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16.紫陽花
しおりを挟む「きれいですね、アジサイ」
稔の墓参りの帰りに瑞雲寺の山門を過ぎると、和尚が植木の手入れに精を出していた。参道の脇には塀に沿ってアジサイが植えられている。6月に入ってだんだんと青く色づいてきていた。
「ああ、楠木さん。こんにちは。今年も無事に咲き始めましたよ」
和尚は立ち上がって、腕で額の汗を拭った。入梅が近づいて湿度もだいぶ高くなってきたから、庭仕事も大変だろう。
「このアジサイ、青で統一されているみたいですけど、何ていう品種なんですか?」
「ヒメアジサイっていう品種です。鎌倉にある明月院にも植えられていて『明月院ブルー』として有名ですね」
「あ、明月院のアジサイは見に行ったことあります。鮮やかな青一色だと清々しい感じがしますよね。梅雨でも爽やかな気分になります」
「お好きでしたら、アジサイ1本差し上げますよ」
置いてあった剪定バサミで和尚が枝を切った。まだ色づきはじめの淡い水色のアジサイを千勢に渡した。
「え? いいんですか? ありがとうございます」
「楠木さん、『紫陽花守り』ってご存じですか?」
「あじさいまもり? いや、知らないですね」
「願いを込めてアジサイを飾るんです。和紙や半紙に願い事と名前を書いてアジサイを包み、紐で縛って玄関や軒下に吊るすんですよ」
「へぇー、60年生きてきて全く知りませんでした」
「あまり知られていない風習かもしれませんね。もともとは梅雨時の邪気を払うためだったのでしょうが、玄関に飾ると金運が上がるとか、トイレに吊るすと病除けになるとか、方法は色々あるみたいです」
「そうなんですね。効果はどうか分からないですけど、花を飾るだけでも気分が明るくなりますからね。ぜひ、やってみます」
千勢は玄関に青いアジサイを飾ることを想像し、「そうだ」と思った。
「あと、もう1本いただけますか? 将太君にも教えてあげたいと思います」
和尚は「それはいいですね」と、今度は少し小ぶりのアジサイをくれた。
「そういえば、瑞雲寺って色々な花が咲いていますよね。きれいに手入れされてて、すてきだなぁと思います」
「ありがとうございます。これは完全に私の好みなんですよね。実はですね、境内に七十二候の植物を全て植えるという野望を持っているんです。季節の移ろいを感じられるようにしたいんですよ」
「七十二候って季節を表すもの……でしたっけ?」
「そうです。二十四節気と七十二候とあって、二十四節気は半月ごとに季節の変化を示しています。七十二候はもっと細かくて5日ごとに動植物の動きや気象の変化を区分しているんです」
「そうなんですね。勉強になりますね」
「例えば二十四節気の立春は分かりますよね。それに対応する七十二候は東風解凍(はるかぜこおりをとく)、黄鶯睍睆(うぐいすなく)、魚上氷(うおこおりをいずる)となります」
「和尚、すごいですね! それで、その植物を全て植えるんですか」
「七十二候は、おおまかに天候と動物、植物に分けられます。天候も動物も観察するしかありませんが、植物は境内に植えることができるなと思いまして。昔は桜の木くらいはありましたが殺風景な境内でしてね。牡丹や紅花など花はほとんど私が植えました。なるべく自然に近い状態になるよう工夫しています」
「だからこんなに立派な境内に……」
千勢は感嘆の声をもらした。植物を観察するだけなら畑に並べて植えればいいが、瑞雲寺では植物の適材適所とでもいうか、植物が映えるようにレイアウトされている。和尚のセンスの良さに感服する。
「ついでに言いますと、山門の手前にある掲示板には、その時の二十四節気と七十二候を書き出しているんですよ」
「え! 知りませんでした……。すみません」
毎日通っているのに掲示板の文字の意味など意識したことがなかったと、千勢は反省した。
「そうでしょうね。楠木さんはいい意味でも悪い意味でも一直線でしたから」
掲示板に目をやると『二十四節気 芒種 七十二候 螳螂生』とある。その横に小さな文字で何か書いてあるが、この位置からだと読めなかった。
「芒種(ぼうしゅ)は辛うじて分かるんですが、七十二候のほうは何て読むんですか?」
「『かまきりしょうず』です。カマキリが生まれてくる頃ということです」
「あっ、カマキリの卵って茶色くてスポンジ状で。小さいカマキリが何匹も何十匹もワサワサと出てくるんですよね。子どもの頃に見て気持ち悪かった……」
昆虫なんて、都会暮らしで何年も見ていない。もし子ども、男の子なんかがいたりしたら、もう少し詳しくなったのだろうけれど。
「あぁ、そこに、カマキリ!」
和尚が千勢の足元を指した。
「え? わっ!」
千勢は慌てて後ろに飛びのけた。
「あはは、すみません、ウソです。大丈夫ですよ」
「何ですか、それ!」
ははははと2人で笑い合った。
普段は真面目な和尚の、お茶目ないたずらに千勢は意外なものを感じた。いや、今まで知ろうとしなかっただけかもしれない。
「カマキリは鋭い鎌を持っているから怖いイメージがありますけど、野菜につく害虫を捕まえてくれる田畑のヒーローなんですよ」
「害虫をやっつける田畑のヒーロー、かっこいいですね」
「あと、前脚を持ち上げているのが祈っているみたいだから、拝み虫とも呼ばれるんですよ」
「確かに、祈ってるかも。見方を変えると全く違うものに思えるなんて不思議ですよね」
和尚とこんなに話すのは初めてだった。自然の知識はもちろんだが何か大切な事を教わった気がする。
アジサイのお礼を言って、瑞雲寺を後にした。千勢は今度からきちんと掲示板を確認しようと心の中で誓った。
富士見の丘で将太と落ち合うと、アジサイを見せて聞いてみた。
「将太君、今日は紫陽花守りっていうのを作ってみない?」
「あじさい、まもり?」
「そう。紙にお願い事を書いてアジサイを包んでね、玄関とかに吊るすと夢が叶うんだって」
「ちーちゃん、ほんとに?」
「うん、瑞雲寺の和尚が教えてくれたの。一緒にやってみよう」
家には和紙も半紙もなかったので、将太のおえかき帳の紙を拝借することにした。
将太は小学校でひらがなを覚えたばかりで、ぎこちないながらも一生懸命に『おやつがいっぱいたべたい』と書き込んだ。
千勢は『稔さんに会えますように』と心を込めて文字にした。
「ちーちゃん、なんて書いてあるの?」
「これはね、稔さんっていって私の旦那さま。あの世に行っちゃったから、また会いたいなぁってお願いしたの」
「じゃあ紫陽花守りで会えるんだね。よかったね、ちーちゃん」
にかぁーっと将太が笑った。その笑顔だけで本当に願いが叶う気がした。
「あ! みーちゃんもお願い事、あるかな?」
そう言って縁側で丸くなっていたミルクを捕まえて机に戻ってきた。
「みーちゃんは何をお願いする?」
ミィー。
「うーん、そうだな。将太君と同じかもね」
「そうか、ミルクいっぱい飲みたいんだね」
将太の願い事を書いた横に『みるくがみるくをいっぱいのめるように』と付け加えた。
それじゃあ、共食いみたいになっちゃうと心配になったが、日本語は間違っていないのだから、まぁいいか。
縛る紐もなくてどうしようと考え、巾着袋の紐を引き抜いた。背に腹はかえられない。アジサイに結んでみると、水色の紐がマッチして花束のようにも見える。
玄関に吊るすと気分も和らぎ優しい気持ちになった。アジサイの丸みを帯びた形や色のグラデーションがそうさせるのかもしれない。それだけで紫陽花守りを飾る価値はあると思う。
「じゃあ、おやつ食べようか? 今日はドーナツね」
「やったぁ! もうお願い事が叶ったぁ!」
毎日のように遊びにくる将太に、おやつを作るのが千勢の楽しみになっていた。
将太は好き嫌いなく何でも「おいしい」と言って食べてくれる。その姿が、小さな稔のようで愛おしかった。
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