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第七章

#前ノ坊九郎

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#……九郎のおもいの話。



 前ノ坊まえのぼう九郎くろうは幼少期からからすとして育てられた。

 厳格な父は長男を鍛え上げた。厳しい環境で育ったせいか、九郎はあまり笑わなかった。特別な役割があるからと言い聞かされ、まわりの子供たちが遊んでいるころ修行に明け暮れていた。従順な性格だったわけではなく、これから待ち受ける人生を達観して冷めた目で見ていた。

九郎には何も無かった。欲しがる事も知らない空虚くうきょな心。
楽しいことなど何ひとつない、本家の子供を連れてくると聞かされた時もいつものように心は動かなかった。

 月読家から連れてこられた子は、同い年なのに九郎よりはるかに華奢きゃしゃで小柄だった。燈子以外に破顔はがんした顔を向ける父はめずらしい。
父の足元へまとわりついていた子供は、礼儀正しく挨拶をして鈴木すずきあきらと名乗った。ふんわりした髪に黒蜜色くろみついろの大きな瞳、内には細かい金の砂がスノードームみたいに揺らめいていた。

九郎が無為むいに視線を向けると、明はおびえて父の足へ隠れた。足の後ろから見ていたが、そろりと出てきて九郎の手を握る。

ぎゅうと握られた柔らかい手から、温かい熱が流れこみドクンと心臓が跳ねた。



 これからともに歩む子だと父から教えられた。あきらは九郎の特別になった。

――――俺のあきら。

 一緒に修行すると聞いて驚いたけれど、しばらくしてから理由は分かった。あきらは男児だと気付き、てっきり許婚いいなずけだと思っていた九郎は落胆らくたんした。無表情の顔には出なかったが相当なショックを受けた。

けれどもフワフワした毛を見ていると、どうでも良くなった。九郎の特別には変わりない。

 色々なものが寄ってくるので、怖がりだった明はよく泣いていた。
彼を守って悪いものが来れば追い払う、小さなからすは自身を鍛えてより強くなった。明は九郎のふところへ逃げこみ、ぷくぷくとした桃色の頬を安心するまで押しつけていた。



 あきらが帰りたいと泣いていた日があって、手をつないで月読の屋敷へ連れていった。けれど彼は泣き止まない、幼く舌足したたらずな言葉は理解できなかった。

九郎が玄関を訪ねている内に、明の姿は消えて見失った。

父にも知らせ、九郎は必死で探した。小さなタオルを山門で見つけて、名を呼びながら禁足地きんそくちの鳥居を越えて走る。探すうちに禁忌きんきの暗い森へ足を踏み入れていた。
辺りは暗く、無音なのに泣き声が聞こえる。倒れていた明を見つけてあわてて駆けよった刹那せつな、痛みと衝撃がはしり九郎は動けなくなって崩れ落ちた。

 黒い化け物が、蜃気楼のようにユラユラ立っている。

生温なまあたたかい血が広がって体のまわりにまる。金色の瞳を見ひらき横たわっている明の上へ、黒い塊が落ちてきた。目玉の沢山たくさんついた黒い塊は、明をのぞきこんでいた。

――――やめろ、近寄るな、触るな。
 九郎は、明へ向かって手を伸ばす。
――――それは俺のだ。
 どす黒い泥水のような感情が九郎からあふれだして、黒い塊がピクリと反応する。失血がひどく、意識はそこで途絶えた。

 何日か入院したが、異常は見つからなかった。家へ帰ると元気になった明がぎゅうと抱きついて顔を埋める。明の匂いと柔らかさを確かめて九郎は安心した。いつもの生活が戻って来る。



 基礎訓練を終えて山の修行に参加し始めてからも、明はべそをかいていた。非力な明は大きな岩へ登れないが、諦めたくない様子で泣きながらも最後は自力で岩のいただきへよじ登った。

 小さくて弱々しかった子供は成長してたくましくなり、泣くことも無くなった。2人は変わらない関係だったけれど、思春期になって九郎のおもいに変化が起こる。

兄弟のように互いに支え合って生きて行く、いつしかそれだけでは満足できなくなっていた。小学生を卒業する年に起こった事件で、九郎は明への思いを自覚する。あやかしに襲われて、着乱れ弱った姿の明に対して性的欲望を持ってしまった。

我ながら最低な男だと思い、九郎はその事を知られまいとひた隠して生きる。



 明は父に連れ出され、早くから退魔の仕事をするようになった。ともに行きたいと申し出たが、見習いの九郎は作戦に参加することすら叶わない。

代わりに明の両脇には鬼と猿がいた。磐井いわいひのえ稀代きだいの化け物とうたわれる者達、この2人と対等に渡り合う実力をつけるため父の一進は烏のすべてを九郎へ注ぎ込んだ。

 明の手を握っていたのは、九郎のはずだった。

 いつしか彼の手を磐井いわい隼英はやひでが取っていた。枠をはみ出し破天荒はてんこうで、九郎が出来なかったことを容易たやすくやってのける。未熟な九郎が背伸びしてもかなわない男、赤毛の男は傲岸不遜ごうがんふそんな目をしていた。首の後ろなど巧妙こうみょうあとを残して、明は自分の物だと主張する。

明の目は隼英をうつしていた。それでも烏としてそばにいるだけで良い、九郎は感情を押し殺して表へ出さないよう努力した。

 磐井隼英は暴風のごとく吹き荒れて去った。

 手を伸ばしても思い人には届かなくなった。

明の心は隼英に奪い去られ、金砂ゆらめく黒褐色の目には何も映っていない。すぐ側にいるのに、ここにはいない明へ苛立いらだちがつのる。

月読となった明は、今度は御山に奪われしまった。九郎は、やり場のないドス黒く染まった感情を閉じこめた。いっその事めちゃくちゃにしてしまいたい衝動を抑えて、ドロドロと黒い漆喰しっくいを心の壁に塗りつける。



 自分と同じ形の黒い影が現れてささやくようになった。

――――手に入れてしまえ。無理やり組み敷いて思うままにすればいい。

 影のささやきを九郎はかぶりを振って否定する。

 あの日、溜まっていた感情がせきやぶって外へ流れ出した。気づけば明を押し倒して、ひどい言葉で傷つけたのを憶えている。彼の悲愴な顔が目に焼きつき、衝動に突き動かされたおろかな行いをいた。

 心が離れて、深いみぞができてしまった。
 傷つけることを怖れて御山を離れる選択をした。本当は引き留めて欲しかった、そばにいてくれとう姿を期待した。だが明はそんな九郎の心を見透みすかしたように背中を押す。

黒蜜色の瞳は九郎を映さず求めていない、失意のうちに明の元を去った。

さぞ失望しただろう父は何も言わなかった。離れている間、連絡が届くことも無かった。未練みれんがましい男だと九郎は自分をあざける、それでも明への思いを絶つことは出来ない。

欲しいものを奪った磐井隼英の気持ちが少しだけ理解できた。



 逃亡の先に何があるのか、不確かで曖昧あいまいな未来、九郎はあらゆるものを裏切ってここにいた。もしも消えれば1人残した彼を誰が守るのか、けれども九郎が存在することで明の心をくもらせている。

想いは暗闇を彷徨さまよい、それに呼応して黒い影が心のはざまでユラユラとらめく。

森閑しんかんとした山の中、白い息を吐きながら九郎は空を見上げる。かりの無い頭上にはあおい星空が広がっていた。



 雪がちらつき外は白い闇におおわれ、暖炉へ火を入れても部屋は冷える。
気を抜くと自身の影から目玉だらけの闇が這い出てしまうので、いつものように距離を取った。

 明は真横へ腰を下ろして目をつむり、こごえた隙間を埋めて寄り添う。互いに無言で、薪の燃える音だけが聞こえる。
逃げる意思が無いのは分かっていた。しかし居なくなってしまう事が怖くて閉じこめる。それにもかかわらず、明は九郎から離れない。

「……これが俺たちの正しいり方で無いのは分かっているんだ」
 ポツリと吐いた嘆きは、闇の静寂へ吸いこまれる。

「私たちに『正しい在り方』なんてありはしないよ」

 眠っていると思っていた明の口から言葉がでる。小さく呼吸して体勢を変えた明は九郎の傷へ触れた。淡く光った指先が触れて、愛おしむように何度も往復する。傷口が熱くなり、ドロドロにまったおりが浄化されてゆく。

「本当は帰った方が良いのも分かっている……だが俺は……」
 九郎の葛藤かっとうは心をじ切るように締め付ける。

何時いつからか目を合わせればらされていた視線が、まっすぐ見つめてくる。

「後悔してるのか? 」
「分からない……だけど明と離れたくない」
 いままで合理的に淡々と決断していたのに、九郎は答えを見失っていた。以前はよく分かっていたはずの明の考えさえも読めない。

「なら、お前の気が済むまで付き合うさ」

 眠たそうな声が聞こえて、肩へ重みが掛かった。もぞりと動いた身体の隙間へ冷たい空気が入り、触れている部分がまた温かくなった。明の寝息が静かににひびく。

全てを見失った男は、一番欲しかったものが腕の中にある事に気づいた。
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