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第一章
御山
しおりを挟む九郎を見送った後、月読は脚絆を着けて屋敷を出た。東の裏戸をくぐり防風林の植えられた坂道を下る。四角い石の敷き詰められた道を歩けば烏の屋敷が見える。朝の6時前にも拘わらず、隣接した道場から活気づいた声が聞こえた。長い塀を通りすぎ、鬱蒼とした樹林のまえで月読は足を止めた。小道の先には生家がある。
――――家を訪ねたら、あの人は【月読】の家にいるのだろうか。
普段ならこんな気持ちにはならない。最近身のまわりで起こった変化のせいだろう、ずいぶんと感傷的になっている事に気づき月読は困った様に笑う。
小道とは反対側の方向へ足を進める。
自然岩を平らに均した階段をのぼると山門があり、道は山へ続いている。途中に鳥居があり登山道が見えた。
月読の住む屋敷は山の中腹に建ち、周辺には幾つかの家が混在している。集落に共通するのは北にそびえる山を【御山】と呼び神聖な場所として見ていた。頂上の大岩には白龍大神である【闇龗】が祀られている。
闇龗は月読を継いだとき顕われた龍神、北の山脈に霧の谷があり大抵そこへ漂っている。
―――幾たびか見かけたが、あれは龍と言うより……いや今は止めておこう。ちゃんと龍の姿になられている時もある。
月読は龍神の姿を思い浮かべ、登山道を横目にふたたび歩き出した。
しばらく歩くと古びた木の鳥居が境目を知らせるように立っている。
ここから先は禁足地。
御山の麓に住む者たちは霊的なものに耐性が強い。しかしここから先は別、神霊の数が多過ぎて集落の者でも障りが出る。入れるのは代々月読の当主、もう1つ入っても大丈夫な家の者がいるけどこちらは神霊に甚く嫌われている。
月読は気を引き締めて足を踏みいれる。山深い森が続き、木立の陰へチラチラと光るものが動いていたが意に介さず歩をすすめる。水を打つ音が遠くひびき滝が現れた。崖の細い道を下り近づくと無数の丸い光が岩場で動いている。滝壺まで来たらその姿が視認できた。
滝壺にいるのは、無数の【チ】
龍の幼生とも伝えられているが龍らしい姿ではない、勾玉がこれに近い形をしていた。殻に覆われたダンゴ虫か幼虫のようにも見える。但し足の数は虫ほど多くない、だいたい0~4本、多くても8本におさまる。つぶらな目の可愛い顔をしていて、手のひらに収まるものから座れるほど大きいものまでいる。
各々岩へ寝そべり水際で泳いでいる。可愛いけれど油断は禁物、小さくても千年生きていたり、龍が【チ】に化けて過ごしている事もある。チは見た目では判断できない。
水際の岩へ座れば、知ってる奴が来たと言わんばかりにチは群がってくる。足元で見上げるものや身体へ乗るもの、山にいる彼らにとって人間は珍しい生き物だ。ひとしきり挨拶を済ませ、滝へ散り散りになった。
チは御山でなくとも何処にでも存在する。ここまで密集しているのは、ひとえにこの滝の主に由る。
水上の騒ぎを察知して、水面が寸秒渦を巻き静かになった。淵から影がゆっくり浮上してくる。古より滝に棲む龍姫と呼ばれる主が顔をのぞかせる。
龍の姿だが、たおやかな細面の美人だと月読は思う。
『――――』
龍姫がなにか伝えてくる、たぶん名を呼ばれたのだろう。
鴇のような薄いピンクの胴体が水面から出て月読をぐるりと囲んだ。膝へ頭をのせ心配している感覚が伝わってくる。心が揺れ動いたまま此処へ来てしまった。研ぎ澄まされて鋭敏でなければ彼等の声を聴くこともできない。
月読は岩上で座禅をくみ、瞼を伏せた。
滝から戻り3つに分岐した道へ立った。集落への道と麓の山林道へ下りる道、そして森の奥へ続く道。
御山には奈落が存在する。【月読】になってから何度往復したことか、天を覆い隠すほど木の茂る方向へ歩をすすめた。チラチラと視界へ映っていた神霊はいなくなった。
足を止めた。
木々が避けて生える場所へ立った。樹木は不自然に曲がり、他の生き物の気配もなく静寂に包まれている。周囲は見えるのに3~4メートル先は闇黒に覆われてる。空間が歪んでいるように感じ、三半規管もおかしくなりそうだ。以前と変わったところは無く、綻びもないので結界を張りかえる必要もない。
この御山の奈落は、初代【月読】の頃から存在する。
そして閉じる事はできない。閉じてはならないと月読の伝えに記されている。代わりに月読の当主が清め、誰も何物も近寄れないよう結界を張る。
他の地域の【奈落】は禍々しさを絶えず噴き出し周囲を引きずり込む。周辺の土地にはマガツヒが溢れ、穢れ荒廃していく。ところが御山の森は枯れず生命で覆われている。
――――御山の奈落は大人しい。
奇妙なことに生き物のようにも感じる。御山と他所の違いを考えるが未だ答えは出ず、月読は帰路へ就いた。
―――――――――――――――
※脚絆……防寒、保護のため脛に着ける脚衣です。
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