2 / 2
第二話/地獄の釜の蓋が開いた日
しおりを挟む
一番古い記憶は、三歳の誕生日だ。祖父母、父親、それから母親。燃える三本の蝋燭がケーキに刺さっている。テーブルの上には名もわからぬ花が生けられている。家族以外にも何人か大人がいたような気がする。三歳の俺は無邪気に喜び、好物ばかりが並んだ食卓にはしゃいだ。プレゼントになにをもらったかは思い出せない。ただ幸せで、ただ暖かな記憶だ。何不自由なく暮らし、愛をもらい、恵まれた生活。俺は二条の家に生まれた待望の跡取り。望まれた子供だった。皐月ちゃん、産まれてくれてありがとう。母親の顔がうまく思い出せない。皐月ちゃん、元気に育ってね。蝋燭が揺れている。暗闇で蝋燭だけが揺れている。誰もいない。ケーキはどこにいったのだ。皐月ちゃん、早く、大きくなってね。母親の声だけが聞こえる。どうか、お母さんを守ってね。母はこんな声だっただろうか。皐月ちゃん、大丈夫、あなたは救われますから。
――っは、とぬるい空気を吸った。夢を見ていたような気がする。壁にかかった時計は四時半をさしていた。まだ起きる時間ではない。気分の悪い夢だったような気がするがイマイチ思い出せない。一度起こした上体をもう一度ベッドに投げ出して、虚無感のわだかまった天井をみつめた。久しぶりに母の気配を感じ、かすかに震えた指先を拳に握り込む。
母親は優しいひとだった。それでいて厳しい女だったとおもう。俺が常に強者であることを望み、文武両道であれとした。俺の教育方針は母に任され、それこそ週七日で習い事に通う生活だった。疲弊して学校にすら行きたくないような時もあったが、彼女はそれを許さなかった。
一方で祖母には甘やかされていた。母方の祖父母は既に他界しており、父方の祖父母しか俺は知らない。父方の祖母は、年の割に背筋のしゃんとしたひとだった。藤の季節になると、あの人の着物を思い出す。そんな祖母は、俺が行きたくないと駄々をこね怒られているところに現れては母を叱責した。大事な皐月を泣かせるなんて、何を考えているんですか。何も言えない母から隠すように俺を自室に連れていき、目をはらした孫にお菓子や玩具を与える。俺にとっての優しい祖母。部屋には、病に倒れ家を離れるときまで、いつでもきれいな花が飾られていた記憶がある。
祖母は、俺にだけ優しい人だった。
俺が中学に上がる頃、日常的に祖母が母に対してつらくあたっていることを偶然知る。執拗に、時としては人格を否定し、徹底的に俺から見えないように、母は攻撃されていた。それを父や祖父が知っていたのかは、いまだにわからない。聞くつもりもない。だが、女同士の諍いはおそらく俺の生まれる前から続いており、俺が生まれたことでその溝は更に深まった。家を守っていた女たちは、俺のみえないところで、ずっと戦っていたわけである。
それでも母は、父から離れることを是としなかった。高校に入ったばかりの俺という息子がいたこともある。そして彼女は父を愛していたからだ。とっくに父から彼女への優しさは尽き、ほとんど家に帰ってこない日が当たり前になっていた。俺は祖母や、時折父に連れられて食事に出かけたりしていた気がするが、そこに母がいた記憶はない。
ひとりぼっちだったのは、ずっと母だけだった。
ねえ、皐月ちゃん――。
スマートフォンのめざましが、しんとした部屋に響く。またいつの間にか寝ていたらしい。窓の外はもうすっかり明るく、カーテンの隙間からさす光が鬱陶しくて目を細めた。ひとつあくびをしてから、後頭部をかく。髪が伸びたな。美容室でも行くか。仕事はあるが、別に今日でなくてもいいだろう。フレックスタイムというより、フレックスデイの精神で行こう。
画面の通知を確認しながらダイニングにおりると、まだ父がいた。朝食は済んでいるようだったが、コーヒーからはまだ湯気が立っている。
「おはよう」
寝起きの喉で、思ったよりドスの聞いた朝の挨拶になってしまった。それをきいた父は、はは、と笑ったあとに同じ言葉を返した。席につくと家政婦が俺の分のコーヒーをそっと置き、朝食はいりますか、といつもの質問する。なんとなく気分が悪かったのでそれは断った。
寝間着のスウェットのままコーヒーをもってソファーに移動する。なんとなく父親と向かい合って座ることが落ち着かなかったからだ。
「そうだ、お前あの教会の件どうなったんだ?」
「佳奈美ちゃんには伝えた」
「俺の秘書をちゃん付けで呼ぶのをやめなさい」
ばさ、と新聞をめくる音に、俺の「俺の秘書っていうのもやめろよ」というぼやきは打ち消されてしまった。ずず、と熱いコーヒーをすすればなんとなく目が覚めるような気がする。テレビも新聞も毎朝毎朝見る気にはなれない。政治、経済、テレビ欄。俺が得るべき情報の一端であることは確かだったが、現状ビジネスマン的なトークテーマは不要である。スマートフォンでニュースサイトをスクロールして、特に何の見出しもタップせずにホームボタンを押した。今日の美容室で嫌でも今日のニューストピックスを子守唄にされる。
「今日は遅くなるから、夕飯はいりませんよ」
父が隣の部屋に呼びかける大きな声で完全に目が醒めた。表に車が止まる気配に、二人で外をみやってしまったが、父の迎えの車であった。俺も今日は夕飯いらないから、早目に帰っていいよ、そう家政婦に伝えたら心なしか嬉しそうだった。いつもは朝から晩まで俺たち親子の面倒を見ているわけだから、その苦労は計り知れないだろう。俺が言うのも難だが。
家にいる気分ではなく、さっさと身支度をして外に出た。
残念ながらそとは夏である。冷夏を極めるかと思われた少し前とは打って変わって、太陽は急にやる気を出した。青い空に白い入道雲、これはもう、文句のつけようがない夏である。会社は急激な気候の変化にあちらこちらで忙しそうであったが、そういうときほど俺にできることはない。新人が熱くなると大抵何か問題が起こるものだ。十分に身を弁えているのである、決してサボりじゃない。
地下鉄の駅に潜ると、篭った熱気が肌をなめていく。浅草方面の電車がちょうど到着するタイミングだった。改札から溢れてくり降車客は逆方向にまるで焦る様子もなく歩く俺を、まるで親の敵のように押しのけて地上に上がっていく。まったく恐ろしい国だ。今朝からずっと明瞭としない気分不良に拍車がかかる。おとなしくタクシーを呼べばよかった。急激に人の気配の無くなった駅を、俺は不機嫌なままで更に深く潜る。
適当なTシャツに適当なジーパン、後ろのポケットに財布をつっこんでヘラヘラしている俺は人にどう映るのだろうか。ふと考えてみたが、どうとも映らないだろうな。俺だって、さっきから何人かとすれ違っているがまったく印象に残っていない。誰も他人に興味なんかない。少し上背がある程度で、特徴的な見た目をしているわけでもなく、残念なことに俺は特別いい男でもない。おれはどうしようもなく、何者でもなかった母に似ている男だった。
空調のわざとらしい冷たい風と、地下鉄の車両が押し出してきた生ぬるい淀んだ空気が、ホームで混ざっている。にわかにざわめきに満ち、人並みが空気をゆっくり撹拌していく。重たい空気を引き剥がすように、俺はたくさんの無個性が詰まった、目の前の電車に乗り込んだ。行き先表示は六本木、ほんの一駅だ。
――思えば、俺を最初に殴った女は母である。俺は中学二年生になる頃には随分背が伸びて、周りの大人よりもすっかり視線は高くなっていた。無理矢理縦に引き伸ばしたようなひょろりとした体型の同級生たちに比べて、当の母により柔道に通わされていたせいか体格もそれなりにしっかりしていた。だから、ある日突然始まったあの行為はいわゆる虐待などではない。俺は、十二分に彼女をねじ伏せる力を持っていて、自分の身を守れるだけの術を何通りも持っていた。俺を甘やかす祖母もまだ健在で、父もまた俺のことを気にかけていた。だから、痛くも痒くもないあの女のあの弱々しい殴打を、俺は甘んじて受け入れただけなのだ。
それ以降俺はよく左頬も右頬も老若男女に差し出してきたわけで、最新版はあの四辻という青年、ではなく三日前に会った渋谷の女である。名前を忘れただけで手を挙げるのはよろしくない。ふさがりかけの口の端の傷が、まだすこし痛い。
それを目ざとくみつけた馴染みの美容師は、またっすか、とけらけらと楽しそうに笑っていた。そう、またなんだ。以前、重めの拳が飛んできた時だけは自分のちゃらんぽらんな性格を恨んだが、学習はしなかった。パラパラと髪の毛が自分の周りに散っていく。それをを他人事のように鏡越しに眺めていると、予想通り、今朝のニュースサイトと同じトピックスが美容師の声で語られる。くだらない。興味がない。いつものように蒸しタオルが両目の上に乗せられたとき、俺は意識を意図的に手放した。
――高校に入って、習い事はすべて辞めた。賢しくも卑怯な俺は母には何も言わず、父に頼んで辞める手続きをとった。そもそも中学に入ってからはろくに通っていなかったのだが。俺は年相応に同級生と遊び歩いたり、ファストフードで語り合う青春を過ごすのだ。今思えばなんて幼い夢物語だ。だが当時は真剣にそう思っていた。ただ、この裏切りに似た行動こそが俺の人生のターニングポイントであったように思う。俺は悲しいことに、すでに二条の男として、立派に家庭を顧みない人間に成長していたわけだ。母を虐げる祖母、それを許す祖父、息子に手を上げて泣く母、すべてを見て見ぬふりをする父、裏切りを厭わない俺。他所からすればとんでもない家庭不和だと思われそうだが、俺自身そんな感覚は微塵もなかった。愛に溢れた家庭である。その大半は自己愛に費やされていたが。今でもその気持はかわらない。祖母も、祖父も、父も、俺には愛情を惜しみなく注いでくれたのだから。
「二条さん次の予約はいれてきます?」
「じゃあ来月に」
カラーもよろしく、と付け足した。神奈川に行く前に黒に戻さなければと考えていた。このツーブロックもやめて、いっそ短くするのもありだな、と美容師にいったら「二条さん短髪絶対似合わないですよ」と笑われた。ちょっとおもしろくなかったので、じゃあ別の店に頼もうかなと冗談を言った後、苦笑いする美容師に「来月よろしく」とだけ伝え店を後にした。
六本木の街は、あまりにも街であることを放棄している。街としてのビル、ビルとしての街。地下に展開された街並み。歩道を歩くのは日本人と、それと同じだけの異国人だ。国道に面した警察署の前で、老女が見張りの警察官に異国語で語りかけている。ケバブの香りとエンジンオイルの焼ける匂いがないまぜになって、夏の熱気に蒸れていた。今日はやはり、気分がよくない。点滅する青信号に横断歩道を小走りでわたり、乃木坂の方へ足を向けた。
――俺が数々の習い事を勝手に辞めてから半年程度は、なんとなく通っているふりをして、友人たちと繁華街で遊び歩いていた。それが母にバレるまでが、俺の輝かしい青春のすべてだ。ほんの半年、ほんの六ヶ月。そこで、それまでの真っ当な人生は、死んだ。真っ暗な家、家政婦の辞表が置かれたダイニングテーブル、母のすすり泣く声、俺の手を握った、女。俺はそれから、何をしたのだったか。誰も帰ってこない家、祖母からの着信は聞こえないふりをした。夜が明けてもカーテンは開かれなかった。泥濘のような朝がきて、昼がすぎ、夜がきて父が帰ってくる。泣いていたのも、死にたかったのも、苦しかったのも、全部俺じゃない。
首筋にひんやりとした汗が伝うのを感じて、我に返った。最近茫然自失になる回数が増えたように感じる。そんなに働きたくないのだろうか。いや、そのとおりだ。働きたくはない。霊園の入り口にたって、手ぶらであることに今更思い当たる。一気に気が抜けて、近くのベンチに腰を下ろすと温まったプラスチックの熱がジーンズ越しに伝わってくる。思い出したくもないことをよく思い出してしまう。まるで呪いのようだ。家に帰る気にもなれず、かといって誰かに会う気にもなれず、散髪したての爽やかな後頭部だけが幸せそうだ。スマートフォンが何度か震えたが、俺はそれをシカトして葉桜を眺める。木漏れ日がぬるい。
――父が帰宅した家の様子を不審に思い、母の部屋のドアを開いたときみたものは、息子に跨る妻の姿だ。激昂した父は、妻を奪った男ではなく、息子を奪った女を殴った。暴れ、泣いて喚いて、裸の女は俺に助けを求めた。俺は冷ややかな目でベッドの上から、父に押さえつけられた”あの女”をただ見下ろしていた。何も言わず、女と汗の匂いに朦朧として、ただそれを見ていた。ああ、父さん。俺は別によかったんだよ。母は救われたかったんだ、俺に。だから、俺を自分を守ってくれる男に育てたかったんだよ。その俺に、ほんの些細な、ほんの小さな嘘をつかれたことが彼女の心を突き崩してしまった。それが、手に取るようにわかったから俺はずっと抵抗しなかった。抵抗しなかったのだ。だからあの日、父さんが殴らなきゃいけなかったのは俺だ。殴ってほしかったのは、俺の方だった。
母が家を去ったのは、意外なことに事が起きた一週間も後だった。俺は父や祖父母に泣いて謝られながら、今まで確かに存在していた感情がいくつかなくなったことに気付いた。とはいえ、それはどちらにしろ淘汰されていたであろう思春期の昂ぶりでしかなく、同級生たちよりも一足早く現実に至ったというだけだ。少しだけ投げやりになって、少しだけ諦めが早くなった。その程度だ。
部屋に閉じこもり、ドア越しに祖母の罵倒を浴びる母。警察という言葉を何度も聞いた。俺は何事もなかったように高校に通っていたが、前のように友人とつるんで遊び回るようなことはしなかった。理由なんて、つまらなかっただけだ。
一週間経った頃、新しい家政婦が面接に来ていた。温和そうな女性が、親しげな笑顔で父と並び俺の帰宅を出迎えた。この人はこの家の内情を知っているのだろうか、まあ知らないだろうな。
二階に上がると一週間ぶりに母の姿がそこにあって、父と家政婦をじっと見下ろしていた。母さん、と呼びかける。やめればよかった。彼女は何も言わず強い力で俺を廊下に突き倒し、あの夜のように泣きそうな顔で俺に跨った。その音は階下にも当然聞こえていて、父が焦ったように階段をのぼってくる音がする。あー、どうしてこうなるんだろうな。冷静なつもりだった。それなのに、首にかけられた両手に俺は思わず、ポケットに潜ませていた小さなツールナイフを閃かせてしまったのだ。
その夜。父に殴られた跡が黄変し、頬に血が滲む酷い姿で彼女は姿を消した。
俺は未だに、女の顔に傷を作ったという事実に、少しだけ罪悪感を感じている。
その後、何事もなかったように高校を卒業して、大学にも進学した。父も、祖父母も、何事もなかったように過ごした。家族は一人減ったけれど、変わらず平和で幸せな生活だった。愛に溢れた、お金持ちの父子家庭。祖母は何も言わず、母代わりと俺の面倒を見てくれた。俺が大学二年の冬に持病をひどくして急逝したあの気位の高い女性もまた、二条の男に殺されたのだ。
あ。
後ろから聞こえた声に、白昼夢から醒める。今、何を思い出していたのだろうか。寝ぼけたような頭のまま、声のする方をみると見覚えのある顔が立っていた。
「よしみちくん」
「四辻、です」
仏花の花束を抱えた青年は、ブラックス―ツに黒いネクタイを締めていた。しかし少しくたびれたその装いは喪服のようで、喪服ではなさそうだった。鈍く金色に光るネクタイピンが、陽光を反射してきらめいた。声を上げてしまったことを悔いるように顔を歪めていたが、根が真面目そうなので逃げることも出来ないのだろう。あの困ったような顔で俺をみて、立ち去りどきを逃した青年は居心地が悪そうに立っている。面白くなって、ちょっとこっち、と手招いた。苦虫を噛み潰したような顔で、従順にも、俺の隣の少し離れた位置に彼は腰掛けた。菊の匂いが鼻をかすめる。
「ねえ、四辻くんて瀬人くんと付き合い長いの?」
わざと距離を詰めてから、そうきくと「は?」と怒気を孕んだ低い声が返ってきた。おそらく彼はいま、俺が上永谷神父のことをファーストネームで馴れ馴れしく呼んだことを怒っている。気持ちはわかるが、公認なのであしからず。その怒りを飲み込むように、四辻くんは喉を鳴らして、小さく溜息を吐いた。嫉妬をされる側というのは嫌いじゃない。
「上永谷神父とは、三年ほど前に」
「でも、あの教会にきたのって今年の春からなんでしょ」
組んだ足を揺らしながら、青年をゆるやかに尋問する。彼について知りたかった。なんでもいいから、彼のことが知りたい。あの美しく妖しい男に強い興味があった。
「教会の内情を、信徒でもないあなたに話す義理はないのですが」
「別に言いふらしたりするわけじゃないし、君が教えてくれないなら本人に聞きに行くだけだけど」
弱々しく俺を睨んだ男の肩に手を回して、にっこりと笑ってみせると悔しそうに顔が歪んだ。
「上永谷神父は、ずっと海外の教会でご奉仕されていたのです」
彼の抱えている花束が心なしかしなびている。
「お父様が体調を崩されたので、今年の春に帰国し、現在の教区に転入されました」
それまでは大きな催事のたびに手伝いに帰国してらしたのです。そう付け加えた。
「それでそのお父様は?」
「すっかり回復なされて、教区長の地位にとどまっていらっしゃいます」
もういいですか? と肩に乗った俺の腕を鬱陶しそうに押し返した。非力過ぎて振り払えないらしい。瀬人くんも華奢そうな男だったが、彼のほうがよっぽど折れそうに細い。少し余ったスーツの肩幅が、量産品を思わせた。いたいけな青年を拘束したまま、俺は瀬人くんのことを考える。周りに愛され、嫋やかに笑うあの男が抱えている何かは、どこで拾ってしまった感情なのだろうか。それとも何かを捨ててしまったのだろうか。
四辻くんは汗一つかかずに、うつむいてうなじを晒していた。この暑い中、きっちりスーツの上着まできているにもかかわらず、幽霊のようにひんやりしている。急に心配になって、晒されたうなじにそっと触れると、かっと肌が熱くなった。花束は彼の足元に落ち、左手でうなじをおさえて、俺をまた睨んだ。悪気はなかったんだ。本当に。
「墓地だから」
「は?」
墓地だから、本当に幽霊かもしれないじゃないか。と、冷静になればとんちきなことを言いそうになってやめる。にっこり笑って見せて誤魔化した。足元に落ちた花束を拾って、彼の膝の上に置くと、律儀に礼を言われた。
「なんだか下手くそな花屋だなあ」
「あなたって不真面目そうですけど、やっぱりお花屋さんなんですね」
萎れた菊に思わずこぼした言葉に、四辻くんが意外に明るい声をあげた。すぐ我にかえったようで、花束に手を添えながら言葉を選んでくださいと窘められた。これだけ気温が高ければ致し方ないと言えば、そうなのだが。彼の肩から腕を離し、思わず花束から目を背けた。
「花は嫌いだよ」
「仏が嫌いでも坊主にはなれます」
チャンスとばかりにさっさと立ち上がった彼は意味深な言葉を言い放ち、背中を軽く払う動作をしたあと、憎々しげに俺を見下ろした。
「この花、あなたのところで買いました」
捨て台詞は耳に痛いカスタマーレビューで、広大な墓地の中へと彼は静かに消えていった。俺はその背中に何の言葉も返せず、手ぶらのまま祖母に会うことは辞めた。
どこの店舗で買ったか聞きたかったな。
ちゃっかり瀬人くんと交換した連絡先。これは四辻くんに話さなくて正解だった。スマートフォンごとどうにかされていたに違いない。
生来の図々しさで、これからお茶でもどうかと声をかけたらオーケーの返事がきたので新宿にタクシーを向けた。新宿に近づくに連れ雲が厚くなり、気付けば昼間の晴天が嘘のような豪雨であった。瀬人くんを初めてみた日と同じような雨だ。約束よりかなり早めに喫茶店に入り、タクシー会社のロゴが入ったタオルで濡れた首筋を拭く。始終無言だったドライバーは、降り際フロントガラスを叩く雨粒に気づき、よければ貰ってくださいとこのタオルを差し出した。俺は人の善意は素直に受け取るタイプ。OPPに包まれていた白い粗野なタオルは、よく水を吸った。
ぽっと生まれた空白の時間に、あの教会の事を思い出す。ステンドグラスと、白い花。結局見せてもらうことはなかったパイプオルガン。向日葵の花の飾られた部屋。あの魔性の男は、どこか途中で入れ替わった別人だったのではないだろうか。未だに夢を見たような気持ちである。
その彼は今日も、あそこで神に跪いたのだろうか。そしてあの透き通る声で、とても有り難い話をしたに違いない。硝子越しに雨のバスターミナルを眺めながら、そのあまりに美しい場面を夢想した。我ながら気持ちが悪いと思う。
気づけば冷めきってしまったコーヒーをわずかずつ口に運び、時間を潰す。別に数百円かそこらのコーヒーなのだからもう一杯でも何杯でも注文すればいいのだが、どうにもその気が起きなくてずっとこうしている。店内は空席の方が多く、天候のせいか、空気も湿りどこか陰鬱な雰囲気だった。アルバイトの店員達も人数を持て余し、先ほどから数人がかりで一生懸命にグラスの類を磨いている。それがあって、なんとなく声もかけ辛い。空気を読んでいるというよりは、こちらに気付かせるだけの声を上げる気力がなかった。店員達はそろって無口で無表情だが、それは決して嫌な仕事だからではなく、目の前の軽作業に集中してのことだろう。そんな人間観察とバスターミナルとを交互に観察し、俺はそこそこ時間を潰すことに成功した。やはりコーヒーをもう一杯頼むべきだったかと思いながらも、湿気と朝からの気分の悪さのせいでぼんやりとしてきた意識では声も出なかった。
さらに数分を噛み潰した頃、来店を報せる電子音が鳴り響いた。反射的に店員達は顔をあげ「いらっしゃいませ」と声を揃えた。全員が手に手に食器を握っていたが、それらは一瞬でそっと定位置に戻っていく。俺はわざわざ振り向いて、来客がどんな人間か確かめるようなことはしなかったが、すぐにそれが誰かは知ることができた。雨に黒いサマージャケットの肩を濡らしたその人が、目の前に座ったからである。
ジャケットを脱いだ下、黒い上質な生地をつかったあの礼服は、湿気と照明でささやかに輝いている。かたわら、革の鞄は重みでソファーに沈み込み、その表面には雨の露が一条伝っていた。
「お待たせしてしまい申し訳ありません。少し引き留められてしまって」
整然と連なる前身頃のボタン、少しだけ乱れた前髪と、申し訳なさそうにゆるく寄せられた眉根。瀬人くんは今日も美人だった。とはいえ、特別な用もなく呼び出した人間に「今日も美人だね」なんてうっかり言うわけにもいかないので、にっこりと笑うにとどめる。そもそも彼に投げかける言葉としてはあまりにも軽佻浮薄だ。
女子店員が幾分華やぎながら注文を取りに来る。メニューを一瞥して彼はホットティーを注文した。ついでに俺もコーヒーのおかわりを頼む。
「忙しそうだけど、大丈夫だったの?」
「いえ、ただ週末に結婚式が控えているのですこしバタついてて」
「結婚式」
俺がスプーンを取り落とすのと、先ほどとは異なる女子店員が小さなミルクジャグをトレイの上で転がしたのはほとんど同時だった。気持ちが手に取るようにわかる。あ、ミルクは結構です、と瀬人くんが優しげに笑って軽く手を上げた。店員は失礼いたしました、といってテーブルにちょっとだけはねたミルクを拭き取って、その場をものすごいスピードで去っていった。
「そうです。実はその、海外が長かったもので。日本語での婚姻のミサの経験がなくて、勉強中です」
照れくさそうに言うが、俺や女子店員なんかにしてみたら「えっあなた結婚するんですか?」という動揺で手元が狂ったので、それどころじゃない。強がりは得意なので、曖昧に笑って「大変だね」なんて言ってみる。正直恥ずかしさで言えば女子店員とトントンである。
「ふふ」
妙に楽しそうに瀬人くんが笑って、熱そうな紅茶を一口すすった。
「私は一生、結婚しませんよ」
まるでそれを言うために喉を潤したかのようだ。あの片目を眇めるような顔で、おかしそうにしている。また、思考を読まれているような不思議な、あまり気持ちの良くない感覚が波のように襲ってくる。どうやらすっかり顔に出ているらしいので、彼の前で俺は誤魔化しがきかないようだ。
「わたしたちは生涯、妻を持たず、神に仕えるのです」
雨でよく見えない外の風景をじっと見ながら、俺に言うでもなく、彼は呟くように言った。それから小さく唇が動いたような気がしたが、その言葉は店内BGMに負けてしまって聞き取れなかった。
「今日はどうしました?」
「ああ、いや、突然予定が空いてしまって」
予定が空いた、というより埋められなかったというのが正解だろうか。思春期の子供のように家に帰りたくないんだなんて、それこそ口が裂けても言えないけれど。だがどうしても、誰もいない暗い家に帰るのが嫌だった。そもそもここ最近、きちんと家に帰りすぎていたのだ。ずっとふらふらと適当な人間と夜を過ごして暮らしていたのに、祖父が来た日からはきちんと家に帰っていた。そんなことにも気づいておらず、いよいよ働きたくなさが病気じみてきたなと自認する。
こんな理由で誘ったら小言の一つもあると思っていたが、瀬人くんはそうなんですね、とだけ言って微笑んでいる。本当に正直なところを話せば、この間に彼が言った「大丈夫、あなたは救われますから」という言葉の意味を聞きたかった。彼は俺の何を知っているのだろうか、何を見たのだろうか。彼は何がみえるのだろうか。
「本当は少し、怒っているかとおもいました」
瀬人くんがテーブルに頬杖をついて小さな声で言った。こちらをそっと上目遣いで、様子を伺うように見ている。美しい顔が、こちらを見ている。
「それで、まだ迷ってるんですか?」
前触れもなく、一気にぶり返してきたあの日の雰囲気に、思わず喉が鳴った。ここは密室でも、二人きりの空間でもなく、外は雨で、二つ隣の席では会話に花が咲いている。なのに、突然このボックス席だけが隔離されたように、静まりかえる。彼はいともたやすくこの小さな空間を支配下に置いた。俺はうんともすんとも返せずに、飲もうとして手をかけたマグカップの取っ手を強く握った。
「わたしはあなたを、とって食おうなんておもってないんですよ」
カチャカチャと食器同士がぶつかる音が耳障りだった。それを発生させているのが自分だと気づくのに、俺は有り得ない時間を要した。
「でも、とって食われたいとはおもっています」
角砂糖がソーサーから転げおちた。
俺は、自分でも驚くくらい、恐怖していた。
目の前の男が、俺は欲しくて欲しくてたまらない。だが、目の前の男は、俺が行動するまでもなく己を差し出している。据え膳か? そんな生易しいものではない。この男はおそらく麻薬のような、簡単には足の洗えない男だ。そして、一生手に入らない。手に入るものか。瀬人くんは、俺のものにはならない。それでも、俺が「彼のもの」になることはできるだろう。だけどそれは唯一無二じゃない。
俺は瀬人くんのことを、ただ好きなだけで、もちろん愛してなどいなかった。小学生の一目惚れのようなものだ。幼稚な独占欲だ。その感情はほとんどラブだが、やはり愛しているというには軽薄だ。あけすけな言い方をすれば彼は性の対象であるが、精神的な安寧はきっと求めていない。いないはずだ。もし性的快楽を満たすことと、精神的な平穏を齎すことが因果の深いものであるなら、また話が変わるが、少なくとも俺の中では別の話である。そうであった。だから、極論を言ってしまえば、俺は目の前のこの男を一度抱ければいい。それでも、一度抱いてしまえばきっと今の俺では逃げられない。だから永遠に触れず、悶々としているべきだ。手の内にいれた瞬間、この軽薄で熱っぽい幼稚な心は霧散して消える。その先で自分の心を満たす感情が思いつかない。
四辻くんの様子を考えれば、この人は、別に清く潔いわけではない。既に幾人もの手垢が付き、高潔さなどはなく、高嶺の花とも言えないのだろう。触れようと思えばいとも簡単に達成できたのだろう。それこそ性別を超越した愛を持っている。一度抱ければ満足などと嘯く俺など、足元にも及ばない。たとえ自らが聖なる神の使える聖職者で、だれよりも信仰が篤くとも。むしろこの「愛情深さ」こそが彼を聖職者たらしめるのだろうか?
「あなたは、わたしをご自分のものにしたいのでしょう? お友達、なんかじゃなくって」
「なんで」
わかるんだ、と言いたかった。それは素早い返答に遮られた。
「みんなそう言って、そういう顔をするからです」
瀬人くんは細く小さな溜息を吐いて、すでにぬるそうな紅茶をごくごくと飲んだ。
「これでも、わたしからこんな風にお誘いするのは珍しいのですよ。そうですね。あなたと、よしみちくんぐらい」
日本では、と小さく小さく付け足されてめまいがした。スケールが飛躍しすぎている。かつて海外生活を送っていた、というのは得たばかりの情報だが、いったいどんな生活環境だったのかは考えないようにする。
「でも、こうやって自分から繋がろうとすると駄目みたいです」
あまりにも悲しそうな顔をするので、急に罪悪感が湧いてくる。それから、自分と一緒に列挙された名前に引っかかった。
「……四辻くん?」
「ええ、でも未遂ですらありませんから、彼との関係は今以上の誤解はしないでください」
まるで朝の申し送りのようなテンションで言われてしまうと、いっそ追求はできない。頷いて、俺は言葉をつながなかった。
「わたしのせいで彼は家を捨てた。わたしが彼のためにできることは限られている。せめてもの親切心であったけれど、残念なことに彼は敬虔な信徒なのです」
私なんかよりきっと、ずっと。瀬人くんはそう言って、また視線を外に向けた。雨は弱まり、夕日が微かに街並をオレンジに塗っていた。一刻沈黙が俺たちの間を満たしていく。それから、冷静さを取り戻し始めた俺はあることに思い当たった。完全に「誘いを断った」空気になっているが、それは早計すぎる。俺はまだノーともイエスとも言っていない。四辻くんが断った流れは容易に想像ができるが、俺は彼じゃない。
俺は諦めが早いのだ。彼は俺のものにならない、よくわかった。そんなことはもうどうでもいい、俺は彼のものになれるじゃないか。それの何が駄目なんだ? 簡単にやめられないなんて、結構な話だ。臆病になって、何も手に入らないなんてそれこそ愚かだ。俺は、俺の自由に生きてきた。数え切れないほど裏切って、嘘をついて、この頬を痛みへ差し出して。
「決めた」
瀬人くんの、は、と心底驚いたようなすかすかの声が、空っぽのティーカップに落ちた。
「俺は君をとって食おう」
たっぷりと驚愕に黙したあと、瀬人くんは切れ長の両目を伏せ小さく口角を引き上げた。それから、三度窓の外へ視線を外すと、先ほどと同じように唇を動かした。今度は雨音にも、スローテンポのジャズにも、食器のあたる音にもかき消されることはなかった。それは、日本語を喋るときよりもずっと、生命力をもち、なめらかな発音だった。
「Love mixed with fear is sweetest.」
この場合、恐怖しているのは俺である。
あの日の夕暮れ、俺を引き止め迷子のような顔をした。呼び止めたことに対して、どうしたの、と問えば少しだけ困ったように笑う。それから、背中がすこし、旧友に似ていて、と言った。
思わずあんな顔をして引き留めたくなる旧友が、この世界のどこかにいる。その事実にすら面白くないと感じてしまう自分に少しだけ引いた。それでも、じゃあ俺も友達にしてくれる? なんて言える自分が憎らしい。俺には品行方正な情緒はない。美しい男は、もちろんですと笑ってくれたが、逆光に潰れているはずの俺の顔はきっと笑っていなかっただろう。
友達、そんな肩書は必要ないのだから。
C
――っは、とぬるい空気を吸った。夢を見ていたような気がする。壁にかかった時計は四時半をさしていた。まだ起きる時間ではない。気分の悪い夢だったような気がするがイマイチ思い出せない。一度起こした上体をもう一度ベッドに投げ出して、虚無感のわだかまった天井をみつめた。久しぶりに母の気配を感じ、かすかに震えた指先を拳に握り込む。
母親は優しいひとだった。それでいて厳しい女だったとおもう。俺が常に強者であることを望み、文武両道であれとした。俺の教育方針は母に任され、それこそ週七日で習い事に通う生活だった。疲弊して学校にすら行きたくないような時もあったが、彼女はそれを許さなかった。
一方で祖母には甘やかされていた。母方の祖父母は既に他界しており、父方の祖父母しか俺は知らない。父方の祖母は、年の割に背筋のしゃんとしたひとだった。藤の季節になると、あの人の着物を思い出す。そんな祖母は、俺が行きたくないと駄々をこね怒られているところに現れては母を叱責した。大事な皐月を泣かせるなんて、何を考えているんですか。何も言えない母から隠すように俺を自室に連れていき、目をはらした孫にお菓子や玩具を与える。俺にとっての優しい祖母。部屋には、病に倒れ家を離れるときまで、いつでもきれいな花が飾られていた記憶がある。
祖母は、俺にだけ優しい人だった。
俺が中学に上がる頃、日常的に祖母が母に対してつらくあたっていることを偶然知る。執拗に、時としては人格を否定し、徹底的に俺から見えないように、母は攻撃されていた。それを父や祖父が知っていたのかは、いまだにわからない。聞くつもりもない。だが、女同士の諍いはおそらく俺の生まれる前から続いており、俺が生まれたことでその溝は更に深まった。家を守っていた女たちは、俺のみえないところで、ずっと戦っていたわけである。
それでも母は、父から離れることを是としなかった。高校に入ったばかりの俺という息子がいたこともある。そして彼女は父を愛していたからだ。とっくに父から彼女への優しさは尽き、ほとんど家に帰ってこない日が当たり前になっていた。俺は祖母や、時折父に連れられて食事に出かけたりしていた気がするが、そこに母がいた記憶はない。
ひとりぼっちだったのは、ずっと母だけだった。
ねえ、皐月ちゃん――。
スマートフォンのめざましが、しんとした部屋に響く。またいつの間にか寝ていたらしい。窓の外はもうすっかり明るく、カーテンの隙間からさす光が鬱陶しくて目を細めた。ひとつあくびをしてから、後頭部をかく。髪が伸びたな。美容室でも行くか。仕事はあるが、別に今日でなくてもいいだろう。フレックスタイムというより、フレックスデイの精神で行こう。
画面の通知を確認しながらダイニングにおりると、まだ父がいた。朝食は済んでいるようだったが、コーヒーからはまだ湯気が立っている。
「おはよう」
寝起きの喉で、思ったよりドスの聞いた朝の挨拶になってしまった。それをきいた父は、はは、と笑ったあとに同じ言葉を返した。席につくと家政婦が俺の分のコーヒーをそっと置き、朝食はいりますか、といつもの質問する。なんとなく気分が悪かったのでそれは断った。
寝間着のスウェットのままコーヒーをもってソファーに移動する。なんとなく父親と向かい合って座ることが落ち着かなかったからだ。
「そうだ、お前あの教会の件どうなったんだ?」
「佳奈美ちゃんには伝えた」
「俺の秘書をちゃん付けで呼ぶのをやめなさい」
ばさ、と新聞をめくる音に、俺の「俺の秘書っていうのもやめろよ」というぼやきは打ち消されてしまった。ずず、と熱いコーヒーをすすればなんとなく目が覚めるような気がする。テレビも新聞も毎朝毎朝見る気にはなれない。政治、経済、テレビ欄。俺が得るべき情報の一端であることは確かだったが、現状ビジネスマン的なトークテーマは不要である。スマートフォンでニュースサイトをスクロールして、特に何の見出しもタップせずにホームボタンを押した。今日の美容室で嫌でも今日のニューストピックスを子守唄にされる。
「今日は遅くなるから、夕飯はいりませんよ」
父が隣の部屋に呼びかける大きな声で完全に目が醒めた。表に車が止まる気配に、二人で外をみやってしまったが、父の迎えの車であった。俺も今日は夕飯いらないから、早目に帰っていいよ、そう家政婦に伝えたら心なしか嬉しそうだった。いつもは朝から晩まで俺たち親子の面倒を見ているわけだから、その苦労は計り知れないだろう。俺が言うのも難だが。
家にいる気分ではなく、さっさと身支度をして外に出た。
残念ながらそとは夏である。冷夏を極めるかと思われた少し前とは打って変わって、太陽は急にやる気を出した。青い空に白い入道雲、これはもう、文句のつけようがない夏である。会社は急激な気候の変化にあちらこちらで忙しそうであったが、そういうときほど俺にできることはない。新人が熱くなると大抵何か問題が起こるものだ。十分に身を弁えているのである、決してサボりじゃない。
地下鉄の駅に潜ると、篭った熱気が肌をなめていく。浅草方面の電車がちょうど到着するタイミングだった。改札から溢れてくり降車客は逆方向にまるで焦る様子もなく歩く俺を、まるで親の敵のように押しのけて地上に上がっていく。まったく恐ろしい国だ。今朝からずっと明瞭としない気分不良に拍車がかかる。おとなしくタクシーを呼べばよかった。急激に人の気配の無くなった駅を、俺は不機嫌なままで更に深く潜る。
適当なTシャツに適当なジーパン、後ろのポケットに財布をつっこんでヘラヘラしている俺は人にどう映るのだろうか。ふと考えてみたが、どうとも映らないだろうな。俺だって、さっきから何人かとすれ違っているがまったく印象に残っていない。誰も他人に興味なんかない。少し上背がある程度で、特徴的な見た目をしているわけでもなく、残念なことに俺は特別いい男でもない。おれはどうしようもなく、何者でもなかった母に似ている男だった。
空調のわざとらしい冷たい風と、地下鉄の車両が押し出してきた生ぬるい淀んだ空気が、ホームで混ざっている。にわかにざわめきに満ち、人並みが空気をゆっくり撹拌していく。重たい空気を引き剥がすように、俺はたくさんの無個性が詰まった、目の前の電車に乗り込んだ。行き先表示は六本木、ほんの一駅だ。
――思えば、俺を最初に殴った女は母である。俺は中学二年生になる頃には随分背が伸びて、周りの大人よりもすっかり視線は高くなっていた。無理矢理縦に引き伸ばしたようなひょろりとした体型の同級生たちに比べて、当の母により柔道に通わされていたせいか体格もそれなりにしっかりしていた。だから、ある日突然始まったあの行為はいわゆる虐待などではない。俺は、十二分に彼女をねじ伏せる力を持っていて、自分の身を守れるだけの術を何通りも持っていた。俺を甘やかす祖母もまだ健在で、父もまた俺のことを気にかけていた。だから、痛くも痒くもないあの女のあの弱々しい殴打を、俺は甘んじて受け入れただけなのだ。
それ以降俺はよく左頬も右頬も老若男女に差し出してきたわけで、最新版はあの四辻という青年、ではなく三日前に会った渋谷の女である。名前を忘れただけで手を挙げるのはよろしくない。ふさがりかけの口の端の傷が、まだすこし痛い。
それを目ざとくみつけた馴染みの美容師は、またっすか、とけらけらと楽しそうに笑っていた。そう、またなんだ。以前、重めの拳が飛んできた時だけは自分のちゃらんぽらんな性格を恨んだが、学習はしなかった。パラパラと髪の毛が自分の周りに散っていく。それをを他人事のように鏡越しに眺めていると、予想通り、今朝のニュースサイトと同じトピックスが美容師の声で語られる。くだらない。興味がない。いつものように蒸しタオルが両目の上に乗せられたとき、俺は意識を意図的に手放した。
――高校に入って、習い事はすべて辞めた。賢しくも卑怯な俺は母には何も言わず、父に頼んで辞める手続きをとった。そもそも中学に入ってからはろくに通っていなかったのだが。俺は年相応に同級生と遊び歩いたり、ファストフードで語り合う青春を過ごすのだ。今思えばなんて幼い夢物語だ。だが当時は真剣にそう思っていた。ただ、この裏切りに似た行動こそが俺の人生のターニングポイントであったように思う。俺は悲しいことに、すでに二条の男として、立派に家庭を顧みない人間に成長していたわけだ。母を虐げる祖母、それを許す祖父、息子に手を上げて泣く母、すべてを見て見ぬふりをする父、裏切りを厭わない俺。他所からすればとんでもない家庭不和だと思われそうだが、俺自身そんな感覚は微塵もなかった。愛に溢れた家庭である。その大半は自己愛に費やされていたが。今でもその気持はかわらない。祖母も、祖父も、父も、俺には愛情を惜しみなく注いでくれたのだから。
「二条さん次の予約はいれてきます?」
「じゃあ来月に」
カラーもよろしく、と付け足した。神奈川に行く前に黒に戻さなければと考えていた。このツーブロックもやめて、いっそ短くするのもありだな、と美容師にいったら「二条さん短髪絶対似合わないですよ」と笑われた。ちょっとおもしろくなかったので、じゃあ別の店に頼もうかなと冗談を言った後、苦笑いする美容師に「来月よろしく」とだけ伝え店を後にした。
六本木の街は、あまりにも街であることを放棄している。街としてのビル、ビルとしての街。地下に展開された街並み。歩道を歩くのは日本人と、それと同じだけの異国人だ。国道に面した警察署の前で、老女が見張りの警察官に異国語で語りかけている。ケバブの香りとエンジンオイルの焼ける匂いがないまぜになって、夏の熱気に蒸れていた。今日はやはり、気分がよくない。点滅する青信号に横断歩道を小走りでわたり、乃木坂の方へ足を向けた。
――俺が数々の習い事を勝手に辞めてから半年程度は、なんとなく通っているふりをして、友人たちと繁華街で遊び歩いていた。それが母にバレるまでが、俺の輝かしい青春のすべてだ。ほんの半年、ほんの六ヶ月。そこで、それまでの真っ当な人生は、死んだ。真っ暗な家、家政婦の辞表が置かれたダイニングテーブル、母のすすり泣く声、俺の手を握った、女。俺はそれから、何をしたのだったか。誰も帰ってこない家、祖母からの着信は聞こえないふりをした。夜が明けてもカーテンは開かれなかった。泥濘のような朝がきて、昼がすぎ、夜がきて父が帰ってくる。泣いていたのも、死にたかったのも、苦しかったのも、全部俺じゃない。
首筋にひんやりとした汗が伝うのを感じて、我に返った。最近茫然自失になる回数が増えたように感じる。そんなに働きたくないのだろうか。いや、そのとおりだ。働きたくはない。霊園の入り口にたって、手ぶらであることに今更思い当たる。一気に気が抜けて、近くのベンチに腰を下ろすと温まったプラスチックの熱がジーンズ越しに伝わってくる。思い出したくもないことをよく思い出してしまう。まるで呪いのようだ。家に帰る気にもなれず、かといって誰かに会う気にもなれず、散髪したての爽やかな後頭部だけが幸せそうだ。スマートフォンが何度か震えたが、俺はそれをシカトして葉桜を眺める。木漏れ日がぬるい。
――父が帰宅した家の様子を不審に思い、母の部屋のドアを開いたときみたものは、息子に跨る妻の姿だ。激昂した父は、妻を奪った男ではなく、息子を奪った女を殴った。暴れ、泣いて喚いて、裸の女は俺に助けを求めた。俺は冷ややかな目でベッドの上から、父に押さえつけられた”あの女”をただ見下ろしていた。何も言わず、女と汗の匂いに朦朧として、ただそれを見ていた。ああ、父さん。俺は別によかったんだよ。母は救われたかったんだ、俺に。だから、俺を自分を守ってくれる男に育てたかったんだよ。その俺に、ほんの些細な、ほんの小さな嘘をつかれたことが彼女の心を突き崩してしまった。それが、手に取るようにわかったから俺はずっと抵抗しなかった。抵抗しなかったのだ。だからあの日、父さんが殴らなきゃいけなかったのは俺だ。殴ってほしかったのは、俺の方だった。
母が家を去ったのは、意外なことに事が起きた一週間も後だった。俺は父や祖父母に泣いて謝られながら、今まで確かに存在していた感情がいくつかなくなったことに気付いた。とはいえ、それはどちらにしろ淘汰されていたであろう思春期の昂ぶりでしかなく、同級生たちよりも一足早く現実に至ったというだけだ。少しだけ投げやりになって、少しだけ諦めが早くなった。その程度だ。
部屋に閉じこもり、ドア越しに祖母の罵倒を浴びる母。警察という言葉を何度も聞いた。俺は何事もなかったように高校に通っていたが、前のように友人とつるんで遊び回るようなことはしなかった。理由なんて、つまらなかっただけだ。
一週間経った頃、新しい家政婦が面接に来ていた。温和そうな女性が、親しげな笑顔で父と並び俺の帰宅を出迎えた。この人はこの家の内情を知っているのだろうか、まあ知らないだろうな。
二階に上がると一週間ぶりに母の姿がそこにあって、父と家政婦をじっと見下ろしていた。母さん、と呼びかける。やめればよかった。彼女は何も言わず強い力で俺を廊下に突き倒し、あの夜のように泣きそうな顔で俺に跨った。その音は階下にも当然聞こえていて、父が焦ったように階段をのぼってくる音がする。あー、どうしてこうなるんだろうな。冷静なつもりだった。それなのに、首にかけられた両手に俺は思わず、ポケットに潜ませていた小さなツールナイフを閃かせてしまったのだ。
その夜。父に殴られた跡が黄変し、頬に血が滲む酷い姿で彼女は姿を消した。
俺は未だに、女の顔に傷を作ったという事実に、少しだけ罪悪感を感じている。
その後、何事もなかったように高校を卒業して、大学にも進学した。父も、祖父母も、何事もなかったように過ごした。家族は一人減ったけれど、変わらず平和で幸せな生活だった。愛に溢れた、お金持ちの父子家庭。祖母は何も言わず、母代わりと俺の面倒を見てくれた。俺が大学二年の冬に持病をひどくして急逝したあの気位の高い女性もまた、二条の男に殺されたのだ。
あ。
後ろから聞こえた声に、白昼夢から醒める。今、何を思い出していたのだろうか。寝ぼけたような頭のまま、声のする方をみると見覚えのある顔が立っていた。
「よしみちくん」
「四辻、です」
仏花の花束を抱えた青年は、ブラックス―ツに黒いネクタイを締めていた。しかし少しくたびれたその装いは喪服のようで、喪服ではなさそうだった。鈍く金色に光るネクタイピンが、陽光を反射してきらめいた。声を上げてしまったことを悔いるように顔を歪めていたが、根が真面目そうなので逃げることも出来ないのだろう。あの困ったような顔で俺をみて、立ち去りどきを逃した青年は居心地が悪そうに立っている。面白くなって、ちょっとこっち、と手招いた。苦虫を噛み潰したような顔で、従順にも、俺の隣の少し離れた位置に彼は腰掛けた。菊の匂いが鼻をかすめる。
「ねえ、四辻くんて瀬人くんと付き合い長いの?」
わざと距離を詰めてから、そうきくと「は?」と怒気を孕んだ低い声が返ってきた。おそらく彼はいま、俺が上永谷神父のことをファーストネームで馴れ馴れしく呼んだことを怒っている。気持ちはわかるが、公認なのであしからず。その怒りを飲み込むように、四辻くんは喉を鳴らして、小さく溜息を吐いた。嫉妬をされる側というのは嫌いじゃない。
「上永谷神父とは、三年ほど前に」
「でも、あの教会にきたのって今年の春からなんでしょ」
組んだ足を揺らしながら、青年をゆるやかに尋問する。彼について知りたかった。なんでもいいから、彼のことが知りたい。あの美しく妖しい男に強い興味があった。
「教会の内情を、信徒でもないあなたに話す義理はないのですが」
「別に言いふらしたりするわけじゃないし、君が教えてくれないなら本人に聞きに行くだけだけど」
弱々しく俺を睨んだ男の肩に手を回して、にっこりと笑ってみせると悔しそうに顔が歪んだ。
「上永谷神父は、ずっと海外の教会でご奉仕されていたのです」
彼の抱えている花束が心なしかしなびている。
「お父様が体調を崩されたので、今年の春に帰国し、現在の教区に転入されました」
それまでは大きな催事のたびに手伝いに帰国してらしたのです。そう付け加えた。
「それでそのお父様は?」
「すっかり回復なされて、教区長の地位にとどまっていらっしゃいます」
もういいですか? と肩に乗った俺の腕を鬱陶しそうに押し返した。非力過ぎて振り払えないらしい。瀬人くんも華奢そうな男だったが、彼のほうがよっぽど折れそうに細い。少し余ったスーツの肩幅が、量産品を思わせた。いたいけな青年を拘束したまま、俺は瀬人くんのことを考える。周りに愛され、嫋やかに笑うあの男が抱えている何かは、どこで拾ってしまった感情なのだろうか。それとも何かを捨ててしまったのだろうか。
四辻くんは汗一つかかずに、うつむいてうなじを晒していた。この暑い中、きっちりスーツの上着まできているにもかかわらず、幽霊のようにひんやりしている。急に心配になって、晒されたうなじにそっと触れると、かっと肌が熱くなった。花束は彼の足元に落ち、左手でうなじをおさえて、俺をまた睨んだ。悪気はなかったんだ。本当に。
「墓地だから」
「は?」
墓地だから、本当に幽霊かもしれないじゃないか。と、冷静になればとんちきなことを言いそうになってやめる。にっこり笑って見せて誤魔化した。足元に落ちた花束を拾って、彼の膝の上に置くと、律儀に礼を言われた。
「なんだか下手くそな花屋だなあ」
「あなたって不真面目そうですけど、やっぱりお花屋さんなんですね」
萎れた菊に思わずこぼした言葉に、四辻くんが意外に明るい声をあげた。すぐ我にかえったようで、花束に手を添えながら言葉を選んでくださいと窘められた。これだけ気温が高ければ致し方ないと言えば、そうなのだが。彼の肩から腕を離し、思わず花束から目を背けた。
「花は嫌いだよ」
「仏が嫌いでも坊主にはなれます」
チャンスとばかりにさっさと立ち上がった彼は意味深な言葉を言い放ち、背中を軽く払う動作をしたあと、憎々しげに俺を見下ろした。
「この花、あなたのところで買いました」
捨て台詞は耳に痛いカスタマーレビューで、広大な墓地の中へと彼は静かに消えていった。俺はその背中に何の言葉も返せず、手ぶらのまま祖母に会うことは辞めた。
どこの店舗で買ったか聞きたかったな。
ちゃっかり瀬人くんと交換した連絡先。これは四辻くんに話さなくて正解だった。スマートフォンごとどうにかされていたに違いない。
生来の図々しさで、これからお茶でもどうかと声をかけたらオーケーの返事がきたので新宿にタクシーを向けた。新宿に近づくに連れ雲が厚くなり、気付けば昼間の晴天が嘘のような豪雨であった。瀬人くんを初めてみた日と同じような雨だ。約束よりかなり早めに喫茶店に入り、タクシー会社のロゴが入ったタオルで濡れた首筋を拭く。始終無言だったドライバーは、降り際フロントガラスを叩く雨粒に気づき、よければ貰ってくださいとこのタオルを差し出した。俺は人の善意は素直に受け取るタイプ。OPPに包まれていた白い粗野なタオルは、よく水を吸った。
ぽっと生まれた空白の時間に、あの教会の事を思い出す。ステンドグラスと、白い花。結局見せてもらうことはなかったパイプオルガン。向日葵の花の飾られた部屋。あの魔性の男は、どこか途中で入れ替わった別人だったのではないだろうか。未だに夢を見たような気持ちである。
その彼は今日も、あそこで神に跪いたのだろうか。そしてあの透き通る声で、とても有り難い話をしたに違いない。硝子越しに雨のバスターミナルを眺めながら、そのあまりに美しい場面を夢想した。我ながら気持ちが悪いと思う。
気づけば冷めきってしまったコーヒーをわずかずつ口に運び、時間を潰す。別に数百円かそこらのコーヒーなのだからもう一杯でも何杯でも注文すればいいのだが、どうにもその気が起きなくてずっとこうしている。店内は空席の方が多く、天候のせいか、空気も湿りどこか陰鬱な雰囲気だった。アルバイトの店員達も人数を持て余し、先ほどから数人がかりで一生懸命にグラスの類を磨いている。それがあって、なんとなく声もかけ辛い。空気を読んでいるというよりは、こちらに気付かせるだけの声を上げる気力がなかった。店員達はそろって無口で無表情だが、それは決して嫌な仕事だからではなく、目の前の軽作業に集中してのことだろう。そんな人間観察とバスターミナルとを交互に観察し、俺はそこそこ時間を潰すことに成功した。やはりコーヒーをもう一杯頼むべきだったかと思いながらも、湿気と朝からの気分の悪さのせいでぼんやりとしてきた意識では声も出なかった。
さらに数分を噛み潰した頃、来店を報せる電子音が鳴り響いた。反射的に店員達は顔をあげ「いらっしゃいませ」と声を揃えた。全員が手に手に食器を握っていたが、それらは一瞬でそっと定位置に戻っていく。俺はわざわざ振り向いて、来客がどんな人間か確かめるようなことはしなかったが、すぐにそれが誰かは知ることができた。雨に黒いサマージャケットの肩を濡らしたその人が、目の前に座ったからである。
ジャケットを脱いだ下、黒い上質な生地をつかったあの礼服は、湿気と照明でささやかに輝いている。かたわら、革の鞄は重みでソファーに沈み込み、その表面には雨の露が一条伝っていた。
「お待たせしてしまい申し訳ありません。少し引き留められてしまって」
整然と連なる前身頃のボタン、少しだけ乱れた前髪と、申し訳なさそうにゆるく寄せられた眉根。瀬人くんは今日も美人だった。とはいえ、特別な用もなく呼び出した人間に「今日も美人だね」なんてうっかり言うわけにもいかないので、にっこりと笑うにとどめる。そもそも彼に投げかける言葉としてはあまりにも軽佻浮薄だ。
女子店員が幾分華やぎながら注文を取りに来る。メニューを一瞥して彼はホットティーを注文した。ついでに俺もコーヒーのおかわりを頼む。
「忙しそうだけど、大丈夫だったの?」
「いえ、ただ週末に結婚式が控えているのですこしバタついてて」
「結婚式」
俺がスプーンを取り落とすのと、先ほどとは異なる女子店員が小さなミルクジャグをトレイの上で転がしたのはほとんど同時だった。気持ちが手に取るようにわかる。あ、ミルクは結構です、と瀬人くんが優しげに笑って軽く手を上げた。店員は失礼いたしました、といってテーブルにちょっとだけはねたミルクを拭き取って、その場をものすごいスピードで去っていった。
「そうです。実はその、海外が長かったもので。日本語での婚姻のミサの経験がなくて、勉強中です」
照れくさそうに言うが、俺や女子店員なんかにしてみたら「えっあなた結婚するんですか?」という動揺で手元が狂ったので、それどころじゃない。強がりは得意なので、曖昧に笑って「大変だね」なんて言ってみる。正直恥ずかしさで言えば女子店員とトントンである。
「ふふ」
妙に楽しそうに瀬人くんが笑って、熱そうな紅茶を一口すすった。
「私は一生、結婚しませんよ」
まるでそれを言うために喉を潤したかのようだ。あの片目を眇めるような顔で、おかしそうにしている。また、思考を読まれているような不思議な、あまり気持ちの良くない感覚が波のように襲ってくる。どうやらすっかり顔に出ているらしいので、彼の前で俺は誤魔化しがきかないようだ。
「わたしたちは生涯、妻を持たず、神に仕えるのです」
雨でよく見えない外の風景をじっと見ながら、俺に言うでもなく、彼は呟くように言った。それから小さく唇が動いたような気がしたが、その言葉は店内BGMに負けてしまって聞き取れなかった。
「今日はどうしました?」
「ああ、いや、突然予定が空いてしまって」
予定が空いた、というより埋められなかったというのが正解だろうか。思春期の子供のように家に帰りたくないんだなんて、それこそ口が裂けても言えないけれど。だがどうしても、誰もいない暗い家に帰るのが嫌だった。そもそもここ最近、きちんと家に帰りすぎていたのだ。ずっとふらふらと適当な人間と夜を過ごして暮らしていたのに、祖父が来た日からはきちんと家に帰っていた。そんなことにも気づいておらず、いよいよ働きたくなさが病気じみてきたなと自認する。
こんな理由で誘ったら小言の一つもあると思っていたが、瀬人くんはそうなんですね、とだけ言って微笑んでいる。本当に正直なところを話せば、この間に彼が言った「大丈夫、あなたは救われますから」という言葉の意味を聞きたかった。彼は俺の何を知っているのだろうか、何を見たのだろうか。彼は何がみえるのだろうか。
「本当は少し、怒っているかとおもいました」
瀬人くんがテーブルに頬杖をついて小さな声で言った。こちらをそっと上目遣いで、様子を伺うように見ている。美しい顔が、こちらを見ている。
「それで、まだ迷ってるんですか?」
前触れもなく、一気にぶり返してきたあの日の雰囲気に、思わず喉が鳴った。ここは密室でも、二人きりの空間でもなく、外は雨で、二つ隣の席では会話に花が咲いている。なのに、突然このボックス席だけが隔離されたように、静まりかえる。彼はいともたやすくこの小さな空間を支配下に置いた。俺はうんともすんとも返せずに、飲もうとして手をかけたマグカップの取っ手を強く握った。
「わたしはあなたを、とって食おうなんておもってないんですよ」
カチャカチャと食器同士がぶつかる音が耳障りだった。それを発生させているのが自分だと気づくのに、俺は有り得ない時間を要した。
「でも、とって食われたいとはおもっています」
角砂糖がソーサーから転げおちた。
俺は、自分でも驚くくらい、恐怖していた。
目の前の男が、俺は欲しくて欲しくてたまらない。だが、目の前の男は、俺が行動するまでもなく己を差し出している。据え膳か? そんな生易しいものではない。この男はおそらく麻薬のような、簡単には足の洗えない男だ。そして、一生手に入らない。手に入るものか。瀬人くんは、俺のものにはならない。それでも、俺が「彼のもの」になることはできるだろう。だけどそれは唯一無二じゃない。
俺は瀬人くんのことを、ただ好きなだけで、もちろん愛してなどいなかった。小学生の一目惚れのようなものだ。幼稚な独占欲だ。その感情はほとんどラブだが、やはり愛しているというには軽薄だ。あけすけな言い方をすれば彼は性の対象であるが、精神的な安寧はきっと求めていない。いないはずだ。もし性的快楽を満たすことと、精神的な平穏を齎すことが因果の深いものであるなら、また話が変わるが、少なくとも俺の中では別の話である。そうであった。だから、極論を言ってしまえば、俺は目の前のこの男を一度抱ければいい。それでも、一度抱いてしまえばきっと今の俺では逃げられない。だから永遠に触れず、悶々としているべきだ。手の内にいれた瞬間、この軽薄で熱っぽい幼稚な心は霧散して消える。その先で自分の心を満たす感情が思いつかない。
四辻くんの様子を考えれば、この人は、別に清く潔いわけではない。既に幾人もの手垢が付き、高潔さなどはなく、高嶺の花とも言えないのだろう。触れようと思えばいとも簡単に達成できたのだろう。それこそ性別を超越した愛を持っている。一度抱ければ満足などと嘯く俺など、足元にも及ばない。たとえ自らが聖なる神の使える聖職者で、だれよりも信仰が篤くとも。むしろこの「愛情深さ」こそが彼を聖職者たらしめるのだろうか?
「あなたは、わたしをご自分のものにしたいのでしょう? お友達、なんかじゃなくって」
「なんで」
わかるんだ、と言いたかった。それは素早い返答に遮られた。
「みんなそう言って、そういう顔をするからです」
瀬人くんは細く小さな溜息を吐いて、すでにぬるそうな紅茶をごくごくと飲んだ。
「これでも、わたしからこんな風にお誘いするのは珍しいのですよ。そうですね。あなたと、よしみちくんぐらい」
日本では、と小さく小さく付け足されてめまいがした。スケールが飛躍しすぎている。かつて海外生活を送っていた、というのは得たばかりの情報だが、いったいどんな生活環境だったのかは考えないようにする。
「でも、こうやって自分から繋がろうとすると駄目みたいです」
あまりにも悲しそうな顔をするので、急に罪悪感が湧いてくる。それから、自分と一緒に列挙された名前に引っかかった。
「……四辻くん?」
「ええ、でも未遂ですらありませんから、彼との関係は今以上の誤解はしないでください」
まるで朝の申し送りのようなテンションで言われてしまうと、いっそ追求はできない。頷いて、俺は言葉をつながなかった。
「わたしのせいで彼は家を捨てた。わたしが彼のためにできることは限られている。せめてもの親切心であったけれど、残念なことに彼は敬虔な信徒なのです」
私なんかよりきっと、ずっと。瀬人くんはそう言って、また視線を外に向けた。雨は弱まり、夕日が微かに街並をオレンジに塗っていた。一刻沈黙が俺たちの間を満たしていく。それから、冷静さを取り戻し始めた俺はあることに思い当たった。完全に「誘いを断った」空気になっているが、それは早計すぎる。俺はまだノーともイエスとも言っていない。四辻くんが断った流れは容易に想像ができるが、俺は彼じゃない。
俺は諦めが早いのだ。彼は俺のものにならない、よくわかった。そんなことはもうどうでもいい、俺は彼のものになれるじゃないか。それの何が駄目なんだ? 簡単にやめられないなんて、結構な話だ。臆病になって、何も手に入らないなんてそれこそ愚かだ。俺は、俺の自由に生きてきた。数え切れないほど裏切って、嘘をついて、この頬を痛みへ差し出して。
「決めた」
瀬人くんの、は、と心底驚いたようなすかすかの声が、空っぽのティーカップに落ちた。
「俺は君をとって食おう」
たっぷりと驚愕に黙したあと、瀬人くんは切れ長の両目を伏せ小さく口角を引き上げた。それから、三度窓の外へ視線を外すと、先ほどと同じように唇を動かした。今度は雨音にも、スローテンポのジャズにも、食器のあたる音にもかき消されることはなかった。それは、日本語を喋るときよりもずっと、生命力をもち、なめらかな発音だった。
「Love mixed with fear is sweetest.」
この場合、恐怖しているのは俺である。
あの日の夕暮れ、俺を引き止め迷子のような顔をした。呼び止めたことに対して、どうしたの、と問えば少しだけ困ったように笑う。それから、背中がすこし、旧友に似ていて、と言った。
思わずあんな顔をして引き留めたくなる旧友が、この世界のどこかにいる。その事実にすら面白くないと感じてしまう自分に少しだけ引いた。それでも、じゃあ俺も友達にしてくれる? なんて言える自分が憎らしい。俺には品行方正な情緒はない。美しい男は、もちろんですと笑ってくれたが、逆光に潰れているはずの俺の顔はきっと笑っていなかっただろう。
友達、そんな肩書は必要ないのだから。
C
0
お気に入りに追加
14
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
学園の天使は今日も嘘を吐く
まっちゃ
BL
「僕って何で生きてるんだろ、、、?」
家族に幼い頃からずっと暴言を言われ続け自己肯定感が低くなってしまい、生きる希望も持たなくなってしまった水無瀬瑠依(みなせるい)。高校生になり、全寮制の学園に入ると生徒会の会計になったが家族に暴言を言われたのがトラウマになっており素の自分を出すのが怖くなってしまい、嘘を吐くようになる
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
初投稿です。文がおかしいところが多々あると思いますが温かい目で見てくれると嬉しいです。


6回殺された第二王子がさらにループして報われるための話
あめ
BL
何度も殺されては人生のやり直しをする第二王子がボロボロの状態で今までと大きく変わった7回目の人生を過ごす話
基本シリアス多めで第二王子(受け)が可哀想
からの周りに愛されまくってのハッピーエンド予定
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿

使命を全うするために俺は死にます。
あぎ
BL
とあることで目覚めた主人公、「マリア」は悪役というスペックの人間だったことを思い出せ。そして悲しい過去を持っていた。
とあることで家族が殺され、とあることで婚約破棄をされ、その婚約破棄を言い出した男に殺された。
だが、この男が大好きだったこともしかり、その横にいた女も好きだった
なら、昔からの使命である、彼らを幸せにするという使命を全うする。
それが、みなに忘れられても_


実はαだった俺、逃げることにした。
るるらら
BL
俺はアルディウス。とある貴族の生まれだが今は冒険者として悠々自適に暮らす26歳!
実は俺には秘密があって、前世の記憶があるんだ。日本という島国で暮らす一般人(サラリーマン)だったよな。事故で死んでしまったけど、今は転生して自由気ままに生きている。
一人で生きるようになって数十年。過去の人間達とはすっかり縁も切れてこのまま独身を貫いて生きていくんだろうなと思っていた矢先、事件が起きたんだ!
前世持ち特級Sランク冒険者(α)とヤンデレストーカー化した幼馴染(α→Ω)の追いかけっ子ラブ?ストーリー。
!注意!
初のオメガバース作品。
ゆるゆる設定です。運命の番はおとぎ話のようなもので主人公が暮らす時代には存在しないとされています。
バースが突然変異した設定ですので、無理だと思われたらスッとページを閉じましょう。
!ごめんなさい!
幼馴染だった王子様の嘆き3 の前に
復活した俺に不穏な影1 を更新してしまいました!申し訳ありません。新たに更新しましたので確認してみてください!

巻き戻りした悪役令息は最愛の人から離れて生きていく
藍沢真啓/庚あき
BL
婚約者ユリウスから断罪をされたアリステルは、ボロボロになった状態で廃教会で命を終えた……はずだった。
目覚めた時はユリウスと婚約したばかりの頃で、それならばとアリステルは自らユリウスと距離を置くことに決める。だが、なぜかユリウスはアリステルに構うようになり……
巻き戻りから人生をやり直す悪役令息の物語。
【感想のお返事について】
感想をくださりありがとうございます。
執筆を最優先させていただきますので、お返事についてはご容赦願います。
大切に読ませていただいてます。執筆の活力になっていますので、今後も感想いただければ幸いです。
他サイトでも公開中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる