富士見の丘で

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33.乾杯

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 新松木病院に入院して3日目、千勢は退院することになった。朝ご飯を食べ終えてすぐに手続きを済ませ、身の回りの荷物をまとめた。

 この病室に来てからすごく時間が経ったような気もするが、退院するとなると3日間は案外あっけなかった気もする。とはいえ本格的な治療はこれからだ。昨日、東京にある総合病院に連絡をして来週の頭に診察の予約を入れた。

 迎えを買って出てくれた佳奈とは11時に病院のロビーで待ち合わせをしている。千勢は荷物を持って一礼して、部屋を後にした。

 ロビーのソファに腰掛けて、何とはなしに行き来している人々を眺めていた。廊下では千勢と同じ年代の女性が点滴を支えにしてゆっくりと歩いている。待合室では白髪の老人が名前を呼ばれて妻と思われる女性と共に診察室へ入っていく。出入口では中学生か高校生くらいの少年が松葉杖をぎこちなく操って一歩一歩進んでいく。「みんな未来に希望をもって病気や怪我と闘っているんだな」。当たり前過ぎることを考えている自分に驚いた。

 そのなかで佳奈の姿を見つけた。千勢は手を上げて合図する。後ろから昇も一緒に来るのが見えた。「いた、いた」と早歩きで近づいてくる。

「ちーちゃん、退院おめでとうございます!」

 目の前まで来ると2人揃って元気にあいさつした。まだ病気が完治した訳ではないが、千勢はひとまず「ありがとうございます」とお礼を述べた。

「ちーちゃん、お昼ご飯はウチで食べて行きません? ちょっとした退院祝いです」

 駐車場に停めてある車まで歩きながら、佳奈が提案した。

「そんな、お祝いなんて。でも、佳奈ちゃんのお料理美味しいから、ご馳走になろうかな。将太君と優愛ちゃんにも会いたいしね」

「よかったぁ。帰りがけに優愛を保育園に迎えに行っていいですか? 将太も家に着く頃には小学校から帰ってきていると思います」

 千勢は予想外のパーティーにワクワクした。佳奈はまるで家族のように温かく迎えてくれる。でも、千勢の〝家族〟も待たせているのが気になった。

「だけど、みーちゃんも早く迎えに行かなきゃ」

 そこで会話を黙って聞いていた昇が「いや……」と口を開いた。

「石田のじいちゃん、なんかみーちゃんと離れがたくなったみたいで、迎え来る前に話したら『なるべく遅い時間にしてくれや』って言ってました」

 おはははっ。3人同時に笑った。佳奈が「石田のじいちゃん、かわいい」と表現すると昇も「素直じゃないけど、分かりやすいですね」と分析する。

「そういうことなら、石田さんにもう少し預けようかな」

「じいちゃん、喜びますねー」。佳奈の言葉にニヤリと笑う石田の顔が浮かんだ。





「わぁ! ちーちゃーん! 退院おめでとう!」

 将太が帰宅するやいなやランドセルも降ろさず、千勢の首元に抱きついてきた。

「ありがとう、将太君。ふふ」

 優愛も先ほどからソファに座った千勢の膝の上で遊んでいる。血のつながりの全くない2人だが、こんなふうに甘えられると孫のために財布の紐がゆるくなる祖父母の気持ちが存分に分かるというものだ。

「将太、荷物置いて手洗いしてきて。そしたらパーティー始めましょう!」

 テーブルには自家栽培の野菜を使った佳奈の手作り料理がずらりと並ぶ。いつもの大皿のおかずではなく手軽につまめるように小分けにしてあって、盛り付けも華やかだ。

 メインは自慢のポモロンを使ったトマトソースの煮込みミートボール。取れたての新鮮な秋ナスのチーズ焼き、熟成させて甘味を増したカボチャのコロッケ、肉厚なシイタケのアヒージョなど、野菜を主役にしたメニューが続く。さらにひと口サイズの手まり寿司。マグロやサーモンにキュウリ、シソなどで細かく飾られていて手の込んだ一品だ。最後のデザートにベリーが乗ったプチカップケーキまで用意してある。


「すごーい! 佳奈ちゃんさすがね。ありがとう」

「どういたしまして。私、山崎佳奈、腕によりをかけて作らせて頂きました!」

 抱っこしていた優愛を子ども用チェアに座らせて、千勢はテーブルに着いた。昇がコップにみんなにドリンクを注ぐ。将太はお手伝いで小皿やお箸を配る。

「ではでは、改めまして。あ、こういう時は昇にあいさつしてもらわなきゃ」

「え? 俺? いや、主役はちーちゃんでしょ?」

「あら? えーっと? みなさまお忙しい中お集りいだだき……?」

 急に振られて千勢は困惑してトンチンカンなあいさつになりかけた。

「あは。違うか。じゃ俺が。うんっ。ちーちゃんが倒れてるって聞いた時はビックリしました。でも、将太がみーちゃんに気づいて早めに助けられて本当によかった。将太、えらかったぞ」

 昇が隣に座る将太の頭をグリグリとなでる。将太が嬉しそうに「うん。みーちゃんも」と笑う。

「だけど将太、ちーちゃんが入院している間は寂しそうだったな。うん、俺も毎日のように会っていたちーちゃんがいなくって寂しかった。たぶん佳奈も。優愛もかな? ちーちゃんがこんなに近い存在になっているって気付いてなかった。いつの間にか家族になっていたんだよな」

「やだ、話が長い……」と佳奈がしんみりとつぶやく。思わず目頭が熱くなった千勢は、照れを隠すように「乾杯しましょ、乾杯」と明るく言った。

「ごめん、ごめん。では、ちーちゃん。退院、おめでとうございまーす!」

「かんぱーい!」

 大人たちはノンアルコールビール、子どもたちはジュースで乾杯する。千勢はまずミートボールに箸をつけた。

「うーん。美味しいー」

 千勢の心の底からの言葉が感嘆のため息と同時に出てきた。程よい弾力のミートボールの中からジュワーッと肉汁が溢れ、ポモロンの濃厚なトマトソースが引き立てている。

 病院食は決して不味い訳ではなかったが、なんとも味気なかった。それに比べて、比べるのは失礼かもしれないが、何と美味しいのだろう。ナスもカボチャもシイタケも、さらに手まり寿司も、次々と口に運ぶ。

 料理を食べて美味しいと感じる。それは本当に幸福なことだと、月並みだけれども千勢はしみじみと感じ入っていた。

「そういえば、ちーちゃんに1個、報告があるんですけど」

「ん? なぁに?」

「もしかしたら、私の猫アレルギー、治ったかもしれないです」

「治るの? 猫アレルギーって」

「まだ分からないんですけど。ちーちゃんが倒れた時、救急車が来るまでみーちゃんはずっとペロペロと舐めていて」

「みーちゃん……」

「でも救急隊員の人がちーちゃんをみている間、じゃましちゃいけないと思って抱っこしてたんですね。その時は必死だったんですけど、その後、なぜかアレルギーの症状が出なかったんですよ」

「えー、大丈夫だったの?」

「そう! 調べてみたら慣れっていうのもあるみたいです。もしかしたらみーちゃんだけかもしれないけど」

「だとしたらよかったわね! でも『誰?』ってなる完全防備の姿をもう見られないのは残念だけどね」

「やだっ。あれ大変なんですよ。もー」




 退院祝いの宴が終わってしばらく山崎家で寛いだ後、ミルクを引き取りに石田の家にお邪魔した。その後に車で千勢の家まで送ってもらうため、昇も一緒だ。

 玄関を開け「ごめんくださーい」と声を掛ける。するとミルクが廊下を勢いよく走ってきて、千勢の胸元に飛びついた。

「みーちゃん! 助けてくれてありがとう。大好き!」

 きゅっと両手で抱きしめる。温かい。みーちゃんの匂いに安心する。グルルルルゥ。グルルルルゥ。ノドを鳴らしながら懸命に頭をこすりつけてくる。

「さみしかったね。ごめんね」

 ミルクが千勢の異変に気付いて助けを呼んでくれた。ミルクがいなかったら千勢は倒れたまま孤独死をしていたかもしれない。恩人ならぬ恩猫と言っていい。

 それなのに、ミルクからしたら突然ご主人様がどこかへ行ってしまって、見も知らぬ家に連れてこられたのだ。たった3日間だとしても、さぞかし寂しかったろう。

「なんだよ。やっぱり本物の飼い主のほうがいいのかよ」

 のそのそと現れた石田は恋人を取られたような表情で皮肉たっぷりに言い放った。

「石田さん、みーちゃんを預かって頂き、ありがとうございました!」

「で、もう体の方は大丈夫なのか?」

 石田が気遣ってくれるなんてと千勢は少なからず驚いた。

「ええ。おかげさまで。それで、おまんじゅうはまた改めて作ってきますが、これ、よかったら受け取ってください」

 お世話になったお礼にと入院中に描いた百合の塗り絵を差し出した。プレゼントしようと決めてから、紙の余白に小さく寝そべっているミルクも描き加えた。

「ん? どうも」

 受け取りはしたが石田はやはり素っ気ない。その代わり、後ろでやり取りを見守っていた昇が声を上げた。

「百合? すげー上手くない? これ塗り絵のやつですか? 色鉛筆で?」

 テンションが上がった昇につられるように、石田も百合の絵に感心し始めた。

「はぁー。これ、色鉛筆で描いたのか? 猫ちゃんもいる」

「将太君たちが塗り絵セットをプレゼントしてくれたから、暇つぶしに描いたんですよ」と謙遜する。

「ちーちゃん、何かのコンクールに応募したらどうですか? 絶対に賞とりますよ!」

「そうだな。これだけ上手いんならな」

 昇と石田が次々と褒め称える。今さらコンクールで賞をとろうとは思っていないが、塗り絵や水彩画は続けていきたいなと思っている。

「そうですか? 今度、考えてみますね。じゃあ、そろそろ……。本当にありがとうございました」

 褒められすぎてむず痒くなって、千勢は後ろを向いて引き上げようとした。石田が「あのさ」と千勢の背中に向かって声を掛けた。

「ウチの婆さんの名前、百合子ってんだ。大切にするよ」

 石田の最後の言葉がじんわり胸に響いた。それは喜びだった。
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