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第八章
月読のルーティンと御山に棲むものたち
しおりを挟む月読の誘拐事件から1カ月ほど過ぎて、表面上は落ちつきを取り戻していた。九郎はカケラ封じの結界の経過観察中で、復帰に向けてのトレーニングは日夜欠かさない。
東の地平線が紫にぼやける頃、月読は脚絆を着けて家を出る。
集落の北にある山門を抜けて御山へと入った。霧におおわれた道中、苔むした小さな祠へ挨拶を済ませながら点在する大岩と崖をこえて進む。登っている内に森の木々は姿を消して、低木が生えている岩山へとたどり着く。
山は寒暖の差が激しい。夏場は一時の避暑で涼しく、冬は吸いこんだ息で喉が切れそうなほど寒い。
真上から照りつける太陽、風雪の浸食で崩れやすい足元など厳しさはあるものの、人の生活圏とは異なる美しい自然と澄んだ空気が流れる。
山の背から眺めれば、深緑の谷間に霧の白い波がたゆたう。
月読は前より神霊の存在を知覚して、多少の言葉を聴くことが出来るようになった。しかし長時間の対話は体調が悪くなったり難があるので、祭祀は引きつづき都に任せている。
神殿に行かなければ神々と会えないわけでもない、彼らは御山に棲息していて常にそこにいる。北の神殿は彼らを拝したり祭る場所にすぎない。
特に闇龗は、夕方から朝にかけて巨大な体の一部が山々のどこかしらに現れる。山へ登って見渡すと谷から頭を上げ、時には近づき白霧の中から大きな目を覗かせてからかう。
月読は山の北側へ下り禁足地へ向かった。
高い樹木におおわれた禁足地は、神霊が様子をうかがいにやってくる。まぶしく輝いて目を凝らすと形を顕わす。
山中で人の形をしたものは余り存在しないが、生活圏に近い場所で人型を見かける事はある。
三叉路に出て、滝の方角へ進む。
奈落のある暗い森は危険なため、月読は単独での立ち入りを禁止されていた。現在は都が月イチ、お伴を連れて往復している。
滑りやすい崖道を下り滝へ到着した。滞ることなく流れる滝には、主である龍姫と数多くの【チ】が存在している。
いつもの岩へ腰掛けたら小さなチ達がわんさと群がり、挨拶を終えて水辺へ散らばった。
月読のもとに残って懸命に話しかけてくるチもいる。大抵はコミュニケーションを取りたいだけで意味不明な人の言葉で喜びをあらわしたり、たまに予言や注意を促すものもいた。
滝の上方から下りてきた真白いチが手に収まり、勾玉形の体をクルクルと動かす。雪玉のような体はほんのり温かい。
『こわイ子ブジ?』
『コワイノ寝タ』
チたちは九郎に憑いた欠片について話をしている。
月読は緑青の姫神のことが気になって尋ねた。互いに顔を見合わせたチ達が、短い手を懸命に動かしているけど分からない。
しかたなく滝壺の縁へ手をひたす。滝壺へ潜るには気温も低く適していないため、水面から気配を探した。
目を瞑って集中すれば、泡立つ滝面の下には無音の水底が続いている。いくつか気配があるけれど姫神のものではない。
そうしている内、2つの気配が上昇してくる。乗った真白いチが肩を叩くので、水面から手を離した月読は立ち上がった。
藍鉄色の滝の淵に大きな【チ】が浮かんでいた。
背を覆う黒い殻は剥がれ、赤くただれた醜怪な皮膚が見えている。水底から来たものは月読の座っていた岩ほどあり、あきらかに敵意を向けていた。
周囲にいたチたちは騒然とする。
「どこぞの主であらせられるか? 」
滝へは何年も通っているけれど見た事もない、姿はチだが恐らく毒龍の類だろう。黒緋色のチは、牙を剥きだして水から這い出る。
毒々しいチが月読の足へ噛みつく寸前、木立の合間からひときわ輝く光が降り立つ。カブトムシのごとき立派な角と羽をもつ輝くチは、自分よりも大きな黒緋のチを角でひっくり返して滝壺へ投げ飛ばした。
集まってきたチたちは、興奮冷めやらず騒めいている。
争いの原因になってしまった月読が立ち尽くしていると、滝面が渦巻いて鴇色の龍が現れた。龍姫は鼻先へ乗せた黒緋のチを水際へポイと落とし、月読に巻き付く。
龍姫から送られるイメージは、御山から月読が連れ去られている間に起こった出来事のようだ。黒緋のチについて物語っている。
元は資源の豊富な山の主だったが、鉱山として人間に荒らされて力を失い居場所を追われた。一時は祀られた事があるものの社は廃れ、名も奪われ悪龍として退治されかけた。
焼かれた体を何年も這いずり、此の地へ辿りついた。龍姫に受け入れられて、傷ついた体を滝の水で癒している。水底で人のために傷つき眠る緑青の姫神へ同情して傍にいるのだという。
龍姫に諭されていたが、残った背中の鱗を逆立てて威嚇する。人間に恨みを持つのは当たり前の境遇。
月読はつかず離れずの位置へ腰を下ろし、なるべく刺激しないように水を掬って背中へかけた。新しい関係をこれから築いていかなければならない。
肩へ乗った真白いチは、興味深そうに人と傷ついた龍のやりとりを眺めていた。
緑青の姫神は順調に回復しているようだ。
滝への長居は人里へ帰れなくなるので禁物、月読は滝を出て山道へもどる。
見送りにきたチ達が周りを元気に飛び回っている。古い鳥居を過ぎてから手をひらひらとさせれば、チたちは物凄い勢いでぴゅーっと飛び去った。
チの去った方角を眺めていたら、鳥居近くの祠群を掃除していた金村が口を開けてこっちを凝視している。
何も見なかった事にして、月読は足先を集落へ向けた。
人通りのない石畳の向こうから猫が歩いて来る。普段はピタリとくっ付けて1本に見せている尾を外して、2本の尻尾を立ててユラユラ振っている。
「寒いのに珍しいな、見回りかい? 」
そうよと、猫が鳴いた。
月読がしゃがんで撫でたら、喉をゴロゴロ鳴らして体を擦りつける。猫仲間が妖に追いかけられたので、集落を見回っている最中らしい。世間話を終えて別れ、烏の屋敷まで来れば道場は朝練の活発な声がひびく。
「お~い。おお~い」
生垣の中から厚かましい呼び声が聞こえた。月読が聞こえないふりをして通り過ぎようとすると、小さいおっさん妖精は生垣の上へ姿を現わす。
「ひどいのじゃ、明きゅん。ワシはこれでも偉~い神様なんじゃぞ」
おっさん妖精は、幼少期に兄弟子たちが使っていた渾名で月読を呼ぶ。
「あやしい薬を渡すうえ、九郎を放って置くような偉ーい神様とは話したくもありません」
「ちいさい時は素直で可愛かったのにつれないのう……儂は悲ちいっ」
月読が冷ややかに返事すると、おっさん妖精は小さな布切れで涙を拭きながら、蛾の羽をパタパタとはためかせている。
「九郎のあれは、どうにも本人の心の持ちようでもあるからの。まあ丸く収まったんじゃエエじゃないか」
媚薬に関しては滋養強壮効果の副作用だとのたまう。人間にはちと強すぎたと笑うおっさん妖精は、あまり反省していない。
加えて九郎が製法を訊いてきたと暴露して、月読の背筋に戦慄がはしった。
「そんな夜叉みたいな顔をせんでくれ……代わりにいい事を教えよう。お主が烏に調べさせてる者、九郎と似て非なる者じゃ。何百年も前から御山に手を出そうとしているが、龍神の力で近寄ることすらできん」
これ以上は烏の報告を待てと告げて、小さいおっさん妖精は姿を消す。
こういう事だけは、儂は情報通なんじゃと笑い声が尾を引いた。結局言いたい事だけ告げて消えた感もあるけれど、おっさん妖精も裏で動いている様子だ。
嵐はまだずっと先のようだった。
いつもならこのまま屋敷へ帰るところだが、猫に倣って細道から集落の西へと向かう。龍の爪槐の曲がりくねった枝をくぐり抜け、屋敷の北門から細い石段を下る。
階段の脇に湧き水の池と井戸があった。昔、九郎に連れて来られた場所だ。
井戸の上に分厚くて丸い岩の蓋が被せられている。よく見るとギョロ目があって、粗削りで彫りの深い漢顔が表面についている。
九郎からは井戸蓋の神様だと教えられた。漢顔は唸ったりするけれど、おっさん妖精のようには話さない。月読はちょっとした愚痴をこぼす時に、よく独りでここへ座っていた。
「よいしょっと」
蓋がちょっとだけズレていたので、重い蓋を押し戻す。蓋の漢顔は押されている間うめき声を上げていたが、合わさると悩ましげなため息をついた。
さらに階段を下り、集落西側の広い道へ出た。
ようやく空全体が明るくなり、朝陽をふりまいた。一日の活動が開始されて人々の生活音が少しずつ増えていく。
緩やかな広い石畳を上ったら、猫と再会した。ニャーとらしく鳴いた猫は、二又の尻尾を1本に束ねて南の邸宅へ歩いていった。
見送った月読も屋敷へと帰る。
屋敷の道場へ顔を出せば、朝の修練に励んでいる男がいた。
九郎は姿勢を崩さず、こちらを向いて軽くうなずく。月読は履物と上着を脱いで準備体操を始める。
道場の真ん中へ進んだ月読は、同じく歩み出た九郎と向きあい構えをとった。
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もろもろの用語集です。
※藍鉄色…緑を含んだ紺色。冬場の深い水面のような色。
※黒緋色…濃い緋色だが黒みが強く深緋ともいう。
※毒龍…毒を吐く龍、または祟りをなすもの。
※龍爪槐…マメ科の落葉高木。しだれ槐。冬場の剪定で龍の爪のように曲がって枝垂れた形になる。
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