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第六章

#それぞれの移ろい

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#……月読が帰還した後の周囲の人々の話、バトンタッチのように話しは進みます。



 東の地平線がにじむあかつきの空、木々の葉が朝露あさつゆをたらす。雨の匂いがのこり御山は深い霧におおわれている。

 前ノ坊まえのぼう燈子とうこは神殿脇へ控えていた。湿気をふくんだ涼しい風がうなじを撫でる。建物の中からおりんの音が鳴って、燈子は扉を引いて開けた。幼さを残した巫女みこ姿の少女から、鈴蘭すずらんのゆれるような可愛らしい声が聞こえた。

「無事、滝の龍比売りゅうひめ様は顕現けんげんされました」

 鬱蒼うっそうとした木陰にひっそりとたたずむ屋敷。うっすらと女性の姿が映り、ゆったりたゆたう大河の声は御簾みすの内側から流れてくる。

あおい様、御当代ごとうだいが力を失ったのなら、みやこ様を新たな当主に立てた方が良かったのでは? 」

「いいえ、御力おちからはいずれ戻られます。そうでなくとも生きておられる内はハク様が御当主ごとうしゅ、これは【月読】の総意です。しかし御山にある奈落の結界は維持しなければなりません。みやこも承知しています」

 静かな衣擦きぬずれの音が聞こえ、御簾の女性は顔をうつむけた。腰元まで伸びたサラリとした黒髪は、年齢にもかかわらず艶やかな光をたたえてる。御簾の手前には一進いっしんし、真剣な表情でその向こうを見つめていた。

「重い宿命を背負せおう彼のために私達が出来るのは、これくらいの事しかありませんから」

 悠揚ゆうようとした沈黙の後、声は小さなせせらぎに変わった。一進は黙したまま、御簾に透ける女性を見つめていた。御家おいえの為に生きてきた加茂かもあおいは、母として心の内を少しだけ吐露とろする。

「……でも、生きていた……良かった」

 小さな声に抑揚よくようはないけれど、御簾の向こうで泣いている様子だった。数奇すうきな人生に翻弄ほんろうされる母親がここには居た。



あおい様。お見舞いの手紙に、その想いをつづられませんか? 」

「えっ? でもハク様にわたくしの手紙なんて、旧来きゅうらい無きこと……」

 突然の申し出に驚いた葵は、とまどった声を出した。

 男の当主に対する月読家の仕来しきたりは、弱みを作らせずきたえ、ハクが生き残れるように作られたもの。奈落を閉じた後まで厳しくならう必要もなく、これから変えていけばどうかと一進は闊達かったつに笑う。

「私はからすとして育てた息子を見てきました。ハクという存在の前で、息子は精一杯足掻あがいています。それはハクであるあきら様も同じです。我々も共に変化して、彼らがより良く生きられる環境を作るべきだと思っています」

 玄関を出た一進は、銀梅花ぎんばいかの横へ立った。白いつぼみが花を咲かせる頃、小さな綿毛わたげの子がいつもここへ座っていたことを思い出した。なつかしさで光沢のある青い葉を触れば小さな実がなっていた。

 一進が屋敷へ戻ると、仕事を終えた九郎はいくつかの荷物をまとめている。

「見舞いかね? まだICUにいるのでは? 」
「いつ目が覚めるか分からないので、行ってきます」

 面会できないのに毎日病院へ通う息子の姿を一進は見送った。



 九郎は月読の主治医と看護師に会った後、集中治療室へ向かう。ICUの前は騒がしかった。

「ちょっと、僕【鬼】の当主なのに、全然見えない!! 月読さま――っ!!」

「あぁ、うっせえ!! 」

 冷然としていた姿はどこへ行ったのか、ICUの窓へ張り付く千隼ちはやがいた。ひのえも隣の壁へもたれかかり、張り付く青年を見てため息を吐いている。室内には勿論もちろん入れず、窓の白いスクリーンは下ろされていた。

 奈落から帰還した直後、敷地しきちのまわりに待機していた者達が変わり果てた月読を病院へ運んだ。いまは最新医療と鬼の治療術を併用し、瘴気しょうきの除去とダメージを受けた部分の治療を行っている。

 九郎は白いスクリーンをのぞきこむ千隼の横へ立つ。3人の男は特に話すこと無く、その場所へ立っていた。居たところで月読に会えるわけでもない。

 30分ほどってから丙が口を開いた。

「次はバーベキューの道具持ってきて、ここでやるか? 」
「ちょ、ゴリラのおっさん止めて下さいっ! ここは僕の病院ですよ!! 」

 自分の病院だと豪語する千隼は、連日押しかけているが月読の主治医に面会を拒否されてる。しかし一般の病棟から隔離かくりされた場所でもあり、うるさくても出入り禁止にはなっていない。

 月読は眠り続けていまだ油断を許さない状況だ。それでも必ず目覚めるという確信が九郎にはあった。

 白いスクリーンを眺めていた3人は、やがてそれぞれの場所へ戻っていった。



「九郎さん、ありがとうございました」

 ついでに烏の車で送ってもらった千隼は家の玄関をくぐる。廊下の奥から歩いてきた湯谷ゆやが出迎えた。

「おかえりなさいませ、月読様の具合はいかがでしたか? 」
「まだ眠り続けてます。治療は順調に進んでいると主治医は言っていましたよ」

 千隼は病院にいる時とは態度を一変させ、ここ1年ほどで獲得した淡々とした怜悧れいりさを表へ出す。眼鏡めがねの奥に光る冷ややかな眼差まなざしは、一部の鬼たちから『氷の鬼』だと評されている。性格や髪が炎のようだった父と比較されたふたつ名、しかし氷の鬼というのは本人も中々気に入ってる様子だ。

 荷物を置いた千隼は、そのまま邸宅奥の居室へと向かった。

「失礼いたします」

 猫がニャーと反応して、優しいけれども威厳いげんに満ちた爺さまの声が迎える。鬼平おにへいは湯谷と同じく月読の状態をたずねた。千隼の報告に鬼平はふぅむと唸り、猫を撫でた。

わしも見舞いに行きたいところじゃが、以前の見舞い騒動そうどうもあって病院側から制限されておるのじゃよ」

 出入りの人数が多いと病院が手間を取られるため見舞いは代表者のみ、あとは警備と仕事関係者しか許可されていない。鬼平も日頃お世話になっている医院長や主治医たちには頭が上がらないようだ。御山にすむ妖怪じいは、大人しく身をひそめることにした。鬼平はどこから聞いたのか、月読の体重が大幅に落ちたという情報を仕入れていた。

「儂は待つことにしよう。しかしせたとなると、身体に負担のかからぬ着物が必要じゃな。呉服屋ごふくやへ連絡して、柔らかくて軽い反物たんものは無いか聞いてみようかの」

「爺ちゃん、選ぶときは僕も一緒に行きたい! 」

 が出た千隼は、目をキラキラさせた。



 地平線の緋色が薄まったよいの口、満天の星は大小色とりどりに輝く。

 鬼平からのメールを見終わったひのえは端末を縁側へ置き、グラスの盃を持ってかかげた。横からたおやかな手が口当たりのいい日本酒を盃へそそぎ入れる。

護次もりつぐさん、病院はどうでした? 」

 長い髪を夜会巻きにした女房のさくら物腰ものごし柔らかく尋ねる。

「見舞いも何も、あのおに。ずうっとやかましいったらありゃしねえ」

 珍しくブツブツ言いながら盃を傾ける丙を見て桜は微笑んだ。丙夫婦が縁側へ座って庭を眺めていると涼しい風が通り抜ける。すっかり日が落ちて暗くなった森は夕闇の風にこずえを揺らす。ほどなくして玄関からにぎやかな声がして、出掛けていた桃花ももかとカトレアも帰宅した。

 明かりもともらぬ闇夜の山頂からトラツグミではなく、本物のぬえの鳴き声が聞こえる。丙はその声に酒盃をかかげ飲み干した。

 森のざわめきも鎮まり、夜は濃さを増していった。
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