富士見の丘で

らー

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32.百合

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 パラパラと『大人が楽しむ塗り絵』のページをめくる。前半にはカラーのお手本、後半には薄い線で書かれた下絵がまとめられている。下絵は切り離せるようミシン目が入っていて、塗り絵をするための親切な作りに感心した。

 色とりどりの花々を見ながら、どれにするか迷ったが「やっぱり最初はこれかな」と百合の下絵をペリペリペリッと切り離した。

 お手本のページを開いて、閉じないよう両手でノドを押さえる。鮮やかなオレンジ色と黄色の百合が2輪につぼみが一つ。まずは忠実に描いてみよう。

 巻頭にある解説によると、まず全体に薄く塗っていくという。明るい部分と暗い部分の二つに分けて下塗りをする。

 いきなり花に取り掛かるのは気後れしたので、葉から始めることにした。葉が緑だからといって最初から緑色や黄緑色で塗るのではない。葉の明るい部分は黄色、暗い部分は青色をベースに敷く。

 千勢は黄色の色鉛筆を取り出した。軽い力で何本も何本も線を引いていく。シャッシャッと紙にこすれる音が規則正しく響く。

 次に百合の花も同様に、明るい部分は黄色、暗い部分は茶色と薄く塗っていく。下塗りの状態だと百合に見えないが、いよいよ重ね塗りに取り掛かる。

 薄い色からだんだん濃い色へ。葉の1枚1枚、花びらの1枚1枚を繊細に丁寧に。陰影を意識しながら色を重ねていく。光の当たる所はほとんど何も塗らず、影になる所は黒ではなく紫色を合わせると自然な立体感が出せる。

 色鉛筆は色を混ぜ合わせられないが、薄く何度も塗り重ねることで深みのある色を出すことが出来るのだ。

 楽しい。出来上がりをイメージして色の重ね方を考えるのが、楽しい。

 あっという間に百合を完成させた。お手本の横に並べてみても、遜色ないレベルに仕上がったのではないだろうか。文字通り、自画自賛だ。


 小さい頃、夢中になって絵を描いた感覚が蘇ってきた。真っ白い紙が色とりどりに染まっていき、光り輝く世界が作られていく。高揚感とか充実感なんて難しい熟語は、小さい頃は知らなかった。とにかく胸がワクワクして、目の前がキラキラして見えた。

 大好きな宝物を大切にする気持ち、いつの間に見失ってしまったのだろう。


 工作系が不得手で図工の通知表が特段良かった訳ではないが、成績なんて関係なく絵を描くことが好きだった。小学校の写生大会や夏休みの宿題の絵画コンクールでは毎年のように賞を貰った。

 高校生の時は美術の先生に美大への進学を勧められたこともある。一時は真剣に考えたが、千勢は自宅から通える短大の英文科を選んだ。

 思い返せば夢を諦めたという程の大げさなものではなく、良妻賢母の専業主婦をゴールとする同級生の中で、自分の人生を切り開く道を選択するような情熱を持ち合わせていなかっただけだ。

 大多数に埋もれるように、卒業後は食品メーカーに就職して稔と出会い、めでたく寿退社する。そうして専業主婦に収まって数年、良妻にはなれても賢母にはなれないだろうと諦めかけた頃。パートも続かず暇を持て余して何か趣味を見つけようと思い出したのが絵画だった。

 ある日、新聞チラシの中に見つけた地域のカルチャーセンターの「初心者の水彩画」という講座。体験コースがあるというのでさっそく申し込みをして、帰宅した稔に報告した。

 すると稔は「水彩画なんて1人でやるものでしょ。2人で楽しめる趣味にしようよ」と遠回しに否定した。千勢は「確かに稔と2人でできる趣味の方がいいかも」と思ってしまい、体験コースに行っただけで受講の手続きをすることはなかった。

 少し残念な気持ちはあったものの不満はなかった。その後2人で登山に行くようになり、絵画を習おうという気持ちはどこかへ消えてしまった。





 午後になり佳奈がお見舞いに来てくれた。「具合はどうですか?」と聞きながら病室に入ってくる。

 2枚目の水仙の塗り絵に夢中になっていた千勢は、顔を上げて「もう痛みもないし、すっかり元気になったわよ」と笑顔で返した。

「頼まれていた物、持ってきましたよ。着替えは棚に入れておきますね」

 佳奈は手早く荷物を仕舞った。頼れる人のいない千勢にとって、嫌な顔せず世話をしてくれる佳奈には感謝しかない。

「ありがとう佳奈ちゃん。私、一人暮らしだから助かったわ」

「いえいえ。そこはお互い様ですよ。遠慮しないでください」

「ねぇ、この塗り絵も本当にありがとう。さっそく描いてみたんだけど、どう?」

 午前中に描き上げた百合の絵を佳奈に見せた。

「えぇー、すごい! 上手! 本物の百合みたいですよ」

 絵を持ち上げてまじまじと見ている。お世辞をあまり言わない佳奈に褒められると、なんだかニヤニヤしてしまう。

「なんか嬉しい。子どもの頃、絵を描くことが大好きだった気持ちを思い出したわ」

「ちーちゃん、生き生きしてますね。後光が差してます。ピカピカァ!」

「なにそれ、言い過ぎ!」

 佳奈がペロッと舌を出す。あはははっ、ふふふっと声を出して笑う。

 今なら、言えるかも。

「佳奈ちゃん、ちょっと聞いて欲しい話があるんだけど……」と思いきって切り出した。

「なんですか? 改まって」

「時間は大丈夫?」

「もちろん。ちーちゃんの話ならいくらでも聞きますよ」

「ありがとう。そこに座って?」

 ベッドの横に置いてある座面の丸い腰かけを勧めた。佳奈は足を揃えてきちんと座ると、手を膝の上に乗せて顔を向けた。千勢の真剣な雰囲気を察して、先ほどまでの笑顔ではなくなっている。

「驚かないで聞いてね」

 一呼吸おいて、佳奈の目を見た。

「私ね、がんを患っているの」

「がんって……病気の?」

 佳奈が明らかに戸惑っている。

「そう。子宮がん。だから今回の入院も、がんからくる痛みだったの」

「でも、でも! がんって今は治る病気なんですよね」

「そうね。治る病気」

 千勢は視線を外して話を続けた。

「1年と少し前にね、子宮体がんのステージⅡって診断された。子宮の全摘出と卵巣・卵管を切除する手術が必要だって」

「子宮と、卵巣を……」

「皮肉なものよね。赤ちゃんを産めなかった私が、よりによって子宮にがんができるなんて。女性としての役割を果たせなかったんだから、これ以上生きている価値はないなんて思ったりして」

 苦しい。背負った十字架を誰かに見せるなんて苦行だ。3人目を妊娠している佳奈にする話ではないかもしれない。それでも、自分の決意が揺るがないよう話しておきたい。

「ちょっと自暴自棄になっちゃって相当悩んだんだけど、稔さんに励まされて手術を受ける決心をした。これからも稔さんと一緒に生きていきたいと。でもね……」

「あっ……。それって……」

 佳奈にチラッと視線を合わせて、千勢は頷いた。

「そう、稔さんが交通事故で亡くなった。もう何もかもがどうでもよくなっちゃって。生きる希望を失った私が手術する意味なんてある?」

 当時の感情が溢れ出てきて、責めるような強い口調になってしまった。それでも、佳奈は受け止めてくれるはずだ。その自信はあった。

「天国で稔さんが待っている、早く稔さんに会いたいって、いつも思っている」

 お腹の上で組んでいる手にじんわりと汗をかいている。がんを告白したことよりも、死を選ぼうとしたことを打ち明けるほうが緊張する。

「だから。手術は受けないことにした」

「ちーちゃん、それは、ダメ……」

 震えるような低い声で、佳奈は力強く断言した。下を向いて表情は分からないが、泣いているのかもしれない。千勢は申し訳ない気持ちになった。ただ、話にはまだ続きがある。すると佳奈が顔を上げて俄かに叫んだ。

「手術して! 長生きしてよ!」

「佳奈ちゃん……」

「昇も、将太も、優愛だって同じこと言うに決まってる。私、お腹の赤ちゃんをちーちゃんに見て欲しい、抱っこして欲しい。女性の役割を果たせなかったなんて悲しいこと、言わないで……。ちーちゃんは誰よりも優しいのに」

 半べそをかきながら、まくし立てる。

「将太と優愛が迷子になった時も、ちーちゃんがいなかったらどうなっていたか分かんない。みーちゃんが捨てられていた時も、ちーちゃんが小さな命を救ったんじゃないですか。私がつわりでツライ時、ちーちゃんが農作業を手伝ってくれたから、お腹の赤ちゃんもすくすく育ってるんです。そういう人が、自分の命を粗末にするようなことをしちゃダメです!」

 まるで小学生を叱る先生のような佳奈の勢いに圧倒された。

「ちーちゃんはもう自分は必要ないって思ってるみたいだけと、それは違うから! 将太はそりゃ、DNA的には私と旦那の子だけど2人だけじゃ育てられません。この半年の間で将太はちーちゃんからたくさんのことを学んでる。ちーちゃんから教わったたくさんのことが将太の中に積もっていって、将太という人間を作っていくんです。それも命を繋いでいくことだと思うんです。例えば将太は今、芽を出したばかりの樹で、太陽の光も雨からの水も土の養分もいっぱい必要なんです。それが、ちーちゃんなんです。そういうこと全部ひっくるめて命のリレーっていうんじゃないですか」

 一気に言い放ち、佳奈がはぁーと息をつく。

「なんか……、上手く言えないけど」

「ううん。上手くなんて言わなくていいよ。じゅうぶん、気持ちは伝わったから」

「じゃあ……?」

 千勢は佳奈に安心してと伝わるようにほほ笑みながら、ゆっくりと頷いた。パァッという効果音が聞こえるほど表情が明るくなった。将太は母親似なんだなと、今さらながらに遺伝子の不思議を思う。

「さっきのは過去の話。もう、大丈夫だよ」

「よかったぁー! 私、早とちりしてすごい語っちゃった……。やだ、なんか、恥ずかしい」

 照れて頬に両手を添える佳奈を、愛おしいと思う。

「……ねぇ、佳奈ちゃん。お腹、触らせて」

 ほっとした表情の佳奈は「あっ、うん」と立ち上がり、ベッドに近づいて千勢にお腹を向けた。

「そろそろ6カ月になる?」

「ええ。でも性別はまだ分からないんです」

 千勢は右手を伸ばして、そっとお腹に触った。

「けっこう膨らんできたわね。もう動くのかしら?」

「そんなには動かないですけど、赤ちゃんここにいるな~って感じはしてきました」

 佳奈が幸せそうにお腹をさする。千勢もじんわり幸せな気持ちになった。

「痛みで意識を失いそうな時にね、思ったの。生まれてくる赤ちゃん、抱っこしたかったなぁって。それだけじゃなくて、将太君も優愛ちゃんも成長していく姿を見たかったなぁって。新パッケージの湘南ポモロンも販売したかったし、佑樹君の初舞台にも行きたかったし……。あっ、石田さんにおまんじゅう作らなきゃとも思ったのよ、死にそうなのに。うふふふっ」

「おははは。喜ぶだろうな、石田のじいさん。またまんじゅうが食えるって」

「富士見の丘に引っ越してきた頃は生きることを諦めていたけど、たった半年間でこの世の未練がいっぱい増えたなぁって思ったわ」

「未練? いやいや。それは、生きがいって言うんじゃないですか?」

「生きがい? そうね、生きがいね!」

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