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第二章
35.選ぶ理由(1)
「いい店主でよかったな」
書店を後にしてすぐ、ハザルにそう声をかけられ、フィノは相槌を打った。まずはこの教本から、魔法に触れられる。思えば、本を抱える腕に自然と力が籠もった。
今朝ハザルと話していた用事は、殆ど済んでいた。ほかに滞在中に必要なものはなかっただろうかと、ぼんやり考えながらフィノは歩く。そのとき、服飾品の並ぶ露店の前で、フィノはふと歩を緩めた。
渋みのある匂いが、ふわりと鼻先を掠める。露店には、革で作られた鞄や小物が並べられていた。風合いの異なる革製品には、それぞれ草花や動物、唐草模様などが細やかに彫られている。そのなかでも、店先に掛けられた肩掛け式の鞄に、フィノの目は吸い寄せられた。
「どうした、フィノ」
立ち止まったフィノに気づき、ハザルが問いかける。
「あ、えっと……素敵ですね、これ」
咄嗟にそう返しながら、フィノはフードの中で丸くなっているギニアンの重みを意識した。普段持ち歩いているものは、金と本を入れるだけで中身が殆ど埋まってしまう。目の前の鞄はひと回り大きく、底も深いうえに口も広い。
「これくらい大きかったら、ギニアンも入りそうだな、って」
長く歩くとなれば、ギニアンもずっと狭い場所に収まっているのは窮屈だろう。フィノにとっても、首元にかかる重みは少なからず負担になっていた。名を呼ばれたことに気づいたのか、ギニアンがひょこりと顔を出す。自分の話かと確かめるように、小さな声で「ぷぃ」と鳴いた。すると、ハザルが迷いのない調子で口を開く。
「買うか」
「え、でも」
「必要なもんだろ」
フィノが返事をするより早く、ハザルは店主へ「これを」と告げて金を差し出していた。フィノは戸惑いながらも、品物を受け取り、古いほうを外して肩に掛け替える。先ほど買った教本を中へ入れ、それからフードから身を乗り出しているギニアンへ顔を向けた。
「ギニアン、早速入ってみる?」
「ぷきゅ」
ギニアンは鳴くと、フィノの肩から腕を伝い、するりと鞄の中へ潜り込んだ。大きさは申し分なさそうだ。しっかりとした厚みの革は身体を落ち着けやすいのか、小さな魔獣は中で何度か身じろぎをしたあと、ふわふわの頭だけを覗かせ、「ぷっ、ぷ」と機嫌よく鳴き声を漏らす。
「ギニアンも気に入ったみたいです。何から何まで……ありがとうございます」
フィノが微笑むと、ハザルは「ああ」と事もなげに頷いた。満足げに丸くなるギニアンを見下ろしてから、フィノはふと、隣に立つハザルの鞄へ目を向ける。肩から提げたそれは、随分長く使い込まれているようだった。革の表面には細かな傷が幾つもつき、肩紐には何か所か繕った跡もある。
「ハザルさんは、買い替えないんですか?」
「俺はいい」
即座に返され、フィノはぱちりと瞬きをした。
「でも、だいぶ長く使っているように見えます」
「まだ壊れちゃいない。大丈夫だ」
それだけ言うと、ハザルは話を終えるように前を向いた。
(お金をたくさんもらえたんなら、ハザルさんも自分のために使えばいいのに)
確かに、壊れているわけではないのだろう。それでも、フィノに必要なものは迷わず買ってくれた。それが嬉しい反面、彼自身のためにも使ってほしいという気持ちが拭えない。胸の片隅に、小さな引っかかりが残った。
そのまま通りを歩くうちに、陽は西へと傾き始めていた。露店の並ぶ一角では、夕餉時に向けた支度が早くも始まっている。脂の滴る肉。香草をまぶして焼いた魚。甘く煮詰めた果実——。漂う香りを胸いっぱいに吸い込むと、フィノの腹の虫が小さく鳴った。
「腹、減ってきたか」
どうやら聞こえていたらしい。フィノは照れくさそうに腹を押さえながら答えた。
「はい、少し」
「なら何か買って戻るか。今日は部屋で食えばいい」
そう言うなり、ハザルは目の前の露店で足を止めた。並んでいるのは、串に刺した肉と、表面を硬く焼き上げた丸パンだ。ほかの料理へ目移りする様子もなく、革袋から硬貨を取り出そうとする姿に、フィノは慌てて声をかけた。
「あ、あの! ハザルさん」
「ん?」
「もう決めちゃうんですか? おいしそうなもの、色々あるのに」
問いかけると、ハザルは小さく首を傾げた。それから、さも当然のように答える。
「俺は何でもいい。腹に入れば同じだ」
その一言に、独りで長く旅をしてきた彼の暮らしぶりが、垣間見えた気がした。
「お前は好きなものを選べ」
続けてそう言われ、先ほどの引っかかりが再び浮かび上がる。鞄のときもそうだった。ハザルは自分のこととなると、途端に無頓着になる。それを責めるわけではない。——ただ。
(ちょっと、寂しいな)
フィノは通りを見渡した。色とりどりの露店の中で、目に留まったのは、大鍋をかき混ぜている店だった。柔らかく煮込まれた肉と野菜の香りが、湯気と共に立ち上っている。
「あの、ハザルさん。あれ、おいしそうじゃないですか?」
フィノが指を差すと、ハザルもその先へ目を向けた。
「ああ。お前はあれにするか?」
尋ねられ、フィノは一度目を伏せた。数拍置いてから、躊躇いがちにハザルを見上げる。
「あれを、ハザルさんと食べたいです」
フィノの言葉に、ハザルは両眉を上げた。おかしなことを言ってしまっただろうか。不安になり、「だめ……ですか?」と窺うように見つめる。するとハザルは黙り込み、ふいと視線を逸らしてしまう。その耳は、仄かに赤くなっているようにも見えた。
「だめじゃねえ。……そうしよう」
ぼそりと答え、ハザルは大鍋のある露店へ向き直った。
「ほんとですか?」
「ああ」
「やった」
フィノの弾んだ声に反応したのか、鞄の口からギニアンが顔を出した。湯気の匂いを嗅ぐように鼻先を動かし、「ぷきゅ」と短く鳴く。ハザルは小さな魔獣を見下ろすと、ふっと息を吐いた。
「こいつの分も探すか」
独りに慣れた彼が、小さくともひとつ、分け合うことを受け入れてくれた気がした。それが嬉しくて、フィノは「はい」と答えながら顔を綻ばせる。
(浮かれすぎだ、僕)
自分は、魔法を学ぶ手がかりを探しにこの街へ来たのだ。恋人と過ごす時間を楽しんでばかりいてはいけない。そう思うのに、露店へ向かう足取りは弾むばかりだった。
書店を後にしてすぐ、ハザルにそう声をかけられ、フィノは相槌を打った。まずはこの教本から、魔法に触れられる。思えば、本を抱える腕に自然と力が籠もった。
今朝ハザルと話していた用事は、殆ど済んでいた。ほかに滞在中に必要なものはなかっただろうかと、ぼんやり考えながらフィノは歩く。そのとき、服飾品の並ぶ露店の前で、フィノはふと歩を緩めた。
渋みのある匂いが、ふわりと鼻先を掠める。露店には、革で作られた鞄や小物が並べられていた。風合いの異なる革製品には、それぞれ草花や動物、唐草模様などが細やかに彫られている。そのなかでも、店先に掛けられた肩掛け式の鞄に、フィノの目は吸い寄せられた。
「どうした、フィノ」
立ち止まったフィノに気づき、ハザルが問いかける。
「あ、えっと……素敵ですね、これ」
咄嗟にそう返しながら、フィノはフードの中で丸くなっているギニアンの重みを意識した。普段持ち歩いているものは、金と本を入れるだけで中身が殆ど埋まってしまう。目の前の鞄はひと回り大きく、底も深いうえに口も広い。
「これくらい大きかったら、ギニアンも入りそうだな、って」
長く歩くとなれば、ギニアンもずっと狭い場所に収まっているのは窮屈だろう。フィノにとっても、首元にかかる重みは少なからず負担になっていた。名を呼ばれたことに気づいたのか、ギニアンがひょこりと顔を出す。自分の話かと確かめるように、小さな声で「ぷぃ」と鳴いた。すると、ハザルが迷いのない調子で口を開く。
「買うか」
「え、でも」
「必要なもんだろ」
フィノが返事をするより早く、ハザルは店主へ「これを」と告げて金を差し出していた。フィノは戸惑いながらも、品物を受け取り、古いほうを外して肩に掛け替える。先ほど買った教本を中へ入れ、それからフードから身を乗り出しているギニアンへ顔を向けた。
「ギニアン、早速入ってみる?」
「ぷきゅ」
ギニアンは鳴くと、フィノの肩から腕を伝い、するりと鞄の中へ潜り込んだ。大きさは申し分なさそうだ。しっかりとした厚みの革は身体を落ち着けやすいのか、小さな魔獣は中で何度か身じろぎをしたあと、ふわふわの頭だけを覗かせ、「ぷっ、ぷ」と機嫌よく鳴き声を漏らす。
「ギニアンも気に入ったみたいです。何から何まで……ありがとうございます」
フィノが微笑むと、ハザルは「ああ」と事もなげに頷いた。満足げに丸くなるギニアンを見下ろしてから、フィノはふと、隣に立つハザルの鞄へ目を向ける。肩から提げたそれは、随分長く使い込まれているようだった。革の表面には細かな傷が幾つもつき、肩紐には何か所か繕った跡もある。
「ハザルさんは、買い替えないんですか?」
「俺はいい」
即座に返され、フィノはぱちりと瞬きをした。
「でも、だいぶ長く使っているように見えます」
「まだ壊れちゃいない。大丈夫だ」
それだけ言うと、ハザルは話を終えるように前を向いた。
(お金をたくさんもらえたんなら、ハザルさんも自分のために使えばいいのに)
確かに、壊れているわけではないのだろう。それでも、フィノに必要なものは迷わず買ってくれた。それが嬉しい反面、彼自身のためにも使ってほしいという気持ちが拭えない。胸の片隅に、小さな引っかかりが残った。
そのまま通りを歩くうちに、陽は西へと傾き始めていた。露店の並ぶ一角では、夕餉時に向けた支度が早くも始まっている。脂の滴る肉。香草をまぶして焼いた魚。甘く煮詰めた果実——。漂う香りを胸いっぱいに吸い込むと、フィノの腹の虫が小さく鳴った。
「腹、減ってきたか」
どうやら聞こえていたらしい。フィノは照れくさそうに腹を押さえながら答えた。
「はい、少し」
「なら何か買って戻るか。今日は部屋で食えばいい」
そう言うなり、ハザルは目の前の露店で足を止めた。並んでいるのは、串に刺した肉と、表面を硬く焼き上げた丸パンだ。ほかの料理へ目移りする様子もなく、革袋から硬貨を取り出そうとする姿に、フィノは慌てて声をかけた。
「あ、あの! ハザルさん」
「ん?」
「もう決めちゃうんですか? おいしそうなもの、色々あるのに」
問いかけると、ハザルは小さく首を傾げた。それから、さも当然のように答える。
「俺は何でもいい。腹に入れば同じだ」
その一言に、独りで長く旅をしてきた彼の暮らしぶりが、垣間見えた気がした。
「お前は好きなものを選べ」
続けてそう言われ、先ほどの引っかかりが再び浮かび上がる。鞄のときもそうだった。ハザルは自分のこととなると、途端に無頓着になる。それを責めるわけではない。——ただ。
(ちょっと、寂しいな)
フィノは通りを見渡した。色とりどりの露店の中で、目に留まったのは、大鍋をかき混ぜている店だった。柔らかく煮込まれた肉と野菜の香りが、湯気と共に立ち上っている。
「あの、ハザルさん。あれ、おいしそうじゃないですか?」
フィノが指を差すと、ハザルもその先へ目を向けた。
「ああ。お前はあれにするか?」
尋ねられ、フィノは一度目を伏せた。数拍置いてから、躊躇いがちにハザルを見上げる。
「あれを、ハザルさんと食べたいです」
フィノの言葉に、ハザルは両眉を上げた。おかしなことを言ってしまっただろうか。不安になり、「だめ……ですか?」と窺うように見つめる。するとハザルは黙り込み、ふいと視線を逸らしてしまう。その耳は、仄かに赤くなっているようにも見えた。
「だめじゃねえ。……そうしよう」
ぼそりと答え、ハザルは大鍋のある露店へ向き直った。
「ほんとですか?」
「ああ」
「やった」
フィノの弾んだ声に反応したのか、鞄の口からギニアンが顔を出した。湯気の匂いを嗅ぐように鼻先を動かし、「ぷきゅ」と短く鳴く。ハザルは小さな魔獣を見下ろすと、ふっと息を吐いた。
「こいつの分も探すか」
独りに慣れた彼が、小さくともひとつ、分け合うことを受け入れてくれた気がした。それが嬉しくて、フィノは「はい」と答えながら顔を綻ばせる。
(浮かれすぎだ、僕)
自分は、魔法を学ぶ手がかりを探しにこの街へ来たのだ。恋人と過ごす時間を楽しんでばかりいてはいけない。そう思うのに、露店へ向かう足取りは弾むばかりだった。
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