られる、という印象が強い。とにかく武骨で好戦的というイメージが流布しているように思われる。こういった会計担当者として登場するのは、おそらく大昔に作られた「幕末の土蔵相模を舞台にした某白黒映画」ぐらいのものであろう(ただし又兵衛が会計担当者だったのは史実であるらしい)。
又兵衛が時々この土蔵相模に来ていることは聞多も薄々承知しており、聞多はお里から又兵衛の馴染みがお夏であることを聞き出した。そして「お夏が又兵衛に会いたがっているから店に来てくれるように」とお夏に手紙を書かせたのだ。
又兵衛がお夏との逢瀬を楽しんでいる部屋に、聞多はいきなり乗り込んできた。そして代わりにお夏は部屋から出ていった。もちろんすべて事前の打ち合せ通りである。
「聞多、これは一体何事か!」
又兵衛はカンカンに怒った。当たり前であろう。聞多はすぐさま頭を下げて又兵衛に懇願した。
「横浜での学費百両拝借の件、なにとぞお聞き届け頂きたくお願いにあがりました」
「そのようなことは藩邸で申すがよかろう。大体お前たちには前に一度百両渡してあるではないか。おおかた遊郭にでも出入りして使い果たしてしまったのであろう。これ以上は一両も貸せぬ」
「なるほど確かにたまには息抜きのため遊郭へも参りましたが、横浜では家賃や物の値段が高く、それで前の百両はほとんど使い果たしてしまいました。なにとぞ、あと百両お下げ渡しくださるようお願い申し上げます」
「とにかく、そのような金はない」
「お言葉ではございますが、来島様の懐にはお夏からの手紙といっしょに百両があるのではございませんか?」
又兵衛はアッという表情をして真っ青になった。
聞多はお夏の手紙に「お夏が最近物入りで手元が苦しく、金子百両をお貸し願いたい」とも書かせていたのである。お夏にご執心の又兵衛がそれを断るはずがなく、またこの事を口外できるはずもないことを承知の上で、聞多はそのように仕組んだのだった。
ともかくも、こうして聞多はまんまと藩から百両せしめた。
その百両を持って聞多が高杉たちのところへ戻ってみると、高杉と久坂が怒鳴り合いのケンカをしていた。
久坂は高杉に言う。
「イギリス公使を斬ったところで何になる。長州が幕府から責められるだけではないか。我々はまさに犬死にだ!」
高杉がこれに反論する。
「犬死にではない!我が長州の攘夷が本気であることを世間に見せつけることが一番重要なのだ。さすれば世間は長州を信用する!」
しかし久坂は納得しない。
「今、京と江戸では尊王攘夷の気運が高まってきているのだ。攘夷を実行するために日本中の志士が力を合わせ、一致協力して外国に戦争をしかけるべきだ」
「そんなのは書生論だ。時勢は待って出来るものではない。誰かが率先してやらねば出来ぬものだ。邪魔するようなら異人を斬る前にお前を斬るぞ、久坂!」
「おお、斬るなら斬れ!藩に迷惑をかけるぐらいなら今斬られたほうがマシだ!」
この二人のケンカには誰も手が出せなかった。しかし戻って来たばかりの聞多が置いてあった酒をガブガブと飲みはじめ、カラになった徳利を投げつけて叫んだ。
「俺がこんなに苦労して百両作ってきたというのに、お前らは何だ。俺は面白くないぞ!」
それから手当たり次第に酒や料理を高杉と久坂めがけて投げつけ
「お前らにはこの百両はやらん!」
と言って部屋から出て行こうとしたので皆が「まあまあ落ち着け」と聞多をなだめにかかった。それで結局、高杉と久坂のケンカは消えてしまった。
そして金沢での襲撃計画は予定通り十一月十三日に決行と決まり、その前日に神奈川宿の旅籠下田屋に集合することになった。
この計画に参加したのは高杉、久坂、聞多、山尾庸三たち総勢十数名であった。
一同は決行前日に下田屋へ入り、ここで一晩を過ごした。
そして翌早朝、皆が金沢への出陣準備をしていると山尾が外の異変に気がついた。
「おいっ、外の様子が変だ」
「何?計画がバレたのか?」
「どうやらそうらしい。幕府の同心らしき連中が二、三十人ほど集まっている」
すかさず高杉が刀をつかんで立ち上がり、皆に下知した。
「やむを得ん。斬り開いて突破するぞ」
皆が「おう」と刀をつかんで建物を出ようとすると、ちょうど三条、姉小路の両勅使から遣わされた使者が久坂宛の書状を持って下田屋へやって来た。
その書状には「幕府は攘夷実行を受けいれそうなので、今は暴挙を慎むように」と勅使からの命令が書かれていた。
久坂から回された書状を高杉が読み終わらないうちに、聞多が叫んだ。
「聞くな、聞くな、そんな命令!ここまで準備して今さら引き下がれるか!」
この男は以前、来原の横浜襲撃を止めるため説得しに行ったことがあるくせに、自分は人の説得を受けいれないというわがままな男であった。
しかし、そうは言っても勅使からの命令を無視するわけにもいかず、皆がああだこうだと言い合っているうちに、今度は定広からの使者である山県半蔵(後の宍戸タマキ)がやって来た。
「君命である。全員、梅屋敷まで出頭せよ。そこで若殿がお待ちだ」
「山県さん!なぜ我々のことが若殿のお耳に入ったのですか?」
「うむ。土佐の容堂公から若殿のところへご注進があったようだ」
おそらく両勅使と容堂への情報漏洩は、この計画に反対していた久坂玄瑞からなされたものと見るのが妥当だろう。いくら高杉とはいえ、定広からの命令には逆らえない。皆ぞろぞろと蒲田の梅屋敷へ向かった。
皆が梅屋敷に到着すると、そこでは定広が待っていた。
ちなみにこの梅屋敷は一ヶ月前にサトウも立ち寄って娘たちに見とれていた、あの梅屋敷である。
定広自身が梅屋敷まで馬を飛ばして家臣たちを止めにきたのは、下手に部下を派遣して薩摩が伏見でやったこと、すなわち「寺田屋事件の二の舞になるのを恐れたから」ということもあるだろうが、おそらく数ヶ月前に「来原の説得に一旦成功しながらも切腹させてしまった」という自責の念から今回は自分自身でやって来た、ということでもあったろう。
土下座して恭順の姿勢を見せている高杉たちを前にして、定広はこんこんと説諭の言葉を述べた。
「諸君の志には誠に感服するが、今は勅使のお役目を補佐するために不才微力な私に力を貸してほしい。諸君のような有志の若者を死なせるのは惜しい。どうか思いとどまって藩に帰参してもらいたい」
このように主君から親身に説得されたので一同は感涙にむせんだ。そして大人しくその命に従った。
ただし高杉だけは涙も流さず、平然と計画の本質を順序立てて定広に説明したといわれている。
このあと定広から一同に酒が下され、ささやかな酒宴となった。
ところがこの場にあの周布政之助も、すでに酒が入った状態でやって来て更に酒を飲みはじめた。
間の悪いことに、この場には容堂から派遣されてきた土佐藩士四名も来ていた。その内の一人は後に日清戦争などで勇名をはせる「独眼竜将軍」山地忠七(後の元治)である。
周布と土佐藩士というと、この八日前にも一悶着あったばかりだが、案の定この日も帰り際に一騒動、起きてしまった。まあ先日の騒動の第二ラウンドとでも言うべきであろうか。
酔っ払った周布は馬上から土佐藩士たちにむかって放言した。
「容堂公の尊王攘夷は口先だけでござろう!幕府が攘夷に踏み切らぬのは容堂公が尊王攘夷をチャラかしなさるからだ!」
この暴言を土佐藩士たちが許すはずもなかった。
「一度ならず二度までも我が主君を侮辱するとは、もはや許せん!」
そう言って山地たちが周布に斬りかかろうとしたので、久坂や聞多たちがそれをなだめて制止しようとしたところ、高杉が刀を抜いて
「なるほど貴殿らの怒りはもっともである。お手を煩わせるには及ばない。代わりに拙者がこの男を斬り捨てる。それでは周布殿、お覚悟めされよー!」
そう言って周布にバッサリと斬りつけた。
が、馬の尻を少し斬っただけで、馬はヒヒーンと悲鳴をあげて周布を乗せたまま駆け出し、あっという間に遠くへ走り去って行った。
まったくもって芝居か歌舞伎のようでちょっと出来過ぎな話であるが(昔TVドラマでもこのようにやったらしいが)実際史書にもちゃんとそのように書かれているエピソードである。
ただ一点疑問があるのは、よく史書の中の説明で
「聞多が聞いた話では、十一月十三日は西洋ではサンデー(日曜)という休日で、その日は遊山に行く習慣があるので公使たちは金沢へ行くのだ」
という記述があるが、実際この十一月十三日はサトウとウィリスが話していたように西暦では翌年の1月2日にあたり、この日は日曜日ではなくて金曜日なのだ。外国には日本のような「正月三が日」という習慣もない。聞多が情報を聞き違えたのだろうか?真相はよくわからない。
この話はこの後、土佐藩側がこのままでは納得しなかったため結局定広が土佐藩邸へ詫びに行ったり、罰として周布を国許へ帰すと約束しながら改名だけさせて江戸に残留させたり、といった余談もあるが、そろそろ俊輔に再登場してもらわないといけないので、それらは割愛する。
とにもかくにも、高杉たちが武州金沢でイギリス公使(実際のところニールは代理公使なのだが)を襲撃する計画はこのようにして立ち消えとなり、ニールやサトウたちは金沢への遊覧旅行から無事帰ってきたのであった。
この事件の後、高杉たちは藩邸へ引き戻されて謹慎を命じられた。しかしながら彼らはその「攘夷実行」の決意を変えなかった。
この謹慎中に高杉たちは「御楯組」を結成した。
「金沢での計画は失敗したが百折不屈の決意で「攘夷実行」を貫徹して国の御楯となる。次は必ず攘夷の実をあげてみせる」
こういった血盟書を作って全員で署名、血判した。
この御楯組にはその後つぎつぎと同志が加盟してきたのだが、ちょうどこの頃江戸に到着した俊輔もただちにこれに加盟した。
以前、吉田松陰が斬首された場面で松陰と高杉の関係に少しだけ触れた。言うまでもなく高杉と久坂は松陰の松下村塾における二大巨頭である。ただし高杉の場合、その村塾の中でも「暴れ牛」の異名を持つほど負けん気が強く、手の付けられない男として有名だった。
俊輔より二歳年上で、身分は俊輔や山尾などとは比べ物にならない上士の家柄であり、村塾生の中では最高の家格の持ち主だった。彼は藩の学校には飽き足らず、親の目を盗んでこっそりと夜な夜な村塾へ通った。松陰はこの高杉に非常な期待をかけ、熱心に教育した。
松陰の死後、高杉は航海術の修行や剣術の修行などに打ち込んでいたが、この年の夏、上海へ視察に行った。この上海視察のことは第1話でも触れた通り、当時サトウも清国(中国)に滞在中だった。
当時の清国はアロー戦争(第二次アヘン戦争)に敗北してからまだ二年足らずで、しかも上海近辺では太平天国の乱が猛威を振るっていた。そんな上海の治安を清国政府が保てるはずもなく、上海はイギリス軍などの外国人軍隊(常勝軍のウォードやゴードンが有名。ただしウォードはちょうどサトウ来日と同じ月に戦死した)によって守られていた。
サトウの上海滞在中、太平天国軍が上海を襲撃しに来たので彼は拳銃を握ってホテルの外に飛び出てみると上海市民は大混乱になっていた、というサトウの記録も残っている。
五代才助(後の友厚)達と上海の惨状を目の当たりにした高杉は「日本を清国の二の舞にしてはならぬ」と深く心に刻んだ。
読者の方々は「なるほど。だから高杉は帰国後、過激な攘夷活動に走るのだな」と思ったかも知れない。確かにそれは当たっていなくもないのだが、当たっているのは半分だけである。
高杉は開国の必要性はわかっている。なにより彼はこの上海視察の前に「西洋行き」を願い出ているぐらいだった。
ちょうどこの頃、幕府初の遣欧使節団(いわゆる竹内使節)がヨーロッパへ行っている。本来は高杉もこの遣欧使節に加わるはずだったのだが長州からは一名しか加われなかったため代わりに杉徳輔が参加することになった。そのあと高杉は久坂たちと長井雅楽を斬ろうとしていたところ、桂がそれをやめさせるために高杉を上海へ行かせたのだ。
高杉は上海で個人的な買い物として拳銃を二丁買ってきたが、ついでに藩の買い物として蒸気船も一隻、勝手に長崎で契約してきた。ただしこれは後で藩から却下された。
要するに高杉としては
「まともな開国をするためには外国から言われたままの開国ではなく、一回ちゃんと攘夷をやって武士の魂を見せつけてやろう」
と考えた訳であるが、もっと端的に言ってしまえば
「薩摩にも西洋にも負けてたまるか」
という、ただそれだけの気持ちで闘志を燃やしていたのであろう。
常識をもってしては世の中を変えることはできない。師である松陰が高杉たちに「狂挙」をすすめたように、狂人になって猪突猛進しなければ世の中は変わらない。
以後、彼は松陰のあとを引き継ぐかのように「狂挙」を重ねていくことになる。
ここでもう一人、俊輔の友人である志道聞多(後の井上馨)のことについても、その略歴を述べておきたい。
聞多も高杉と同じく上士の身分である。生まれ育った湯田村(現在の山口市湯田温泉)の井上家も上士格だが、後に養子に入った萩の志道家も上士格であり、年齢は高杉より四歳年上である。ただし彼は松下村塾とは関わりがなく、俊輔と知り合ったのは江戸でのことだった。武士の身分でもない俊輔や山尾から「聞多」と呼び捨てにされるというのは面妖な話にも見えるが、どうもそういった部分にはこだわらない性格らしい。そのくせ後世、短気ですぐ怒るので「雷じじい」とあだ名されるというのだから、この男の感覚はまったくつかみどころがない。
後世の話と言えば、彼は明治時代に汚職問題などを引き起こした金権政治家として有名である。西郷隆盛から「三井の番頭さん」と呼ばれたように、実際その後も三井家との昵懇な間柄はつづき、また今度一万円札の顔になる渋沢栄一とも昵懇となる。明治時代の政治や財政にまつわる彼の逸話などはあげればキリがないので割愛するが、ある種のトラブルメーカーであったことは事実であろう。
とにかく大蔵大臣まで務めることになる人間であり、元々金に関することには自信があったものと見え、それは幕末の彼の活動においてもその片鱗が随所でうかがえる。
彼は尊王攘夷の拠点である松下村塾出身という訳でもなく、逆に江戸で蘭学や砲術を学んだ上に横浜で英学修行までしているのだから、本来高杉たちの過激な攘夷グループとは縁がないはずだった。にもかかわらずこの当時率先してイギリス公使襲撃作戦に関わっているのは、よほど高杉に感化されたのか、それとも自分も少し関わった来原良蔵の横浜襲撃未遂事件の影響か、あるいは友人である俊輔からの影響か、その点よくわからない。
なにしろこの男の行動基準というのは(後世も含めて)よくわからないのだ。
高杉が「よし、そいつらを斬ろう!」と叫んだ前回の場面に戻る。
ところがそれを今度は聞多が止めた。
「公使の護衛に討ち取られた場合、あるいは首尾よく公使を斬ったとしても切腹は免れず、どのみち死あるのみだ。それは別に構わんが、今我らはこの相模屋だけでも五十両の借金がある。このまま死んだのでは借金を苦にして死んだと思われるだろう。それでは武士の面目が立たぬ」
高杉が聞多に言い返した。
「俺が上海で買って来た西洋式の鎖時計をお前に渡しただろ。あれを売れと言ったではないか。途中で落っことしたんじゃないだろうな?」
「あんな壊れかけた時計が売れるものか!まず誰かに修理してもらえ!とにかく、他の借金や金沢への討ち入り費用を考えると合計百両の金は必要だ」
これほどの金を用意するとなると、やはり藩の会計に掛け合うしかない。江戸藩邸の会計担当者は来島又兵衛である。
一同は誰が又兵衛に掛け合うかを決めるために藤八拳(お座敷芸の一種で“きつね拳”とも言い、ジャンケンと同じように狐・猟師・庄屋の三種類のポーズで勝ち負けを決める)でホイッ、エイヤッと勝負をして、結局聞多が負けた。
金の工面にかけては自信のある聞多としても今回はさすがに自信がない。
なにしろこの前もらった横浜での英学修行用の百両もすでに使い果たしているのだ。しかしこの晩、聞多はこの土蔵相模で馴染みのお里と寝物語で話している時に一つの妙案を思いついた。
二日後、なぜか当の来島又兵衛が土蔵相模にやって来た。
いや、もちろん聞多たちに会いに来たのではない。又兵衛の馴染みのお夏という女郎に会いに来たのだ。
来島又兵衛というと大体大河ドラマでは禁門の変(蛤御門の変)の場面で馬に乗って槍を振り回して最後には薩摩の西郷に討ち取られる、という印象が強い。とにかく武骨で好戦的というイメージが流布しているように思われる。こういった会計担当者として登場するのは、おそらく大昔に作られた「幕末の土蔵相模を舞台にした某白黒映画」ぐらいのものであろう(ただし又兵衛が会計担当者だったのは史実であるらしい)。
又兵衛が時々この土蔵相模に来ていることは聞多も薄々承知しており、聞多はお里から又兵衛の馴染みがお夏であることを聞き出した。そして「お夏が又兵衛に会いたがっているから店に来てくれるように」とお夏に手紙を書かせたのだ。
又兵衛がお夏との逢瀬を楽しんでいる部屋に、聞多はいきなり乗り込んできた。そして代わりにお夏は部屋から出ていった。もちろんすべて事前の打ち合せ通りである。
「聞多、これは一体何事か!」
又兵衛はカンカンに怒った。当たり前であろう。聞多はすぐさま頭を下げて又兵衛に懇願した。
「横浜での学費百両拝借の件、なにとぞお聞き届け頂きたくお願いにあがりました」
「そのようなことは藩邸で申すがよかろう。大体お前たちには前に一度百両渡してあるではないか。おおかた遊郭にでも出入りして使い果たしてしまったのであろう。これ以上は一両も貸せぬ」
「なるほど確かにたまには息抜きのため遊郭へも参りましたが、横浜では家賃や物の値段が高く、それで前の百両はほとんど使い果たしてしまいました。なにとぞ、あと百両お下げ渡しくださるようお願い申し上げます」
「とにかく、そのような金はない」
「お言葉ではございますが、来島様の懐にはお夏からの手紙といっしょに百両があるのではございませんか?」
又兵衛はアッという表情をして真っ青になった。
聞多はお夏の手紙に「お夏が最近物入りで手元が苦しく、金子百両をお貸し願いたい」とも書かせていたのである。お夏にご執心の又兵衛がそれを断るはずがなく、またこの事を口外できるはずもないことを承知の上で、聞多はそのように仕組んだのだった。
ともかくも、こうして聞多はまんまと藩から百両せしめた。
その百両を持って聞多が高杉たちのところへ戻ってみると、高杉と久坂が怒鳴り合いのケンカをしていた。
久坂は高杉に言う。
「イギリス公使を斬ったところで何になる。長州が幕府から責められるだけではないか。我々はまさに犬死にだ!」
高杉がこれに反論する。
「犬死にではない!我が長州の攘夷が本気であることを世間に見せつけることが一番重要なのだ。さすれば世間は長州を信用する!」
しかし久坂は納得しない。
「今、京と江戸では尊王攘夷の気運が高まってきているのだ。攘夷を実行するために日本中の志士が力を合わせ、一致協力して外国に戦争をしかけるべきだ」
「そんなのは書生論だ。時勢は待って出来るものではない。誰かが率先してやらねば出来ぬものだ。邪魔するようなら異人を斬る前にお前を斬るぞ、久坂!」
「おお、斬るなら斬れ!藩に迷惑をかけるぐらいなら今斬られたほうがマシだ!」
この二人のケンカには誰も手が出せなかった。しかし戻って来たばかりの聞多が置いてあった酒をガブガブと飲みはじめ、カラになった徳利を投げつけて叫んだ。
「俺がこんなに苦労して百両作ってきたというのに、お前らは何だ。俺は面白くないぞ!」
それから手当たり次第に酒や料理を高杉と久坂めがけて投げつけ
「お前らにはこの百両はやらん!」
と言って部屋から出て行こうとしたので皆が「まあまあ落ち着け」と聞多をなだめにかかった。それで結局、高杉と久坂のケンカは消えてしまった。
そして金沢での襲撃計画は予定通り十一月十三日に決行と決まり、その前日に神奈川宿の旅籠下田屋に集合することになった。
この計画に参加したのは高杉、久坂、聞多、山尾庸三たち総勢十数名であった。
一同は決行前日に下田屋へ入り、ここで一晩を過ごした。
そして翌早朝、皆が金沢への出陣準備をしていると山尾が外の異変に気がついた。
「おいっ、外の様子が変だ」
「何?計画がバレたのか?」
「どうやらそうらしい。幕府の同心らしき連中が二、三十人ほど集まっている」
すかさず高杉が刀をつかんで立ち上がり、皆に下知した。
「やむを得ん。斬り開いて突破するぞ」
皆が「おう」と刀をつかんで建物を出ようとすると、ちょうど三条、姉小路の両勅使から遣わされた使者が久坂宛の書状を持って下田屋へやって来た。
その書状には「幕府は攘夷実行を受けいれそうなので、今は暴挙を慎むように」と勅使からの命令が書かれていた。
久坂から回された書状を高杉が読み終わらないうちに、聞多が叫んだ。
「聞くな、聞くな、そんな命令!ここまで準備して今さら引き下がれるか!」
この男は以前、来原の横浜襲撃を止めるため説得しに行ったことがあるくせに、自分は人の説得を受けいれないというわがままな男であった。
しかし、そうは言っても勅使からの命令を無視するわけにもいかず、皆がああだこうだと言い合っているうちに、今度は定広からの使者である山県半蔵(後の宍戸タマキ)がやって来た。
「君命である。全員、梅屋敷まで出頭せよ。そこで若殿がお待ちだ」
「山県さん!なぜ我々のことが若殿のお耳に入ったのですか?」
「うむ。土佐の容堂公から若殿のところへご注進があったようだ」
おそらく両勅使と容堂への情報漏洩は、この計画に反対していた久坂玄瑞からなされたものと見るのが妥当だろう。いくら高杉とはいえ、定広からの命令には逆らえない。皆ぞろぞろと蒲田の梅屋敷へ向かった。
皆が梅屋敷に到着すると、そこでは定広が待っていた。
ちなみにこの梅屋敷は一ヶ月前にサトウも立ち寄って娘たちに見とれていた、あの梅屋敷である。
定広自身が梅屋敷まで馬を飛ばして家臣たちを止めにきたのは、下手に部下を派遣して薩摩が伏見でやったこと、すなわち「寺田屋事件の二の舞になるのを恐れたから」ということもあるだろうが、おそらく数ヶ月前に「来原の説得に一旦成功しながらも切腹させてしまった」という自責の念から今回は自分自身でやって来た、ということでもあったろう。
土下座して恭順の姿勢を見せている高杉たちを前にして、定広はこんこんと説諭の言葉を述べた。
「諸君の志には誠に感服するが、今は勅使のお役目を補佐するために不才微力な私に力を貸してほしい。諸君のような有志の若者を死なせるのは惜しい。どうか思いとどまって藩に帰参してもらいたい」
このように主君から親身に説得されたので一同は感涙にむせんだ。そして大人しくその命に従った。
ただし高杉だけは涙も流さず、平然と計画の本質を順序立てて定広に説明したといわれている。
このあと定広から一同に酒が下され、ささやかな酒宴となった。
ところがこの場にあの周布政之助も、すでに酒が入った状態でやって来て更に酒を飲みはじめた。
間の悪いことに、この場には容堂から派遣されてきた土佐藩士四名も来ていた。その内の一人は後に日清戦争などで勇名をはせる「独眼竜将軍」山地忠七(後の元治)である。
周布と土佐藩士というと、この八日前にも一悶着あったばかりだが、案の定この日も帰り際に一騒動、起きてしまった。まあ先日の騒動の第二ラウンドとでも言うべきであろうか。
酔っ払った周布は馬上から土佐藩士たちにむかって放言した。
「容堂公の尊王攘夷は口先だけでござろう!幕府が攘夷に踏み切らぬのは容堂公が尊王攘夷をチャラかしなさるからだ!」
この暴言を土佐藩士たちが許すはずもなかった。
「一度ならず二度までも我が主君を侮辱するとは、もはや許せん!」
そう言って山地たちが周布に斬りかかろうとしたので、久坂や聞多たちがそれをなだめて制止しようとしたところ、高杉が刀を抜いて
「なるほど貴殿らの怒りはもっともである。お手を煩わせるには及ばない。代わりに拙者がこの男を斬り捨てる。それでは周布殿、お覚悟めされよー!」
そう言って周布にバッサリと斬りつけた。
が、馬の尻を少し斬っただけで、馬はヒヒーンと悲鳴をあげて周布を乗せたまま駆け出し、あっという間に遠くへ走り去って行った。
まったくもって芝居か歌舞伎のようでちょっと出来過ぎな話であるが(昔TVドラマでもこのようにやったらしいが)実際史書にもちゃんとそのように書かれているエピソードである。
ただ一点疑問があるのは、よく史書の中の説明で
「聞多が聞いた話では、十一月十三日は西洋ではサンデー(日曜)という休日で、その日は遊山に行く習慣があるので公使たちは金沢へ行くのだ」
という記述があるが、実際この十一月十三日はサトウとウィリスが話していたように西暦では翌年の1月2日にあたり、この日は日曜日ではなくて金曜日なのだ。外国には日本のような「正月三が日」という習慣もない。聞多が情報を聞き違えたのだろうか?真相はよくわからない。
この話はこの後、土佐藩側がこのままでは納得しなかったため結局定広が土佐藩邸へ詫びに行ったり、罰として周布を国許へ帰すと約束しながら改名だけさせて江戸に残留させたり、といった余談もあるが、そろそろ俊輔に再登場してもらわないといけないので、それらは割愛する。
とにもかくにも、高杉たちが武州金沢でイギリス公使(実際のところニールは代理公使なのだが)を襲撃する計画はこのようにして立ち消えとなり、ニールやサトウたちは金沢への遊覧旅行から無事帰ってきたのであった。
この事件の後、高杉たちは藩邸へ引き戻されて謹慎を命じられた。しかしながら彼らはその「攘夷実行」の決意を変えなかった。
この謹慎中に高杉たちは「御楯組」を結成した。
「金沢での計画は失敗したが百折不屈の決意で「攘夷実行」を貫徹して国の御楯となる。次は必ず攘夷の実をあげてみせる」
こういった血盟書を作って全員で署名、血判した。
この御楯組にはその後つぎつぎと同志が加盟してきたのだが、ちょうどこの頃江戸に到着した俊輔もただちにこれに加盟した。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
よあけまえのキミへ
三咲ゆま
歴史・時代
時は幕末。二月前に父を亡くした少女、天野美湖(あまのみこ)は、ある日川辺で一枚の写真を拾った。
落とし主を探すべく奔走するうちに、拾い物が次々と縁をつなぎ、彼女の前にはやがて導かれるように六人の志士が集う。
広がる人脈に胸を弾ませていた美湖だったが、そんな日常は、やがてゆるやかに崩れ始めるのだった。
京の町を揺るがす不穏な連続放火事件を軸に、幕末に生きる人々の日常と非日常を描いた物語。
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
異・雨月
筑前助広
歴史・時代
幕末。泰平の世を築いた江戸幕府の屋台骨が揺らぎだした頃、怡土藩中老の三男として生まれた谷原睦之介は、誰にも言えぬ恋に身を焦がしながら鬱屈した日々を過ごしていた。未来のない恋。先の見えた将来。何も変わらず、このまま世の中は当たり前のように続くと思っていたのだが――。
<本作は、小説家になろう・カクヨムに連載したものを、加筆修正し掲載しています>
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・地名とは一切関係ありません。
※この物語は、「巷説江戸演義」と題した筑前筑後オリジナル作品企画の作品群です。舞台は江戸時代ですが、オリジナル解釈の江戸時代ですので、史実とは違う部分も多数ございますので、どうぞご注意ください。また、作中には実際の地名が登場しますが、実在のものとは違いますので、併せてご注意ください。

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。
天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。
岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?

大日本帝国、アラスカを購入して無双する
雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。
大日本帝国VS全世界、ここに開幕!
※架空の日本史・世界史です。
※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。
※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。

新撰組のものがたり
琉莉派
歴史・時代
近藤・土方ら試衛館一門は、もともと尊王攘夷の志を胸に京へ上った。
ところが京の政治状況に巻き込まれ、翻弄され、いつしか尊王攘夷派から敵対視される立場に追いやられる。
近藤は弱気に陥り、何度も「新撰組をやめたい」とお上に申し出るが、聞き入れてもらえない――。
町田市小野路町の小島邸に残る近藤勇が出した手紙の数々には、一般に鬼の局長として知られる近藤の姿とは真逆の、弱々しい一面が克明にあらわれている。
近藤はずっと、新撰組を解散して多摩に帰りたいと思っていたのだ。
最新の歴史研究で明らかになった新撰組の実相を、真正面から描きます。
主人公は土方歳三。
彼の恋と戦いの日々がメインとなります。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる