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29.月見
しおりを挟むリーン、リーン、リーン。コロコロコロ。
静かな夜。澄んだ空気に響くのは虫の音だけ。リーンはスズムシだろうか、コロコロはコオロギだろうか。
さぁっと風が抜け、ゆっくり目を開ける。小瓶に飾ったススキの穂がかすかに揺れる。縁側に腰かけた千勢は、膝の上で丸くなっているミルクをなでた。
仰ぎ見れば中秋の名月。今日は一年で最も月が美しいとされる十五夜だ。
完璧なまでに丸い月は、黄色いながらもほんのりと赤みを帯びている。老眼で見づらくはなっているものの、クレーターも分かるほどくっきり輝いている。
子どもの頃、月は夜ごとに形を変えると信じていた。夜の怖さもあって神秘的にも不気味にも感じていたものだ。
『月という天体は自ら光るのではなく、太陽の光を反射して輝いています。太陽との位置関係によって見え方が変化するのです』
学校で月の満ち欠けの仕組みを教わった時、宇宙の壮大さに感動するのではなく夢から覚めたようなシラケた気分になったのを、今でも覚えている。
クワァーッとミルクがあくびをした。それを合図に置いていた純米酒『丹沢山』の一升瓶を持って、夫婦(めおと)の湯飲み茶碗にとくとくとくと注いだ。
湯飲みは有田焼の藍染水滴というもので、藍色と白色のグラデーションが「冠雪した富士山みたいだね」と稔のお気に入りだった。さらに『丹沢山』は昼間、稔の一周忌の法要の後、石田から頂いたものだ。
千勢は小ぶりのほうの湯飲みを持って「献杯」と天に捧げた。湯飲みをそっと近づけ、ふるっと口に含む。柔らかな口当たりの中からまろやかな旨味が押し寄せ、後からすっきりした爽やかさが追いかける。千勢は唇から舌先、喉や鼻までの感覚を使って酒を嗜みながら、ゆっくりと今日一日の出来事を思い出していた。
そもそも、9月28日の一周忌の法要は、新盆と同様に千勢1人で行うつもりでいた。しかし、台風で瑞雲寺に避難した後、考えが変わった。
佳奈に話した時もそうだったが、未だに稔が亡くなった直後、とりわけ葬式については記憶がはっきりしない。
どうやって葬儀社に依頼したのか、誰が参列したのか、どのような段取りで行われたのか、全く分からない。おそらく義兄の楠木豊が中心となって取り仕切ってくれたはずだ。稔の死を受け入れられなかった千勢は、ただ茫然と言われるがまま、その場にいただけだった。喪主なのに用意された挨拶文すらまともに読めなかった。もっと言えば、お悔みを述べる人たちに頭を下げることすらしていないと思う。
そのくらい深い哀惜の念にとらわれていたのだと言い訳はできるが、それではあまりにも無礼ではないかと思うようになった。
それに豊とはお墓を阿蘇にするかしないかで揉めたせいで険悪なムードになってしまった。稔の実の兄には稔が望んだ、そして千勢が懸命に探し出した富士山の見える墓地を見てもらいたかった。いや、豊だけではない。親戚にも友人にも見てもらいたかった。さらには稔を知っているすべての人に、感謝を伝えなければならないとさえ思った。
だから、親戚や友人を招いて礼儀に則った法要を執り行なおうと決意した。おそらく佳奈に打ち明けたことで客観的に振り返ることができるようになったのだろう。
一周忌をすると決めて、すぐに動いた。和尚に相談をして瑞雲寺で法要を行うことにした。義兄一家をはじめとする親戚、元同僚の友人に案内状を送り、20人ほど参列することになった。さらに「きちんと稔さんにご挨拶がしたい」と山崎一家も加わった。千勢は食事や引出物の手配など時間がないなかで慌ただしく準備した。
そうして迎えた9月28日。全員揃ったところで、まずは瑞雲寺の墓地へ墓参りすることにした。
「まだ上があるんかい?」
豊は霊園の階段を見るとうんざりした様子で言い放った。前日に熊本・阿蘇から飛行機で羽田空港まできてホテル泊。今朝は電車を乗り継いで最寄駅に着いたと思ったらさらにバスで40分。長い道のりを考えると、文句も言いたくなるのだろう。
千勢は気にせずに「台風で多少崩れた箇所がありますので気を付けてください」と案内した。
最上段にある楠木家之墓の前に来ると、参列者から「おぉ」と感嘆の声が漏れた。見事な秋晴れの中、雄大な富士山の姿が正面に望める。しかも前日、初冠雪したおかげでいかにも富士山らしい姿だ。まるでこの日に合わせて雪化粧をしてくれたようだ。
「稔さん、ようやくみんなを連れて来られました」
(ちーちゃん、ありがとう。よく頑張ってくれたね)
まず千勢が線香をあげる。次に豊と妻の恵子と子どもたち、親戚、元同僚の友人たちが順番に手を合わせていく。
「富士山すごくキレイに見えるのね。すてき」
「でも墓参りをするほうは大変だな」
「この景色を眺めながら眠れるなら悪くないね」
「結構お金かかるんじゃない」
墓参りが済んだ人たちがヒソヒソと好き勝手な感想を述べる。賛否あるだろうことは分かっていたので、すべて素直に引き受けた。
全員が手を合わせ終わり、本堂に戻るため歩いていると豊が隣に来た。
「ようやくお墓参りが出来て良かったよ」
「ありがとうございました。遠い所から来て頂いて」
「初めは反対したけどね。富士山の見える墓地、なかなかいいじゃないか。稔も喜んでいるよ」
「そうおっしゃって頂けると嬉しいです。稔さんが喜んでくれるのが、私の生きがいですから」
千勢が笑顔で返すと、豊は少し間を置いて続けた。
「千勢さんも、まだ人生は長いんだから自由にしてくださっていいんですよ」
左胸にピリッと細い針を突き刺したような痛みが走った。未亡人に向けられるありきたりな言葉は、千勢の心を軽くするどころか未来を真っ黒に塗りつぶされた気分になった。
ただ、豊は千勢を突き放した訳ではない。もし富士見の丘に引っ越してくる前に聞いていたら「何も知らないくせに勝手なこと言って」と怒りを露わにしていただろう。しかし今はどんな感情があるにせよ、千勢を気遣って言ってくれたんだと思える。
「それは……ありがとうございます。私は稔さんのそばで、自由に生きていきます」
「南無大師遍照金剛~」厳かな和尚の読経を終え、広間で参列者に食事を振る舞うお斉(さい)が始まった。
隣に座った義理の姉、恵子に「千勢さん」と声を掛けられた。
「去年のお葬式では見ていられなかったけど、ずいぶん健康的な感じになって。なんか安心しました」
普段は九州男児の夫を支える慎ましい妻という様の恵子に、ド直球に見た目の変化をつつかれた。千勢は喜んでいいものか分からず、「ええ」と曖昧に笑った。
それを聞いていた稔の元同僚の岩井と北村に「元気になってよかったよ」「楠木がいた頃よりパワフルそうだね」と立て続けに同意された。
岩井は早期退職で会社を興し、北村は定年退職を機に実家の農業を継いでいて、2人とは最近は年賀状のやり取りだけになっていた。お葬式に参列しているはずだが顔を合わせたかどうかはっきり覚えていない。
「おかげさまで…」と戸惑いながらも返事をすると、岩井と北村はほっとしたように笑った。その向こうで豊も恵子もうんうんと笑顔で頷いていた。
元同僚はさらに「実はさ、奥さんが〝後追い〟するんじゃないかって冷や冷やしてたんだよ」「確かにな。楠木がいなくなったら生きていけないんじゃないかって心配した!」と際どい事まで言う。2人をよく見るとほんのり顔が赤くなっている。
「仲間内でも有名なおしどり夫婦だったからな」
「楠木は絶対に奥さんの悪口言わなかったんだよな」
岩井も北村も急にしんみりしたトーンになった。
「俺たちが飲み会でカミさんの文句で盛り上がったりしても、にこにこ笑っててさ。物足りなくもあったけどな。でもウチはこうだからこうしろって説教臭いこと言わなかったから助かったよ」
「あからさまなノロケ話をすることもなかったけど、だからなおさら夫婦円満なんだろうなって」
「いい奥さんだなって羨ましくもあったよ。ちょっと言い方悪いけど、お葬式で奥さんの嘆く様子見てたらさ、愛されてたんだろうなって思って。ウチのカミさんだったら『せーせーした』とか言って泣かないよ、絶対。あははは」
最後は冗談にしてくれて助かった。そうじゃなければ涙がこぼれていた。
今日は泣かない。固く決めていた。
「岩井さんも北村さんも、お義兄さんも、長生きして奥さん孝行、いっぱいしてくださいね」
千勢はそう言うのが精いっぱいだった。
奥さん孝行かぁ……。千勢はため息をついた。
引出物を渡して法要は無事に終了し、車やバスで来ていた参列者を山門で見送った。ヒューッと風が吹き抜ける。終わってほっとした解放感よりも、大人数から独りになった寂しさのほうが強かった。
千勢だって、稔の退職後はかすかな夢を抱いていた。念願の富士山に登ったり、クルーズ船で旅行したり、美味しいものを食べ歩いたり……。
ぼうっと立っていると「おいっ」とだみ声が聞こえた。石田がこちらに向かって歩いてくる。
「もう終わったんか?」
「ええ、先ほど、無事……」
石田は目の前までやってくると「これ、ほら、ん!」と『丹沢山』と書かれた箱を差し出した。
「お疲れさん」
「あ、ありがとうございます」と受け取った。
「旦那さんの好みは知らないけどな。足柄の米と丹沢の水を使ってんだ。旨くない訳ないだろう」
どうやら一周忌の稔のための贈り物らしい。日本酒のことは詳しく分からないが「そうですね」と相槌を打った。それに満足したのか石田は頷くと後ろを向いてスタスタと帰って行った。
呆気にとられて石田の後ろ姿を見ていたら、佳奈が「お疲れさまでした。あれ、石田さん?」と聞いてきた。
「うん、日本酒を頂いたのよね」
「なんだかんだ、ちーちゃんのこと気にかけているんですよね」
「はいはい。佳奈ちゃんお疲れ様でした」
「あれ? ちーちゃん照れてる? かわいいー」
「そんなことありません!」
思い出してクスッと笑ってしまった。照れた訳じゃないから。そこは否定しておきたかった。縁側に横たわったミルクがペロッと前脚をなめて顔をふく。置いてある大きい方の湯飲みに目をやると、ちょうど表面に月がまぁるく映っていた。
確か水に映った月を詠んだ歌があったなと思い出し、二十四節気七十二候の本を手に取りページをめくる。
「あ、あった。これだ」
『手にむすぶ水に宿れる月影のあるかなきかの世にこそありけれ』
解説によると平安時代の貴族、紀貫之の辞世の句だという。「手にすくった水に映る月のように、あるかないかのはかない世であったなあ」という意味だ。
1000年以上も前に生きた人でも、人生の最後に感じるのは、この世のはかなさだった。
「はかない世……でしたねぇ」
千勢は残りの酒をグッと一気に飲み干した。
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