もしも田中角栄がヒトラーに転生したら

ホカート

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第3話 スピーチ

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 総統専用列車「アメリカ号」はアルプスの山々を突っ切るように快速ぶりを発揮していた。なぜヒトラーが民主主義の本尊たるアメリカの名前を名付けたのか。人々は不思議に思ったが、1つの大陸を侵略せしめたアメリカ人への歪んだ憧憬に基づく、とのうわさがもっぱらだった。いわく欧州制覇に乗り出さんとする己を重ねようとしているとも。
 空はよく晴れ、野鳥の群れが飛んでいる。列車の振動は心地よい。まどろむには最高の環境だった。だが、角栄にそんな贅沢は許されなかった。
「総統、列車は午後3時にベルリンに到着しますが、そのままスポーツ宮殿に向かっていただきます。会場には1万を超える聴衆が入る予定で、前列には海外プレスを配置します。この演説をもって、総統の健在ぶりを世界に示していただきます」
 ゲッベルスは熱に浮かされたように角栄に迫った。
「この地は――今はお忘れかもしれませんが、1932年の大統領選であなたの出馬表明をわたくしが読み上げた会場でございます。覚えていらっしゃいますか。総統が立つと聞いた時の聴衆の歓声、今にも落ちそうな天井、まるで宮殿が生きたかのようにぐわんぐわんと揺れるさま・・・」
 角栄は長話が嫌いだった。
「よし、分かった」
「げ、原稿は僭越ながら用意させていただきました」
「分かった」
「ここが肝の部分でして」
「分かった」
 この男、俺のことを病み上がりの病人だと思って馬鹿にしているな。角栄は察した。頭の鈍い奴とみられるのは角栄にとって我慢ならぬことだった。
 公的な最終学歴は小学校卒業だったが、彼は兵役中、あらゆる分野の大学講義録を取り寄せて夜な夜な学んだ。その習慣は政治家になっても変わらなかった。家に帰ってひと眠りすると、深夜にパチリと目覚め、2時間ほど書類や本を読み漁って知識を蓄えた。
 周囲はこう噂した。「角栄は1日を1.5日分使い倒している」。そこまでしなければ、プライドの高い帝大卒の官僚たちを心から敬服させ、操縦することなど、叶うはずもなかった。
 上司の不機嫌ぶりに、言葉に詰まったゲッベルスは、では警備については彼に任せます、といって退散した。
 入れ替わりで入ってきたのは、病室でも見かけた狐顔の金髪男だった。
「ちょっとまだ記憶が怪しくてな、君の名前がなかなか出てこんのだが」
「国家保安本部長官のハイドリヒです」
 スンと答えたので、角栄はギョロリと凝視する。ウン、地頭が良すぎてこの世で一番自分が賢いと思っている類の男だな。ただ、それを態度で示してしまうあたりがまだまだ青いナ。
「馬鹿もんッ、そんなもんは分かっておる。下ではなく上の名前だ」
「ら、ラインハルト・ハイドリヒです」
「そうか、ラインハルト・ハイドリヒくんだったな。元気そうでよかった!」
 選挙でもよくやった手だった。困ったような表情を浮かべるハイドリヒの手を力強く握った。列車内は空調が効いているというのに、妙に寒々とした手だった。
「まず、ミュンヘンの事案につきまして、犯人は現在捜索中ですが、英国による総統を狙った暗殺作戦とみて間違いないと思われます。爆発に巻き込まれたヒムラー閣下は現在もなお意識不明の重体です」
 そういえば、俺がこの世界で目覚める直前、この体はミュンヘンの爆発事件に巻き込まれていた、らしい。その衝撃で数日間の間、意識を失っていたが、奇跡的にも目立った外傷はなかった。せいぜい、どこかのタイミングで中身が田中角栄に入れ替わったことぐらいだった。
「捜査はよろしく頼むがね。また、ドカンとやられるのは勘弁だよ」
 ラインハルトは会場の見取り図を広げた。
「会場は柱の1本1本の確認から、手荷物の検査まで徹底します。前方の席には党や軍の関係者の家族を、会場後方には万が一に備えて狙撃手も待機させます」
「よっしゃ。任せる」
 物わかりの良さにハイドリヒは呆気にとられた。おいおい、以前ならもっと細かく注文をつけてきたじゃないか。本当にあのアドルフおじさんか。
「もう出てっていいぞ。あぁ、演説が終わったらヒムラーの家に寄ろう。亭主が大変なときにゃ、上司が母ちゃんを慰めてやらんとな」
「はぁ」
 ハイドリヒは部屋を出ていく間際、内心ペロリと舌を出した。さぁて、オッサン、どれだけ今の立場が分かっているかな。爆発事件の後から、ヒトラーからかつての周囲を縮こまらせるような、独裁者たりうる血なまぐささが失われていた。それゆえに、党内でのヒトラーの絶対的地位はかすかに揺らぎ始めていたのをハイドリヒは機敏に察していた。
 病み上がりで、まともに頭も回っていない総統を無理やり演説させようとする党幹部連中の魂胆は透けて見える。誰も本音は言わないが、この機にヒトラーの権威を貶め、あわよくば引退に追い込み、世代交代を早めたい。そんなところだろう。
 戦争の真っただ中に醜い権力闘争をやるものだと呆れを通り越して感心する。まあ、俺は勝った方について行けばいい。ヒムラーが目覚めぬ今、ナチスの支配基盤を支える親衛隊は実質的に彼の手中にあった。上は間抜けの年寄りばかりだ。奴らが死に絶えれば、俺の時代はいずれ来る。
 そんな皮算用をしていると、突如、雷のような怒号が響いた。総統警護隊の隊員が驚きのあまりワルサーを床に落とした。
「ハーイードーリーヒーッ!戻ってこい!」
「な、なんでしょう」
 思わずかけ足になる。
「すまんすまん、一つ頼みがある。ちょっと耳を貸せ」
 内容を聞いて、ハイドリヒはいよいよ困惑の色合いを深めた。
 このオッサン、一体何をするつもりだ。


 スポーツ宮殿はもともとアイスホッケーやスケートといった冬季スポーツの振興を目的につくられた建物だった。ただ、ヴァイマル共和制が始まると、健康的な若い男女に変わって、いかめしい男たちばかりで出入りするようになった。収容人数1万を超えるこの宮殿は、ナチスをはじめとした主要政党にとって(ナチスが禁じるまではこの国にもまともな野党があった)、集会会場としてもってこいの場所だったからだ。
 開戦以降、宮殿への人足は遠のきつつあったが、この日は違った。入口には長蛇の列が形成され、開場から1時間足らずで満杯となった。
 演台には巨大なハーケンクロイツ入りの垂れ幕がかかり、国章の鷲を象ったライヒスアドラーの彫刻が壁に配された。演台の傍らには、党本部「褐色館」から厳重に運ばれてきた「血染めの党旗」が掲げられている。ミュンヘン一揆の折に1人の突撃隊員の血を浴びたナチ党における聖遺物だった。
 ホルスト・ヴェッセル・リートの演奏が終わると、唐突に会場のライトが消えた。人々のざわめきがふっと静まる。次の瞬間、再び灯されたかと思えば、演台にはヒトラーの姿があった。
「みなさんッ。ご心配をおかけしました」
 ジロリと会場を眺めわたし、数秒の空白時間をつくる。固唾をのむ聴衆に向かい、ややあって、「私が、アドルフ・ヒトラーでございます」と続けた。
 会場には顔、顔、顔。緊張感と期待感が入り混じる。角栄は天井に視線をやって間を置くと、世間話でも切り出すように話し出した。
「えー、イギリスの新聞がね、ヒトラーはミュンヘンで死んだなんて書いたそうでございますが、わたくしは見ての通り、健在であります。だいたい、新聞には真実なんか載っていないッ。本当はうまいビールを一杯やってから、先ほど帰ってきたところです」
 マイクを通して、そのだみ声が1万人の耳に響き渡る。聴衆からざわめきが漏れた。「総統はこんな話し方しない。それにお酒なんか飲まないわ」と熱烈なナチ支持者のさる高官夫人が顔を振る。SSに友人のいる彼女の夫は「めったなことを言うな。総統は頭を強く打たれたんだ」とたしなめた。
「ヒトラーは死んだなんて書く新聞は、わたくしに死んでほしいと思っているからでしょう。まァねェ、私が気に入らないならね、爆弾でも毒ガスでも持ってきて、殺せばいい。しかしッ、私を殺せるのは怪しげな外国の工作員ではない。私の生殺与奪を握るのは、ドイツ国民のみなさんです。ヒトラーを殺すにゃ刃はいらぬ。一票入れなきゃ即死する、だッ」
 夫人だけではない。その場にいた角栄を除く全員が、違和感を抱いていた。しかし、誰一人として席を立たない。誰一人としてヒトラーから視線を離さない。
「戦争がいま始まっています。これは一刻も早く終わらせなければいけない。血を流すのは、先の大戦、我々の世代だけでもう十分でありました。しかし、残念ながら、再び戦争が起きてしまった。こうなった以上、負けるわけにはいきません。ヴェルサイユは二度とごめんだッ。これはベルリンのインテリだろうが、バイエルンの農家だろうが、思いは同じです。そうでしょう、みなさん」
 壇上脇にいたゲッベルスの顔色は真っ白になっていた。こいつ、何を口走り始めやがった。そう言いたげな表情でもあった。実際、角栄はゲッベルスの原稿を一読せずにアメリカ号の車窓から捨てていた。
「戦争の指導者で最もタチが悪いのはどういう人種か。みなさんご存じですか。兵器の数値や名前を自慢げに並べる政治家がおりますが、こういう手合いが一番いけない!私が可愛がっていた若い議員にもね、まあねっとりと喋る男でしたが、そういう癖があったので叱り飛ばしてやったことがあります。戦艦の主砲の口径や戦車の装甲厚を暗記しても、戦争は勝てるわけがない!政治家たるもの、小川で遊んでいちゃいけませんよ。大河を前に泰然自若としていなきゃいかんッ」
 関係者席に座っていた陸海軍のトップ、ブラウヒッチュとレーダーが顔を見合わせ、絶句した。
「そして、戦争が終わった後のこともわたくしは考えております」
 ここで角栄は、ハーケンクロイツ入りの垂れ幕を思い切り引っ張った。すると背後に巨大な欧州の地図が姿を現した。
「みなさんッ!ドイツとフランスの間には何がありますか」
 聴衆は無言で応じる。
「そう、ヴォージュ山脈であります。このヴォージュ山脈をダイナマイトで吹っ飛ばすのです。そうしますと、フランスのマジノ線は平地にずり落ちてドイツに砲火は向かなくなる。ナニ、出てきた土砂はどうするのかって。土砂はドーバー海峡に運んでいって埋め立てに使えば、英国とは陸続きになるのでありますッ!戦争なんかさっさと終わらせて、我々の手で欧州改造に乗り出そうじゃありませんか!」
 しばしの静寂。1人の老人が我慢をこらえきれずにクスリと笑い、そして意を決したように拍手をした。2人、3人と続く。次第に会場は熱を帯び始め、会場は雷のような拍手に包まれた。
「笑いごとではないッ!いや、笑いの中に真実がある」
 拍手が続く中、突然、壇上に黒服に身を包んだ親衛隊員が駆け上がった。小さなメモ紙をヒトラーに渡し、耳元で何かささやく。なんだなんだと聴衆はつばを飲み込んだ。
 ヒトラーはメモ紙を一瞥すると、くしゃくしゃに丸めて、ぽいと投げ捨てた。
「皆さんね、今、親衛隊の若いのがきましてね。次の予定があるから、そろそろ演説を終了してください、なんて言ってきた。馬鹿なこと言うんじゃないヨ!これだけの皆さんが来てくださっているんだ。これで帰れますか。帰れるわけねぇでしょう。ねェ!」
 そして、ニカッと白い歯を見せた。
 聴衆全員が立ち上がり、歓声が沸き起こった。角栄は全身に汗をかきながら、満足そうに笑った。
 流儀は違うかもしれないが、演説の回数は元の人格に負けるつもりはなかったし、上回っている自信もあった。それに、握手を交わした有権者の人数も。大体、聴衆1万人がなんだ。角栄来たるとなれば新潟の田舎でもそれぐらい集まるゾ。ちょいと、本気を出すには少なすぎたな。

 会場最後方にいたハイドリヒは苦笑した。オッサン、よぅやるわ。親衛隊員の手配は、ヒトラー自身によるものだった。そもそもの役者が違うわなと、うなだれる党幹部たちを憐れんだ。
 この日、あわよくば、と助平根性を露わにしていたヒトラーの側近たちの多くは、家に帰った後、やけ酒をした。上司の性格が豹変してしまったが、どうやら当分失脚することはなく、仕え続けるほかなさそうだった。
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