伊藤とサトウ

海野 次朗

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第二章・尊王攘夷

第8話 武州金沢襲撃事件

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 この頃、俊輔の友人である志道しじぶん(後の井上かおる)は横浜で英学修行をしていた。

 長州藩は聞多たち数人に横浜での英学修行を命じ、藩がイギリスのジャーディン・マセソン商会から買ったランスフィールド号に乗せて航海術の修行もさせていた。
 この船については「サトウが来日した時に乗っていた船である」ということを以前書いた。実は元々この船は同商会が薩摩藩へ売ろうとしていたのだが(その交渉を担当していたのは薩摩の小松帯刀たてわきだった)その直後に生麦事件が発生したためイギリスの商社である同商会としてはイギリス人を斬った薩摩藩には売れなくなってしまい、それを長州藩が買い取ったという経緯けいいがあった。

 この買い取り交渉をしたのが横浜で長州藩の御用達ごようたつをしている伊豆いずくら商店の番頭の佐藤貞次郎さだじろうで、さらには聞多であった。代金は11.5万ドルで、この船は購入後“じんじゅつまる”と名付けられた。長州藩は自藩の船の名前に配備された年の干支えとを付けるようにしており、この文久二年(1862年)の干支であるじんじゅつを船名として付けたのである。

 この日、聞多の修行仲間である山尾やまお庸三ようぞうが横浜の伊豆倉商店へ来て、ここへよく立ち寄る村田蔵六ぞうろく(後の大村益次郎ますじろう)と店の中で談じ込んでいた。
「やはり村田先生がおっしゃっていた通り、外国人の船長を解雇したのは失敗でした。我々だけではあの蒸気船を上手く動かせません。蒸気をくことすらまだ満足にできませんし、ようやく船が動いたと思ったら後ろへ進みだすやらいかりは上がってないやらで、まったく先が思いやられます」
 これに対し村田はなく答えた。
「上手くいかないのは当たり前です」

 壬戌丸は最初、外国人の船長を雇って船の動かし方を習っていたのだが「攘夷を標榜ひょうぼうする我が長州が外国人を雇うなどもってのほかである。即刻解雇すべし」という意見が強くなり、そのあと日本人だけで修業することになったのだった。このとき村田は外国人の船長を解雇することに反対していた。

 山尾は俊輔と同じく武士の身分ではない。
 奉公人ほうこうにんの身でありながら武士になることを志して江戸へ出て、長州藩と縁故えんこのある斎藤弥九郎やくろうの剣術道場「練兵館れんぺいかん」に入って桂小五郎と知り合い、その下で働くことになった。そのあと箱館はこだて奉行ぶぎょうの所属船亀田丸かめだまるでロシアのニコラエフスクへ行ったり、箱館(函館)で洋学を学んだりした。俊輔も長崎で洋式軍学を学んだ経験があり、しかも同じ桂の下で働いているということもあってこの両者はなんとなく境遇きょうぐうが似ている。

 村田は以前、神奈川宿でヘボンに英語を学んでいたが、この頃ヘボンは横浜へ移ってきていた。ヘボンが建てた「ヘボン邸」は現在写真が残っており、場所を見ると谷戸やとばしのすぐ近くにあり、居留地きょりゅうち20番にあったイギリス公使館のすぐ近くにある。そこに村田もしばらく通ったものと思われる。
 村田は山尾にたずねた。
「諸君らは藩から英学修行の費用として百両を下げ渡されたそうだが、聞くところによると港崎みよざき遊郭ゆうかくあたりでほとんど使い果たしたとか……」
 港崎みよざき遊郭ゆうかくとは当時横浜にあった遊郭の総称のことである。有名な店としては岩亀楼がんきろうがあるが、ここは外国人向け遊女ゆうじょ(いわゆるラシャメン)専用の店であり、それ以外にも日本人向けの遊郭が十数件あった。
「ああ、知ってたんですか……。いや、軽輩けいはいの身である私がそんなところへ自分から行くわけがないでしょう?すべて聞多が悪いんです。あいつは金使いの感覚が鈍いのか、後先あとさき考えずにしょっちゅう遊郭へりだして女たちに金を散財してしまうんですよ」
「最近高杉君たちが『外国公使を斬る』などと言って騒いでいるとか……。しかしまあ洋学を志している君には多分、無縁な話だろうね」
 山尾は少し答えに悩んだあげく、しぼり出すように言った。
「……ですが、高杉さんや聞多も決して洋学嫌いという訳ではないんですよ。でも、私には攘夷や開国といった難しいことはよくわかりません。とにかく我々が船を動かすためにはもっと航海術を学ばなければなりません。一番良いのは私自身が海外へ行って修行することですが、私の身分ではおそらく洋行は難しいでしょう……」

 英語のことわざで「悪魔の話をすれば悪魔が現れる」というのがある通り、この聞多の話をしている時、まさに聞多が山尾と村田の前に現れた。
「おっ山尾、ここにおったんか。ちょうど良かった。ようやくイギリス公使たちの金沢かなざわ見物のことが……。あっ、これはこれは、村田洋学先生もおられたんですか。どうもご無沙汰しております」
 聞多は山尾に途中まで言いかけたが村田が同席していることに気がつき、話を途中でやめた。
 そして村田に辞去じきょのあいさつをして山尾を店から連れて行ってしまった。
 一人残った村田は怪訝けげんな表情で二人を見送った。
(イギリス公使の金沢見物……?)



 この日の夜、同じ横浜にいるサトウはいつものバーでウィリスと酒を飲んでいた。
「せっかくのクリスマスシーズンだというのに家族とも会えず、この横浜で寂しく過ごしている我ら二人の独身野郎に乾杯だ」
 そう言ってさかずきを差し出してきたウィリスに、サトウは笑って乾杯した。
「今夜は艦隊の乗組員たちが大挙たいきょして岩亀楼ガンキローへ遊びに行ってるみたいだな。サトウはついて行かないのか?あそこは別に女を買わなくてもストリップショーが見れるぞ」
 当時横浜にいたぼうイギリス人が「岩亀楼では若いおどり子たちが歌に合わせて『ヤア、ヤア、ヤア』と声をあげながら衣装を一枚ずつ脱ぎ捨てていくショーをやっており、イギリス艦隊の提督ていとくと士官たちがそれを鑑賞して大いに楽しんだ」といったような記録を残している。
 そのウィリスの質問にサトウが笑って答えた。
「ハハハ。別にストリップショーなんかわざわざ金を出して見に行かなくても、日本人はいつもそこらじゅうで裸をさらしているじゃないか。今は冬だからほとんど見かけないけどさ」
 実際、当時の日本人は裸に対する羞恥しゅうちしんというものがまったく無く、当時訪日ほうにちした外国人が日本人の裸を見てビックリしたという記述を数多く残している。銭湯でも混浴こんよくは珍しくなく、外国人の目からすればまったくうらやま……、いや「けしからん」と感じたことであろう。

 サトウも以前横浜の近くを馬で散策していた時に、通りかかった民家の庭で若くて美しい娘が露天風呂に入っている光景を目撃した。そして事もあろうにその娘は、珍しい外国人のサトウに興味を持ったのか素っ裸すっぱだかのままでサトウの近くまで飛び出して来たのだ。
 サトウは当惑とうわくのあまり馬からころげ落ちそうになったが、なんとか馬を疾駆しっくさせてその場から逃げ去った。
 当時外国人たちが馬で出かける時は「別手組べつてぐみ」という幕府騎馬隊の護衛が付くことが多かった。この時もサトウには数人の別手組が付いていたが彼らはサトウの様子をからかって
「今晩は岩亀楼へでも行きますか」
 と笑ってサトウを冷やかした。
 別に彼らには悪意があった訳ではない。当時の日本男性からすれば女郎じょろういなど外食に出かける程度の感覚で、別にはじでもなんでもなかった。
 けれどもサトウは西洋人で、しかもこのとき彼はまだ十九歳だった。純情じゅんじょうなのである。
 すぐさま別手組の連中に向かって
「それ以上いやらしいことを言うと承知しないぞ」
 と言って彼らを黙らせたのだった。
 サトウは「岩亀楼に行って女郎を買う」ということにも抵抗はあったが、それより何よりこの当時のサトウは勤めだしたばかりだったので金も無かった。

 そして実はウィリスも金が無かった。
 サトウは以前、岩亀楼のことでウィリスに質問してみたことがあった。
「この前ワーグマンが『あの岩亀楼というのは“若い婦人の教育所”だよ』って言ってたんだけど……」
 その話を聞いてウィリスは爆笑した。ちなみにワーグマンというのは風刺ふうし漫画誌『ジャパン・パンチ』を創刊したことで有名な絵描きである。牛の背に乗って横浜の街路をり歩くという奇行癖きこうへきのある男だったがサトウの友人で、この当時はイギリスに一時帰国中だった。
「ハハハ。そりゃ、ワーグマンにからかわれたんだよ、サトウ。確かに日本の遊郭では小さい頃から遊女ゆうじょに教育を受けさせるケースもあるようだが、売春ばいしゅん宿やどである事に変わりはない。岩亀楼ガンキロー一言ひとことで言えば「豪華な売春宿」だな。俺もたまにはあそこで息抜きしたいとは思う。だけど医者として横浜の性病患者がいかに多いか知ってるからな。だからあまり行きたいと思わない」
 そして最後にウィリスはさびしそうな表情で、もう一言ひとこと付け加えた。
「まあ行きたくても、そんな金もないしな……」
 実はウィリスがイギリスから日本へやって来た最大の理由は「金を稼ぐため」だった。まとまった金を故郷へ仕送りしなければならないのだ。
 彼がイギリスの病院に勤めていた頃、病院で働いていた女性を妊娠させてしまい、この一年程前、生まれた子供をウィリスが引き取った。現在その子は兄の家に預けられており、ウィリスは養育費を送金せねばならないのである。

 さて、とにかくこの二人が岩亀楼とはあまり縁がないことは以上の通りであり、回想場面はひとまずここまでにして、話をこのクリスマスシーズンの場面に戻す。
 ウィリスは酒を飲みながらサトウに言った。
「ところでニール代理公使は本当に今度の1月2日に金沢かなざわへ観光に行くつもりなのかい?真冬だぜ。確かにイギリスの冬と違ってここは晴れの日が多いけどさ」

 この金沢というのはもちろん加賀かが(現在の石川県)の金沢ではない。武州ぶしゅう金沢のことである。横浜から10数キロ南に位置する入江いりえ景勝地けいしょうちで、現在の地名でいえば京急電鉄・金沢かなざわ八景はっけい駅あたりのことである。ここは横浜の外国人にとっては鎌倉、江の島と並んで定番の遊覧コースとなっており、ニールはその日サトウたち数人の公使館員を連れて金沢八景へ観光に出かけようとしていたのだ。

 サトウはウィリスに答えた。
「まったく新年早々そうそう物好ものずきな話だよね。多分もうすぐ江戸の御殿山ごてんやま(新公使館)へ移ってしまうから、その前に一回行っておこうと思ったんじゃないかな」

 このイギリス公使一行の金沢行きを高杉や聞多たちが襲撃しようとしているなどと、サトウやウィリスはもちろん知るよしもなかった。



 同じ頃、横浜で村田と別れた聞多と山尾は、高杉晋作たちのいる品川の土蔵どぞう相模さがみ(相模屋)に到着した。
 さて、この物語にもいよいよ重要な男が登場することになる。
 言わずと知れた高杉晋作である。
 これまで名前だけは度々たびたび登場していたが、本人が登場するのはこれが初ということになる。

 ここ数日間、高杉は久坂たち長州藩士数人とこの土蔵相模に居続いつづけ、ずっと酒を飲んでいる。もちろんおんなとも遊び、この酒の席にも妓たちがはべっている。
 酒を飲みながら久坂が幕府への不満を叫んだ。
「将軍が病気といって勅使に会おうとしないのは、どうせ仮病に決まっている!あるいは、幕府に攘夷を周旋しゅうせんしている我が長州がまわりから信用されていないということだ!」
 これに対して高杉が答えた。
「けっ!信用されなくて当たり前だ。ついこの前まで航海こうかい遠略策えんりゃくさくなんぞと開国を唱えていた長州が、急に攘夷だと言い出して誰が信用するか」
「何ィ?高杉!貴様がのうのうと上海へ行っている間に、俺たちが長井ながいを引きずりろすのにどれだけ苦労したか……」
「長井が失脚したのは結局薩摩のおかげではないか。そして薩摩は生麦で攘夷のじつもあげた。とにかく薩摩に遅れをとることだけは許されん。奴らがイギリスの商人を斬ったのなら、我々はそれを上回うわまわるイギリス公使を斬ってやるんじゃ!」
「高杉、それはちょっと軽率けいそつだぞ。今、若殿(定広)が幕府に攘夷の周旋をやっている最中さいちゅうだ」
「幕府に攘夷を周旋するなどと無駄なことはよせ、久坂。まったく周旋周旋とやかましいことだ。周旋なんぞは俊輔にでもやらせておけ!あいつは松陰先生からも周旋の才能があると言われてたからな。もっとも、あいつの身分ではそんな大役をやれる訳はないが……」

 この時ちょうど聞多と山尾が高杉たちの部屋に入ってきた。
「今、横浜から戻った」
「おう、聞多、どうだった?イギリス公使館の様子は」
朗報ろうほうを持ってきたぞ」

 高杉は部屋にいたおんなたちをさがらせた。
「今度の十一月十三日、イギリス公使一行が武州ぶしゅう金沢へ物見ものみ遊山ゆさんに出かけるそうじゃ」
「金沢八景か……。よし、そいつらを斬ろう!」
 高杉は即決した。
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