富士見の丘で

らー

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18.蓮池

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 山稜より高くなった朝日が池に降り注いで、眩いほどに輝いている。

 その水面に浮かぶのは円らな緑の葉。葉の中から真っ直ぐ空へ向かうように伸びる茎。そして頂には丸みを帯びた大輪の花。幾重にも重なる薄桃色の花びらが、陽が高くなるにつれほころんでくる。

 言いようのない優美さに吸い込まれそうになる。

 ふわりと風。かすかに柔らかな芳香が漂う。本当に極楽浄土はこうなのかと、錯覚してしまうほどだ。

 しかし、ここは瑞雲寺の蓮池。千勢の周りでは、カメラマンが熱心にシャッターを切り、高齢の夫婦がおしゃべりしながら歩いている。

 瑞雲寺は蓮の名所として有名らしく、早朝にもかかわらず人出がある。見頃に合わせて「観蓮会」が開催され、開門は午前6時。千勢も蓮を見るため早起きして来ていた。


 今日は二十四節気で「小暑」、七十二候は「蓮始開(はすはじめてひらく)」。

 「小暑」は梅雨明けが近づいて本格的に暑くなるころ。「蓮始開」は文字通り蓮の花が咲き始めるころ。

 「二十四節気七十二候」に興味を持った千勢は、和尚に一から十まで聞くのは申し訳ないと思い、自分で日本の暦について紹介する本を購入した。今日のページには蓮に関連する豆知識も載っていた。

 『蓮は泥より出でて泥に染まらず』

 泥の中に根を張りながらも清らかな花を咲かせる蓮。つまり、汚れた環境にいても染まらずに清く生きることを表しているそう。

 また、「蓮華の五徳」という仏教の教えがあり、五徳を実践できれば極楽に生まれることができると言われているのだ。

 淤泥不染の徳、一茎一花の徳、花果同時の徳、一花多果の徳、中虚外直の徳。細かな説明を読みながら、極楽浄土への道はほど遠いかもしれないと悟った。

 ふと見ると蓮池の周りに人が増えてきた。日差しも強くなってきて、じっとりと汗ばんでいる。

 いつまでも蓮を愛でていたいとは思ったが、千勢は稔のいる霊園への階段を登り始めた。蓮池に飛び込んでそのまま極楽浄土で稔と再会できたらいいのにと願いながら。



 夕方にはいつも通り将太と楠の家に戻って来た。しかし、何度呼んでもミルクの姿が見えない。

「みーちゃーん、ただいまー。将太君、来たよー」

 いつもなら呼べばすぐに草むらからミィーと顔を出すのに。朝早く出掛けたから遠くへ行ってしまったのかと心配になった。

「みーちゃーん! あそぼーよー!」

 将太も心配しながら呼び続ける。

「しょうがないね。家の中で待っていようか」

 玄関の鍵を開けようとしたら、将太が「みーちゃんいた!」と叫んだ。

 ミルクは縁側の下で丸くなって毛繕いしている。だが千勢が「みーちゃん」と声を掛けても反応がない。

「あっ! 血が……」

 周辺の地面には赤褐色の血痕が点在していた。

「みーちゃん、怪我してる」

 千勢は将太と顔を見合わせた。

「うわぁ、どうしよう?」

「どうしたら……。手当してあげないと……」

 縁側の下から出そうと千勢が手を伸ばすと、ミルクがシャーっと唸った。気が立っているようだ。

「みーちゃん、痛い……?」

 心配そうな将太が触ろうとすると、またシャーと唸った。人懐こいはずのミルクが見せる初めての威嚇に、将太はビクッとした。

「みーちゃん、大丈夫だから!」

 噛まれてもいいやと千勢は思い切ってミルクを捕まえた。嫌がって暴れるが逃さないよう力を込めた。体を見てみると左の後ろ足がパックリと切れている。

「これは痛いね、みーちゃん。動物病院で治療してもらわないと……。」

 でも動物病院がどこにあるかも、どうやって行けばいいかも分からない。自分一人ではどうにもならない。

「佳奈ちゃんにお願いできないかな?」

 すがるような思いで千勢はリュックから携帯電話を取り出した。

 佳奈に電話を掛けるが、何度コールしても出ない。どうしよう。仕事中は電話に出られないのかも。

「母ちゃん、今日は『けんしん』に行くって言ってたよ」

「健診? 病院じゃあ、電話出られないね」

 終わるまで待つか。いや、そもそも佳奈は猫アレルギーだ。迷惑はかけられない。ではタクシーを呼ぶか。しかしこんな山奥に来るまで何十分とかかるだろう。頭の中で何が最善の策なのか懸命に考えた。

「僕さ、父ちゃん呼んでくるよ!」

 突然、将太が叫んで走り出した。

 どうすべきか悩んでいた千勢は、将太の決断力と行動力に、まだ小学校1年生なのにと感心した。そして頼もしい後ろ姿に「将太君、お願いね!」と声を掛けた。

 将太は「みーちゃん待っててね!」と残して姿が見えなくなった。

 その間に千勢は家に入り、ミルクの寝床からタオルを取り出して小さな体をそっと包んだ。

 富士見の丘の近くにある畑までは、大人が歩いて5分もかからない。子どもが走ったらどのくらいだろう。1分1秒がものすごく長い時間に感じた。

「みーちゃん、絶対に死なないでね。お願いだから、私を置いていかないで」

 ふと稔の笑顔が脳裏をよぎった。

 ピロロロロロッ。電子音が鳴る。着信を見ると佳奈だった。

「ちーちゃん、電話くれました? どうかしましたか?」

「佳奈ちゃん……」

 佳奈の明るい声を聞いたらホッとして目頭が熱くなってきた。千勢はそれを堪え、ミルクが怪我をしたことを説明した。佳奈はすぐに行けないから夫の昇に連絡してみると言う。

「いま将太君が機転を利かせて昇さんを呼びに行ってくれているんです」

 そろそろ将太が畑に着いた頃かもしれない。

 ブッブー。車のクラクションが鳴った。

「あ、来たみたい!」

 思いのほか早くて驚いた。「じゃあ」と電話を切ろうとすると佳奈が「ちーちゃん」と呼んだ。

「みーちゃんはきっと無事です。将太も、旦那も私も、優愛だって。みんながついていますから!」

「ありがとう」と言って千勢は目元を拭った。

 同時に将太が玄関を開けて「みーちゃん! 来たよ!」と息を弾ませながら言う。

 千勢は急いでミルクをキャリーバッグに入れた。暴れる様子はなかったので少し安心した。

 急いで表に出ると、軽トラの荷台に将太が乗り込む所だった。その隣で優愛がニコニコと笑っている。

「優愛ちゃん、こんにちは」

「こなんちはぁ」

 千勢はその笑顔を見て自分の中で緊張がゆるむのを感じていた。

「昇さん、すみませんがお願いします」

 キャリーバックを揺らさないよう気をつけながら、軽トラの助手席に座る。

「詳しいことは行きながら話します」

「はい。とりあえず車、出しますね」
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