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20.仕事
しおりを挟むビニールハウスに足を踏み入れるとモゥワッと温風に包まれた。青々とした植物の香りと湿り気を帯びた土の匂い。
ハウスの中はトマトの株が整然と並び、何列もの畝が奥まで続く。株は支柱にそって天に上るように伸び、腰の位置辺りに赤くて艶やかな果実が鈴なりに実っている。
「うわぁ、すごいですね!」
千勢は前日、ミルクを動物病院まで連れて行ってくれたお礼に、トマトの収穫作業を手伝う約束をした。
午前中に出荷するというので朝7時に富士見の丘で待ち合わせ。千勢は農作業ができるような洋服を持っていなかったので、佳奈に紺色のジャージーとTシャツを借りた。黒い長靴と農作業用の麦わら帽子は予備としてあるものを渡された。
少しぶかぶかだが、立派な「農家の嫁」の姿に見える。ちょっとコスプレをしているようで恥ずかしかった。
初めて昇が営む山崎ファームに来た千勢は、想像以上の大きさに驚いた。
ビニールハウスが4棟、その南に露地のトマト畑、奥には様々な野菜が植えられている自給自足用の畑。山の懐に包み込まれるように広がっている。
トマト栽培には温度と湿度の管理が大切で、ビニールハウスにはその設備を整えていると昇が歩きながら説明してくれた。
「今日ちーちゃんには、道の駅や直売所で販売する湘南ポモロンを収穫してもらおうと思います。手前がポモロンのレッドで、左手にあるのがゴールドです」
「これを収穫できるんですか? なんか果物狩りみたいで楽しそうですね」
「その後に袋詰めして午前10時までにお店に納入しないとならないので、あまりのんびりしていられませんよ」
「あっ! はい」
行楽気分だった千勢は、昇の農家としての真剣な顔を見て気を引き締めた。
「まず完全に熟したものを穫ってほしいんです。スーパーなどで販売しているトマトって熟す一歩手前で収穫して流通している間に、追熟っていうんですけど、赤くなるようにしているんです」
「聞いたことあります。バナナとかそうですよね」
「そうですね。でも、これは『朝採れ』として直売するので、熟した状態で出荷するんです。完熟のポモロンは味が濃くておいしいと、人気があるんですよ」
昇が誇らしそうな表情になった。自分が大切に作った物が誰かに褒められる、やはり嬉しいものだろう。
「完熟の基準はヘタの際まで赤くなっている実ですね。トマトを採るのは、茎が曲がっている所を親指で押さえて反対側にクイッと折る感じ」
説明しながら昇が見本を見せてくれた。千勢は見様見真似でやってみる。あまり力を入れずにポロッと採れた。
「おっ! 採れました!」
湘南ポモロン、初収穫! 採ったトマトを昇に見せると「食べていいですよ」と言われ、パクッと口に入れた。
「うん、トマトの味がしっかりしていておいしいですね」
昇はパアッと笑顔になってうなずいた。さらに選別のポイントやカゴへの入れ方など仕事の流れを教えてくれた。
「じゃあ、1時間を目安にこの列を全部お願いします」
最後に示された目標に、思わず「うっ」となった。1列にトマトは何株あるのだろう。ハウスの端が果てしなく思える。
千勢は「よしっ!」と気合を入れてポモロンの収穫を始めた。熟しているものを見極めて採り、傷や裂果がないか確認してカゴに入れる。それを何度も繰り返す。
「ちーちゃん、なかなか手際がいいですね」
別の畝で収穫している昇が声を掛けてくれた。褒められて千勢のやる気にエンジンがかかった。黙々と作業を進める。慣れてくるとスムーズに手が動く。
外はどんよりとした曇り空なのに、ハウスの温度のせいで顔から体から汗が流れ落ちる。だが、それが心地いい。
余裕がでてきて手に取るポモロンに愛情がわいてきた。買った人がおいしいといって食べてくれますように。一つ一つに気持ちを込めながら優しく扱った。
ときどき水分補給で休憩しながらも、千勢は瞬く間に1列を収穫し終えた。フウッと息をつく。
「ちーちゃん、早いですね。しかも丁寧ですし」
「夢中になって収穫したらあっという間でしたよ」
こんなに何かに没頭したのはいつ以来だろう。カゴいっぱいのポモロンを見つめて、千勢は充実感に浸っていた。
稔と結婚して以来、千勢は何年も専業主婦だった。40歳に手が届くかという頃、働いてみたいという欲求が湧いてきた。子どものいる人生を諦めかけていて、有り余る時間を有効活用したかったのだ。
しかし食品メーカーの営業部で働いた3年ほどの職歴では出来る仕事は限られる。家事を疎かにしたくなかったから、短時間でもOKなスーパーのレジ係を始めた。
立ちっぱなしで大変な部分もあったが、レジ打ちではスピードを意識したりお金のやり取りは正確さを心がけたりと、自分なりに工夫して頑張っていた。
今でいうクレーマーもいないことはなかった。でもその場合は正社員が対応してくれたので別段ストレスは感じなかった。
唯一、苦痛だったのは休憩時間だ。パートは30代から50代の女性がほとんど。口を開けば夫の文句か子供の自慢だった。千勢は稔に何の不満もなかったし子供にも恵まれなかったから、全く会話に入っていけなかった。
千勢はいつも笑顔の仮面を被って意味のないおしゃべりを聞いていた。ときどきテレビドラマや旅行などのネタになっても、すぐに「ウチの息子が」「私の娘はね」と家族の話に戻ってしまう。
普通の人には微笑ましいエピソードも、千勢には小さな針となって仮面に突き刺さる。仮面が裂けそうなのを必死で堪えているのに、無神経な同僚はいきなり「子どもは作らないの?」「赤ちゃん嫌いなの?」と喉元に刃(やいば)を突き刺してくる。
限界だった。
悩んだ末に稔に相談した。仕事の内容ではなく人間関係で辞めるなんて恥ずかしいと思っていた。
「ちーちゃん、大変だったね。人間関係は自分だけじゃどうにもならないからね……。家計が苦しい訳じゃないし無理しなくていいよ」
稔は優しかった。千勢はその言葉に甘えた。そうするうちに稔の転勤が決まった。
それ以来、千勢は60歳になるまで仕事をすることはなかった。
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