富士見の丘で

らー

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7.翌朝

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「稔さん、行かないで!」

 千勢が叫んでも、稔はいつものように笑っている。

「返事してよ、稔さん」


 あぁ。一瞬、どこだか分からなかったが、引っ越したんだと気付く。

「いないんだ……」

 目覚めても隣に稔の温もりが感じられない朝。絶望に襲われる。また今日も稔の存在しない世界を独り生きなければならない。

 千勢は目をつぶり、夢に出てきた稔を思い出す。大好きな笑顔だった。もう二度と増えることのない稔との思い出。夢であっても〝新しい稔〟に会えたことが嬉しい。

 休日にはよく朝寝坊をしてベッドの中で、どんな夢を見たとか、ご飯は何が食べたいとか、たわいもない話をした。手垢のついたような表現だけど、ありふれた日常が幸せだった。

 千勢にとって稔との生活が、世界の全てだった。だけどあの日、世界が消滅した。

「稔さん、どこ……?」



 すると突然、右ほほにザラッと湿った感触がした。驚いて目を開けると、ミルクがいた。

「みーちゃん、なぐさめてくれるの?」

 知らずに涙がこぼれていたらしい。ミルクはペロペロッと顔をなめると、千勢の布団の上に乗ってきた。

 ミィー。ミィー。ミィー。騒がしく鳴く。

「なんだ、そうか。おなかがすいたんだね」

 少し時間が早いが千勢は起き上がって、冷蔵庫から牛乳を取り出した。小皿に入れると牛乳パックは空になってしまった。

 今日、牛乳か何かペットフードを買ってこないとならないな。牛乳を一生懸命なめるミルクを眺めながら、千勢は考えていた。

 それから非常用の真空パックご飯を2個温めて、お茶漬けだけの朝食を済ませる。もう1個でおにぎりを作り、リュックに詰めた。


 出掛けるとき、ミルクをどうしようか迷った。夕方に戻ってくるまで、家に閉じ込めておくのはかわいそうかと思い、玄関から外に出す。

 すると、よほど遊びたかったのだろう、すぐに草むらの中へ走っていた。

「じゃあ、みーちゃん、いってきます」

 声をかけたがミィーという返事がない。そこで千勢の胸に一抹の不安がよぎった。

 ちゃんと帰ってくるだろうか……。

 心配しながらも千勢は歩き出した。

 富士見の丘を通りがかり足を止める。今日も晴天。富士山には少し雲がかかっていて稜線はぼんやりしているが、美しい冠雪は見て取れる。

 やはり、富士山がキレイに見えるかどうかでテンションが違ってくる。


 15分ほど歩くと瑞雲寺の山門が見えてきた。創建など詳しい由来は知らないが、歴史を感じる木造建築は文化財に登録されるレベルだろう。

 山門の左手には弁天池が広がり、右手には庫裡、鐘楼堂、一番奥に本堂がある。境内はかなり広く、隅々まで手入れが行き届いている。

 御本尊にお参りするため本堂に入ると、涼安りょうあん和尚が朝の勤行を行っていた。和尚のお経は、低くて張りがあって、心が落ち着いてくる。

 和尚の少し後ろで静かに一礼。しばし、響き渡る声に聞きほれる。

 そうして気持ちを静めて、墓苑へ向かう。入口で手桶と柄杓をお借りして、境内の横に伸びる階段を上る。

 最上段に来ると、雑木林の間からようやく富士山が姿を現す。

 千勢は「ふぅ」っと一息ついて、名峰に目を向けた。



 あれは、新幹線で大阪方面へ向かっている時だった。富士山を見るため、いつも稔は右側の窓際に座っていた。

「死んだらさぁ、富士山が見えるお墓で眠りたいなぁ」

 突然、稔が言った。まだ50歳そこそこの頃だったと思う。

 死とか墓とか物騒な発言に驚いたが、千勢もいいなぁと思い「そうしよう」と同意した。

 ただ、世界一の長寿大国・日本で、仕事を引退すらしていないのに、もうそんなことを考えているのかと千勢には深く印象に残った。



 稔は熊本県阿蘇の出身。農家の次男だった。

 稔が亡くなった時、親戚は当然、稔の両親も眠る先祖代々の阿蘇の墓にと思っていたようだ。

 しかし千勢は、それでは稔が奪われてしまうと抵抗した。新幹線での発言を思い出し、

「稔さんは実家の墓ではなく、富士山の見えるお墓を希望していました!」
 葬式でそう言い張った。

 約束の四十九日の納骨までに必死で探して、ようやく見つけたのが瑞雲寺だった。

 稔の兄には最後まで反対されたが、妻の意地で押し切った。おかげで、稔の親戚とは疎遠になってしまったが。

 それでも、この場所から雄大な富士山を見るたびに、瑞雲寺に決めて良かったと思う。

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