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二百六十八話

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 それは紛れもなく、春の日差しの香りだった。
 どこか懐かしくも思える、暖かな陽気に誘われかおる、花の匂い……。
 花の名前は忘れしまった。
 けれど、思い出は残っている。
 顔も、おぼろげになった母との記憶……幼い自分を抱きかかえながら、子守唄を聞かせている日常の一コマ。
 何故? いまごろになって思い出したのか?
 彼自身も、その理由を探り当てることはできない。
 ただ、床の間に漂う香りは亡き母のものに似通っていた。

こうか……」

 身体を起こしたギデオンは額に手を当てて汗をぬぐった。
 何やら夢を見ていたようだが、思い出せず寝起きは最悪の気分だ。
 着物の懐に手を入れ確かめてみる。
 がま口財布のように開いていた傷口が、すっかり塞がっている……着物を開けさせ直診するも、傷跡一つ残っていない。
 どうやら、身辺状況をつかみきるには時間がかかりそうだ。
 ……が、カナッペが助けてくれたことは間違いないだろう。

 すぐには、床の間を出ようとせずに、少年は物思いにふけっていた。
 怪我が完治したのは良いが、ここは西側本陣の中、ここで騒ぎを起こせば後がない。
 かといって、ここでジッとしているのも建設的ではない。

「お目覚めになられましたか!」

 ふすまがスッ――と開くと、その向こうには、正座をしながら会釈する侍女の姿があった。
「何者だと?」ギデオンが問うより先に、水差しとグラスを持ってそばに腰をおろす。

「まずは、お水をどうぞ。汗をかいた分、喉が渇いてますよね?」

「ああ、頂こう………………美味いな、良い水だ。」

 グラスの中の水を一気に飲み干し、ようやく心が落ち着いた。
 身体中に水分が行き渡ってゆくのを感じる。
 西側の丁重な扱いに対し、ギデオンは相手に敵意がないことを感じ取った。

「どうやら、今回は招かれたようだな……」

「はい、その通りにございます。この扶桑院の主であるトクシャカ様が、貴方との面会を希望しております。治療を終えたばかりのところ申し訳ございませんが、大広間までご足労お願いできますか?」

 侍女の言葉を聞いてギデオンは素直に応じることにした。
 真偽はともかく、トクシャカ様なる人物が自分を手当してくれたことには変わりない。
 ならば、礼の一言でも伝えるのが、スジだと思っていたからだ。

 侍女の後に続き長廊下を歩く。
 本院のへと向かう渡り橋をすぎると、大きなふすま部屋の前に到着した。

「カナデです。お客人をお連れしました」

 そう侍女が告げると、襖がスッと独りでに開き始めた。
 部屋の先には、また同じような襖部屋があり、幾重にもなった和襖わぶすまが順々に解放されてゆく。
 その最奥にて、彼女は腰かけていた。

「ご苦労であったぞ、カナデよ。ソナタは下がっておれ……さて、南国からの客人よ。早う、コチラに来て顔を見せてくれんか~。なにぶん、ここには娯楽が少なくて敵わん。退屈しのぎに妾の話し相手にでもなってくれぬか?」

 ギデオンは、言われるままに部屋の奥へと向かっていった。
 部屋に踏み入れた時から、周囲の空気が別のものに変化しているのが、ハッキリと感じ取れた。
 高濃度の神気が、部屋全体に充満している……。
 神気とは、人の放つ、闘気や精気とは異なる性質を持つ、高純度のプラーナのことだ。
 闘気は練功、精気は魔術や魔法。神気は理力となる。
 神や邪神でなければ、とうてい扱えぬ力だ。
 それが、ここに溜まっているということは、すだれの向こうにいる相手は人ならざる存在だ。

 そう考えただけで、誰しも緊張を走らせる。
 実在する生き神に対談する機会など、極めて稀だ。

「この度は、我が身を助けていただき感謝します。ギデオン・グラッセと申します。大御神おおみかみに一つお聞きしたいのですが、どうして僕をここへと導いたのでしょうか?」

「そう畏まらんでも良い。そもそも、ソナタは神や悪魔であろうとも、己が身を脅かす存在に対しては迷いなく引き金に手をかけるだろうに。妾はそういう所を気に入り、ここへと招き入れたのよ」

 すだれの越しに語るトクシャカ様の声は何やら楽しそうだった。
 素顔こそ見えないが笑っているのが伝わってくる。

「ふむ。それでは理由として弱いか……。ならば、単刀直入に言おう。実は、ソナタに二つほど頼みがあるのだ」

「頼み……ですか? こちらも、マナシを倒さないといけない事情があるので軍を退くことはできませんが……それ以外でしたら」

「諸々の事情を含め知っておるから安心せい。マナシのことは仕方あるまい、彼奴もすでに後には退けぬ状態だ。我々がどうこう言おうが止まらんよ。ギデオンよ、此度の戦いで我ら西域の軍は敗北を喫するだろう。その時がきたらフキの奴を此処から連れ出してくれぬか?」

「……むろん、そうするつもりですが。貴女や他の人たちは逃げないのですか? いや、この国とっては貴女を失うわけにはいかないでしょう」

「心配せんでよい、東も南も我を求めておる。命までは取られんだろう、ただ……できれば、フキと一緒に他の者たちの説得にあたって欲しい」
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