富士見の丘で

らー

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エピローグ.将太

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「母ちゃん、俺、ちーちゃんに報告してくるわ」

 紺色のリクルートスーツを身に着けた山崎将太は、キッチンにいる母親の山崎佳奈に声を掛けた。

「いってらっしゃーい。あ、そうだ。将太、ちょっと待って。ちーちゃんにポモロン持ってって」

  将太は「りょーかーい!」と返事をして、ビニール袋を手に外へ出た。

 難しい試験と何度かの面接を経て、今日やっと第一志望の会社に内定をもらえた。小さい頃のプロ野球選手になるという夢は叶えられなかったが、野球用品も扱うスポーツメーカーだ。応援してくれたちーちゃんには直接会って伝えたい。

 気持ちがはやり、緩やかな坂道を早足で登る。春の陽気というより夏のような日差しが降り注ぎ、じんわりと汗をかいている。将太は富士見の丘まで来ると一息ついた。

 ちーちゃんに初めて会ったのも、こんな風によく晴れた気持ちのいい日だったなと、15年も前のことを思い出す。

 母ちゃんにダメって言われたけど仔猫をどうしても飼いたくてさ。ちーちゃんが仔猫を拾って「いつでも遊びに来ていいよ」って言ってくれて、すごい嬉しかったんだよなぁ。

 将太は小学生の頃の自分を思い出し、クスッと笑った。



「こんちはー」

 勝手知ったる様子で将太は千勢の家に上がる。キッチンの流し台にビニール袋に入ったポモロンを置く。

「ちーちゃーん、将太が来たよー」

 返事がない。出掛けているのだろうか。いや、外出する時は鍵を掛けているはずだ。

「ちーちゃん? みーちゃん?」

 縁側のイスに座っている千勢を見つけた。70歳の古稀のお祝いに山崎の家族みんなでプレゼントしたロッキングチェアだ。

「なんだ。ちーちゃん寝てたの」

 起こしてはいけないと思って後ろからそーっと近づき、寝顔をのぞき込んだ。

「えっ!?」

 嫌な違和感がして胸がドキッとした。

「ちーちゃん!?」

 叫びながら肩を揺する。右腕がだらりと垂れ下がった。慌ててその手を握る。冷たい……。

「なに!? ちーちゃん? やだっ! ちーちゃん起きてよ!」

 頭が混乱する。何がどうなっているんだ。ハッと膝の上で丸くなっているミルクに気が付いた。

「みーちゃん。ちーちゃんが……」

 ミルクを起こそうと柔らかな毛に触れる。固い……。

「えっ!? みーちゃんも!?」

 うっ……。将太は膝から崩れ落ちた。

「うわぁーーーっ!!」

 ぶわっと涙が溢れ出した。ぼろぼろと滝のように流れる。何度も「ちーちゃん!」と叫ぶ。

「どうしよう……。あぁ、母ちゃんに連絡しないと」

 涙をスーツの袖で拭って震える手でスマホを操作する。

「はいはーい」

 いつもの明るい声が電話口から聞こえた。「うっ……」。母ちゃんに何と言えばいいのだろうと、言葉に詰まった。ズズッと鼻水をすする。

「ちーちゃんに何かあった?」

「……う、動かない」

「えっ!? すぐ行く! 救急車は?」

「まだ何も。ズズッ」

「母ちゃんが連絡しておくから」

 プッと通話が切れた。その音で急に不安に襲われた。

「俺、どうしたら……」。頭を抱えた。うろたえながらも佳奈が来るまで何か出来ることはないかと顔を上げた。

 テーブルの上に白い封筒が置いてあるのが目に付いた。よく見ると「将太君へ」と宛名が書いてある。「俺?」と思いながら急いで開封する。


~~~~~

  将太君へ

 将太君お元気ですか? 驚かせてごめんなさいね。

 私のことを最初に見つけてくれるのは、きっと将太君だと思うから手紙を残します。

~~~~~


 まるで今の状況を予言していたかのような書き出しに驚く。

「なんだよ、この手紙。死ぬ準備してたみたいじゃんか。ぐすっ」

 将太は縁側のイスの横に来て胡坐をかいた。千勢のそばで手紙の続きを読もうと思ったからだ。


~~~~~

 将太君に謝らなければならないことがあります。

 初めて富士見の丘で会った時のこと、覚えているかな? 将太君は捨てられていたみーちゃんのことが心配で見に来ていたでしょ。

 実は、私、みーちゃんを飼うつもりはなかったの。勝手に家まで付いてきたみーちゃんを富士見の丘に戻しに行った所だったのよ。

 でも将太君の笑顔を見ていたら「飼わない」なんて言えなくなっちゃって。

 ずっとウソをついていて、ごめんなさい。

~~~~~


「ウソって…」

 俺、ちーちゃんの笑顔見て、いい人に拾われて良かったなって思ったんだよ。

「結局、飼うことにしたんだからウソじゃないだろ。こんなの謝んなくていいよ」


~~~~~

 あの時、将太君に出会えて本当に良かった。みーちゃんに出会えて本当に良かった。

 あの日は私の60歳の誕生日でね、人生で最高のバースデープレゼントだったと思うの。

 実はね、笑われるかもしれないけど、みーちゃんは稔さんの生まれ変わりなんじゃないかって、ずっと信じてた。

 だから将太君、お願いがあります。みーちゃんを最後までお世話してくれませんか?

 みーちゃんは随分おじいちゃんになったけど、懐いている将太君のもとなら安心して暮らせると思うの。

~~~~~


 涙で文字が読めない。嗚咽も止まらない。

「みーちゃんは……。みーちゃんも、一緒に旅立っていったよ。なんだよ、仲良すぎだろ。最期まで一緒なんて」

 動かなくなってしまったミルクをなでる。

 俺、みーちゃんは、ちーちゃんを守っているんだなって思ってた。

 ちーちゃんが家で倒れた時があったよね。みーちゃんが畑まで助けを呼びに来たんだ。なぜだか分からないけどみーちゃんを見て「ちーちゃんが大変だ!」って思ったんだ。今思うとテレパシーみたいだよな。

 俺、みーちゃん大好きだったよ。みーちゃんと遊ぶの、ホント楽しかった。でもさ、それ以上にみーちゃんをとても愛おしそうにかわいがる、ちーちゃんを見るのが嬉しかった。子ども心に幸せな時間だなって思ってた。


~~~~~

 あと、お見舞いで塗り絵セットをプレゼントしてくれてありがとう。塗り絵がきっかけで水彩画を始めて、第二の人生は充実したものになりました。

 大好きな稔さんを失って絶望の中で富士見の丘に引っ越してきたけど、将太君やみんなに出会えて幸せな日々を過ごせました。

 大好きなひとが、大好きなものが、大好きなことが、たくさんあると本当に楽しい! 将太君も「大好き」を大切にしていってくださいね。

 最高の人生でした! ありがとうございました。

 楠木千勢

~~~~~


 あぁ……。本当にお別れなんだ……。

 将太は立ち上がってテーブルに置いてあった楠木千勢著の水彩画集『富士見の丘で』を手に取った。

 表紙には富士見の丘で佇むミルクが優しいタッチで描かれている。ミィーと鳴いていた仔猫の頃のみーちゃんだ。

「ちーちゃんの第二の人生は、ここから始まったんだもんね」

 表紙を開くと「蓮始開」と題された瑞雲寺の蓮池があらわれた。この水彩画が新聞社主催の絵画コンクールで優秀賞を受賞したのだ。それをきっかけに画集を出版したり、ギャラリーで個展を開いたり、ちょっとした画家として活躍した。

 画集には「紫陽花守り」や「おしょろ塚の百合」「重陽に菊酒」「ポモロンの夏」など四季折々の草花の水彩画が収められている。

 図鑑のような植物だけの絵ではなく、丹沢に残る風習や日本の伝統行事を取り入れた作風が人気になったのだ。

 そして画集の最後には、家の隣にある楠の大木とミルクを描いた一枚。「ついのすみか」とのテーマに、千勢の人生が表現されていると思った。

 すべてを見終えると、将太は画集の下にいくつもの手紙があるのに気付いた。一番上の封筒には「佳奈ちゃんへ」とある。父親の昇や妹の優愛と弟の健太、瑞雲寺の涼安和尚も。石田のじいちゃんの孫の佑樹宛てもある。知り合い全員に手紙を残したのだろうか。


 ギュッと車を停める音がして、バタバタと佳奈が部屋に入って来た。もう目が真っ赤だ。

「ちーちゃん!」

 佳奈はロッキングチェアに横たわる千勢に抱きついた。

「ちーちゃん、目を開けてよ。いっちゃヤだよ、ちーちゃん!」

 千勢の胸元に顔を埋めて泣きじゃくる。名前を呼び続ける。

 母ちゃんの泣く姿、初めて見た……。少し気が強い所が玉にキズだが、明るくて元気な人だ。いつも母ちゃんのふざけた冗談をちーちゃんは「ふふっ」と笑って包み込んでいた。

 それはまるで本当の親子のようで、何でも話せる親友のようで、羨ましいくらい仲がよかった。

 今にも「佳奈ちゃん、おもしろい」ってちーちゃんの声が聞こえてきそうだ。

 ちーちゃん、だめだよ。最後にこんなに泣かせたら。母ちゃんを悲しませないでよ。


「母ちゃん、ちーちゃんの手紙が……」

 将太は封筒を差し出した。佳奈は「えっ?」と驚いて開封する。

 将太は、「うっ」と嗚咽しながら無言で読む母親を見守った。佳奈は読み終わってため息をふぅと吐くと、将太に手紙を渡した。おずおずと紙を開く。


~~~~~

 佳奈ちゃんへ

 佳奈ちゃんお元気ですか? きっと元気ね。

 佳奈ちゃん、今まで本当にありがとう。

 いつも「ありがとう」って伝えているつもりだけど、言葉では全然足りないくらい感謝しています。

 いっぱいお礼を言うことがあるけど、一番はやっぱり生きる勇気をくれたこと。

 子宮がんの手術を迷っている時に佳奈ちゃんが話を聞いてくれて、励ましてくれて手術を受ける決心がつきました。

 生まれたばかりの健太君を抱っこできたのは、治療をがんばったご褒美だったと思っています。

 大げさだと言われるかもしれないけど、佳奈ちゃんが第二の人生をプレゼントしてくれたと思っているのよ。

 その後、山崎家みんなで富士山に一緒に登ってくれて嬉しかった。佳奈ちゃんが「富士山に登ってみたい」って言ってくれなかったら、毎年毎年、富士山に行くことは出来なかったと思う。


 大好きな稔さんを失って絶望の中で富士見の丘に引っ越してきてけど、佳奈ちゃんやみんなに出会えて幸せな日々を過ごせました。

 大好きなひとが、大好きなものが、大好きなことが、たくさんあると本当に楽しい! 佳奈ちゃんも「大好き」を大切にしていってくださいね。

 最高の人生でした! ありがとうございました。

 楠木千勢

~~~~~

 最後は将太の手紙と同じ言葉で締めくくられていた。

「ちーちゃんさ、いつもありがとう、ありがとうって言ってた気がするね」

「ホント。私の方こそありがとうって言い足りないのに」

 佳奈がズズッと鼻をすすりながら「あのね」と話し始めた。


「将太はまだ小学生だったから知らなかっただろうけど。手紙にもあるように、ちーちゃんが入院したことあったでしょ。ちーちゃんね、がんの手術が成功したら富士山に登ろうって約束していたのは夫の稔さんだったの。でも、手術する前に稔さんは交通事故で亡くなってしまって……」

「そう……だったんだ」

 ちーちゃんがやたら富士山にこだわっていた理由がやっと理解できた。夏になると必ず千勢と山崎家で一緒に登った富士山。将太は中学・高校で部活動があっても、大学生になりバイトで忙しくても時間を作って登山に行った。

 少しはちーちゃんの役に立てたのかな。

「私も後から聞いたんだけどね、ちーちゃん、引っ越してきた頃は手術をせずに死ぬつもりだったって。稔さんに早く逢いたいって」

「稔さんの思い出はよく聞かされたよ。『この料理、稔さんが好きだったの』とかさ。ちーちゃんは本当に稔さんのことが好きなんだなって思ってた」

 将太は茶箪笥の上に変わらずにある千勢と稔の二人の写真を見た。

 それを囲むように富士山の山頂で撮った家族の写真がいくつも飾られている。後ろの壁には千勢が描いた、富士見の丘から見える富士山の絵も。それはまるで富士山のふもとに集合しているようだ。

 将太は改めて部屋を見渡した。

 居間の奥には飾り棚が増え、色々な思い出が詰まっている。絵画コンクールのトロフィーと表彰状。将太や優愛、健太が修学旅行で買ってきたお土産。佑樹が漫才コンテストで優勝してお祝いパーティーを開いた時の写真。2年前に亡くなった石田のじいちゃんもいかつい顔をして一緒に写っている。

 花も欠かさず飾られていた。今はツツジかサツキか分からないが鮮やかなオレンジ色の花が花瓶にささっている。

 縁側に目を向けると画集『富士見の丘で』の表紙になったミルクの水彩画がある。他にも部屋の壁には所せましと千勢が描いた絵が掛けられている。


「最初の頃はがらんとしていたのにな」

 千勢の家に遊びに来た当初は、部屋には何もなかった。自分の家とあまりにも違うので 何気なく「どうして何もないの」と聞いたのを思い出した。ちーちゃんは「大切なものは消えちゃったの」と切なそうな顔をしたのを覚えている。

 ちーちゃん、いつの間にかさ、こんなに宝物でいっぱいになったじゃん。

「ちーちゃん、すごいよね」

 思っていたことがポロリと漏れた。

「うん。ちーちゃんは、立派に生きたよ」

 佳奈は涙を拭い、きっぱりと言い切った。

「今ごろ稔さんに逢えて喜んでるかな」

「きっと泣きながら喜んでるよ」

 将太は佳奈と顔を見合わせて、ふふっと笑った。

「ちーちゃん、大好きだったよ」

 佳奈が千勢に向かって話しかけた。

「俺も、ちーちゃん大好きだった」

 遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。

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