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11.緑雨
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ザザァッ。ボタボタッ、ボタッ。ザァッ。ボタッ。
雨、か。
風にあおられたクスノキから雨粒が落ちて派手な音を立てているようだ。こんなに雨音が響くなんて。住んでみないと分からないことは多いものだ。
いつもなら雨が奏でるリズムの変化を楽しんだりできるのに、今は耳障りに感じる。
お腹が、痛い。
下腹部がずんと重い。子宮の左側がしぶしぶときしむ。
千勢は50歳を過ぎた頃に閉経を迎えた。御多分に漏れず「女ではなくなった」ことに少なからずショックを受けた。
しかし、それ以上に長年抱えていた重い荷物を下ろしてもいいよと言われたような、安堵感があった。
それなのに、まだ苦しまなければならないのか。
子宮も卵巣もとっくに機能を失っているはずなのに、存在を主張するかのように、痛む。しかも月に1度くらいのスパンだからタチが悪い。
ザザァー。ボタッ、ボタッ。
天気予報を見ていなくて分からないが降水量は多そうだ。
窓の外は薄暗い。まだ時間は早かったが、千勢は起き上がった。布団の足元で眠っていたミルクが立ち上がって伸びをする。
「みーちゃん、おはよう。起こしちゃってごめんね」
バッグの中からいつも持ち歩いている鎮痛剤を取り出す。空腹で服用するのは胃に負担をかけると知ってはいるが、食事を摂る余裕はない。
錠剤を口に入れ、水を飲む。するとミルクが足首にすり寄ってきた。
「お腹すいた? 少し早いけど朝ごはんね」
専用の皿に仔猫用ミルクを注ぐ。スーパーストーンで頼んだ次の日には商品が届いていた。箱買いしたら親切にもスタッフが配達してくれた。約束通り千勢は毎日のようにお店に行っている。
「みーちゃん、ごめんね。今日は、ダメ……」
ミルクはまだペロペロと舐めていたが、千勢は布団に戻った。
腹痛を忘れるには眠るしかない。しかし、腹痛はなかなか眠らせてくれない。
部屋はほんのり明るくなってきた。
体調の悪化に呼応して、気持ちがどうしようもなく沈む時がある。布団に横になっているはずなのに、底なし沼にぐわんぐわんと落ちていく感じ。千勢は半ば観念して、黒い沼にどっぷりと浸かっていた。
下腹部にキリリと痛みが走る。千勢は小さく薄く息を吐いた。
いっそ、この身体ごと全部消えてしまえばいいのに。
「稔さん」と夫の名前を呼ぶ。
「私はどこにいるのかな?」
稔のいない世界はあまりにも殺風景で、すべてにおいて現実感がなくて、自分は本当に生きているのだろうかと疑いたくなる。
それに比べて、心の中にある稔との思い出はなんと色鮮やかなことか。色彩だけではない。稔の声も、匂いも、肌触りも、ありありと蘇る。
分かっている。過去は自分の都合のいいように装飾が施されるものだと、薄々気がついてはいる。
分かっているからこそ、記憶の世界に逃げたくなる。そこにしか、自分の居場所がないように思えて。
「稔さん」もう一度、名前を呼ぶ。
するとミルクが布団の上に乗ってきた。体の左側で丸くなった。
千勢は薄く目を開けた。
「ここには、ミルクが、いる」
仔猫の小さな体の重みが、まるで井戸の釣瓶(つるべ)のように、沈んでいく一方だった千勢をじんわりと浮き上がらせた。
なんとなく、水面が見えるあたりまで上昇してきた気がする。それでもまだ息苦しくて、沼の中からは抜けられていないけれども。
再び目が覚めると10時を過ぎていた。
ザァ。パタパタパタッ。
まだ雨は降り続いているが、朝方より小降りになったみたいだ。
ミルクの姿がない。「みーちゃん?」と声を掛けると、縁側のほうからミィーと鳴き声が聞こえて安心した。
バタートーストにカフェオレの朝食を済ませ、鎮痛剤をのむ。今は痛みは落ち着いているが、2~3日は薬が手放せない。
少し肌寒いので長袖のシャツに着替えた。その上からレインコートを羽織る。
「じゃあ、みーちゃん。行ってきます」
雨の中、ミルクを外へ出すのは気が引けて、そのまま家を出た。
玄関の前で楠を見上げた。新葉に入れ替わったばかりの楠は、みずみずしさに溢れている。古くなった葉が屋根に落ちて、音を立てていたのだ。
道路と山の斜面の間には自然の川が出来ていて、かなりの雨量だということが分かる。下り坂の道は砂利が流れ出て滑りやすいから気をつけて歩いた。
これからの梅雨の季節を考えると、しっかりした長靴を買った方がいいかもしれない。あれほど荷物を減らして引っ越してきたのに、生活するためには必要な物が増えていく。
瑞雲寺の境内では、鐘楼堂を囲むように青紫色のアヤメが見事に咲いていた。ハナショウブやカキツバタと紛らわしいが、花びらが網目模様になっているからアヤメのはずだ。
最近気がついたが、瑞雲寺は季節に合わせて多種多様な花々が植えられている。それまでマンション住まいだった千勢は、四季折々の植物が身近にあるのは素敵だなと思えた。
今日は楠木家之墓の清掃は省かせて頂こう。
雨に濡れないように、線香に火をつける。1本だけだと湿気ってすぐに消えてしまいそうで、何本かまとめて置く。いつもより勢いのある煙が、しゃがんだ千勢の傘の内に溜まっていく。
「ねぇ、雨の日の思い出といったら、やっぱり屋久島でしょう?」
(そうそう。『屋久島には月に35日は雨が降る』っていうのを実感したよね)
「縄文杉に登山した日ね。朝から小雨が降ってたけど、大丈夫かなって登り始めたんだよね」
(そうしたらお昼過ぎからすごい土砂降りになって)
「私の人生の中で一番の豪雨だった」
(レインコート着てても服がすぶ濡れになってさ)
「ザックカバーもしてたのに、荷物が全部びしょびしょでね」
(歩きづらくて荒川登山口にたどり着く頃には薄暗くなってさ。身の危険を感じたよね)
白谷雲水峡トレッキング、永田いなか浜の夕日、西部林道のドライブなど、世界自然遺産・屋久島の思い出を語りきる頃には、すべての線香が燃え尽きていた。
冷たい雨の中ですっかり体が冷えてしまい、稔には悪いが早めに帰宅することにした。
雨、か。
風にあおられたクスノキから雨粒が落ちて派手な音を立てているようだ。こんなに雨音が響くなんて。住んでみないと分からないことは多いものだ。
いつもなら雨が奏でるリズムの変化を楽しんだりできるのに、今は耳障りに感じる。
お腹が、痛い。
下腹部がずんと重い。子宮の左側がしぶしぶときしむ。
千勢は50歳を過ぎた頃に閉経を迎えた。御多分に漏れず「女ではなくなった」ことに少なからずショックを受けた。
しかし、それ以上に長年抱えていた重い荷物を下ろしてもいいよと言われたような、安堵感があった。
それなのに、まだ苦しまなければならないのか。
子宮も卵巣もとっくに機能を失っているはずなのに、存在を主張するかのように、痛む。しかも月に1度くらいのスパンだからタチが悪い。
ザザァー。ボタッ、ボタッ。
天気予報を見ていなくて分からないが降水量は多そうだ。
窓の外は薄暗い。まだ時間は早かったが、千勢は起き上がった。布団の足元で眠っていたミルクが立ち上がって伸びをする。
「みーちゃん、おはよう。起こしちゃってごめんね」
バッグの中からいつも持ち歩いている鎮痛剤を取り出す。空腹で服用するのは胃に負担をかけると知ってはいるが、食事を摂る余裕はない。
錠剤を口に入れ、水を飲む。するとミルクが足首にすり寄ってきた。
「お腹すいた? 少し早いけど朝ごはんね」
専用の皿に仔猫用ミルクを注ぐ。スーパーストーンで頼んだ次の日には商品が届いていた。箱買いしたら親切にもスタッフが配達してくれた。約束通り千勢は毎日のようにお店に行っている。
「みーちゃん、ごめんね。今日は、ダメ……」
ミルクはまだペロペロと舐めていたが、千勢は布団に戻った。
腹痛を忘れるには眠るしかない。しかし、腹痛はなかなか眠らせてくれない。
部屋はほんのり明るくなってきた。
体調の悪化に呼応して、気持ちがどうしようもなく沈む時がある。布団に横になっているはずなのに、底なし沼にぐわんぐわんと落ちていく感じ。千勢は半ば観念して、黒い沼にどっぷりと浸かっていた。
下腹部にキリリと痛みが走る。千勢は小さく薄く息を吐いた。
いっそ、この身体ごと全部消えてしまえばいいのに。
「稔さん」と夫の名前を呼ぶ。
「私はどこにいるのかな?」
稔のいない世界はあまりにも殺風景で、すべてにおいて現実感がなくて、自分は本当に生きているのだろうかと疑いたくなる。
それに比べて、心の中にある稔との思い出はなんと色鮮やかなことか。色彩だけではない。稔の声も、匂いも、肌触りも、ありありと蘇る。
分かっている。過去は自分の都合のいいように装飾が施されるものだと、薄々気がついてはいる。
分かっているからこそ、記憶の世界に逃げたくなる。そこにしか、自分の居場所がないように思えて。
「稔さん」もう一度、名前を呼ぶ。
するとミルクが布団の上に乗ってきた。体の左側で丸くなった。
千勢は薄く目を開けた。
「ここには、ミルクが、いる」
仔猫の小さな体の重みが、まるで井戸の釣瓶(つるべ)のように、沈んでいく一方だった千勢をじんわりと浮き上がらせた。
なんとなく、水面が見えるあたりまで上昇してきた気がする。それでもまだ息苦しくて、沼の中からは抜けられていないけれども。
再び目が覚めると10時を過ぎていた。
ザァ。パタパタパタッ。
まだ雨は降り続いているが、朝方より小降りになったみたいだ。
ミルクの姿がない。「みーちゃん?」と声を掛けると、縁側のほうからミィーと鳴き声が聞こえて安心した。
バタートーストにカフェオレの朝食を済ませ、鎮痛剤をのむ。今は痛みは落ち着いているが、2~3日は薬が手放せない。
少し肌寒いので長袖のシャツに着替えた。その上からレインコートを羽織る。
「じゃあ、みーちゃん。行ってきます」
雨の中、ミルクを外へ出すのは気が引けて、そのまま家を出た。
玄関の前で楠を見上げた。新葉に入れ替わったばかりの楠は、みずみずしさに溢れている。古くなった葉が屋根に落ちて、音を立てていたのだ。
道路と山の斜面の間には自然の川が出来ていて、かなりの雨量だということが分かる。下り坂の道は砂利が流れ出て滑りやすいから気をつけて歩いた。
これからの梅雨の季節を考えると、しっかりした長靴を買った方がいいかもしれない。あれほど荷物を減らして引っ越してきたのに、生活するためには必要な物が増えていく。
瑞雲寺の境内では、鐘楼堂を囲むように青紫色のアヤメが見事に咲いていた。ハナショウブやカキツバタと紛らわしいが、花びらが網目模様になっているからアヤメのはずだ。
最近気がついたが、瑞雲寺は季節に合わせて多種多様な花々が植えられている。それまでマンション住まいだった千勢は、四季折々の植物が身近にあるのは素敵だなと思えた。
今日は楠木家之墓の清掃は省かせて頂こう。
雨に濡れないように、線香に火をつける。1本だけだと湿気ってすぐに消えてしまいそうで、何本かまとめて置く。いつもより勢いのある煙が、しゃがんだ千勢の傘の内に溜まっていく。
「ねぇ、雨の日の思い出といったら、やっぱり屋久島でしょう?」
(そうそう。『屋久島には月に35日は雨が降る』っていうのを実感したよね)
「縄文杉に登山した日ね。朝から小雨が降ってたけど、大丈夫かなって登り始めたんだよね」
(そうしたらお昼過ぎからすごい土砂降りになって)
「私の人生の中で一番の豪雨だった」
(レインコート着てても服がすぶ濡れになってさ)
「ザックカバーもしてたのに、荷物が全部びしょびしょでね」
(歩きづらくて荒川登山口にたどり着く頃には薄暗くなってさ。身の危険を感じたよね)
白谷雲水峡トレッキング、永田いなか浜の夕日、西部林道のドライブなど、世界自然遺産・屋久島の思い出を語りきる頃には、すべての線香が燃え尽きていた。
冷たい雨の中ですっかり体が冷えてしまい、稔には悪いが早めに帰宅することにした。
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