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第三章
猿の里
しおりを挟む甕覗のような淡い青色が上空へひろがり、風は垂らした髪をくすぐって吹き抜ける。陰暦の春はひんやりと寒く、麓の梅は蕾を膨らませ開花しかけていた。
月読は欄干へもたれ、投げ足で座った。床へマガツヒの資料が乱雑に置かれてるけど書かれた内容は頭に入らない。強い風で紙がまばらに散っても気にせず、冷えた茶へ手を伸ばす。
「ふぬけたツラしてるなぁ」
ふりむけば裏戸から入ってきた丙が北庭にいた。無骨な男は器用に欄干へ登り、月読のいる板間へ着地した。
「丙、靴ぐらい脱げ」
「おっと悪い」
軽く謝った丙は履物を脱ぎ、裏側をかさねて腰後ろへ挟んだ。大きな身体を屈めて散らばった資料を拾い集める。
「何か用か? 」
それを眺めていた月読は興味なさそうに声をかけた。
「お前ぇ、今日から【猿】の里で暮らすぞ」
「……はあ? いったい何で? 」
迎えに来た丙、呆けていた月読の目に色がもどり素っ頓狂な声をあげる。理解できていない月読を置き、ゴリラは部屋のタンスを物色し始めた。だいたいの物は丙の家にもそろってるが、個人的な着がえなどは無いので洋服や下着を片っ端から取り出してる。
「ちょっ勝手に人ん家のタンス開けるな。分けがわからない、説明しろって」
のろのろと立ちあがり、洋服の散乱した部屋へ歩いていく。長老会の決定だということは理解した。御山から出るのは禁止されてるが、御山にはもちろん猿の里も含まれてると丙は不敵な笑みを浮かべる。
「ほら行くぞ、さっさとカバン出してこい」
月読は腑に落ちない顔をしつつ、旅行用のスーツケースへ必要な物を詰めた。
いまいち納得できず唸っていたら、世話役の加茂が訪れた。予想より早く来ていた丙に驚いてたけど猿の里へ行くことを知っていた様子、叔父に見送られて月読は屋敷を出た。
集落の大門をとおり抜け、丙の車に乗って山林道を北へすすむ。
御山の北東には大きな渓谷があって越えればまた山脈が続く。渓谷から北は闇龗の縄張りの外、龍神による守りは無い。吊り橋を過ぎて艮の方角にある山、そこに【猿の里】と呼ばれる集落がある。
景色を眺めると御山に匹敵する山脈が連なっている。吊り橋から15分も掛からず里へ到着した。荷物をおろしスーツケースを引いて大きな家の前へ立った。
上品にまとめた黒髪に清楚で物腰の柔らかい女性が玄関で出迎えた。丙の女房、丙桜だ。襲名後に訪れたこともあり、彼女とは初対面ではなかった。烏の屋敷のように人の出入りがたくさんある丙家も部屋数は多い、寝泊りする部屋へ案内された月読は窓ぎわの籐椅子へ腰をおろした。
こうして猿の里での生活が唐突に始まった。
里山の整えられた杉林をぬけ渓谷の沢をのぼった。猿の里では人の暮らしに近い山麓で林業が営まれている。しかし山の奥や渓谷は人の手が付けられていない自然が広がる。山を歩いていると斜面に気配があり、何者かが姿を現さないで上から此方をうかがっていた。
気配には覚えがあった。おそらく山神だろうと月読は思い、そちらの方角は見ずに沢をのぼる。
ここには【猿】たちの祀る山神が住んでる。
大昔、妖の侵入を危惧した月読の白が、東北の山を根城としていた山神をこの地へ呼び寄せた。山神を祭る一族もその時に移住して来たと云われている。当時の白がどのような勧誘をおこなったのか分からないけれど、山神は御山裏の山域を守護するようになった。
「月読さまぁ~っ」
後ろの斜面から山を案内していた青年、弥彦の抜けた声がする。月読は山頂を気にするあまり、青年を置いてきてしまい苦笑を浮かべた。弥彦は山菜を見つけることに関して達人で、今日は行動を共にしていた。沢の下から月読のところまで走りゼエゼエと息をしてる。
山神の気配は、いつのまにか消えていた。
山を案内され、清流せせらぐ小川の近くへ辿り着く。雪の残る川畔にフキノトウが群生していたので、弥彦に訊きながら花芽の開いていない物を摘んで腰のカゴへいれる。先程まで採取していたタラの芽や山菜も合わせて籠は一杯になった。春先の山は収穫が多い、来年の為に全ては摘み取らず残していく。
弥彦は小川に自生していた山葵を採って嬉しそうに掲げ見せた。
御山の時間とは違うスローライフを過ごす、昼間採った山菜を馳走になった。仕事から帰った丙は里山の社へ出かけた。
「明日、家の山神が会いに来いだとよ。お前ぇどうする? 」
社から戻った丙が尋ねた。月読は山で此方を窺っていた気配を思い出してうなずく。
翌日水垢離を行ない、渡された白い衣へ着替えた。御山の時より軽装、余計な物をつけず清潔ならいいとの事で格好には然程こだわらないようだ。山の坂道をのぼれば直ぐに社が見えた。坂道を見おろすと里全体を見渡せる。
ここの山神は非常に珍しく、普通の人間にも目視できる。だが警戒心がとても強くめったに姿を現さない。今の時代ならイエティだとか、未確認生物と呼ばれそうだ。人の言葉を直接喋り、猿女と呼ばれる祭司の女と交わる事もあったという。月読の文献には山神の正体は白毛の雷獣ヌエだと記されていた。
山神とは月読を継いだ際相まみえた。顔と手足の先以外、全身が真白い毛に覆われた大猿だった。初めて対面した時は値踏みする様に視られそっけない態度をとられた。あまり言葉も交わさずに姿を消してしまった。
御山の神とは勝手の違う神に月読は緊張する。丙は歩きながら月読を振り返り、気まぐれな神だから気にするなと声を掛ける。
社へ到着して、丙は後で迎えにくると言い坂を下りて行った。
履物を脱いで社へ上がる。扉を開けると中に身の丈3メートル半はある大猿が座っていた。
大猿は持ち上げた指をちょいちょいと動かして月読を呼ぶ。扉を閉めて白い猿の前へ座り両手をついて礼をする。
「白猿様、お召しにより参りました」
「敬称は要らねえ、白猿でいい」
低く唸る声が社へひびき、直接耳から伝わった。白猿は堅苦しい話し方もやめるよう物言う。しばらく月読を値踏みするように見下ろしていたが牙の生えた口をひらく。
「前は小っちぇ童だったが、ちゃんと大きくなったみてぇだな」
以前会った時は唸ってうなずく声しか知らなかった。話し方が丙にそっくりで月読は驚きに舌を巻く。
「俺がアイツに似ているんじゃあねえ、護次が俺にそっくりなんだ」
どうやら思った事は口へ出さなくても筒抜けだ。サトリのごとく心を読まれてはどうしようもない、月読が内心舌を出せば白猿は大きな牙をみせて笑った。
気を取り直して呼び出された理由をたずねた。
「遥々遠い所から、お前の祖先に呼ばれて来たんだ。しっかり奉仕してもらわないとなあ」
白猿は意味ありげに顔を近づけニヤリと笑う。何を要求されるのか、ひやりとした汗はこめかみを伝って身体が強張った。硬直していると床へゴロリと何かが転がる。手に取った物は幅広で目の細かい大型犬に使うようなブラシ。
「いつもは猿女にされるんだがな」
そう言いながら白猿は大きな体躯を横たえる。
キョトンとした月読が座りこんだまま見ていると、白猿は早くしろと促がしてくる。月読はブラシを使って毛を梳かす、巨体のブラッシングはなかなか大変だった。しかも梳かし方が荒いと白猿は文句をつけてくる。
「はぁ、終わった……」
最後に背中を梳かし終わり、ブラシを手入れしようと見れば毛玉どころか毛の1本も付いていない。山神だけあって通常の獣とも異なるようだ。マメに手入れしていると雷の伝導率が違うのだと白猿は話す。
ふわふわになった毛はあたかも上質なムートン、モフモフ心をくすぐられた月読は魔が差して思わず手を触れる。心地のいい手触り、気付いたら白猿の背中へ腕を回していた。
「おまえ抱き着くんじゃあねえ! 猿女と一緒の事するなっ」
背中から声が響き、顔を上げると白猿が唸っている。あまり効果は無く、月読の目は閉じられてふわふわな毛に埋もれた。ひとしきり白い毛並みを堪能する。
ガタンと音がして社の大扉がひらいた。
「お前ぇ! 何やってんだっっ!? 」
怒号が社へ響き渡った。白猿へ抱きついている月読の姿を見て、青筋を立てた丙はおっかない顔をしている。社から中々出てこなかったので迎えに来たようだ。
モフモフから引き離された月読は、丙の肩に担がれて坂道を下った。名残惜しそうに社を見ると、白猿はさっさと帰れと追い払うように手のひらを上下に振っている。
時間が経つのは早く、山から冷えた空気が降りてきて斜陽が山肌をオレンジ色に染めていた。
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お読みいただきありがとうございます。
挿絵は丙ではありません。イケゴリです。
もろもろの用語説明です。
※陰暦…旧暦。月の満ち欠けをおもにして作った暦。太陰暦ともいう。
※甕覗…藍染めの淡い青色の名前。藍染は何度も布を浸して濃く染めるが、甕覗は甕を覗いた程度・わずかに浸して薄く色付いた色。
※鵺…不思議な声で鳴く、正体のはっきりしないもの。頭は猿、尾は蛇、手足は虎の妖怪。書物によって合成の体には若干の違いがある。
※イエティ…ヒマラヤに棲むと云われる人獣。毛むくじゃらで直立歩行する巨人。
※UMA…ネッシーや雪男、ツチノコなど生物学的に発見されていない生物のこと。和製英語らしく、英語ではCryptidと呼ばれる。
※サトリ…覚。心の中を見透かすヒヒや猿のような妖怪。
応援ありがとうございます!
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