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第九章
奥ノ坊の少年
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早朝の読経へ参加した後、ニコニコした顔の法印に呼び止められた。昨晩は月読の成長っぷりに驚いていた法印と昔話に花が咲いた。
「いやはや、昨日は失礼致しました。本当にご立派になられて、貴方様の話は一進殿より聞きおよんでおります。ここでは我が家のようにおくつろぎ下さい」
「お心遣い痛みいります」
「ほっほっ、さっそく紹介したい者達がいるので道場をのぞかれませぬか? 」
門下生は山伏でもある。山開き前に先立って山へ入り、道の清掃や修繕を行う。道場は全国から集まってきた門下生で賑わっていた。
法印が道場の扉を開けると、活気の良い声が聞こえる。
門下生と九郎達が合気道の稽古をしていた。奥ノ坊の道場は抜刀術の他にも、武の道へ通ずる剣や体技を実践している。
大人に混ざって赤茶けた髪の少年も元気よく声を出している。稽古が終了して法印が手を叩き、門下生達は道場の掃除をはじめる。
「押井! それに応毅と宮田もこちらへ」
大きめの声で呼んだ法印は、3人を月読へ紹介する。
礼儀正しく挨拶した押井は法印に代わって道場を取り仕切ることも多い師範代、長めのスポーツ刈りでがっしりした体格だ。
応毅と呼ばれる赤茶髪の少年は、法印の孫でもうすぐ15歳になる。最後に紹介された宮田はひょろっとしていて心もとない、巌のような押井の隣へ立っているせいか、よけいに頼り無さそうに見える。
首を傾げた月読はひょろっとした若者を見つめた。視線に気づき宮田は挙動不審にあわあわとして、その様子に法印が眉尻を下げる。
「ほっほ、強そうには見えんでしょう? 宮田はハッキリと視覚で感知できる見鬼なのですよ」
近年この地では見えざるものを視る能力を持つ者が減って、法印や押井でも黒い影のようにしか認識できないと言う。門下生の中にもうっすら感知できる者もいるが、ハッキリ見える者は宮田と応毅だけだ。
天狗をふくめ山怪の多く存在する山中では見える者は、霊験あらたかに重宝される。然し、見えるという事はそれだけで怪異からも気付かれやすく危険にも晒される。
時代の流れか、現代における無意識の拒否に起因するものなのだろうか、『見える者』は昔より減っている。
月読も思うところが多く、ひそかに唸る。
「なあ爺さんから聞いたけど、あんた月読様なんだって? 何が出来るんだ? 」
無遠慮な言葉が応毅から発せられた瞬間、ゴスッと音がして赤髪の少年は頭を抱えて座りこんだ。
「痴れ者めっ。昨日、分を弁えろとあれほど言ったろうが! 」
「いってぇ~、やったなこの禿げ爺ぃ!! 」
ゲンコツをくらった応毅が法印へ跳びかかり、爺と孫の喧嘩がはじまった。
いつもの事なのだと押井は溜息を吐く。
「お見苦しいところを申し訳ありません、あの2人なら放って置いても大丈夫です。朝食の準備が出来ていますので大広間まで案内します」
押井の視線がふと斜め後ろへ移る、ふり向けば九郎が立っていた。
朝食後に山駈けの説明を受けて解散した。
明朝から2日間、3つの山を駆け越えて要所で祝詞の奏上や読経を行なう。
部屋へ戻った面々は明日の準備を行う。月読が持ってきたのは白い装束と手甲や足の装備だけなので、九郎へ近づいてザックから取り出された物を興味深く眺めた。
退魔の仕事やマガツヒ討伐時の実装とは違う装備。
頭へつける 頭襟、檜皮の扇子、短刀、ザイルの貝緒や引敷と呼ばれる尻に敷く毛皮が置かれている。そろばん形の最多角念珠を見つけて、月読がジャカジャカ音立てていたら取り上げられた。
視線を横へ移せば、細く畳まれた布があった。布が縫い合わされ、金属の飾りと組紐の房が付いている。
「それは結袈裟だ」
低い声が耳へとどく、修験者が身につける略式の袈裟だと言う。丸いぼんぼりではなく、金属の輪宝が付いている。月読にも小さな鏡と経文のついた組紐が渡された。
「そういや、九郎は僧籍を持っていたっけ」
「父が師だからな、ひと通りの修行を終えている」
「紛うことなき破戒僧だよなぁ」
「何か言ったか? 」
低い声で笑った九郎は、腰に巻く鹿の毛皮を月読へ差しだす。使い込まれた滑らかな引敷は補強されて大切に手入れされている。月読に渡された茶色い毛皮に比べて、九郎の物は黒くて毛が長い熊皮だ。
捕食対象になった気がして月読はブルリと身ぶるいした。
食べられないように隣の部屋を訪ねると、金村と大伴も装備の点検をしていた。別室に滞在している西之本は、今は仕事中のようだ。
月読は金村のカバンから取り出された物に注目する。
「金村っ、それは何だ!? 」
「法螺貝」
大きな巻貝が麻紐で編まれた網に包まれていた。山伏は様々な場面で法螺貝を吹くという、ここへ来る前に麓の海岸で練習したそうだ。
金村が法螺貝を練習した経緯が気になって尋ねた。
「俺の生まれた地元では、ホラ貝を吹く嫌がる漢達が太い荒縄に巻かれ、勢いよく水をかけられながら運ばれて、最後は獅子舞でしずめられます」
端折り過ぎた説明に、月読がブルブル怯えていると大伴が補足してくれた。雨乞いの祈祷と、長雨による水害で田畑を流された農民の感謝の舞が合わさった行事だ。
「金村の実家の近くでやっている水止舞という祭りで、小さい頃に見ていた法螺貝が懐かしかったみたいですよ」
大伴のおかげで怖ろしい想像がいくぶん和らぎ、ホッとした月読はそんな祭りもあるのだと感心した。
隣の部屋から戻ると、九郎は用意を終えていた。月読はさっき金村たちと話していた祭りの話をする。
「見に行きたいのか? 」
「…………うん。時期はもう少し先だけど、行くなら金村が案内してくれるって」
「分かった。帰ったら相談して日にちを調整しておこう」
断わられると思って小さな声で返事をしたら、あっさり許可されて拍子抜けした。
****************
甘めのばんけ味噌は辛口の酒にピッタリだろうなどと考えながら、月読はぼんやり縁側で安坐していた。もちろん此処にいる間は禁酒生活だ。
山から降りてくる水気たっぷりの風は清々しく気持ちが良い。御山にいる時とは異なる空間、石の水鉢へアマガエルがポチャリと飛び込み、植木の近くで蝶の羽ばたく音がする。
瞑想して、自身の気を辿り内側へと向ける。散らばった光の中央に欠けた歪な月が浮いている。半月にも満たないそれは月読の器。
せめて半分戻れば強い妖は難しいけれど、大方の妖は月読にとって問題なくなる。九郎の心配事も減って、都が行っている神事のサポートも出来るはずだ。
だが器の修復状況は微々たるもので、歪な三日月も闇龗が積み上げた形のままだった。
月読は御山へ戻った際、龍神に尋ねてみる意思を固めた。
羽音が近づいて目を開けると、アゲハ蝶が羽を小刻みに動かして舞うようにヒラヒラ飛んでいた。視線を感じた月読は、大きな杉の樹冠へ顔を向けた。気配のあった場所は枝がゆれて、誰かが飛び去った後のようだった。
止まっていた時間が急に流れ始めて、周囲の物音が聞こえる。道場の廊下から走ってくる音がした。
「あんた、今の見てたのか!? 」
赤髪の少年が息を切らせて縁側に立っていた。
個人的に来訪しているので、月読に関する詳細は他言無用と口止めしていた。法印以外は毛色の違う九郎の仲間が来ているという認識程度であって、月読も【見える者】とは思いもしなかった様子だ。
「九……今の? 知り合いか? 」
月読は九郎の名を言いかけて止めた。先程の気配が気になったのと、九郎は見える素振りを少年には見せていない。
「そんなんじゃねー。あいつが俺にちょっかい掛けてくるから、爺さんがしばらく山に入るなって……」
山伏の修行に参加するようになってから、周囲に現れるようになったという。警戒した祖父の法印から山に入らないよう強く注意されたそうだ。1人だけ弾き出された疎外感から、少年から怒りの感情が滲んでいた。
「よほど嫌っているのだな。どんな奴なんだ? 」
「赤い面の天狗だ! ……ってあんた本当に見えてたのか? 」
見えるのかと聞かれればそうだが、妖は既に去った後で見てはいない。真っ直ぐこちらを見ていた応毅の目が段々訝しげになり地面を向く。
「なんでもねぇ……忘れてくれ」
下を向く表情が一瞬、月読の子供時代と重なった。本人は見えると言っても相手がそうとは限らない。見えない相手への証明は難しく、否定されるのは心が傷つく。月読には九郎がいたが、応毅はどうなのだろうか。
「見えるのは嫌かい? 」
「…………知らねえよっバーカ! 」
応毅は捨て台詞を吐いて走り去った。
眉頭をハの字にした月読は大きく溜息を吐き、前髪を後ろへ撫でつけてから立ち上がる。
「甘えてるだけだから、放置していいっす」
「うわっ」
いきなりボソッと声が聞こえて月読はビックリした。いつの間にか縁側へ金村が座っていたので、月読も上げた腰を下ろした。隈のある目が剣呑としていて、いつも飄々とした彼にしてはめずらしい。
応毅は【見える】ことが原因で、2年前に奥ノ坊へ来たのだと金村は話す。
「法印さんだっているのに、自分の事ばかりで周りが見えて無い。勝手にああやって線引きをして、優しくしてくれる人に八つ当たりしてるだけ」
「お前が其処まで言うなんて珍しいな」
「……ダメな頃を思い出して、腹が立つんすよ」
消化しきれない想いは、金村に複雑な感情を芽生えさせている。両親は早くに他界して親戚とも疎遠、薬心寺の住職や九郎に出会わなければ金村は今も独りで天涯孤独だった可能性もあった。いっぽう応毅は親元から離されたものの、両親は健在で法印にも引き取られ、温かく迎え入れられている。
似た境遇に自分を重ね合わせ、比べて違いを見てしまったのだろう。ほんのちょっとの差異は、相手を恵まれた境遇に見せて羨む心が生まれる。
くすぶる青年を見ていた月読は、とりあえず頭をさわさわと撫でる。短髪で尖らせた金髪は意外に柔らかかった。最初は首を激しく動かして避けられたが、逃げなかったのでずっと撫でていたら観念して顔を伏せた。
「そりゃあ、まだ子供だから甘えたいだろ。大人でも別に甘えたっていいんだぞ、りょう君」
結局、スライム状になった金村を大伴が迎えに来るまで月読は撫で続けた。
―――――――――――――――
お読み頂きありがとうございます。
もろもろの用語集です。
※読経…仏教徒が経典や経文を音読すること。
※山伏…修験者。山岳で寝起きして修行する者。山で伏すもの。
※山怪…山で遭遇する怪異のこと。
※最多角念珠…角のある108の珠を用いた数珠。修験道では悪霊払いの意味合いで、読経や祈祷時に揉み擦って音を立てる。
※輪宝…仏語。古代インドの兵器で八方に峰端の出た車輪。転輪王と呼ばれる理想の国王の持つ宝。
※僧籍…僧や尼として登録された籍。
※破戒僧…守るべき戒律を破った僧。なまぐさ坊主。
※法螺貝…フジツガイ科の巻貝。大きく成長して最大の物は40センチで幅は20センチ以上になる。インド洋に分布するが、小型の近縁種に房総半島のボウシュウボラがいる。
殻の先端を削って吹き口をつけて法螺笛にする。
「いやはや、昨日は失礼致しました。本当にご立派になられて、貴方様の話は一進殿より聞きおよんでおります。ここでは我が家のようにおくつろぎ下さい」
「お心遣い痛みいります」
「ほっほっ、さっそく紹介したい者達がいるので道場をのぞかれませぬか? 」
門下生は山伏でもある。山開き前に先立って山へ入り、道の清掃や修繕を行う。道場は全国から集まってきた門下生で賑わっていた。
法印が道場の扉を開けると、活気の良い声が聞こえる。
門下生と九郎達が合気道の稽古をしていた。奥ノ坊の道場は抜刀術の他にも、武の道へ通ずる剣や体技を実践している。
大人に混ざって赤茶けた髪の少年も元気よく声を出している。稽古が終了して法印が手を叩き、門下生達は道場の掃除をはじめる。
「押井! それに応毅と宮田もこちらへ」
大きめの声で呼んだ法印は、3人を月読へ紹介する。
礼儀正しく挨拶した押井は法印に代わって道場を取り仕切ることも多い師範代、長めのスポーツ刈りでがっしりした体格だ。
応毅と呼ばれる赤茶髪の少年は、法印の孫でもうすぐ15歳になる。最後に紹介された宮田はひょろっとしていて心もとない、巌のような押井の隣へ立っているせいか、よけいに頼り無さそうに見える。
首を傾げた月読はひょろっとした若者を見つめた。視線に気づき宮田は挙動不審にあわあわとして、その様子に法印が眉尻を下げる。
「ほっほ、強そうには見えんでしょう? 宮田はハッキリと視覚で感知できる見鬼なのですよ」
近年この地では見えざるものを視る能力を持つ者が減って、法印や押井でも黒い影のようにしか認識できないと言う。門下生の中にもうっすら感知できる者もいるが、ハッキリ見える者は宮田と応毅だけだ。
天狗をふくめ山怪の多く存在する山中では見える者は、霊験あらたかに重宝される。然し、見えるという事はそれだけで怪異からも気付かれやすく危険にも晒される。
時代の流れか、現代における無意識の拒否に起因するものなのだろうか、『見える者』は昔より減っている。
月読も思うところが多く、ひそかに唸る。
「なあ爺さんから聞いたけど、あんた月読様なんだって? 何が出来るんだ? 」
無遠慮な言葉が応毅から発せられた瞬間、ゴスッと音がして赤髪の少年は頭を抱えて座りこんだ。
「痴れ者めっ。昨日、分を弁えろとあれほど言ったろうが! 」
「いってぇ~、やったなこの禿げ爺ぃ!! 」
ゲンコツをくらった応毅が法印へ跳びかかり、爺と孫の喧嘩がはじまった。
いつもの事なのだと押井は溜息を吐く。
「お見苦しいところを申し訳ありません、あの2人なら放って置いても大丈夫です。朝食の準備が出来ていますので大広間まで案内します」
押井の視線がふと斜め後ろへ移る、ふり向けば九郎が立っていた。
朝食後に山駈けの説明を受けて解散した。
明朝から2日間、3つの山を駆け越えて要所で祝詞の奏上や読経を行なう。
部屋へ戻った面々は明日の準備を行う。月読が持ってきたのは白い装束と手甲や足の装備だけなので、九郎へ近づいてザックから取り出された物を興味深く眺めた。
退魔の仕事やマガツヒ討伐時の実装とは違う装備。
頭へつける 頭襟、檜皮の扇子、短刀、ザイルの貝緒や引敷と呼ばれる尻に敷く毛皮が置かれている。そろばん形の最多角念珠を見つけて、月読がジャカジャカ音立てていたら取り上げられた。
視線を横へ移せば、細く畳まれた布があった。布が縫い合わされ、金属の飾りと組紐の房が付いている。
「それは結袈裟だ」
低い声が耳へとどく、修験者が身につける略式の袈裟だと言う。丸いぼんぼりではなく、金属の輪宝が付いている。月読にも小さな鏡と経文のついた組紐が渡された。
「そういや、九郎は僧籍を持っていたっけ」
「父が師だからな、ひと通りの修行を終えている」
「紛うことなき破戒僧だよなぁ」
「何か言ったか? 」
低い声で笑った九郎は、腰に巻く鹿の毛皮を月読へ差しだす。使い込まれた滑らかな引敷は補強されて大切に手入れされている。月読に渡された茶色い毛皮に比べて、九郎の物は黒くて毛が長い熊皮だ。
捕食対象になった気がして月読はブルリと身ぶるいした。
食べられないように隣の部屋を訪ねると、金村と大伴も装備の点検をしていた。別室に滞在している西之本は、今は仕事中のようだ。
月読は金村のカバンから取り出された物に注目する。
「金村っ、それは何だ!? 」
「法螺貝」
大きな巻貝が麻紐で編まれた網に包まれていた。山伏は様々な場面で法螺貝を吹くという、ここへ来る前に麓の海岸で練習したそうだ。
金村が法螺貝を練習した経緯が気になって尋ねた。
「俺の生まれた地元では、ホラ貝を吹く嫌がる漢達が太い荒縄に巻かれ、勢いよく水をかけられながら運ばれて、最後は獅子舞でしずめられます」
端折り過ぎた説明に、月読がブルブル怯えていると大伴が補足してくれた。雨乞いの祈祷と、長雨による水害で田畑を流された農民の感謝の舞が合わさった行事だ。
「金村の実家の近くでやっている水止舞という祭りで、小さい頃に見ていた法螺貝が懐かしかったみたいですよ」
大伴のおかげで怖ろしい想像がいくぶん和らぎ、ホッとした月読はそんな祭りもあるのだと感心した。
隣の部屋から戻ると、九郎は用意を終えていた。月読はさっき金村たちと話していた祭りの話をする。
「見に行きたいのか? 」
「…………うん。時期はもう少し先だけど、行くなら金村が案内してくれるって」
「分かった。帰ったら相談して日にちを調整しておこう」
断わられると思って小さな声で返事をしたら、あっさり許可されて拍子抜けした。
****************
甘めのばんけ味噌は辛口の酒にピッタリだろうなどと考えながら、月読はぼんやり縁側で安坐していた。もちろん此処にいる間は禁酒生活だ。
山から降りてくる水気たっぷりの風は清々しく気持ちが良い。御山にいる時とは異なる空間、石の水鉢へアマガエルがポチャリと飛び込み、植木の近くで蝶の羽ばたく音がする。
瞑想して、自身の気を辿り内側へと向ける。散らばった光の中央に欠けた歪な月が浮いている。半月にも満たないそれは月読の器。
せめて半分戻れば強い妖は難しいけれど、大方の妖は月読にとって問題なくなる。九郎の心配事も減って、都が行っている神事のサポートも出来るはずだ。
だが器の修復状況は微々たるもので、歪な三日月も闇龗が積み上げた形のままだった。
月読は御山へ戻った際、龍神に尋ねてみる意思を固めた。
羽音が近づいて目を開けると、アゲハ蝶が羽を小刻みに動かして舞うようにヒラヒラ飛んでいた。視線を感じた月読は、大きな杉の樹冠へ顔を向けた。気配のあった場所は枝がゆれて、誰かが飛び去った後のようだった。
止まっていた時間が急に流れ始めて、周囲の物音が聞こえる。道場の廊下から走ってくる音がした。
「あんた、今の見てたのか!? 」
赤髪の少年が息を切らせて縁側に立っていた。
個人的に来訪しているので、月読に関する詳細は他言無用と口止めしていた。法印以外は毛色の違う九郎の仲間が来ているという認識程度であって、月読も【見える者】とは思いもしなかった様子だ。
「九……今の? 知り合いか? 」
月読は九郎の名を言いかけて止めた。先程の気配が気になったのと、九郎は見える素振りを少年には見せていない。
「そんなんじゃねー。あいつが俺にちょっかい掛けてくるから、爺さんがしばらく山に入るなって……」
山伏の修行に参加するようになってから、周囲に現れるようになったという。警戒した祖父の法印から山に入らないよう強く注意されたそうだ。1人だけ弾き出された疎外感から、少年から怒りの感情が滲んでいた。
「よほど嫌っているのだな。どんな奴なんだ? 」
「赤い面の天狗だ! ……ってあんた本当に見えてたのか? 」
見えるのかと聞かれればそうだが、妖は既に去った後で見てはいない。真っ直ぐこちらを見ていた応毅の目が段々訝しげになり地面を向く。
「なんでもねぇ……忘れてくれ」
下を向く表情が一瞬、月読の子供時代と重なった。本人は見えると言っても相手がそうとは限らない。見えない相手への証明は難しく、否定されるのは心が傷つく。月読には九郎がいたが、応毅はどうなのだろうか。
「見えるのは嫌かい? 」
「…………知らねえよっバーカ! 」
応毅は捨て台詞を吐いて走り去った。
眉頭をハの字にした月読は大きく溜息を吐き、前髪を後ろへ撫でつけてから立ち上がる。
「甘えてるだけだから、放置していいっす」
「うわっ」
いきなりボソッと声が聞こえて月読はビックリした。いつの間にか縁側へ金村が座っていたので、月読も上げた腰を下ろした。隈のある目が剣呑としていて、いつも飄々とした彼にしてはめずらしい。
応毅は【見える】ことが原因で、2年前に奥ノ坊へ来たのだと金村は話す。
「法印さんだっているのに、自分の事ばかりで周りが見えて無い。勝手にああやって線引きをして、優しくしてくれる人に八つ当たりしてるだけ」
「お前が其処まで言うなんて珍しいな」
「……ダメな頃を思い出して、腹が立つんすよ」
消化しきれない想いは、金村に複雑な感情を芽生えさせている。両親は早くに他界して親戚とも疎遠、薬心寺の住職や九郎に出会わなければ金村は今も独りで天涯孤独だった可能性もあった。いっぽう応毅は親元から離されたものの、両親は健在で法印にも引き取られ、温かく迎え入れられている。
似た境遇に自分を重ね合わせ、比べて違いを見てしまったのだろう。ほんのちょっとの差異は、相手を恵まれた境遇に見せて羨む心が生まれる。
くすぶる青年を見ていた月読は、とりあえず頭をさわさわと撫でる。短髪で尖らせた金髪は意外に柔らかかった。最初は首を激しく動かして避けられたが、逃げなかったのでずっと撫でていたら観念して顔を伏せた。
「そりゃあ、まだ子供だから甘えたいだろ。大人でも別に甘えたっていいんだぞ、りょう君」
結局、スライム状になった金村を大伴が迎えに来るまで月読は撫で続けた。
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お読み頂きありがとうございます。
もろもろの用語集です。
※読経…仏教徒が経典や経文を音読すること。
※山伏…修験者。山岳で寝起きして修行する者。山で伏すもの。
※山怪…山で遭遇する怪異のこと。
※最多角念珠…角のある108の珠を用いた数珠。修験道では悪霊払いの意味合いで、読経や祈祷時に揉み擦って音を立てる。
※輪宝…仏語。古代インドの兵器で八方に峰端の出た車輪。転輪王と呼ばれる理想の国王の持つ宝。
※僧籍…僧や尼として登録された籍。
※破戒僧…守るべき戒律を破った僧。なまぐさ坊主。
※法螺貝…フジツガイ科の巻貝。大きく成長して最大の物は40センチで幅は20センチ以上になる。インド洋に分布するが、小型の近縁種に房総半島のボウシュウボラがいる。
殻の先端を削って吹き口をつけて法螺笛にする。
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