富士見の丘で

らー

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6.結婚

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 稔との結婚は、突然だった。



 飲み会帰りの告白以降、初めての社内恋愛に千勢の気持ちは浮き立っていた。

「2人のことは秘密にしよう」。稔の言葉はまるで恋の媚薬だった。

 稔が仕事とプライベートはきっちり分けたいと望んだから、職場では素知らぬふりをしていた。それでも視線が重なるとふわっと微笑んでくれる稔に、千勢はどんどん惹かれていった。

 仲のいい同僚に「最近いいことあった?」と聞かれても「何にもないよ」と笑ってごまかす。社内で「楠木さんて優しいよね」と噂話を聞いても「え? そう?」と興味のないふりをする。
千勢はちょっとだけ優越感をくすぐられるのを自覚しながら、毎日が楽しくて仕方なかった。


 休日には話題の映画を見に行ったりデパートに買い物にいったり、いたって普通のデートを重ねていた。

 そのなかで千勢は「稔と感覚が一緒」と感じることが増えていった。

 例えば、食べたい料理が同じだったり、お笑い番組を見ていて同時に笑ったり、殺人事件のニュースに許せないと怒ったり。

 ただ、違う環境で育った人間なのだから、すべてが同じとは限らない。

 たまに意見が違うことがあっても、稔はそれを否定せず「なんでそう思うの?」と聞いてくれた。千勢は分かって欲しいから懸命に説明する。そうして歩み寄っていく。

 その積み重ねで、だんだんとお互いを理解していった。何をしても自分を受け止めてくれるんだと信頼できた。

 こんな人と結婚できたらいいな。そう思い始めた頃だった。

 稔に福岡支店への異動の内示がでた。

 稔が遠くへ行ってしまう……。千勢は頭を抱えた。これからどうしよう。そして様々な可能性を考えた。

 遠距離で関係を続けるか。
 東京と福岡は直線距離でもおよそ880km。東海道・山陽新幹線が開業したばかりだったが、それでも気軽に行き来できる距離ではない。
 自分には無理かもしれない。

 では、稔と別れることになってしまうのか。そんな悲しいことは考えたくはない。

 ならば、いっそ……結婚? いやいや、結婚は一人で出来るものではないから、可能性は低い。家族や会社などクリアしなければならない問題が多すぎる。

 それか転職して福岡へ行くとか。
 ただ、食品会社での事務の仕事が面白く感じ始めていた。書類作成も要領よくこなせるようになって、自分なりの提案も出来るようになった。しかも後輩の教育係に抜擢され、やりがいを持っていた。
中途半端な状態で仕事を辞めたくない。

 しかも千勢は生まれも育ちも東京。ずっと実家暮らし。誰一人知り合いのいない土地での生活は、想像すらできない。

 将来への不安と期待が入り混じった交差点で、千勢は目が回るくらいグルグルしていた。進むべき道はどちらなのか。すべて黄色信号が点滅していて、なかなか前へ進めない。


 いよいよ稔が引っ越しをする前の日。駅前の喫茶店で会うことになった。

 仕事の引き継ぎや転居の準備などで稔はずっと忙しくて、2人で会うのは内示が出たと伝えられたとき以来だった。

 レトロな雰囲気の店内は土曜日だからか、それなりに混雑している。

「ちーちゃんは、どうしたい?」

 そう稔に訊ねられても、まだ千勢の心の中で答えは出ていなかった。

「稔さんのこと、好きです。でも……」

 逆接の接続詞を口にしてしまったことで、自分の気持ちを押し込めるような言葉が次から次へと出てきた。

「東京と福岡は遠すぎて。会いたいと言ってもすぐには会えない。それは寂しすぎて私には無理だと思う。福岡に行くことも考えたけど……。できれば今の会社は辞めたくない。稔さんの仕事に比べたらたいしたことないけど、やっと面白くなってきた所だし。しかも家族も友達も誰もいない場所で生活するなんて出来ない。だから、ごめんなさい」

 結論まで一気にまくしたてた。稔どうこうではなく、千勢自身が人生の岐路に立たされて、一人の人間に人生をあずける覚悟ができていなかった。

 稔は目線を下に向けたまま、黙って聞いていた。そして最後に「分かった」とだけ言って席を立った。礼儀正しい稔が、挨拶もせずに店から出ていった。

 そこでようやく、千勢は自分が別れの言葉を告げたのだと気付いた。

「稔さんのこと大好きなのに……。ずっと一緒にいたいと思っていたのに……」

 千勢は溢れてくる涙をどうすることもできなかった。人目もはばからず、声をあげて泣いた。店内に流れる悲しい別れの曲をかき消すように。


 引っ越し当日。千勢は布団から起き上がれないでいた。

「稔さんだって、なんで引き留めてくれなかったの……」
そうすればよかったのか。後悔の涙で、枕は大海原のようだった。

 お昼頃「お客様が来たよ」と母親が部屋に来た。泣きはらした顔では「誰にも会いたくない」と断ったが、「男の人だけど、同じ会社の……」最後まで聞かずに飛び起きた。


「稔さん、どうして……」

 玄関に立っていた稔は、満面の笑みだった。

「忘れ物、しちゃってね。ちーちゃん」

「え? なに……?」

「やっぱり、俺、ちーちゃんと離れるの嫌だ。一緒に福岡に来て欲しい。結婚しよう」

 そして稔は婚姻届を千勢の前に広げた。

「仕事を辞めなきゃならないのは申し訳ない。その分、俺が何倍も稼ぐ。ご両親と離れることになるけど、俺が新しい家族になる。友達がいないなら俺が10人分しゃべるから」

 言っていることはめちゃくちゃで、すべて実行して欲しいとは思わないけれど、もうそんなことはどうでもよかった。

「とにかく。どんなことをしてでもちーちゃんと一緒にいたい」

「私も、稔さんと一緒にいたい」

 この人さえいれば、誰も何もいらない――。

 これが千勢の人生の、最大で唯一の願いになった。
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