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24.登山
しおりを挟む千勢が玄関から一歩踏み出すと、ざぁっと風が楠の葉を揺らした。容赦ない夏の日差しに晒され続けた蒸し暑い空気を山の奥へと追いやるように通り抜けていく。
太陽はすでに稜線に沈み、空はゆるりゆるりと薄暮から宵闇へと移り変わっていく。
千勢は風を感じたくて縁側に腰を下ろした。ミルクが近づいてきて横に寝そべる。体をなでてあげるとゴロゴロと喉を鳴らす。
「今日は働いたなぁ」
盆入りで朝から盆棚の準備をして、蒸しまんじゅう作って、おしょろ塚を教わって、お墓の掃除をして。ゆっくり座る時間もなかった。
「さてと。では迎え火を焚きますか」
ミィーと鳴いたミルクを抱きかかえ、おしょろ塚の前にしゃがむ。
焙烙という素焼きの皿に置いた藁に火を着ける。すると白い煙とともにパチパチと音がして炎が燃え上がる。
「稔さん、迷わずに来られるかな? 近いから大丈夫だよね」
オレンジ色の炎を見つめながら、稔の笑顔を思い出していた。「ただいま!」そう言って千勢の前に帰ってきてくれたらどんなにいいだろう。
火が消える。辺りに燻された香りが漂う。稔はおしょろ塚に辿り着いただろうか。
昼間、石田に教わった話を思い出す。おしょろ塚の梯子は、御霊が富士山を難なく登れるようにかけられたという。
「稔さん、先に一人で富士山に登っちゃうんだ。『がんを乗り越えたら富士山にもう一度挑戦しよう』って約束したのに。それ、抜け駆けだよ」
ミィー。腕の中でミルクが同意してくれた。
「ね、みーちゃんもそう思うでしょ」
あれは、稔が50歳の誕生日を迎える年の8月上旬だった。
「50歳って半世紀だよな。そうなると急に老け込む感じがするからさ、その前に富士山に登ってみたい。やっぱり人生に一度は日本一の頂からご来光を見てみたいな」
稔たっての希望で、富士登山に挑むことになった。
ちょうどその頃、中高年を中心に登山ブームになっていた。稔も千勢もどんなものかと軽い気持ちで茨城県にある筑波山に登ってみたら、登山の面白さに目覚めてしまった。
以来、月に1度のペースで登山を楽しんでいた。それでも登っていたのは初級者向けの1000メートル前後の山が多かったから、いきなり3776メートルの富士山に挑むには不安があった。そのため準備は入念にしたつもりだった。
それなのに、千勢は八合目の山小屋で高山病にかかってしまった。
頭がキリキリ痛くて、ズンズン重くて、まるで『西遊記』で孫悟空が頭にはめている「きんこじ」で締め付けられるようだった。吐き気が酷くて楽しみにしていた山小屋のカレーライスも食べられなかった。
酸素ボンベを吸い少し横になったら夜中にはなんとか回復した。しかし無理はできず頂上まで行くのは諦めた。せめて八合目からでもご来光を見たいと思って朝早く起きてみたが、あいにく山小屋周辺は厚い雲に覆われていた。
稔と千勢の初めての富士登山は後悔しか残らなかった。
その後、何度が富士登山の計画を立てたものの、台風の直撃など天候が悪くて登山口の五合目で諦めることが重なった。そして二度と一緒に富士山に登ることは出来なくなった。
「みーちゃん、ちょっと散歩に行く?」
ミィー。ミィー。千勢が歩き出すとミルクは「お供します!」とばかりに付いてきた。
名残惜しそうに西の空がほんのりと明るいだけで、あたりは暗闇に包まれる寸前だった。時折吹く生温かくて湿った風が、真夏の夜だということを主張してくる。
山道にはもちろん街灯はない。目を凝らしながら歩いていると、道端にほんわりと白いものを見つけた。
レースを広げたような不思議な花。ツルが木に絡まり、まるでダンスをするかのように連なっている。
もしかして、これがカラスウリの花?
確か二十四節気七十二候の本に紹介されていた。秋には朱色の楕円形の実を成らせるカラスウリ。童謡『まっかな秋』でもおなじみだ。
しかしカラスウリの花のほうは〝夜行性〟で、お目にかかるのは難しい。日が沈んでから糸状の花びらを広げ、夜が明けるとクシュッと萎んでしまう。昼に見られるのはこじんまりと丸まった姿だからなかなか気付かない。
「はぁ~、きれいねぇ。初めて見たわ」
繊細で可憐な白い花に千勢はうっとりした。
夜咲きの花が白いのは、月明りの中でもよく目立つため花粉を媒介する昆虫にも見えやすいからだという。
もし稔の魂が瑞雲寺の墓から富士見の丘を通って千勢の住む家に来るのなら、このカラスウリの花が目印になるのだろうか。
稔が亡くなってから千勢は、目に見えない世界を信じるようになった。稔は存在する。ただ見えないだけ。同じ世界に行ったら、また会える。
それまでは幽霊も妖怪も、宇宙人さえも否定していた。21世紀の現代で科学的に証明されていないのだから存在しない。確信を持っていた訳ではない。興味がなかった。現実の生活が幸せだったから、それ以外の世界に考えが及ばなかった。
それがどうだ。最愛の人を失ったとたん見事に手のひらを返して、神様も仏様も、天国も地獄も信じるようになった。宗教とか信仰とかではない。ただ、稔が存在する世界があることを願った。あの世でもこの世でも、存在しているだけでいい。
以前の千勢は本当の意味で死を理解していなかった。頭の中だけで分かったつもりになっていた。どこかで見た映像に心を寄せて、死を感じていただけだった。それは言わば疑似体験だ。
稔の死に直面して初めて身を切り割くような悲しみを知った。耐え難いほどの虚無感に襲われた。そうして辿り着いたのは稔の存在する世界を信じることだった。
しかしそれは黄泉の国なり極楽浄土なり、古来より日本で信仰されてきた死生観に近づいただけだと千勢は気づいた。
お盆はその最たるものだ。目には見えない御霊を家に招き食事を備え、まるでそこに存在するかのように扱う。
お盆は仏教的な考え方と古くから日本にあった風習が、長い年月を掛けて混じり合ってできたという。日本各地で様式が違うのは、その土地の歴史を踏まえた様々な祈りが込められているからだろう。例えば富士山に見立てたおしょろ塚のように。
ミィーと声がして千勢はハッと顔を上げた。寝ていないのに夢を見ていたような気分だ。神秘的なカラスウリの花を前に想像を膨らませ過ぎたのだろうか。
「みーちゃん、そろそろ帰ろうか。稔さんも来てるからね」
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