華胥の夢

kingyoya

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胡蝶

胡蝶

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胡蝶の第一印象を聞かれた人は、だいたい「こぼれおちそうな大きな茶色い瞳」と答えるだろう。
笑い顔が泣き顔になる彼の、いつもすこしだけあいているように見える肉厚でいながら形の良い薄桃色の唇も、透けるような茶色い髪も白くて柔らかそうな頬や肌も、娼婦というよりは天使のような無垢な幼女を連想させた。

しつけ役は「胡蝶を選ぶのは、敢えて手を出さないことで粋な客を装いたい老年客か、何も知らない素人を躾たがる客だろう」と言った。
そのおかげで基本的なプレイのキスやフェラチオや素股やアナル挿入は一通り教えられたけども、稽古の殆どは年齢層の高い客と会話をする為の野球や相撲や囲碁や将棋、株や投資の知識を得るための通信資格講座や、介護ヘルパーの資格取得に時間を費やした。

もともと大きな瞳を引き立たせる為の涙袋の形成手術や、外国の血が入っているからか顔に似合わず生えていた髭や濃い体毛は全身脱毛をした。他にも細かく調整したりメンテナンスにかかった金額は「一生かけて返せるものだろうか」と不安になったが、楼主やしつけ役は「お前なら数年で返せる」と笑い飛ばしてくれた。
どちらかというと勝ち気で負けず嫌いが顔に出やすいことは、「お客様の前では、楽しげに微笑むか、困ったら悲しそうな顔をしなさい」と、表情をつくるトレーニングを課せられて表情筋の筋肉痛は仕込み期間の半年辺りで鍛えあげられて、仮面のように顔に馴染んだ。
「その表情をしているときは「胡蝶」を演じていると思えばつらくないし、「胡蝶」じゃなくていい時間とのメリハリがつくからね。うまく使い分けるんだよ」としつけ役に背中を撫でられた日、胡蝶ははじめての客が待っている部屋の前にいた。

胡蝶に合わせて白を基調としたロココ調の洋室に改装された部屋に入る為の扉は、わざと他の部屋と同じように襖のままだった。
その前で、かねてからしつけられたとおりに百合に遊ぶ蝶をあしらった豪華な打ち掛けを左右に広げ、正座をして三つ指をつく。
案内役が「胡蝶さん参りました」と部屋のなかに声をかけると同時に襖が左右に開き、作法どおりに顔をあげ、客を見つめて「天使の微笑み」と呼ばれた笑顔を向け、今宵一夜の妻である名を告げる。

なにも知らないのがウリだから、なにも知らないだろうと好き勝手にからだを暴く客が多いことを、初見世から一ヶ月ほど経った頃にひどく重苦しい腹痛で病院に連れて行かれたときに知った。
だいたい誰でも、初見世から一ヶ月は客がひきもきらずにやってきて稼げるとされていて、寝不足で行為中に失神しようが、その日何人めの客だったのかわからないくらいに疲れていようが、喘ぎ声をあげる為の喉が熱でかすれていようが、「今だけは我慢しろ」と諭されて、客の待つ部屋に送り出される。
初見世からの一ヶ月を乗り切って、はじめてまとまった休みを腹の痛みを抱えうめきながら寝転がる布団のなかで気づくのだ、ちやほやする店の人間や客にとって、自分は代わりのきく売りものであって人間ですらないと。
三階の遊女だけが使うことを許される極上の縮緬でできた布団を握りしめた手入れされた手と爪に涙が落ちた。

「ふざけるなよ」

そこには天使ではなく、ただの16歳の少年がいた。



いちばん最初の記憶は、天気の良い広い公園の芝生で、自分よりも大きな犬と転げまわって遊び、それを父や産まれたばかりの妹を抱いた母が優しく微笑みながら見守っていてくれたことだ。
母に声をかけられて犬と競うように駆け寄り、小さな妹の小さな小さな指に触れた。握り返してくれた指は柔らかく、案外に力強くそして暖かった。

オメガのなかでも、アルファとアルファの間に生まれた隔世遺伝のオメガは希少価値のある上位種だ。
必ずアルファを産むとされている、その上位種に生まれた少年は性種別検査を受けるまえから、フェロモンを出していた。
親戚の殆どが医師という家系で、少年は高価な最新のフェロモン抑制剤を飲むことが許され、性暴力にあうこともなくアルファである妹と同じようにアルファの教育を施すエリート校で小中と過ごすことが出来た。
いつか発情期がきて大人になれば、親戚からアルファとの縁談が来て結婚し、アルファの子供をたくさん生んで幸せな家庭をつくるのだろう。お伽噺によくあるオメガのサクセスストーリーを疑いもせずに受け入れ、中学を卒業するという頃になって、環境が一変した。

この人類の過半数を占めるベータが統治し政治をしていた国の経済が傾きはじめた頃、革命的なことが起きた。
以前からいた、アルファ至上主義者たちが政治のトップにたったのだ。「どの性別より優れており、どの性別よりも優れているアルファが政治経済を主導すれば国民生活が良くなるはずだ。民主主義の数の力でベータに任せているうちに国は弱くなった。まずはアルファを増やすこと、様々な社会保障費を圧迫しているオメガの保護区を作り、彼らをアルファを生むことに協力させること」、この政策を唱えたアルファ達のオーラや言霊の力は、絶滅しかけていると言われた程に少数になっており、生まれたときからアルファの精神的支配に免疫のなかったベータ層は洗脳されたように支持するようになった。

様々な社会保障費を与えられても就職が難しかったり、性暴力に合いやすく子沢山になりやすいオメガを持て余している家庭や家族が、国から「オメガを引き渡す為に所得に応じて受け取れる金銭」を受け取り、かつて家族や親兄弟だったオメガを保護区の保護施設に送り込むようになるのは、すぐだった。
胡蝶は「妹の縁談の為に」と言い訳じみた説得をされ、迎えにきたフェロモンを遮断する素材で作られた保護施設からの迎えの車に乗せられた。
子供の頃から飼っていた犬を連れてくることは叶わなかったが、好きな音楽をたっぷり入れたプレイヤーと愛読書を持ち込むことはできた。衣服類や靴は「逃亡の恐れがある」という理由で持ち込めなかった。
出発するときに着ていた服も、保護区内で支給されるものに着替えたあとは焼却処分された。



廓のなかに充満しているアルファやオメガのフェロモンには、発情期ではなくても発情状態になり、正常な思考力を奪う効果があるという。
久しぶりの休みで発情抑制剤を使うことを許された胡蝶は、病院帰りに自室のベッドに倒れるように寝転びながら、ここしばらく思考の邪魔をしていた重苦しい靄が晴れていくのを感じていた。
今日、診察を受けた医師が付き添いの世話役に「初見世から一ヶ月でこんな人数を相手にしていたら、体の弱いオメガなら死んでいたところだった」とか「薬などで発情状態にしているからつらさは感じなかったのかもしれないが、生殖器や局部に幾つか裂傷がある、この遊女は商売道具が弱い体質のようだから
、あまりたくさんの客をとらせたら借金の回収をする前にオメガの平均寿命に届かずに数年で死んでしまうよ」と、だいぶ怒ったようすで伝えていた言葉を思い出していた。

初見世を控えた一週間まえから飲まされたり注射されていた精力剤や性病予防薬は、(後者はともかく)どうやら発情を促す薬だったらしい。
一階や二階の遊女とは異なり、一人の客につき相手をする時間ごとに幾らという計算ではなく、一人の客が一晩または一日買い切りで幾らという計算をする三階だと、もともと貰う金額が大きいぶん、昼夜問わずに数人を入れ替えて客をとっただけ、店の売上や取り分がよくなるのだろう。
胡蝶の為に改装した部屋のなかに、個室が幾つもあった理由にようやく合点がいった。あれは世話役や見習いの為の控え室や住み込み部屋、胡蝶の衣装などを置く部屋という説明とは違い、実際は複数の客にそれぞれあてがうための客室なのだ。
そして、こうして休養している間も部屋を他に使わせないための部屋代は店にとられているし、キャンセルになった客はほかの遊女たちに回されてキャンセル料をとられ、売上がマイナスになっていくのだ。

「別に、売上のマイナスくらい復帰したらすぐに取り戻してやるけどね、客もね」

同じ部屋に気配をころして控えている世話役に声をかける。彼はフェロモンを感じにくいベータで、そうした者が廓のなかで下働きや世話役を担っている。
胡蝶付きの彼は年はひとつ下だが、生まれたときから、この廓にいて先代の胡蝶について下働きから部屋付きの世話役になるまで出世した、いわば今の胡蝶にとっては唯一頼りになる存在であり相談役でもあった。

「俺はあんまり商売道具がつよくないから、たくさん客はとれない。でも売上も客の数も誰にも負けたくない。先代もあまりからだのつよくない人だったと聞いていたけど、どういうふうな接客や客のとりかたしていたか教えて欲しい」

この世界の隠語で、遊女がフェロモンを撒き散らす「雄花」や「雌花」なら、それに群がる客は「蜂」と呼ばれる。そして、花や蜂のおこぼれを頂いて生活をする彼らは「虫」だ。
胡蝶付きの世話役の彼の名前は、秋生まれにちなんで「蜻蛉」といった。



「発情期には客はとらない、って言ったの」

和風建築の廓のなか、唯一ヨーロッパ調に改装した客室によく似合う、フリルをたっぷり使ったアンティーク人形のようなドレスをまとった「遊女」が、これまた執事のような衣装の「世話役」がいれた紅茶を楼主と自分のぶん、ふたつの輸入ものの高価なことで有名な陶器のカップを優美な仕草と笑顔で楼主にすすめたあと、慣れた手つきで口に運ぶ。

「今度の発情期のお客様はうちの店のお得意様である政府官僚のご子息で、是非子供が欲しいと、」
「また、出産から復帰するまでの一年間の給料を補償するからアルファの子供を生んで欲しいって言うんでしょ?子供がベータやオメガなら引き取らないけどって条件付きで?そういうの聞き飽きちゃったなあ。
あと、休んでる一年間がもったいないなあ?他の人に売上抜かされるのもイヤだし」

そう不敵な視線を向けたあと、上座にあるソファにゆったりともたれたのは、かつて初見世のときに泣きわめき叫びからだを傷めて休養をとったことのある胡蝶だった。
三ヶ月ばかりの休養のあと、「柄に蝶が入っている布地なら着物はなんでも構わない、ですよね?」と、自分どころか部屋付きの世話役や見習いにまで大正ロマンを彷彿とさせる洋装と洋式の髪型にするようになった。
それはもともと西洋人形のような花顔によく似合い、和式の遊女に飽きた客を呼び寄せた。
それから数年、胡蝶は遊女本来の仕事にとどまらず女性向けファッション誌などのモデルをつとめている。先月は文芸誌で鹿鳴館時代をテーマにした新作を発表した小説家との対談が掲載された。
── 胡蝶は遊女でありながら、滅多に肌を晒さないし許さないという噂を耳にした。廓のなかにあるクリムトの絵が描かれた襖の向こうには、小説を意識して仕立てたという鹿鳴館時代のドレスに身を包んだ紅顔の美少年、いや、少女が女主人さながらにメイド達を侍らせ、立っていた。お待ちしておりました」と天鵞絨の椅子に座るように促され、香りのよい紅茶と焼きたてのケーキやクッキーが丁度時間に合わせたアフタヌーンティとして供され、小生と編集者はここが遊郭であることをうっかり忘れ、胡蝶と小生の読者であるというメイドとの会話を楽しんでしまっていた。
やがて夜がふけると「泊まっていかれますか」と執事役らしい男性が耳打ちをして来、ようやく目の前の彼女らが遊女であることを思い出し、用意された風呂を使ったあとにやはり大正ロマンふうに仕立てたという寝巻きとバスローブに着替えたあと、ナイトドレスに着替えてきた彼女らと褥を共にするより、いつの間にか用意された鹿鳴館の食事を再現したという現代では珍しい酒や酒肴について語り明かす夜のほうが余程よいものに思われた。
朝方に廓を辞する際に「遊女に対して指一本触れぬのは失礼だったか」と聞くと、「〇〇様は遊び慣れた方と伺いましたから、このようなところでは枕を交わさぬのかと」と、寝不足や疲れのひとつも見せずに見おくられた。
その後やはり遊女としての彼女が見たいと欲をだし、どんな混雑や人気のある店や施設も確実に希望の日時で予約をいれられるルートを通したものの、胡蝶の予約は半年先まで埋まっているという。そして予約を請け負ってくれた彼によると「胡蝶は客と寝ないというけど本当ですか」と逆に聞かれてしまったのである ──

先代の胡蝶は、これと定めた各業界の実力者しか相手にせず、子を産み「ベータだった」と偽りの診断書を出したあとに休養中の補償に口止め料として養育費を上乗せしても恨まれずにコネをつくり、数回の出産を経たあとに子供たちを連れて廓を去った遣手だった。
フェロモン促進剤や出産で命を削り三十路を越えることが難しい遊女にしては、珍しく三十路を越えても達者で暮らしているという。
その先代の手練手管を物心つくまえから知っている「蜻蛉」という源氏名をつけられた、先代の実子である彼の考えた「客と寝ない遊女」は、その台本を完璧にこなした。


昔ながらの習慣を残したいのか、風情とやらを大切にしているのかは知らないが、日付が変わる頃に、外界と遊郭街のあいだにある『大門』が閉じる。翌日の日の出にまた門を開くまで、ネズミ一匹通れないセキュリティがはたらく。それは仕事に倦んで抜け出そうとする遊女や妓夫、気分よく遊んで酔いが醒めた途端に支払いができないことに気づいて逃げ出す客が耐えないからであった。

胡蝶は寮の私室に下がり、備え付けのドレッサーの前に座ると、まずフランス人形のようなボリュームのあるカツラを脱いだ。つぎに、化粧師によるこってりしたメイクを拭いさる。オーダーメイドのドレスやコルセット、クラシックなデザインの下着に汚れをつけないように気をはらいながら脱ぎ、それをランドリーボックスに入れた。
普通の遊女と違いラグジュアリーな一人部屋とは言え、10畳程度のワンルームは成人男性には狭く感じる。
明日は朝からエステの予定が入っているので、簡単にシャワーを浴びて、唯一私服として店から許可の出ている部屋着に着替え、やはり備え付けの冷蔵庫から缶ビールを取り出して、テレビの前にあるローテーブルに落ち着いた。
今晩は野球のオールスターゲームが開催されたので録画を見ながら、顧客手帳を作成する。別に妓夫の神宮寺にまかせてもよいのだけど、彼はまだ店の片付けが済んでいない時間なので大人しく待つ。
コルセットをしていると、というか、着物でも帯をぎゅうぎゅうに締められた状態で、客の相手で揺さぶられたら戻してしまうという店の方針があり、店に隣接した寮に弁当が届くのは、朝の客を送り出した昼と、大引け後の深夜と決まっている。

三階住みの遊女の数は限られているから、余程疲れていなければ仲の良い華頂と揚羽が弁当を持って訪れるかも知れないが、今晩だけは神宮寺に抱かれたかった。
久しぶりに枕を交わさねばならぬ御老人にあちこち好きに触られて、その割に決定的な絶頂を迎えられなかったからだが疼いてしかたないのだ。
華頂のところに通う元気で精力の有り余っている客を一人でもまわしてもらえたらいいのに、と不可能なことを考えながら、顧客手帳に会話の内容や着ていた服を書きこんでいく。








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