富士見の丘で

らー

文字の大きさ
上 下
20 / 35

20.仕事

しおりを挟む

 ビニールハウスに足を踏み入れるとモゥワッと温風に包まれた。青々とした植物の香りと湿り気を帯びた土の匂い。

 ハウスの中はトマトの株が整然と並び、何列もの畝が奥まで続く。株は支柱にそって天に上るように伸び、腰の位置辺りに赤くて艶やかな果実が鈴なりに実っている。

「うわぁ、すごいですね!」


 千勢は前日、ミルクを動物病院まで連れて行ってくれたお礼に、トマトの収穫作業を手伝う約束をした。

 午前中に出荷するというので朝7時に富士見の丘で待ち合わせ。千勢は農作業ができるような洋服を持っていなかったので、佳奈に紺色のジャージーとTシャツを借りた。黒い長靴と農作業用の麦わら帽子は予備としてあるものを渡された。

 少しぶかぶかだが、立派な「農家の嫁」の姿に見える。ちょっとコスプレをしているようで恥ずかしかった。


 初めて昇が営む山崎ファームに来た千勢は、想像以上の大きさに驚いた。

 ビニールハウスが4棟、その南に露地のトマト畑、奥には様々な野菜が植えられている自給自足用の畑。山の懐に包み込まれるように広がっている。

 トマト栽培には温度と湿度の管理が大切で、ビニールハウスにはその設備を整えていると昇が歩きながら説明してくれた。

「今日ちーちゃんには、道の駅や直売所で販売する湘南ポモロンを収穫してもらおうと思います。手前がポモロンのレッドで、左手にあるのがゴールドです」

「これを収穫できるんですか? なんか果物狩りみたいで楽しそうですね」

「その後に袋詰めして午前10時までにお店に納入しないとならないので、あまりのんびりしていられませんよ」

「あっ! はい」

 行楽気分だった千勢は、昇の農家としての真剣な顔を見て気を引き締めた。

「まず完全に熟したものを穫ってほしいんです。スーパーなどで販売しているトマトって熟す一歩手前で収穫して流通している間に、追熟っていうんですけど、赤くなるようにしているんです」

「聞いたことあります。バナナとかそうですよね」

「そうですね。でも、これは『朝採れ』として直売するので、熟した状態で出荷するんです。完熟のポモロンは味が濃くておいしいと、人気があるんですよ」

 昇が誇らしそうな表情になった。自分が大切に作った物が誰かに褒められる、やはり嬉しいものだろう。

「完熟の基準はヘタの際まで赤くなっている実ですね。トマトを採るのは、茎が曲がっている所を親指で押さえて反対側にクイッと折る感じ」

 説明しながら昇が見本を見せてくれた。千勢は見様見真似でやってみる。あまり力を入れずにポロッと採れた。

「おっ! 採れました!」

 湘南ポモロン、初収穫! 採ったトマトを昇に見せると「食べていいですよ」と言われ、パクッと口に入れた。

「うん、トマトの味がしっかりしていておいしいですね」

 昇はパアッと笑顔になってうなずいた。さらに選別のポイントやカゴへの入れ方など仕事の流れを教えてくれた。

「じゃあ、1時間を目安にこの列を全部お願いします」

 最後に示された目標に、思わず「うっ」となった。1列にトマトは何株あるのだろう。ハウスの端が果てしなく思える。

 千勢は「よしっ!」と気合を入れてポモロンの収穫を始めた。熟しているものを見極めて採り、傷や裂果がないか確認してカゴに入れる。それを何度も繰り返す。

「ちーちゃん、なかなか手際がいいですね」

 別の畝で収穫している昇が声を掛けてくれた。褒められて千勢のやる気にエンジンがかかった。黙々と作業を進める。慣れてくるとスムーズに手が動く。

 外はどんよりとした曇り空なのに、ハウスの温度のせいで顔から体から汗が流れ落ちる。だが、それが心地いい。

 余裕がでてきて手に取るポモロンに愛情がわいてきた。買った人がおいしいといって食べてくれますように。一つ一つに気持ちを込めながら優しく扱った。

 ときどき水分補給で休憩しながらも、千勢は瞬く間に1列を収穫し終えた。フウッと息をつく。

「ちーちゃん、早いですね。しかも丁寧ですし」

「夢中になって収穫したらあっという間でしたよ」

 こんなに何かに没頭したのはいつ以来だろう。カゴいっぱいのポモロンを見つめて、千勢は充実感に浸っていた。



 稔と結婚して以来、千勢は何年も専業主婦だった。40歳に手が届くかという頃、働いてみたいという欲求が湧いてきた。子どものいる人生を諦めかけていて、有り余る時間を有効活用したかったのだ。

 しかし食品メーカーの営業部で働いた3年ほどの職歴では出来る仕事は限られる。家事を疎かにしたくなかったから、短時間でもOKなスーパーのレジ係を始めた。

 立ちっぱなしで大変な部分もあったが、レジ打ちではスピードを意識したりお金のやり取りは正確さを心がけたりと、自分なりに工夫して頑張っていた。

 今でいうクレーマーもいないことはなかった。でもその場合は正社員が対応してくれたので別段ストレスは感じなかった。

 唯一、苦痛だったのは休憩時間だ。パートは30代から50代の女性がほとんど。口を開けば夫の文句か子供の自慢だった。千勢は稔に何の不満もなかったし子供にも恵まれなかったから、全く会話に入っていけなかった。

 千勢はいつも笑顔の仮面を被って意味のないおしゃべりを聞いていた。ときどきテレビドラマや旅行などのネタになっても、すぐに「ウチの息子が」「私の娘はね」と家族の話に戻ってしまう。

 普通の人には微笑ましいエピソードも、千勢には小さな針となって仮面に突き刺さる。仮面が裂けそうなのを必死で堪えているのに、無神経な同僚はいきなり「子どもは作らないの?」「赤ちゃん嫌いなの?」と喉元に刃(やいば)を突き刺してくる。

 限界だった。

 悩んだ末に稔に相談した。仕事の内容ではなく人間関係で辞めるなんて恥ずかしいと思っていた。

「ちーちゃん、大変だったね。人間関係は自分だけじゃどうにもならないからね……。家計が苦しい訳じゃないし無理しなくていいよ」

 稔は優しかった。千勢はその言葉に甘えた。そうするうちに稔の転勤が決まった。

 それ以来、千勢は60歳になるまで仕事をすることはなかった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

六華 snow crystal 5

なごみ
現代文学
雪の街、札幌を舞台にした医療系純愛小説。part 5 沖縄で娘を産んだ有紀が札幌に戻ってきた。娘の名前は美冬。 雪のかけらみたいに綺麗な子。 修二さんにひと目でいいから見せてあげたいな。だけどそれは、許されないことだよね。

富嶽を駆けよ

有馬桓次郎
歴史・時代
★☆★ 第10回歴史・時代小説大賞〈あの時代の名脇役賞〉受賞作 ★☆★ https://www.alphapolis.co.jp/prize/result/853000200  天保三年。  尾張藩江戸屋敷の奥女中を勤めていた辰は、身長五尺七寸の大女。  嫁入りが決まって奉公も明けていたが、女人禁足の山・富士の山頂に立つという夢のため、養父と衝突しつつもなお深川で一人暮らしを続けている。  許婚の万次郎の口利きで富士講の大先達・小谷三志と面会した辰は、小谷翁の手引きで遂に富士山への登拝を決行する。  しかし人目を避けるために選ばれたその日程は、閉山から一ヶ月が経った長月二十六日。人跡の絶えた富士山は、五合目から上が完全に真冬となっていた。  逆巻く暴風、身を切る寒気、そして高山病……数多の試練を乗り越え、無事に富士山頂へ辿りつくことができた辰であったが──。  江戸後期、史上初の富士山女性登頂者「高山たつ」の挑戦を描く冒険記。

恋するクロネコ🐾

秋野 林檎 
現代文学
全40話 7/26 完結しました。7/31番外編を投稿しました。(投票してくださった方々ありがとうございました。)頭脳明晰、容姿端麗の秋月翔太を花音(かのん)は、胡散臭い人だと避けていた、ところが不思議な出来事で急接近!カッコつけたがりの翔太と、意地っ張りの花音、そして変人と呼ばれる花音の兄、真一も絡んで意外な方向へと…。花音と翔太が見た愛とは?死とは?そして二人の愛は、。

★【完結】柊坂のマリア(作品230428)

菊池昭仁
現代文学
守銭奴と呼ばれた老人と 貧民窟で生きる人々の挑戦

処理中です...