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34.帰り花
しおりを挟む昇に車で送ってもらい、2日ぶりに楠木の家に戻って来た。寝ていた布団はきちんと畳まれ、薬を飲んだコップも洗ってあった。佳奈が荷物を取りに来た時に片付けてくれたのだろう。
引っ越しの際に断捨離して必要最低限の物しか置かれていない部屋が、急に殺風景に感じられた。そうだ、と思って病院で描いた水仙と椿の塗り絵を茶箪笥の上に飾ってみた。
「こんなもんかな」と独りつぶやく。足元でミルクがミィーとひと声鳴いてから、前足を前に出して気持ちよさそうに体を伸ばした。とことこと歩いて行き、縁側の定位置で丸くなった。普段の生活が戻って来た感じがする。
「やっぱり、わが家が一番よね」
ミィー。しゃがんでミルクの頭をなでる。
「みーちゃん、大きくなったね」
富士見の丘で初めて見たミルクは歩くのもおぼつかないほど小さかった。あれから半年。よく食べよく寝てよく遊び、すくすく育って大きくなった。怪我をした時は、この小さな命を守らなければと必死になったが、今回はミルクに千勢の命を救ってもらった。
「本当にありがとね」
ミィー。どういたしまして、と返事をしてくれる。ここでお茶でもいれてひと息つきたいところだが、千勢は「よしっ」と声を出して立ち上がった。
稔に会いたい。一刻も早く報告したい。
「みーちゃん、ちょっとお墓参りに行ってくるね」
稔の墓参りは昨日と一昨日は来られなかった。今まで一日も欠かすことがなかったのに。きっと稔も待ちくたびれてしまっただろう。
瑞雲寺に着くと涼安和尚が参道を竹ぼうきで掃除していた。足元には落葉の山が出来ている。
「和尚。こんにちは。精がでますね」
「楠木さん、お久しぶりです。入院されていたそうですね。お体の具合はいかがですか?」
「ご心配をお掛けしました。もう大丈夫ですよ」
「もう霜降になりましたね。最近は暖かいからまだ霜は降らないでしょうけど、朝晩は冷え込みますからお体に気を付けてくださいね」
「ええ。霜始降花(しもはじめてふる)ですね。もう掲示板を見なくても分かりますよ」
「すごい。勉強されていますね」
「はい。私、この霜始降花の〝花〟の字がなんか好きなんですよね。〝しもはじめてふる〟って花の部分は読まないじゃないですか。だけど確かに霜の結晶って花のように見えますよね。しかも暖かくなればスーッと消えてしまって、花よりもはかない感じがします。昔の人の感性って素敵だなって思うんです」
「素敵ですね。楠木さん、なんとなく憑き物が落ちたような清々しいお顔をされていますね」
「そうですか? なんか自分でも生まれ変わったような心地です」
霊園への階段を登る途中で、木の枝に花が咲いているのを見つけた。通路とは反対側の陽のよく当たる方へ伸びた枝の先にぽつりぽつりと4、5輪あるのは薄紅色のサクラ。帰り花だ。ここ数日、暖かい日が続いたため桜の木も季節を勘違いしたのだろう。
千勢は貴重な発見をしたというハッピーな気持ちで花に顔を近づけた。盛りの頃に比べると貧相で不格好な感じがするが、それがかえって愛らしい。
帰り花には他にいくつかの呼び方があって、それぞれ花への〝想い〟が違うように感じる。
季節外れの花は狂っているのか「狂い花」。
過ぎ去った〝春〟に戻りたいのか「戻り花」。
忘れ去られた花を嘆いているのか「忘れ花」。
全部違う気もするし全部当てはまる気もする。名前を付けるのは人間の勝手で、花は自然の寒暖に合わせて懸命に生きているだけだ。それで十分だと思う。
楠木家之墓の前に来て、千勢はまず手を合わせた。手早く墓の掃除を済ませ、線香の束から1本取り火をつける。煙が風にたなびく。
「稔さん、私ね、子宮がんの手術、受ける決心をしたから」
話しかけても、もう稔の返事は聞こえない……。分かっている。稔の声は千勢の願望がつくり出した妄想だということを。
だけど稔ならきっと「ちーちゃん、がんばれ」と応援してくれるだろう。大好きだった稔のクシャッと笑った顔が浮かぶ。
この人さえいれば、誰も何もいらない――。稔からプロポーズされた時に思った、千勢の人生において最大で唯一の願い。
稔の笑顔を見ることが幸せだった。ずっと見ていたいと思っていた。
いつも稔のことを一番に考え、稔の都合に合わせていた。稔の笑顔を見るために稔に尽くした人生だった。それは、本当に幸せな時間だった。
稔は、千勢と結婚して幸せだっただろうか。
「手術が成功したら稔さんとの約束通り、富士登山に挑戦しようと思う」
子どもがいないこともあり、友達感覚の強い夫婦だった。どこへ行くにも何をするにも一緒だった。ありふれた表現になるが、2人で一つだった。
千勢も稔も弱い人間だった。1人では立っていられなかった。だから支え合った。
支えがなくなって千勢は倒れた。そのまま朽ち果てるのを待っていた。そんな千勢を富士見の丘で出会った人達は温かく包み込んでくれた。立ち上がる勇気が内側から膨らんできているのに気付いた。
「闘病生活は大変だとは思うけど、独りじゃないから大丈夫よ」
家族ではなくても、信頼して話ができる人がいるのは何と心強いことだろう。
家族ではなくても、笑って食事ができる人がいるのは何と安らぐことだろう。
富士見の丘に来てからの出来事を思い出す。ミルクに出会ったことで人生が大きく変わった。
取れたてトマトの美味しさを知った。山崎一家で食べたご飯に心が温まった。二十四節気七十二候を知ることに喜びを感じた。蓮の花の優美さに胸が揺さぶられた。汗して働くことに充実感を覚えた。お金を稼ぐことの意義を考えた。おしょろ塚に込められた祈りを受け継いでいこうと思った。台風の猛威に震えた。一周忌の夜に見た澄んだ月に心が洗われた。
丹沢の豊かな自然の中で、生きるために大切なことを教えてもらった。
「あと、絵を描いてみようと思うんだ。お見舞いで塗り絵セットをもらって試しにやってみたら夢中になっちゃって」
塗り絵を描き上げた時に心から思った。「私はこれから自由なんだ」と。
稔との生活は1人でいる時間はあったが、自分のためだけの時間がなかった。稔に合わせることで知らず知らずのうちに自分の気持ちを押し込めていたのだろう。
だからといって稔のために尽くした人生を後悔している訳ではない。この先、独りでも楽しんで生きていけるという希望が湧いてきたのだ。
これからは好きなことを好きなようにできる。この自由は稔からの最後のプレゼントなのかもしれない。一生懸命に稔のために生きた、人生のごほうび。
「だから、稔さんに逢うのはもう少し先になっちゃうけど、待っていてね」
後ろを振り返って、うっすら雪化粧を施した富士山を遥かに望む。朝は澄み切った青空だったが、午後になって少し雲が多くなってきた。
時間によっても季節によっても、富士山は何度見ても違う表情を見せてくれる。けれども変わっていくのは人間の方なのかもしれない。
古くから神が宿る山として信仰の対象だった富士山。長い年月、多くの人の想いを受け取ってきただろう。
富士山は変わらずそこにある。あり続ける。
「これからは楠木千勢としての人生を、この富士見の丘で歩んでいきます」
千勢は、稔のお墓の前で千勢自身のために力強く宣言した。
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