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第二章・尊王攘夷
第7話 江戸城騒然。慶喜、容堂登場
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サトウが江戸を初訪問していた頃、伊藤俊輔は京都にいた。
俊輔の恩師であった来原良蔵の遺書と遺髪を萩の遺族へ届けて、そのあと久しぶりに実家の両親のところへ帰った。そしてしばらく地元に滞在してから京都へ入って、ここで藩の仕事をしていたのだった。
その頃ちょうど俊輔の上司である桂小五郎が江戸から京都へやって来た。
「萩の来原家のことは手紙で読んだ。いろいろと苦労をかけたな、俊輔。いや本当にすまなかった。ところで最近の京の様子はどうだ?」
「相変わらず“天誅”と称する暗殺事件が頻発しています。ただ、そのおかげで我が長州の勢いは日に日に増大しております」
実際この頃までに島田左近、本間精一郎、宇郷玄蕃など佐幕派と目されていた人物が何人も暗殺され、江州石部の宿では幕府の与力四人が襲撃されて殺されている。そしてこれ以降も多田帯刀、池内大学、賀川肇などが次々と暗殺されていくことになる。
「京へやって来る途中、東海道で三条、姉小路お二人の勅使にお目にかかったが、どうやら将軍上洛の件は上手くいきそうだ。あとは帝の前で将軍に攘夷を誓わせれば我々の目的は達成されたも同然だ」
「今回の桂さんの上洛目的は対馬藩の内紛を仲裁するためと伺いましたが……」
「うむ、まあそうだ……。それはそうと俊輔、三本木の件はどうなった?」
「三本木の件?」
「ほら、吉田屋のことだよ、吉田屋の……」
(ああ、幾松さんのことか)「まだ交渉中です」
「そうか、まだ交渉中か……」
桂の表情は急に曇りかげんになった。
それを見て取った俊輔は内心「ヤレヤレ」といった心持ちになった。
(まったく、この人の女好きには困ったものだ)
桂は以前から三本木にある吉田屋の芸者・幾松に熱を入れており、自分が京都をあけている間に落籍しておいてくれるよう俊輔に頼んでいたのである。
(まあ、女好きという点ではワシも他人の事は言えんが……)
俊輔は江戸の品川で友人の志道聞多(後の井上馨)と遊郭で遊び回っていたが、この京都の祇園でも俊輔と聞多は芸者たちとよく遊んでいた。
すでに俊輔には政千代という馴染みの芸者がおり、聞多には君尾という馴染みがいた。また久坂には島原にお辰という愛人がおり、長州の男たちは京都の三本木、祇園、島原で金を湯水のように使っていた。
「いや、私は自分自身の不平不満を言うわけではない。女のことなど後回しにするのが当然だ。しかし俊輔、最近お前は天誅騒ぎの暗殺仕事に興味を持っていると聞いたぞ。私はお前に暗殺の仕事などさせたくないのだ。お前にはそんな仕事は似合わない。お前は夜の席で女たちとバカ話でもしてだな……」
「わかりました、わかりました、桂さん。近いうちに幾松さんのことは私がケリをつけますから」
これ以上、桂の説教を聞きたくなかった俊輔は、自らお願いするように幾松の身請け仕事を引き受けた。
あくる日、俊輔は三本木の吉田屋へ行った。
三本木は現在の京阪電鉄・神宮丸太町駅の近くにあった花街で、ちょうど鴨川を挟んだ反対側のあたりにあったが現在はその名残りをほとんどとどめていない。そこにはかつて(幕末の政治運動史には欠かせない)頼山陽も住んでおり「山紫水明処」という史跡が現在も残っている。吉田屋はそのやや北側にあったが現在「吉田屋跡」という史跡案内の立て札がそこには立っている。
俊輔は以前もこの吉田屋に来て、ここの女将に幾松の身請け話を申し出ていた。しかし桂が惚れたこの幾松は評判の美人で踊りの名手でもあり、桂の他にも山科の豪商が彼女の身請けを申し出ていた。要するに落札の競合者がいたわけである。
「金はいくらでも出す。なんとか我が主のもとへ彼女を寄こしてはくれぬか?」
「へえ。せやけど、あちらさんも金はいくらでも出すと言うてはりますわ」
女将はそう言って俊輔に耳打ちし、豪商が提示してきた金額を伝えた。
(いくら藩からの機密費を使えるといっても、さすがにそれだけの額は出せん……)
「我が長州に恩を売っておく良い機会ではないか。我が藩がこの三本木でどれだけの金を使っているかお主が知らぬわけはなかろう?もうちょっと金額を折り合ってはくれまいか?」
そう言って俊輔は何度も女将に頭を下げて懇願したが、それでも彼女は「あちらの豪商も大切なお得意様ですから……」などと言って首を縦に振ろうとはしなかった。
俊輔はとうとう開き直った。
「そうか、わかった。お主がそこまで頑なに我が主の申し出を断るというなら、ワシにも考えがある」
俊輔は刀の柄に手をかけて、恐ろしい目で彼女をにらんで言い放った。
「ワシには今、天誅で世間を騒がせている志士の知り合いがいる。お主、今後夜道は歩かぬことだな」
なにしろ「あの長州藩」の一員である俊輔の口から“天誅”の言葉を聞かされたのだから、女将としてはたまったものではない。この一言で完全に震えあがってしまって、すべて俊輔の言う通りに従わざるを得なくなった。
(やれやれ。女一人を相手にワシはこんなところで何をやっているのだ……。とにかくこれで桂さんの仕事は片づいた。あとは江戸で皆の仕事を手伝って、士分に昇格するための手柄を立てねばならぬ……。桂さんはワシに人殺しは似合わぬと言うが、好き嫌いを言える身分ではない。また、そういう時代でもないのだ)
その後しばらくして桂と俊輔は京都から江戸へ向かった。
三条、姉小路の勅使下向を画策した長州と土佐が江戸で仲間割れをして、勅使もまだ将軍家茂に面会できないでいる、という理由で二人は江戸へ呼ばれたのだ。二人が江戸に到着するのはしばらく先のことで、十一月二十三日のことになる。
三条、姉小路の両勅使は十月二十八日、江戸城の近くにある竜の口の伝奏屋敷(朝廷からの使者が宿泊する屋敷)へ入った。ところがその頃将軍家茂は麻疹にかかっていたため、勅使と将軍との対面はしばらく日延べとなった。
およそ半年前の大原勅使の下向を薩摩の久光が護衛したように、今回、勅使下向の護衛役は土佐藩主・山内豊範がつとめた。この山内豊範は一ヶ月後、長州藩主・毛利慶親の娘(養女の喜久姫)と結婚することになっており、今回勅使下向で協力した長州・土佐の両藩はさらに関係を深めていくはずだった。
勅使の江戸到着からしばらく経った十一月五日、この二つの藩をめぐって一つの事件が発生した。
この日、長州藩の世子毛利定広が懇親のために豊範の養父容堂を桜田の藩邸に招いた。
ただし長州藩士の多くは容堂に強い疑念を抱いており、酒席に招いたこの客に対して面白くない気持ちでいっぱいだった。
「将軍は麻疹などといっているが仮病を使って勅使から逃げているのではないか?そのうえ容堂公も、その将軍をかばっているのではないか?」
なにしろ長州藩と土佐藩とでは、その成り立ち自体が大きく違っているのだから、長州藩士たちがこういった疑念を容堂に対して抱いたとしても、故無しとしない。
土佐の山内家は関ヶ原の功績により家康から格別の恩恵を受けた藩である。それゆえ幕府への忠誠心は強い。
かたや毛利家はそれとは真逆で、関ヶ原で敗戦した西軍に与した結果大幅に領地を削減され、この時に至っている
実際この時、幕府内は混乱の極みにあり、容堂はしょっちゅう江戸城の一橋慶喜や松平春嶽に会って助言を与えており、長州藩士たちが疑っていた通り、容堂が幕政を助けていたのは事実である。
幕政が混乱していた理由は、まさにこの「勅使に対してどのような回答をするか?」というところにあった。
勅使の目的は「将軍に奉勅攘夷を誓わせて、破約攘夷を実行させる」ということであった。奉勅攘夷とは「帝(孝明天皇)からの勅命の通り、攘夷を推し進める」ということで、破約攘夷とは「諸外国と結んだ通商条約を一旦破棄して締結交渉をやり直す」ということである。しかし諸外国と結んだ通商条約を日本側から一方的に破棄した場合、おそらく諸外国と戦争になる可能性が高いであろう。
この「勅使に対してどのような回答をするか?」について、江戸城内で飛び交っていた意見はおおむね次の通りである。
まず、開明派と見られていた政事総裁職の松平春嶽が
「井伊大老が結んだ条約は内容に不備があり、しかも無勅許だったのだから一旦破棄して、再度各国と交渉をやり直すべきである」
と勅使の命令に従うよう勧告した。
これに対し幕府開明派の筆頭として名高い小栗忠順(上野介)は次のように反論した。
「外交は幕府の専権事項なのだから朝廷や諸大名の干渉を恐れず、堂々と幕府の開国政策を遂行すべきである」
しかしながら尊王の志が強い、まだ京都に赴任する前だった京都守護職の会津藩主・松平容保がこれに反論した。
「奉勅攘夷を拒めば尊王の大義が失われ、攘夷を実行せねば幕府の権威は失墜するでしょう」
こうして江戸城では「開国か、攘夷か」の議論が続けられたものの、大勢は奉勅攘夷を甘受する方向に傾きつつあった。
ところがここで将軍後見職の一橋慶喜が公明正大に「攘夷の不可」を説いた。
「我が国のみが鎖国を続けるのは不可能である。井伊大老が結んだ条約は不正と言えば不正だが、外国人から見れば政府と政府が結んだ正式な条約である。もし我が方の一方的な条約破棄を理由に諸外国と戦争をして、仮に勝っても名誉にはならない。もし負ければ最悪の事態となる。私がこのように考えるのは幕府のためではない。日本全体のためである」
この慶喜の発言で開明派の意見が盛り返したかに見えたが、結局こういった正論は「世間に公表する事すらはばかられる」というご時世だった。
そして事を穏便に収めるために容堂が慶喜を説得した。
「今は表向き奉勅攘夷を受けいれて、無謀な攘夷だけは避ければよろしい」
さらにこのあと「和宮(孝明天皇の妹)様を将軍正室として迎えた時に十年以内の攘夷実行を朝廷と約束済みです」といった幕府内の機密事項も知らされ、慶喜も渋々奉勅攘夷を了承した。以後、慶喜は何度も辞職を申し出たが、それも結局容堂がなだめて決着させたのだった。
話を桜田藩邸での酒席の場面に戻す。
以上のような経緯の中身を長州藩士たちが詳しく知るはずもなかったが、とにかく彼らは幕府を助けているであろう容堂の姿勢が気に食わなかった。
そしてこの日、酒の勢いもあって思わず長州藩士たちの本音が漏れてしまった。
長州側の席の一部から容堂に対して
「酔えば勤皇、覚めれば佐幕、一体本心はどちらでありますか!?」
と叫び声があがったのである。
すかさず土佐側の席から「今、何と申した!?」と家臣たちがいきりだって長州側につめよろうとしたところ、容堂が「待てっ」と声をかけて家臣たちを止めた。
容堂は家臣に紙と筆を持って来させて
「今、良い物を書いてやる」
と嬉しそうな表情をしつつ一枚の絵を書いて長州藩士たちに見せた。
「これはお主たちのことよ」
それは瓢箪の上下のふくらみが逆さまになっている絵であった。
下級武士たちが藩の上層部を動かしている長州を皮肉ったのだ。
容堂が大酒飲みであることは、自分のことを「鯨海酔侯」と称していたことも含めて歴史上、有名な話であろう。この程度のことで酒席を壊すほど無粋ではない。
だがしかし、長州藩にも一人、酒飲みで有名な重役がいた。
この男は酔っ払って相手にからむことで有名な男だった。
周布政之助である。
この男は数ヶ月前、薩摩藩との酒席の場で薩摩藩士から暴言をうけた際に、いきなり剣舞をやり始めて酔っ払ったフリをしてその薩摩藩士を斬ろうとした男なのだ。
酒席は一時騒然となったがその場にいた薩摩の大久保一蔵(後の利通)がとっさに畳回しの芸をやったおかげで一同はあっけに取られ、ようやくその場をとりおさめることができたのだった。
そしてその周布は、このとき容堂の前でも酔っ払って事を起こしたのである。
周布は近くにいた久坂玄瑞に耳打ちした。すると久坂がすっくと立ち上がり容堂に向かって言った。
「卒爾ながら酒と詩をこよなく愛される鯨海酔侯に、座興として拙者が詩を一編、吟じ奉らん」
久坂は手に持っていた扇子を開いて、得意の美声で詩を吟じはじめた。
「われ方外に居て、なお切歯す、廟堂の諸老、何ぞ遅疑するや」
これは吉田松陰にも大きな影響を与えた僧月性の詩で、幕府の弱腰外交を嘆いている詩である。
そこですかさず周布も立ち上がり容堂を指差して叫んだ。
「鯨海酔侯もまた廟堂の一老公!」
これにはさすがに容堂も顔色を変えて不快な色をあらわにした。
もちろん土佐藩士たちは全員立ち上がり「無礼者!」と叫んで長州側につめよろうとした。が、容堂と定広が同席している手前、また豊範と喜久姫の結婚が間近に迫っていること、さらには勅使下向での協力関係もあるため、この日は一応両者このまま引き下がって事なきを得たのであった。
俊輔の恩師であった来原良蔵の遺書と遺髪を萩の遺族へ届けて、そのあと久しぶりに実家の両親のところへ帰った。そしてしばらく地元に滞在してから京都へ入って、ここで藩の仕事をしていたのだった。
その頃ちょうど俊輔の上司である桂小五郎が江戸から京都へやって来た。
「萩の来原家のことは手紙で読んだ。いろいろと苦労をかけたな、俊輔。いや本当にすまなかった。ところで最近の京の様子はどうだ?」
「相変わらず“天誅”と称する暗殺事件が頻発しています。ただ、そのおかげで我が長州の勢いは日に日に増大しております」
実際この頃までに島田左近、本間精一郎、宇郷玄蕃など佐幕派と目されていた人物が何人も暗殺され、江州石部の宿では幕府の与力四人が襲撃されて殺されている。そしてこれ以降も多田帯刀、池内大学、賀川肇などが次々と暗殺されていくことになる。
「京へやって来る途中、東海道で三条、姉小路お二人の勅使にお目にかかったが、どうやら将軍上洛の件は上手くいきそうだ。あとは帝の前で将軍に攘夷を誓わせれば我々の目的は達成されたも同然だ」
「今回の桂さんの上洛目的は対馬藩の内紛を仲裁するためと伺いましたが……」
「うむ、まあそうだ……。それはそうと俊輔、三本木の件はどうなった?」
「三本木の件?」
「ほら、吉田屋のことだよ、吉田屋の……」
(ああ、幾松さんのことか)「まだ交渉中です」
「そうか、まだ交渉中か……」
桂の表情は急に曇りかげんになった。
それを見て取った俊輔は内心「ヤレヤレ」といった心持ちになった。
(まったく、この人の女好きには困ったものだ)
桂は以前から三本木にある吉田屋の芸者・幾松に熱を入れており、自分が京都をあけている間に落籍しておいてくれるよう俊輔に頼んでいたのである。
(まあ、女好きという点ではワシも他人の事は言えんが……)
俊輔は江戸の品川で友人の志道聞多(後の井上馨)と遊郭で遊び回っていたが、この京都の祇園でも俊輔と聞多は芸者たちとよく遊んでいた。
すでに俊輔には政千代という馴染みの芸者がおり、聞多には君尾という馴染みがいた。また久坂には島原にお辰という愛人がおり、長州の男たちは京都の三本木、祇園、島原で金を湯水のように使っていた。
「いや、私は自分自身の不平不満を言うわけではない。女のことなど後回しにするのが当然だ。しかし俊輔、最近お前は天誅騒ぎの暗殺仕事に興味を持っていると聞いたぞ。私はお前に暗殺の仕事などさせたくないのだ。お前にはそんな仕事は似合わない。お前は夜の席で女たちとバカ話でもしてだな……」
「わかりました、わかりました、桂さん。近いうちに幾松さんのことは私がケリをつけますから」
これ以上、桂の説教を聞きたくなかった俊輔は、自らお願いするように幾松の身請け仕事を引き受けた。
あくる日、俊輔は三本木の吉田屋へ行った。
三本木は現在の京阪電鉄・神宮丸太町駅の近くにあった花街で、ちょうど鴨川を挟んだ反対側のあたりにあったが現在はその名残りをほとんどとどめていない。そこにはかつて(幕末の政治運動史には欠かせない)頼山陽も住んでおり「山紫水明処」という史跡が現在も残っている。吉田屋はそのやや北側にあったが現在「吉田屋跡」という史跡案内の立て札がそこには立っている。
俊輔は以前もこの吉田屋に来て、ここの女将に幾松の身請け話を申し出ていた。しかし桂が惚れたこの幾松は評判の美人で踊りの名手でもあり、桂の他にも山科の豪商が彼女の身請けを申し出ていた。要するに落札の競合者がいたわけである。
「金はいくらでも出す。なんとか我が主のもとへ彼女を寄こしてはくれぬか?」
「へえ。せやけど、あちらさんも金はいくらでも出すと言うてはりますわ」
女将はそう言って俊輔に耳打ちし、豪商が提示してきた金額を伝えた。
(いくら藩からの機密費を使えるといっても、さすがにそれだけの額は出せん……)
「我が長州に恩を売っておく良い機会ではないか。我が藩がこの三本木でどれだけの金を使っているかお主が知らぬわけはなかろう?もうちょっと金額を折り合ってはくれまいか?」
そう言って俊輔は何度も女将に頭を下げて懇願したが、それでも彼女は「あちらの豪商も大切なお得意様ですから……」などと言って首を縦に振ろうとはしなかった。
俊輔はとうとう開き直った。
「そうか、わかった。お主がそこまで頑なに我が主の申し出を断るというなら、ワシにも考えがある」
俊輔は刀の柄に手をかけて、恐ろしい目で彼女をにらんで言い放った。
「ワシには今、天誅で世間を騒がせている志士の知り合いがいる。お主、今後夜道は歩かぬことだな」
なにしろ「あの長州藩」の一員である俊輔の口から“天誅”の言葉を聞かされたのだから、女将としてはたまったものではない。この一言で完全に震えあがってしまって、すべて俊輔の言う通りに従わざるを得なくなった。
(やれやれ。女一人を相手にワシはこんなところで何をやっているのだ……。とにかくこれで桂さんの仕事は片づいた。あとは江戸で皆の仕事を手伝って、士分に昇格するための手柄を立てねばならぬ……。桂さんはワシに人殺しは似合わぬと言うが、好き嫌いを言える身分ではない。また、そういう時代でもないのだ)
その後しばらくして桂と俊輔は京都から江戸へ向かった。
三条、姉小路の勅使下向を画策した長州と土佐が江戸で仲間割れをして、勅使もまだ将軍家茂に面会できないでいる、という理由で二人は江戸へ呼ばれたのだ。二人が江戸に到着するのはしばらく先のことで、十一月二十三日のことになる。
三条、姉小路の両勅使は十月二十八日、江戸城の近くにある竜の口の伝奏屋敷(朝廷からの使者が宿泊する屋敷)へ入った。ところがその頃将軍家茂は麻疹にかかっていたため、勅使と将軍との対面はしばらく日延べとなった。
およそ半年前の大原勅使の下向を薩摩の久光が護衛したように、今回、勅使下向の護衛役は土佐藩主・山内豊範がつとめた。この山内豊範は一ヶ月後、長州藩主・毛利慶親の娘(養女の喜久姫)と結婚することになっており、今回勅使下向で協力した長州・土佐の両藩はさらに関係を深めていくはずだった。
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この日、長州藩の世子毛利定広が懇親のために豊範の養父容堂を桜田の藩邸に招いた。
ただし長州藩士の多くは容堂に強い疑念を抱いており、酒席に招いたこの客に対して面白くない気持ちでいっぱいだった。
「将軍は麻疹などといっているが仮病を使って勅使から逃げているのではないか?そのうえ容堂公も、その将軍をかばっているのではないか?」
なにしろ長州藩と土佐藩とでは、その成り立ち自体が大きく違っているのだから、長州藩士たちがこういった疑念を容堂に対して抱いたとしても、故無しとしない。
土佐の山内家は関ヶ原の功績により家康から格別の恩恵を受けた藩である。それゆえ幕府への忠誠心は強い。
かたや毛利家はそれとは真逆で、関ヶ原で敗戦した西軍に与した結果大幅に領地を削減され、この時に至っている
実際この時、幕府内は混乱の極みにあり、容堂はしょっちゅう江戸城の一橋慶喜や松平春嶽に会って助言を与えており、長州藩士たちが疑っていた通り、容堂が幕政を助けていたのは事実である。
幕政が混乱していた理由は、まさにこの「勅使に対してどのような回答をするか?」というところにあった。
勅使の目的は「将軍に奉勅攘夷を誓わせて、破約攘夷を実行させる」ということであった。奉勅攘夷とは「帝(孝明天皇)からの勅命の通り、攘夷を推し進める」ということで、破約攘夷とは「諸外国と結んだ通商条約を一旦破棄して締結交渉をやり直す」ということである。しかし諸外国と結んだ通商条約を日本側から一方的に破棄した場合、おそらく諸外国と戦争になる可能性が高いであろう。
この「勅使に対してどのような回答をするか?」について、江戸城内で飛び交っていた意見はおおむね次の通りである。
まず、開明派と見られていた政事総裁職の松平春嶽が
「井伊大老が結んだ条約は内容に不備があり、しかも無勅許だったのだから一旦破棄して、再度各国と交渉をやり直すべきである」
と勅使の命令に従うよう勧告した。
これに対し幕府開明派の筆頭として名高い小栗忠順(上野介)は次のように反論した。
「外交は幕府の専権事項なのだから朝廷や諸大名の干渉を恐れず、堂々と幕府の開国政策を遂行すべきである」
しかしながら尊王の志が強い、まだ京都に赴任する前だった京都守護職の会津藩主・松平容保がこれに反論した。
「奉勅攘夷を拒めば尊王の大義が失われ、攘夷を実行せねば幕府の権威は失墜するでしょう」
こうして江戸城では「開国か、攘夷か」の議論が続けられたものの、大勢は奉勅攘夷を甘受する方向に傾きつつあった。
ところがここで将軍後見職の一橋慶喜が公明正大に「攘夷の不可」を説いた。
「我が国のみが鎖国を続けるのは不可能である。井伊大老が結んだ条約は不正と言えば不正だが、外国人から見れば政府と政府が結んだ正式な条約である。もし我が方の一方的な条約破棄を理由に諸外国と戦争をして、仮に勝っても名誉にはならない。もし負ければ最悪の事態となる。私がこのように考えるのは幕府のためではない。日本全体のためである」
この慶喜の発言で開明派の意見が盛り返したかに見えたが、結局こういった正論は「世間に公表する事すらはばかられる」というご時世だった。
そして事を穏便に収めるために容堂が慶喜を説得した。
「今は表向き奉勅攘夷を受けいれて、無謀な攘夷だけは避ければよろしい」
さらにこのあと「和宮(孝明天皇の妹)様を将軍正室として迎えた時に十年以内の攘夷実行を朝廷と約束済みです」といった幕府内の機密事項も知らされ、慶喜も渋々奉勅攘夷を了承した。以後、慶喜は何度も辞職を申し出たが、それも結局容堂がなだめて決着させたのだった。
話を桜田藩邸での酒席の場面に戻す。
以上のような経緯の中身を長州藩士たちが詳しく知るはずもなかったが、とにかく彼らは幕府を助けているであろう容堂の姿勢が気に食わなかった。
そしてこの日、酒の勢いもあって思わず長州藩士たちの本音が漏れてしまった。
長州側の席の一部から容堂に対して
「酔えば勤皇、覚めれば佐幕、一体本心はどちらでありますか!?」
と叫び声があがったのである。
すかさず土佐側の席から「今、何と申した!?」と家臣たちがいきりだって長州側につめよろうとしたところ、容堂が「待てっ」と声をかけて家臣たちを止めた。
容堂は家臣に紙と筆を持って来させて
「今、良い物を書いてやる」
と嬉しそうな表情をしつつ一枚の絵を書いて長州藩士たちに見せた。
「これはお主たちのことよ」
それは瓢箪の上下のふくらみが逆さまになっている絵であった。
下級武士たちが藩の上層部を動かしている長州を皮肉ったのだ。
容堂が大酒飲みであることは、自分のことを「鯨海酔侯」と称していたことも含めて歴史上、有名な話であろう。この程度のことで酒席を壊すほど無粋ではない。
だがしかし、長州藩にも一人、酒飲みで有名な重役がいた。
この男は酔っ払って相手にからむことで有名な男だった。
周布政之助である。
この男は数ヶ月前、薩摩藩との酒席の場で薩摩藩士から暴言をうけた際に、いきなり剣舞をやり始めて酔っ払ったフリをしてその薩摩藩士を斬ろうとした男なのだ。
酒席は一時騒然となったがその場にいた薩摩の大久保一蔵(後の利通)がとっさに畳回しの芸をやったおかげで一同はあっけに取られ、ようやくその場をとりおさめることができたのだった。
そしてその周布は、このとき容堂の前でも酔っ払って事を起こしたのである。
周布は近くにいた久坂玄瑞に耳打ちした。すると久坂がすっくと立ち上がり容堂に向かって言った。
「卒爾ながら酒と詩をこよなく愛される鯨海酔侯に、座興として拙者が詩を一編、吟じ奉らん」
久坂は手に持っていた扇子を開いて、得意の美声で詩を吟じはじめた。
「われ方外に居て、なお切歯す、廟堂の諸老、何ぞ遅疑するや」
これは吉田松陰にも大きな影響を与えた僧月性の詩で、幕府の弱腰外交を嘆いている詩である。
そこですかさず周布も立ち上がり容堂を指差して叫んだ。
「鯨海酔侯もまた廟堂の一老公!」
これにはさすがに容堂も顔色を変えて不快な色をあらわにした。
もちろん土佐藩士たちは全員立ち上がり「無礼者!」と叫んで長州側につめよろうとした。が、容堂と定広が同席している手前、また豊範と喜久姫の結婚が間近に迫っていること、さらには勅使下向での協力関係もあるため、この日は一応両者このまま引き下がって事なきを得たのであった。
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1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。
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※架空の日本史・世界史です。
※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。
※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。

新撰組のものがたり
琉莉派
歴史・時代
近藤・土方ら試衛館一門は、もともと尊王攘夷の志を胸に京へ上った。
ところが京の政治状況に巻き込まれ、翻弄され、いつしか尊王攘夷派から敵対視される立場に追いやられる。
近藤は弱気に陥り、何度も「新撰組をやめたい」とお上に申し出るが、聞き入れてもらえない――。
町田市小野路町の小島邸に残る近藤勇が出した手紙の数々には、一般に鬼の局長として知られる近藤の姿とは真逆の、弱々しい一面が克明にあらわれている。
近藤はずっと、新撰組を解散して多摩に帰りたいと思っていたのだ。
最新の歴史研究で明らかになった新撰組の実相を、真正面から描きます。
主人公は土方歳三。
彼の恋と戦いの日々がメインとなります。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
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