富士見の丘で

らー

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28.一過

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 目の周りから鼻の下あたりまでじんわり熱く腫れぼったい。重く感じるまぶたを薄く開ける。頭がぼんやりとしたままで、あっ、ここは瑞雲寺かと気づくのに5秒ほどかかった。

 その時、パンパンと軽い衝撃を受けた。優愛がきゃっきゃっと布団を叩いている。「あっ、優愛、ダメだよ」と佳奈の声がした。

「おはようございます。佳奈ちゃん、早いのね。優愛ちゃんもおはよう」

「おはようございます。ごめんなさい、起こしちゃって」

「ううん、大丈夫。もう7時? 起きないとね」

 千勢は起き上がって布団を畳んだ。佳奈に泣き腫らした顔を向けるのが恥ずかしかった。

「雨戸、開けましょうか」

 内側のガラスがはめ込まれた引き戸に手を掛ける。雨戸の隙間から細く漏れる光が眩しい。ガタガタと軋んだ音をたてて年季の入ったガラス戸を端に寄せる。

 さらに木製の雨戸を開けようとするが湿り気が残っているからか硬くて動かない。ギィッギィッと少しずつ動かす。ようやく人が一人分くらいの隙間が開いた。そこから細く長く晴天がのぞく。

「見事な台風一過ね」

 透き通る青い空、清々しい太陽の光、澄み切った新鮮な空気。チリもホコリも、辛さも苦しさも台風が拭い去っていってくれたようだ。

「あの、佳奈ちゃん、昨日はありがとう。話を聞いてくれて」

 雨戸に顔を向けたまま、千勢は佳奈に感謝の気持ちを伝えた。

「辛いことを思い出させてしまってすみません」

 申し訳なさそうに佳奈が謝った。

「ううん。なんか、すっきりした! この青空みたいに」

「確かに。さっぱりした顔してますね」

「顔は浮腫んでいるけどね」とニタッと佳奈に笑いかけた。

「ふふ。本当は誰かに聞いてもらいたかったんだと思う。私、昔から自分の感情を表に出すのが苦手で……。でも佳奈ちゃんには素直に話せた。ありがとね」

「ちーちゃん……。私、ちーちゃんのこと大好きですからね」

 じんわりと温かくなったのは外の空気が入ってきたからだけではないだろう。千勢は小さく「ありがと」と呟いた。

「これ、手伝いますね」と佳奈が右側の雨戸を引く。しかしビクともしない。

「しぶといですね」

「2人でやりましょうか」

 佳奈が千勢のほうの戸に手をかけて「せーの!」と力を込める。ギィーと半分くらいまできた。もう一度「せーの!」の掛け声でようやく左側の雨戸が開いた。

「じゃ、こっちも」と佳奈。優愛も母親の足をつかんで加勢する。今度はコツが分かり一気に開いた。千勢は小さく「やった」と喜んだ。

 そこで突然、佳奈が「いい天気だー!」と叫んだ。優愛も「てんきだぁ」と真似した。ビックリして佳奈を見ると、テヘッという感じで笑った。

 千勢も「すっきりしたぞー!」と腹の底から大声を出した。声と共に淀んだ空気を吐き出して、きれいな空気を吸い込む。体中が浄化された気分だ。

 すると作務衣を着た和尚が庭のほうから顔を出した。

「おはようございます。朝からお元気ですね」

「おはようございます!」2人は声を揃えてあいさつした。

 和尚から、台風は未明に太平洋の海上に抜けたこと、瑞雲寺を見回ってきて大きな被害はなさそうだということ、昇はハウスの様子を見に行ったことなどを聞いた。

「それじゃあ、朝ご飯の支度をしましょうか? みなさん一緒に作りましょう」

「みんなでお手伝いしよう」と佳奈が言うと「おー!」と優愛が小さな腕を上に突き出した。


 3人が「おはようございます」と本堂に入ると、将太がミルクとじゃれて遊んでいた。石田は女性陣を見ると畳んであった布団を持って奥の間に行った。

「おはよう、将太君。みーちゃんの面倒を見てくれてありがとうね」

「あ、ちーちゃん、おはよう。母ちゃんも優愛もおはよう」

「みーちゃんは大人しくしてたかな?」

 将太の隣に座りミルクをなでる。

「夜ね、ちょっと鳴いてたよ。ちーちゃんと離れて寂しかったみたい」

「台風が怖かったのかな」ミルクの顔をのぞき込みながら話しかける。

「でも台風が一番酷かった時は大人しかったよね。もしかして……。それって何時ごろ? 将太分かる?」

  何か考えがあるのか、佳奈が尋ねた。

「10時前ごろじゃねぇかな」戻って来た石田が代わりに答えた。

「それって、たぶんなんだけど、ちーちゃんを心配していたんじゃないかな?」

 猫アレルギーだけど猫好きな佳奈がつぶやいた。「心配?」と石田は怪訝そうにする。

「ちーちゃんが、私に思い出話をしてくれた頃だから……」

  みんなの手前、泣いていたとは言わないでくれた。

「そうなの、みーちゃん?」
  ミルクを持ち上げて抱きしめる。

「すごいね、みーちゃん」と将太がミルクの頭をなでた。優愛も真似して「みーちゃん」と背中に触れた。

「なんかよく分かんねーけど。まるで本当のばーさんと孫みてぇだな」

  様子を見ていた石田がまた悪態をついた。

「なっ、ばーさん?!」

 お得意の皮肉が飛び出して、ムッとして石田を見たら笑っていた。佳奈も笑っていた。

  怒るようなことじゃないな。嫌味だろうが悪口だろうが、そう見えるならそれも満更ではないと思えた。


 その後、みんなで朝食の準備をした。お米や野菜などの食材は和尚のご厚意に甘えた。
石田が家から「栄養あるんだぞ」と有精卵を持ってきてくれた。メニューは玉子かけご飯、茄子の味噌汁、冷奴、キュウリの浅漬け。途中、昇がハウスの点検から戻って来て、トマトのサラダが加わった。

 「いただきます」と食べ始めると、将太が玉子かけご飯を勢いよくかきこんだ。昇が「そんなに慌てなくてもご飯は逃げないよ」と声をかける。佳奈が「そこは、お行儀よくとかよく噛んで食べなさいとか言わないと」と突っ込む。

  口に玉子かけご飯を入れてもらった優愛が「うまぁ」と笑う。石田が「チビっこいのにこの卵の美味さが分かるんか?」と詰め寄る。和尚が「子ども相手に……。何でも美味しく食べるのはいいことですよ」とたしなめる。

 料理は質素でも、にぎやかな朝ご飯。千勢は微笑ましく眺めていた。



  朝食後、お礼にと瑞雲寺の清掃を手伝うことにした。境内に被害はないとは言え、落葉や小枝が散乱している。千勢は霊園の片付けを願い出た。

 真っ先に楠木家之墓に向かう。前日に対策をきちんとしていたから被害はなかった。しかし周りを見渡してみると卒塔婆が倒れていたり墓石がズレたりして、台風の威力を物語っている。

「稔さん、何ともなくて良かったね」

(ちーちゃんのおかげだよ)

 短いあいさつを済ませ、作業に取り掛かる。各家の墓所には入れないから、通路に飛ばされた供え物や枯れた献花、ロウソク立てなどを拾い集める。

「みんなお盆とかにはお墓参りするけど、そのあとは結構ほったらかしなんだね」

 毎日、墓参している千勢はあきれた。だが反対に全く墓参りをしない人達が千勢の行動を理解できないだろうことも分かっていた。

「まぁ、人それぞれだし……」と独り言ちた。その後お昼前まで作業して、45リットルのごみ袋2つほどのゴミが集まった。



 山崎ファームの様子を見に行くという佳奈と一緒に帰ることになった。将太と優愛は家でお留守番。昇は先に行っているそうだ。

「いつもは車だから気付かなかったけど、この坂けっこうキツイですね」

 歩き始めてすぐにある急坂の途中で、佳奈が軽く息を弾ませる。

「なに、佳奈ちゃん。これくらいで弱音吐いて。私なんか毎日上り下りしてるから足腰がっつり鍛えられたわよ」

「ですね。ちーちゃんって初めは清楚な感じだったのに、最近はれっきとした農家のおばちゃんって感じになりましたよね」

「やだ、やめてよ。佳奈ちゃんまで。そんな石田さんみたいなこと言うの」

 怒ったような口調だったが、田舎の生活に馴染んできのは自覚している。顔は日に焼けて黒くなったし、ふくらはぎには筋肉のスジが出るようになった。何より坂を上っても息切れをしなくなった。

「最近佳奈ちゃん、明け透けにものを言うようになったよね」

「えっ? 怒ってます?」

「怒ってる! ……なんてウソ。嬉しいなと思ってね」と佳奈の目を見て笑った。

「良かった。一瞬ビビりました」

 近頃、佳奈に対して敬語を使わなくなった。佳奈はそれに気づいているだろうか。


「ちーちゃん。私、ちーちゃんに報告したいことがあって」

「なぁに、改まって」

「実は3人目を授かりまして……」

「本当? 赤ちゃん!? うわぁー! おめでとう!!」

「ありがとうございます」

「今どれくらいなの? 体は大丈夫?」

「5か月くらいです。安定期に入ったので」

「男の子? 女の子?」

「それはまだ分からないんです」

「予定日は?」

「2月の10日ごろです」

 千勢は芸能レポーターさながら、矢継ぎ早に質問した。佳奈は圧倒されながらも短く答えてくれた。そうこうするうち山崎ファームに着いてしまった。

「佳奈ちゃん、体に気を付けてね。赤ちゃん楽しみにしてる」と手を振って別れた。


  富士見の丘の前を通る。「赤ちゃんだって。佳奈ちゃんすごいね~」とキャリーバッグの中のミルクに話しかける。

  千勢は素直に佳奈の妊娠が嬉しかった。そう思える自分に気づいて、さらに嬉しくなった。

  今まで他人の妊娠を聞くと、嫉妬や羨望が入り混じってしまい、上手く「おめでとう」と言えなかったから。

 千勢は家に帰ってすぐにカレンダーをめくった。12月までしかないのに気付いて、最後のページの右下に2月10日と書き込み、花丸で囲った。

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