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いやらし天狗 ~穂波編~
うすれゆく記憶
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じめじめした湿気がまとわりつき、桜が散ったばかりだというのに真夏ような暑さが続く。熱気がこもって、ワイシャツの下を汗が流れた。
ひっきりなしに発車音が鳴り、駅のホームから既に満員の電車へ乗りこむ。いつもより遅い時間帯だが人の波が途切れることは無い、それでも頭1つ分上へ抜けているので呼吸をするのは楽な方だ。
「……っ」
顔をしかめた穂波は心の内でため息を吐いた。降りる駅に到着したので、不快をふり払って降車する。
日差しが路面へ反射して、足早に通りすぎる人々を下から照らす。ビルのエレベーターへ乗り、ズボンの後ろポケットへ手をやった穂波は愕然とした。
今月に入って2回目、今年に入ってから何回目だろう。ロッカーへ置いてあった予備のスラックスに履き替えて、脱いだズボンを見たらベトベトした液体が付いていた。
「マジか……はぁぁぁ……」
満員電車で尻を触られるのは日常茶飯事、なにが嬉しくて筋肉質で大きな男を触るのか理解に苦しむ。いつから対象になったのか、以前は電車へ乗ってもこんな事はなかったはずだ。
「ズボン置いててよかった……シャツは大丈夫……」
精液をかけられたのは今回が初めてではない。1回目に最悪な日を過ごして以来、ロッカーへ常時着がえを置くようにしている。
染みにならないようにトイレの洗面所で洗っていたら、間の悪い男が個室から出てきた。
「ああ~スッキリしたわ~。あれ山川、ズボンどうしたん? 」
不思議そうな顔をした人物は、鏡ごしにのぞいて手を伸ばす。
「えぇっとコーヒーをこぼしてしまって……って西! 先に手を洗って! 」
「はは、ごめん、ごめん」
屈託なく笑った同僚の西は蛇口をひねり、ハンドソープを泡立てた。
「そういえば、また課長が探してたぞ」
課長の伊香草は苦手な上司だ。事あるごとに絡まれて、仕事には関係ないことでも呼び出される。いまも理由はとくに思い当たらない。
眉尻を下げた穂波を見て、西が鏡ごしに声をかける。
「俺もいっしょにいこか? 」
「いや大丈夫だよ、ありがと」
ズボンをしぼって風通しのよい所へ掛けた穂波は、カラフルなボードを横目にオフィスへ向かった。
課長の席へ行くと、スラックスに白いポロシャツを着た伊香草がいた。ジムで鍛えた胸元はパツンパツンに張って、日焼けサロンで焼いた顔からのぞく歯は白い。
「山川くん、やっとオフィスにきたのか! 」
「はい、おはようございます。それよりなにか御用ですか? 」
「そうだ、これだよ、これ! どういうことだい? 」
伊香草は穂波の休暇申請書をペラペラゆらした。だいぶ前に出していた有給休暇の申請書だ。
「どうって課長には、1カ月以上前に伝えていますが」
「そうだったかな、しかし長すぎないかい? 休暇の理由は? 」
「そこへ記載した通りです。営業先には伝えてますし、新商品の試用も兼ねて長めに取ってます。それにブレット部長の許可も下りてますよ」
会社はクライミング用品なども取り扱っているので、担当の穂波が実際に使用して安全性や使用感を確認している。今回の休暇は運営に支障をきたさない範囲だが、課長に何か言われるのは分かっていたので部長にも相談していた。
伊香草はこんな調子で隅々へ口を出してくる。同僚に聞いてもそのような事はなく、穂波だけに向けられている。入社して2年もすれば対応のしかたも慣れた。
部長の名を聞いて、苦々しい表情をした課長に礼をしてから自分の席へ戻った。
***************
「え? 今はそんな女いないって。あーはいはい、わかったよ」
電話を切ると『母』と表示されていた画面が暗くなる。結婚が口癖の母は子を思っての言葉だろうけれど、毎回言われると返答に窮する。
「はあ……」
ワイシャツを脱ぎ捨てた穂波は、頭から熱いシャワーを浴びて憂うつを洗い流す。
入社したての頃しつこく飲み会へ誘われ、伊香草と2人きりで困っていたのを思いだした。課長の舐めまわすような視線がとても苦手だ。排水溝へ流れおちる水を見ていたら、村の男たちが同じ視線を穂波へ向けていた記憶がよみがえる。
帰還してから1年近く経っていた。遠い昔の出来事のようで、記憶は徐々に色褪せる。
ふかく息を吐いて、そっと手を肌へ這わせた。あの日ほど敏感ではなくなったけれど、芯が残ってるみたいに触ればビクリと反応する。
(忘れられるわけ……ないじゃないか)
手を動かしたら、熱のともった身体がふるえる。仰け反ってもれた声は、シャワーにかき消された。
ローテーブルへあごをのせ、ボンヤリしていると富岡に貰った木札が視界へ入った。
「はぁ……」
木札を握りしめ、テーブルへ突っ伏した穂波はため息をついた。
退社時間になり、各々家路へ就く。明日から休暇に入るので、仕事が残らないよう整理していた。同僚の西が寄ってきて穂波の手元をのぞく。
「それ筋ハラ課長の仕事だろ? 空白のまま机に置いといてやればいいのに」
西は社用ビルの満員エレベーターで課長の胸筋に圧し潰されてから、そう呼んでいる。
「はは……他の人が困るといけないし、もうすぐ終わるから……」
「ああ、もう穂波、優しすぎんだろ」
渋い顔をした西は、なんやかんやと言いながら手伝った。後は本社へメールを送るだけなので、西へ礼を言って先に帰らせる。
もより駅のホームの時計は11時を回っていた。煌々と明るい通りを過ぎ、公園を横切った。共同住宅のポストへ暗証番号を入力すると、広告の中に穂波宛の封筒が入っていた。差し出し人の名はないものの、青くきれいな封筒だ。
穂波のマンションは駅から離れているが、静かでベランダからの眺望は良い。缶ビール片手に窓辺へ立って封筒を開けると1枚の写真が出てきた。
「……なっ!? 」
目を背けたくなる写真だった。いつ撮影されたのか、縄へ吊るされて男に犯されてる穂波の姿。相手は背中しか写ってないけれど、よく知っている男だ。写真の裏に無機質な字で『戻ッテオイデ』と印字されていた。
「まさか……どうして……? 」
桃井に言われていたので、帰ってすぐスマートフォンと番号を変えた。筋蔵には住所まで知られてなかったはずだった。真っ青になった穂波は窓辺にへたりこんだ。
ひっきりなしに発車音が鳴り、駅のホームから既に満員の電車へ乗りこむ。いつもより遅い時間帯だが人の波が途切れることは無い、それでも頭1つ分上へ抜けているので呼吸をするのは楽な方だ。
「……っ」
顔をしかめた穂波は心の内でため息を吐いた。降りる駅に到着したので、不快をふり払って降車する。
日差しが路面へ反射して、足早に通りすぎる人々を下から照らす。ビルのエレベーターへ乗り、ズボンの後ろポケットへ手をやった穂波は愕然とした。
今月に入って2回目、今年に入ってから何回目だろう。ロッカーへ置いてあった予備のスラックスに履き替えて、脱いだズボンを見たらベトベトした液体が付いていた。
「マジか……はぁぁぁ……」
満員電車で尻を触られるのは日常茶飯事、なにが嬉しくて筋肉質で大きな男を触るのか理解に苦しむ。いつから対象になったのか、以前は電車へ乗ってもこんな事はなかったはずだ。
「ズボン置いててよかった……シャツは大丈夫……」
精液をかけられたのは今回が初めてではない。1回目に最悪な日を過ごして以来、ロッカーへ常時着がえを置くようにしている。
染みにならないようにトイレの洗面所で洗っていたら、間の悪い男が個室から出てきた。
「ああ~スッキリしたわ~。あれ山川、ズボンどうしたん? 」
不思議そうな顔をした人物は、鏡ごしにのぞいて手を伸ばす。
「えぇっとコーヒーをこぼしてしまって……って西! 先に手を洗って! 」
「はは、ごめん、ごめん」
屈託なく笑った同僚の西は蛇口をひねり、ハンドソープを泡立てた。
「そういえば、また課長が探してたぞ」
課長の伊香草は苦手な上司だ。事あるごとに絡まれて、仕事には関係ないことでも呼び出される。いまも理由はとくに思い当たらない。
眉尻を下げた穂波を見て、西が鏡ごしに声をかける。
「俺もいっしょにいこか? 」
「いや大丈夫だよ、ありがと」
ズボンをしぼって風通しのよい所へ掛けた穂波は、カラフルなボードを横目にオフィスへ向かった。
課長の席へ行くと、スラックスに白いポロシャツを着た伊香草がいた。ジムで鍛えた胸元はパツンパツンに張って、日焼けサロンで焼いた顔からのぞく歯は白い。
「山川くん、やっとオフィスにきたのか! 」
「はい、おはようございます。それよりなにか御用ですか? 」
「そうだ、これだよ、これ! どういうことだい? 」
伊香草は穂波の休暇申請書をペラペラゆらした。だいぶ前に出していた有給休暇の申請書だ。
「どうって課長には、1カ月以上前に伝えていますが」
「そうだったかな、しかし長すぎないかい? 休暇の理由は? 」
「そこへ記載した通りです。営業先には伝えてますし、新商品の試用も兼ねて長めに取ってます。それにブレット部長の許可も下りてますよ」
会社はクライミング用品なども取り扱っているので、担当の穂波が実際に使用して安全性や使用感を確認している。今回の休暇は運営に支障をきたさない範囲だが、課長に何か言われるのは分かっていたので部長にも相談していた。
伊香草はこんな調子で隅々へ口を出してくる。同僚に聞いてもそのような事はなく、穂波だけに向けられている。入社して2年もすれば対応のしかたも慣れた。
部長の名を聞いて、苦々しい表情をした課長に礼をしてから自分の席へ戻った。
***************
「え? 今はそんな女いないって。あーはいはい、わかったよ」
電話を切ると『母』と表示されていた画面が暗くなる。結婚が口癖の母は子を思っての言葉だろうけれど、毎回言われると返答に窮する。
「はあ……」
ワイシャツを脱ぎ捨てた穂波は、頭から熱いシャワーを浴びて憂うつを洗い流す。
入社したての頃しつこく飲み会へ誘われ、伊香草と2人きりで困っていたのを思いだした。課長の舐めまわすような視線がとても苦手だ。排水溝へ流れおちる水を見ていたら、村の男たちが同じ視線を穂波へ向けていた記憶がよみがえる。
帰還してから1年近く経っていた。遠い昔の出来事のようで、記憶は徐々に色褪せる。
ふかく息を吐いて、そっと手を肌へ這わせた。あの日ほど敏感ではなくなったけれど、芯が残ってるみたいに触ればビクリと反応する。
(忘れられるわけ……ないじゃないか)
手を動かしたら、熱のともった身体がふるえる。仰け反ってもれた声は、シャワーにかき消された。
ローテーブルへあごをのせ、ボンヤリしていると富岡に貰った木札が視界へ入った。
「はぁ……」
木札を握りしめ、テーブルへ突っ伏した穂波はため息をついた。
退社時間になり、各々家路へ就く。明日から休暇に入るので、仕事が残らないよう整理していた。同僚の西が寄ってきて穂波の手元をのぞく。
「それ筋ハラ課長の仕事だろ? 空白のまま机に置いといてやればいいのに」
西は社用ビルの満員エレベーターで課長の胸筋に圧し潰されてから、そう呼んでいる。
「はは……他の人が困るといけないし、もうすぐ終わるから……」
「ああ、もう穂波、優しすぎんだろ」
渋い顔をした西は、なんやかんやと言いながら手伝った。後は本社へメールを送るだけなので、西へ礼を言って先に帰らせる。
もより駅のホームの時計は11時を回っていた。煌々と明るい通りを過ぎ、公園を横切った。共同住宅のポストへ暗証番号を入力すると、広告の中に穂波宛の封筒が入っていた。差し出し人の名はないものの、青くきれいな封筒だ。
穂波のマンションは駅から離れているが、静かでベランダからの眺望は良い。缶ビール片手に窓辺へ立って封筒を開けると1枚の写真が出てきた。
「……なっ!? 」
目を背けたくなる写真だった。いつ撮影されたのか、縄へ吊るされて男に犯されてる穂波の姿。相手は背中しか写ってないけれど、よく知っている男だ。写真の裏に無機質な字で『戻ッテオイデ』と印字されていた。
「まさか……どうして……? 」
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