154 / 164
やり直しの人生 ソフィア十四歳スタンピード編
第二百二話 ソフィア出発!
しおりを挟む・番外編です。読み飛ばしても大丈夫な内容です。本編五話で委員長が響介に語っていた、中学の頃の律の話です。
・律と沢根の一人称視点で交互に語られるので少し読みづらいかもしれませんが、一人称「僕」が律、「俺」が沢根です。
あれは中学三年の秋のことだった。当時僕が通っていた中学は、毎年十月に合唱コンクールが催されていた。普段なら学校行事の合唱なんかにそれ程意欲を持つ生徒はおらず、適当にやり過ごすのが恒例の行事だったのだが、その年、三年の僕のクラスは卒業前ということもあって妙に活気付いていた。
僕のクラスの課題曲は“空駆ける天馬”だった。空駆ける天馬は混声三部構成のため、男子は全員が同じパートを歌う。僕は低い音程を周りに合わせて上手く歌う自信がなく、こっそりと声を出さずに、口だけをそれらしく動かして、歌うふりをしていた。いわゆる口パクというやつだ。周囲のクラスメイトは揃って知らんふりでもしているのか、それとも本当に誰も気づいていないのか、僕が声を出していないことを咎める者は誰もいなかった。
一年や二年の頃は男子の殆どに意欲がなく、それを女子が徒党を組んで咎めるという光景が散見されていたが、どうやら今年の僕のクラスに限っては、珍しく男子の方がやる気らしい。周りのクラスメイトが各々声を張って響かせる中で、僕は一人だけ唇を金魚のように開閉させながら、この行事が早く過ぎ去ることばかりを願っていた。
---
最後なんだからさ。そう言い出したのは、俺の後ろの席でいつも授業中に昼寝や落書きなんかをしている、とても真面目とは言い難い友人だった。
これは後から知った話だが、そいつは高校には進学せず、中卒で家の仕事を継ぐことが決まっていたらしい。三年のクラスメイトは進学先も散り散りで、卒業したらもう顔を合わせないであろう連中もいる。「確かにそうだな」と俺が適当に相槌を打つと、周りの友人達も波紋を広げるように頷き始めた。
合唱コンクールなんて絵に描いたような真面目な行事は、正直俺は好きじゃなかったし、大抵の男子生徒は同じことを考えていた。けれど改まって“最後だ”と言われると、何故かその退屈な行事が急に特別な物に思えてきたのだ。実際に俺たちが一丸になって歌い始めると、それまでふざけていた他の連中すら急に真剣になり始めて、やがて不揃いだった歌声が一つに纏まり始めた。
練習を重ねるごとに合唱の質が上がっていくことに、次第に俺たちは高揚感を抱き始めた。気づけば俺のクラスは全員が放課後に他のクラスよりも長く居残るほど、合唱コンの練習に夢中になっていた。
ただ一人、椀田の奴を除いて。
妙な因果というものはあるものだ。俺はいけ好かない事に小学校の頃からこいつと幾度も同じクラスに属し、中学最後の年まで椀田と同じ教室の空気を吸う羽目になっていた。
練習中、俺の前に立っている椀田はあからさまなくらいの仏頂面で、それこそ死んだ魚のような濁った目をしているくせに、生きた金魚みてえに口ばっかパクパクしやがって、まるで自分だけが違う世界にでもいるかのような様相だった。一人で周りと違うことをしているのに、恥なんかちっとも感じないのだろう。隠す気すらないのが手に取るようにわかるほど、明確な“フリ”をしていた。
こいつはいつだってそういう奴だった。周りがどんな空気だろうとお構いなしで、常に自分一人の世界に篭っている。俺は椀田のそういう所が心底嫌いだった。
たとえば何故それが気に食わないのか、もっと明確に説明しろなどと言われたとしても、俺は上手く言葉には纏められないだろう。が、嫌いなんて気持ちは所詮感情だ。理由なんか説明できなくても、俺は兎に角この椀田律という野郎が気に食わないのだ。ガキの頃にこいつと口喧嘩をしたなんてのは、ただのきっかけに過ぎない。口喧嘩から数年が経った今でも、俺は椀田のことが嫌いで嫌いで仕方がなかった。
好きの反対は無関心とはよく言ったもんだ。俺以外のクラスメイトはみんな、椀田の口パクなんか知ってても何とも思っていないのに、俺だけは苛立ちを抑えられずにいた。それが顔にまで出てしまっていたのだろう、仲の良い友人から「一人くらい歌ってなくても大丈夫だろ。邪魔されてるわけじゃないんだから」と諭されて、俺はますます自分が惨めに感じた。
嫌いな奴のことなんか気にするだけ無駄で、わざわざ苛立つほうがずっと損で馬鹿げている。中学三年にもなれば、たとえ子供だろうとそのくらいは学習していた。現に周りのクラスメイトはもう椀田のことを“そういう奴だから”と諦めているし、椀田の方に至っては、俺のことなんかちっとも気にかけていやしない。
俺ばかりが未だ一方的にあいつを意識して、勝手に一人で苛立ち続けているのだ。その事実が、ますます俺の腹底を煮えたぎらせていた。
---
合唱コンクール本番の、一週間ほど前のことだった。僕のクラスの伴奏担当だった女子生徒が、急に体調を崩したらしい。朝のホームルームで担任がそう告げると、教室はひそやかに騒ついた。
僕のクラスの伴奏担当は、ピアノを弾ける人物が他にいないという消極的な理由で決まったものだった。それはつまり、代わりに弾ける人物がいないことを意味していた。何人かのクラスメイトが、担任に練習がどうなるのかを尋ねると、彼は残念そうな顔で「暫くは休みになります」と告げた。
教室の騒めきが大きくなった。それまで珍しくあれだけ活気付いていたのだから、当然の反応だろう。本番直前のタイミングで急に練習ができなくなると、今までの努力は水の泡だ。担任は音楽教師に代奏を頼んでみると話していたが、正直その案への期待は薄かった。
放課後になるとやはり担任は申し訳なさそうな顔をして、音楽教師はコンクール本番へ向けた他の仕事で手一杯であることを説明した。伴奏担当の体調がいつ回復するかもわからない。教室はもう騒つくでもどよめくでもなく、ただ納得した様子で落胆した空気に満ちていった。
「なあ、お前ピアノ弾けたりしない?」
「無理だよ。俺ピアノなんかドレミの歌しか弾けないよ」
「だよな。俺なんかドレミすらわかんねぇや」
隣の席の男子生徒が、未だ諦めきれないのか小声でそう交わすのが耳に入った。後ろの方からは「こうなるなら、真面目に練習なんかしなきゃ良かったな」という嘆きまで聞こえてきた。
昨日まで活気で溢れていた教室じゅうが、一転して失望で埋まっていく。そのあまりの居心地の悪さに耐えられず、僕は思わず右手を挙げていた。
「すみません。あまり上手くはないですけど……」
---
あまり上手くはないですけど。などと悲観的な保身に走っておいて、椀田は楽譜を少し見るや否や鍵盤を軽々しく叩き始めた。その演奏は“上手くはない”なんていう謙遜には、微塵も似つかわしくないものだった。椀田は数分ほどピアノを弾くともう譜面を覚えてしまったらしく、楽譜を閉じて姿勢を正し「お願いします」と呟いた。
椀田の唐突な行動に、クラスメイトの過半数がどよめいていた。なんたって、常日頃から明らかに一人だけやる気がないことを、咎められすらされないような奴だ。“そういう奴”が自らピアノの代奏者に立候補したとなれば、驚くのが自然な反応だろう。無論、俺だって困惑していた。
指揮担当の生徒が合図を送るのを見やりながら、椀田は伴奏を弾き始めた。ごく自然に、さも当然そうに慣れた手つきでピアノを弾く椀田の姿に狼狽えながらも、クラスメイト達は皆後に続いて歌い始めた。呆けていた俺も、慌てて一小節後に続けて歌い出す。
異様、または不可思議としか言いようのない気分だった。俺は小学校の頃から幾度も椀田と同じ校門をくぐってきたが、今まであいつがピアノどころか、楽器を弾けるだなんて話は聞いたことがなかった。ただあいつのことは、俺より賢くて、俺より裕福で、俺より容姿が整っていて、俺より成績も良くて、俺より家族に恵まれていて、俺が欲しているものを全て持っているような奴で──その程度にしか考えていなかったのだ。
椀田の伴奏は完璧だった。その証拠に練習を終えると、早速クラスメイトの一人が「本番も弾いてくれ」と直談判し始める程だった。それほど整った旋律だった。あまりにも美しい弾き方だった。
俺は胃の底の辺りに、再びかっと熱が込み上げてくるのを感じた。
---
歌い終えた男子生徒の一人から、好奇的な表情で「本番も弾いてくれ」と頼まれて、正直悪い気がしなかったわけではない……と言えば嘘になる。
けれど僕はかぶりを振った。あくまでもこれは練習だから、という前提ありきの演奏だった。自宅で一人、ただの趣味として弾いている時と同じで、『失敗しても構わない』という保険がなければ、僕はまともに鍵盤を叩くこともままならないのだ。練習とはいえクラスメイトの前で演奏できたことすら、僕にとっては奇跡のようなものだった。
実際先程の自分の伴奏を振り返れば、あれは無事に弾き終えることにばかり必死で、ただ正確なだけの、気持ちの籠っていない演奏だったと評価をせざるを得なかった。合唱の伴奏なら、正確なだけでも充分かもしれない。しかし僕の場合に限っては、この矮小な精神性が誘因し、舞台に立ってしまうとその正確さすら危うくなるのだ。その程度の分際が壇上に上がるなど、無謀も甚だしいだろう。
別にこの程度は上手くない。本番なら僕はもっと下手になる。だから弾けない。そう言い放って僕が拒否すると、男子生徒は大層気を悪くしたらしく、拗ねた様子で退いていった。話が長続きするのが嫌で、あえて嫌味な言葉を選んだのだから、当然の流れだった。
後方で「これだから椀田は」と自分を揶揄する声が聞こえて、僕はひっそりと肩を震わせた。
人に嫌われるのも、失望されるのも、頭ではもはや慣れきっているつもりだった。けれど未だ心の方は追いつかないらしい。胸のあたりが重くなるのを感じて俯くと、不意に横から声がかかった。
「ねえ、椀田くんだよね」
僕は黙ったまま顔だけを声の方へ向けた。女子生徒が柔かな笑みをたたえて、僕の席の横に立っていた。僕が返事もせずに硬直していると、彼女は笑みを緩めながら話を続けた。
「急にごめんね。さっきの伴奏、凄く上手かったから……」
「別に上手くはないよ」
僕は敢えて彼女の言葉を遮った。こうすれば彼女も僕に失望して、離れてくれるだろうという算段だった。
しかし、どうやら彼女は例外のようだった。
「うん、そっか……さっきも田中くんとそんな話をしてたもんね。もちろん本番までお願いをするつもりなんてないよ。けど、あの演奏は良かったよってことは伝えたかったの」
女子生徒は再び笑みを作った。いかにも人から好かれそうな、愛嬌のある仕草だった。「そう」と僕は正反対に全く愛想のない返事を突きつけたが、それでも彼女はさらに話を続けた。
「だから、ありがとう椀田くん。弾いてくれて……」
彼女の唐突な感謝に、僕が否定や反応を返すよりも先に、帰り際の女子生徒達が「飯野さん、早く帰ろう」と彼女を急かすのが聞こえた。
「飯野さん、呼ばれてるよ」
僕はそれだけ言ってから再び俯いて、押し黙った。飯野さんは「うん。ありがとう。じゃあね」と二度目の謎の感謝を述べてから、僕から離れていった。
僕はああいう手合いはどうにも苦手だった。優しい人にはこちらが冷たくすればするほど、罪悪感ばかりが募ってくる。そんな自分勝手で浅ましい考えが脳裏をよぎって、僕はますます気が重くなった。
---
「だから言ったろ委員長、椀田なんかに話しかけない方がいいって」
廊下を歩く委員長──こと飯野の背に向けて、俺は思わずそう声をかけた。飯野は振り向くと、歯痒そうに苦笑した。
「あはは、そうかも。私、椀田くんに邪魔しちゃったみたい」
「そうじゃねえよ。どっちかっつうと、邪魔されたのは委員長の方だろ」
俺がかっとなって言い返すと、飯野はやはり困った様子で「そうかなあ」と呟いた。飯野の隣に並ぶ女子生徒が続いてフォローを入れる。
「そうだよ。あんな突き返し方する子に、わざわざ感謝なんか言わなくていいよ」
「勿体ないよね、椀田くん。顔は綺麗だし、お金持ちらしいのに」
「ねぇ。あの性格は流石にちょっと、ね」
気づけば話の軸が逸れていき、女子生徒達は椀田を肴に井戸端会議を始める始末だった。俺がため息をつくと、飯野がぽつりと呟いた。
「椀田くん、悪い子じゃないと思うんだけどな」
俺はうっかり舌打ちをしそうになって、抑えようと歯を食いしばったのを、誤魔化そうと戯けて笑ってみせた。
「委員長。あんた、とんだお人好しだよ」
てめえは性善説信者かよ。本当はそう言いたかったのを、なんとか堪えた。この人の良すぎる女子には、その言い方はあまりに辛辣すぎるだろう。そう選び直したところで、それでも俺の口から出るのは皮肉めいた台詞だった。
飯野はそんな俺にすら、相変わらず気の良い笑みを向けてくる。
「沢根くんもありがとう。心配してくれて」
やはりこいつはとことん人を見る目がないらしい。恐らくこの苦笑いはもう誤魔化せなかっただろうが、彼女のような善人は俺の真意になんか気づくはずがないだろう。
胃の底が、焼け爛れたようにひりつくのを感じた。
・律と沢根の一人称視点で交互に語られるので少し読みづらいかもしれませんが、一人称「僕」が律、「俺」が沢根です。
あれは中学三年の秋のことだった。当時僕が通っていた中学は、毎年十月に合唱コンクールが催されていた。普段なら学校行事の合唱なんかにそれ程意欲を持つ生徒はおらず、適当にやり過ごすのが恒例の行事だったのだが、その年、三年の僕のクラスは卒業前ということもあって妙に活気付いていた。
僕のクラスの課題曲は“空駆ける天馬”だった。空駆ける天馬は混声三部構成のため、男子は全員が同じパートを歌う。僕は低い音程を周りに合わせて上手く歌う自信がなく、こっそりと声を出さずに、口だけをそれらしく動かして、歌うふりをしていた。いわゆる口パクというやつだ。周囲のクラスメイトは揃って知らんふりでもしているのか、それとも本当に誰も気づいていないのか、僕が声を出していないことを咎める者は誰もいなかった。
一年や二年の頃は男子の殆どに意欲がなく、それを女子が徒党を組んで咎めるという光景が散見されていたが、どうやら今年の僕のクラスに限っては、珍しく男子の方がやる気らしい。周りのクラスメイトが各々声を張って響かせる中で、僕は一人だけ唇を金魚のように開閉させながら、この行事が早く過ぎ去ることばかりを願っていた。
---
最後なんだからさ。そう言い出したのは、俺の後ろの席でいつも授業中に昼寝や落書きなんかをしている、とても真面目とは言い難い友人だった。
これは後から知った話だが、そいつは高校には進学せず、中卒で家の仕事を継ぐことが決まっていたらしい。三年のクラスメイトは進学先も散り散りで、卒業したらもう顔を合わせないであろう連中もいる。「確かにそうだな」と俺が適当に相槌を打つと、周りの友人達も波紋を広げるように頷き始めた。
合唱コンクールなんて絵に描いたような真面目な行事は、正直俺は好きじゃなかったし、大抵の男子生徒は同じことを考えていた。けれど改まって“最後だ”と言われると、何故かその退屈な行事が急に特別な物に思えてきたのだ。実際に俺たちが一丸になって歌い始めると、それまでふざけていた他の連中すら急に真剣になり始めて、やがて不揃いだった歌声が一つに纏まり始めた。
練習を重ねるごとに合唱の質が上がっていくことに、次第に俺たちは高揚感を抱き始めた。気づけば俺のクラスは全員が放課後に他のクラスよりも長く居残るほど、合唱コンの練習に夢中になっていた。
ただ一人、椀田の奴を除いて。
妙な因果というものはあるものだ。俺はいけ好かない事に小学校の頃からこいつと幾度も同じクラスに属し、中学最後の年まで椀田と同じ教室の空気を吸う羽目になっていた。
練習中、俺の前に立っている椀田はあからさまなくらいの仏頂面で、それこそ死んだ魚のような濁った目をしているくせに、生きた金魚みてえに口ばっかパクパクしやがって、まるで自分だけが違う世界にでもいるかのような様相だった。一人で周りと違うことをしているのに、恥なんかちっとも感じないのだろう。隠す気すらないのが手に取るようにわかるほど、明確な“フリ”をしていた。
こいつはいつだってそういう奴だった。周りがどんな空気だろうとお構いなしで、常に自分一人の世界に篭っている。俺は椀田のそういう所が心底嫌いだった。
たとえば何故それが気に食わないのか、もっと明確に説明しろなどと言われたとしても、俺は上手く言葉には纏められないだろう。が、嫌いなんて気持ちは所詮感情だ。理由なんか説明できなくても、俺は兎に角この椀田律という野郎が気に食わないのだ。ガキの頃にこいつと口喧嘩をしたなんてのは、ただのきっかけに過ぎない。口喧嘩から数年が経った今でも、俺は椀田のことが嫌いで嫌いで仕方がなかった。
好きの反対は無関心とはよく言ったもんだ。俺以外のクラスメイトはみんな、椀田の口パクなんか知ってても何とも思っていないのに、俺だけは苛立ちを抑えられずにいた。それが顔にまで出てしまっていたのだろう、仲の良い友人から「一人くらい歌ってなくても大丈夫だろ。邪魔されてるわけじゃないんだから」と諭されて、俺はますます自分が惨めに感じた。
嫌いな奴のことなんか気にするだけ無駄で、わざわざ苛立つほうがずっと損で馬鹿げている。中学三年にもなれば、たとえ子供だろうとそのくらいは学習していた。現に周りのクラスメイトはもう椀田のことを“そういう奴だから”と諦めているし、椀田の方に至っては、俺のことなんかちっとも気にかけていやしない。
俺ばかりが未だ一方的にあいつを意識して、勝手に一人で苛立ち続けているのだ。その事実が、ますます俺の腹底を煮えたぎらせていた。
---
合唱コンクール本番の、一週間ほど前のことだった。僕のクラスの伴奏担当だった女子生徒が、急に体調を崩したらしい。朝のホームルームで担任がそう告げると、教室はひそやかに騒ついた。
僕のクラスの伴奏担当は、ピアノを弾ける人物が他にいないという消極的な理由で決まったものだった。それはつまり、代わりに弾ける人物がいないことを意味していた。何人かのクラスメイトが、担任に練習がどうなるのかを尋ねると、彼は残念そうな顔で「暫くは休みになります」と告げた。
教室の騒めきが大きくなった。それまで珍しくあれだけ活気付いていたのだから、当然の反応だろう。本番直前のタイミングで急に練習ができなくなると、今までの努力は水の泡だ。担任は音楽教師に代奏を頼んでみると話していたが、正直その案への期待は薄かった。
放課後になるとやはり担任は申し訳なさそうな顔をして、音楽教師はコンクール本番へ向けた他の仕事で手一杯であることを説明した。伴奏担当の体調がいつ回復するかもわからない。教室はもう騒つくでもどよめくでもなく、ただ納得した様子で落胆した空気に満ちていった。
「なあ、お前ピアノ弾けたりしない?」
「無理だよ。俺ピアノなんかドレミの歌しか弾けないよ」
「だよな。俺なんかドレミすらわかんねぇや」
隣の席の男子生徒が、未だ諦めきれないのか小声でそう交わすのが耳に入った。後ろの方からは「こうなるなら、真面目に練習なんかしなきゃ良かったな」という嘆きまで聞こえてきた。
昨日まで活気で溢れていた教室じゅうが、一転して失望で埋まっていく。そのあまりの居心地の悪さに耐えられず、僕は思わず右手を挙げていた。
「すみません。あまり上手くはないですけど……」
---
あまり上手くはないですけど。などと悲観的な保身に走っておいて、椀田は楽譜を少し見るや否や鍵盤を軽々しく叩き始めた。その演奏は“上手くはない”なんていう謙遜には、微塵も似つかわしくないものだった。椀田は数分ほどピアノを弾くともう譜面を覚えてしまったらしく、楽譜を閉じて姿勢を正し「お願いします」と呟いた。
椀田の唐突な行動に、クラスメイトの過半数がどよめいていた。なんたって、常日頃から明らかに一人だけやる気がないことを、咎められすらされないような奴だ。“そういう奴”が自らピアノの代奏者に立候補したとなれば、驚くのが自然な反応だろう。無論、俺だって困惑していた。
指揮担当の生徒が合図を送るのを見やりながら、椀田は伴奏を弾き始めた。ごく自然に、さも当然そうに慣れた手つきでピアノを弾く椀田の姿に狼狽えながらも、クラスメイト達は皆後に続いて歌い始めた。呆けていた俺も、慌てて一小節後に続けて歌い出す。
異様、または不可思議としか言いようのない気分だった。俺は小学校の頃から幾度も椀田と同じ校門をくぐってきたが、今まであいつがピアノどころか、楽器を弾けるだなんて話は聞いたことがなかった。ただあいつのことは、俺より賢くて、俺より裕福で、俺より容姿が整っていて、俺より成績も良くて、俺より家族に恵まれていて、俺が欲しているものを全て持っているような奴で──その程度にしか考えていなかったのだ。
椀田の伴奏は完璧だった。その証拠に練習を終えると、早速クラスメイトの一人が「本番も弾いてくれ」と直談判し始める程だった。それほど整った旋律だった。あまりにも美しい弾き方だった。
俺は胃の底の辺りに、再びかっと熱が込み上げてくるのを感じた。
---
歌い終えた男子生徒の一人から、好奇的な表情で「本番も弾いてくれ」と頼まれて、正直悪い気がしなかったわけではない……と言えば嘘になる。
けれど僕はかぶりを振った。あくまでもこれは練習だから、という前提ありきの演奏だった。自宅で一人、ただの趣味として弾いている時と同じで、『失敗しても構わない』という保険がなければ、僕はまともに鍵盤を叩くこともままならないのだ。練習とはいえクラスメイトの前で演奏できたことすら、僕にとっては奇跡のようなものだった。
実際先程の自分の伴奏を振り返れば、あれは無事に弾き終えることにばかり必死で、ただ正確なだけの、気持ちの籠っていない演奏だったと評価をせざるを得なかった。合唱の伴奏なら、正確なだけでも充分かもしれない。しかし僕の場合に限っては、この矮小な精神性が誘因し、舞台に立ってしまうとその正確さすら危うくなるのだ。その程度の分際が壇上に上がるなど、無謀も甚だしいだろう。
別にこの程度は上手くない。本番なら僕はもっと下手になる。だから弾けない。そう言い放って僕が拒否すると、男子生徒は大層気を悪くしたらしく、拗ねた様子で退いていった。話が長続きするのが嫌で、あえて嫌味な言葉を選んだのだから、当然の流れだった。
後方で「これだから椀田は」と自分を揶揄する声が聞こえて、僕はひっそりと肩を震わせた。
人に嫌われるのも、失望されるのも、頭ではもはや慣れきっているつもりだった。けれど未だ心の方は追いつかないらしい。胸のあたりが重くなるのを感じて俯くと、不意に横から声がかかった。
「ねえ、椀田くんだよね」
僕は黙ったまま顔だけを声の方へ向けた。女子生徒が柔かな笑みをたたえて、僕の席の横に立っていた。僕が返事もせずに硬直していると、彼女は笑みを緩めながら話を続けた。
「急にごめんね。さっきの伴奏、凄く上手かったから……」
「別に上手くはないよ」
僕は敢えて彼女の言葉を遮った。こうすれば彼女も僕に失望して、離れてくれるだろうという算段だった。
しかし、どうやら彼女は例外のようだった。
「うん、そっか……さっきも田中くんとそんな話をしてたもんね。もちろん本番までお願いをするつもりなんてないよ。けど、あの演奏は良かったよってことは伝えたかったの」
女子生徒は再び笑みを作った。いかにも人から好かれそうな、愛嬌のある仕草だった。「そう」と僕は正反対に全く愛想のない返事を突きつけたが、それでも彼女はさらに話を続けた。
「だから、ありがとう椀田くん。弾いてくれて……」
彼女の唐突な感謝に、僕が否定や反応を返すよりも先に、帰り際の女子生徒達が「飯野さん、早く帰ろう」と彼女を急かすのが聞こえた。
「飯野さん、呼ばれてるよ」
僕はそれだけ言ってから再び俯いて、押し黙った。飯野さんは「うん。ありがとう。じゃあね」と二度目の謎の感謝を述べてから、僕から離れていった。
僕はああいう手合いはどうにも苦手だった。優しい人にはこちらが冷たくすればするほど、罪悪感ばかりが募ってくる。そんな自分勝手で浅ましい考えが脳裏をよぎって、僕はますます気が重くなった。
---
「だから言ったろ委員長、椀田なんかに話しかけない方がいいって」
廊下を歩く委員長──こと飯野の背に向けて、俺は思わずそう声をかけた。飯野は振り向くと、歯痒そうに苦笑した。
「あはは、そうかも。私、椀田くんに邪魔しちゃったみたい」
「そうじゃねえよ。どっちかっつうと、邪魔されたのは委員長の方だろ」
俺がかっとなって言い返すと、飯野はやはり困った様子で「そうかなあ」と呟いた。飯野の隣に並ぶ女子生徒が続いてフォローを入れる。
「そうだよ。あんな突き返し方する子に、わざわざ感謝なんか言わなくていいよ」
「勿体ないよね、椀田くん。顔は綺麗だし、お金持ちらしいのに」
「ねぇ。あの性格は流石にちょっと、ね」
気づけば話の軸が逸れていき、女子生徒達は椀田を肴に井戸端会議を始める始末だった。俺がため息をつくと、飯野がぽつりと呟いた。
「椀田くん、悪い子じゃないと思うんだけどな」
俺はうっかり舌打ちをしそうになって、抑えようと歯を食いしばったのを、誤魔化そうと戯けて笑ってみせた。
「委員長。あんた、とんだお人好しだよ」
てめえは性善説信者かよ。本当はそう言いたかったのを、なんとか堪えた。この人の良すぎる女子には、その言い方はあまりに辛辣すぎるだろう。そう選び直したところで、それでも俺の口から出るのは皮肉めいた台詞だった。
飯野はそんな俺にすら、相変わらず気の良い笑みを向けてくる。
「沢根くんもありがとう。心配してくれて」
やはりこいつはとことん人を見る目がないらしい。恐らくこの苦笑いはもう誤魔化せなかっただろうが、彼女のような善人は俺の真意になんか気づくはずがないだろう。
胃の底が、焼け爛れたようにひりつくのを感じた。
114
お気に入りに追加
11,654
あなたにおすすめの小説
私が死んで満足ですか?
マチバリ
恋愛
王太子に婚約破棄を告げられた伯爵令嬢ロロナが死んだ。
ある者は面倒な婚約破棄の手続きをせずに済んだと安堵し、ある者はずっと欲しかった物が手に入ると喜んだ。
全てが上手くおさまると思っていた彼らだったが、ロロナの死が与えた影響はあまりに大きかった。
書籍化にともない本編を引き下げいたしました
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。

愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
側妃は捨てられましたので
なか
恋愛
「この国に側妃など要らないのではないか?」
現王、ランドルフが呟いた言葉。
周囲の人間は内心に怒りを抱きつつ、聞き耳を立てる。
ランドルフは、彼のために人生を捧げて王妃となったクリスティーナ妃を側妃に変え。
別の女性を正妃として迎え入れた。
裏切りに近い行為は彼女の心を確かに傷付け、癒えてもいない内に廃妃にすると宣言したのだ。
あまりの横暴、人道を無視した非道な行い。
だが、彼を止める事は誰にも出来ず。
廃妃となった事実を知らされたクリスティーナは、涙で瞳を潤ませながら「分かりました」とだけ答えた。
王妃として教育を受けて、側妃にされ
廃妃となった彼女。
その半生をランドルフのために捧げ、彼のために献身した事実さえも軽んじられる。
実の両親さえ……彼女を慰めてくれずに『捨てられた女性に価値はない』と非難した。
それらの行為に……彼女の心が吹っ切れた。
屋敷を飛び出し、一人で生きていく事を選択した。
ただコソコソと身を隠すつまりはない。
私を軽んじて。
捨てた彼らに自身の価値を示すため。
捨てられたのは、どちらか……。
後悔するのはどちらかを示すために。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
本日、貴方を愛するのをやめます~王妃と不倫した貴方が悪いのですよ?~
なか
恋愛
私は本日、貴方と離婚します。
愛するのは、終わりだ。
◇◇◇
アーシアの夫––レジェスは王妃の護衛騎士の任についた途端、妻である彼女を冷遇する。
初めは優しくしてくれていた彼の変貌ぶりに、アーシアは戸惑いつつも、再び振り向いてもらうため献身的に尽くした。
しかし、玄関先に置かれていた見知らぬ本に、謎の日本語が書かれているのを見つける。
それを読んだ瞬間、前世の記憶を思い出し……彼女は知った。
この世界が、前世の記憶で読んだ小説であること。
レジェスとの結婚は、彼が愛する王妃と密通を交わすためのものであり……アーシアは王妃暗殺を目論んだ悪女というキャラで、このままでは断罪される宿命にあると。
全てを思い出したアーシアは覚悟を決める。
彼と離婚するため三年間の準備を整えて、断罪の未来から逃れてみせると……
この物語は、彼女の決意から三年が経ち。
離婚する日から始まっていく
戻ってこいと言われても、彼女に戻る気はなかった。
◇◇◇
設定は甘めです。
読んでくださると嬉しいです。
記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話
甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。
王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。
その時、王子の元に一通の手紙が届いた。
そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。
王子は絶望感に苛まれ後悔をする。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。