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第一章
前ノ坊一進
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浅瀬のような碧色の空が天井を突き抜け、ところどころに初夏を思わせる白くちいさな雲が点々と置かれている。山麓は木々の新芽が伸び、生命力あふれる緑に覆われていた。
月読は離れの板間から外を眺めた。渡り廊下の先にある北部屋は、神楽殿のように高床で欄干に囲まれている。手入れされた庭と高嶺がよく見える。
山から涼しい風が吹き、前髪がふわりと揺れる。
籐で編まれたリラックスチェアへ背をあずけ、脇のサイドテーブルを見ると、十二単を思わせる美しい外郎菓子が置かれていた。
「そう言えばモモリン、昨日まで北山へ行ってたそうじゃない。大丈夫だったの? 」
皿を手に取った月読は色鮮やかな菓子を眺めつつ様子をうかがう。順調だったと加茂はにっこり笑った。
県を越えた遠方の北山という地域には、母の古い親戚筋にあたる家がある。現在は然程交流のない家から連絡があり、当主代理として叔父が訪れていた。昔は【月読】を巡ってひと悶着あり、月読はそれを懸念していた。
北山の家は仕来りに厳しい、彼方は公の祭り事にも多々関わっている。先代くらいまで事あるごとに【月読】を引っ張りだそうと試み、前当主の母はそれを断り続けていた。【月読】の女の美しさを考えれば理由は思い当たらぬこともない。
ある程度こちらの事情を知っている家だ。男の当主など珍しくて見世物にでもされかねない。
「見世物にされるのは困るなぁ」
呟いた月読は鮮やかな和菓子を口へ運んだ。
「今回の交流は【月読】との関係改善のためでしょう。御当代は穏健派で道理を弁えています。むしろ接しやすいくらいですよ」
加茂は微笑みながらテーブルへお茶を置いた。月読への不必要な面会や謁見は、代理として叔父か一進が対応していた。こういう叔父は細身な外見とは違い頼もしさを感じる。
「彼方には大昔、叡山の僧が封じたマガツヒの塚があったけど問題は? 」
月読は気になったことをチラリと尋ねた。幾代も前の話だが言い伝えで残っている。加茂が首を横へふって月読は安心した。
「ああそうだ、ちゃんと頼まれた物も買ってきましたよ! 」
加茂が土産の紙袋からすぐき漬を出した。さっぱりした酸味とポリポリした歯ごたえ、醤油をたらせば食欲の失せる暑い季節でも御飯がすすむ、白飯と酒が欲しくなった月読は破顔した。
**********
月読が【月読】となったのは15歳の時だった。
14歳まで戸籍の名で呼ばれていたが【月読】を継いだ時、名跡も襲名した。以来月読と名乗っている。当時、母とは週に数回ほどしか会わず、父は幼い時分に交通事故で亡くなっている。きわめて特殊な家庭に育ったと思いを馳せる。
分家の前ノ坊一進は、面倒見のよい父のようであり師でもあった。幼い頃は烏の屋敷へ出入りしていたけど、月読となってからは今の屋敷に住んでいる。
久しぶりに烏の屋敷へ足を運んだ。
「あんれまあ、月読様! よくいらっしゃった」
玄関先で掃除をしていた門徒の爺さまが嬉しそうな声で迎える。
「戸塚さん、お久しぶりです。一進殿はいますか? 」
「一進様なら、さっきから首を長くして待ってますぞ」
いきなり見知った顔が現われ、月読の口調は軽くなる。
戸塚の爺さまが玄関を開けた。屋敷の中は多数の人がいる気配がして相も変わらず賑やか。
「誰かぁ、おらんかぁ! 」
爺さまが玄関で大きな声を張りあげたら、はぁーいと1人の若者が飛ぶように走ってきた。高校生くらいの若者がポカンとした顔で月読を見上げるので、早く案内するよう戸塚の爺さまは発破をかける。若者に案内され一進の書斎へと足を踏み入れる。礼をした若者はもう1度月読の顔を見上げ、ぴゅっと早足で去った。
「月読殿、よくお出でになった。さあさあどうぞ此方へ」
快活で貫禄のある声が座るように促す。
「随分久しい、4年ぶりくらいかね」
一進が目を細くして迎えた。月読がここへ最後に来たのは18の時だった。まるで放蕩息子になった気分になり、心の中がそわそわとする。
「それで月読殿、新しい【烏】の当主はどうでしたか? 」
急に真面目な顔つきになった一進が尋ねる。
九郎は実に優秀だった。本人の運動能力はさることながら、リスクを考えて余地を残した作戦、烏達を統制する卓越さ――――だがしかし。
「……取り合えずは及第点と言ったところかと。これから研鑽を積めば、良い当主になるかもしれません」
月読はある目的をもって辛口の評価を述べた。一進は闊達に笑い、世話役の件について切り出した。
――――来たか。
「一進殿、それについて本日は断るつもりで来ました。烏の当主である九郎に世話役をさせる必要も感じない」
スゥッと表情をかえた月読は冷淡な言葉で突き放す。
放したはずだった。
5時間後。
魂の抜けた顔の月読は座卓へ突っ伏していた。帰宅したばかりで身形はキチンとしてるのに、やつれた顔と萎びた野菜のような姿。それを見た加茂がこらえながらも笑っている。
「月読様……その様子だと、完全に押し切られたのですね」
「敵わないなぁ……」
烏の前当主はつよかった。
あれから5時間、延々と説得されて根負けした月読は世話役を了承させられてしまった。5時間にも及ぶ説得中になぜか全く関係のない昔話が追加され、観客が月読1人の一進人生トークリサイタル会場となっていた気がする。
「いったい何を聞かされていたんだろう……」
よほど萎びていたのか、加茂がお茶と茶菓子を優しげに置いていった。
―――――――――――――――
お読み頂きありがとうございます。
もろもろの用語説明です。
※神楽殿…神に奉納する歌舞を奏する殿。
※欄干…橋や建物の廊下、階段へ設置された落下を防ぐ手すり柵。
※籐…ラタン。ヤシ科の植物で家具などに利用される。
※外郎…和菓子。上新粉などに砂糖と水を加えて練り蒸した物。
※十二単…古代女官の何層にも重ねられた衣服。四季の移ろいを鮮やかな色を重ねて表現している。
※仕来たり…昔からの習慣。慣例。
※叡山…比叡山のこと。県境にまたがる山で大きな寺が在る。
※名跡…代々受け継がれていく家名。同一の血族集団を表わす名称のこと。
月読は離れの板間から外を眺めた。渡り廊下の先にある北部屋は、神楽殿のように高床で欄干に囲まれている。手入れされた庭と高嶺がよく見える。
山から涼しい風が吹き、前髪がふわりと揺れる。
籐で編まれたリラックスチェアへ背をあずけ、脇のサイドテーブルを見ると、十二単を思わせる美しい外郎菓子が置かれていた。
「そう言えばモモリン、昨日まで北山へ行ってたそうじゃない。大丈夫だったの? 」
皿を手に取った月読は色鮮やかな菓子を眺めつつ様子をうかがう。順調だったと加茂はにっこり笑った。
県を越えた遠方の北山という地域には、母の古い親戚筋にあたる家がある。現在は然程交流のない家から連絡があり、当主代理として叔父が訪れていた。昔は【月読】を巡ってひと悶着あり、月読はそれを懸念していた。
北山の家は仕来りに厳しい、彼方は公の祭り事にも多々関わっている。先代くらいまで事あるごとに【月読】を引っ張りだそうと試み、前当主の母はそれを断り続けていた。【月読】の女の美しさを考えれば理由は思い当たらぬこともない。
ある程度こちらの事情を知っている家だ。男の当主など珍しくて見世物にでもされかねない。
「見世物にされるのは困るなぁ」
呟いた月読は鮮やかな和菓子を口へ運んだ。
「今回の交流は【月読】との関係改善のためでしょう。御当代は穏健派で道理を弁えています。むしろ接しやすいくらいですよ」
加茂は微笑みながらテーブルへお茶を置いた。月読への不必要な面会や謁見は、代理として叔父か一進が対応していた。こういう叔父は細身な外見とは違い頼もしさを感じる。
「彼方には大昔、叡山の僧が封じたマガツヒの塚があったけど問題は? 」
月読は気になったことをチラリと尋ねた。幾代も前の話だが言い伝えで残っている。加茂が首を横へふって月読は安心した。
「ああそうだ、ちゃんと頼まれた物も買ってきましたよ! 」
加茂が土産の紙袋からすぐき漬を出した。さっぱりした酸味とポリポリした歯ごたえ、醤油をたらせば食欲の失せる暑い季節でも御飯がすすむ、白飯と酒が欲しくなった月読は破顔した。
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月読が【月読】となったのは15歳の時だった。
14歳まで戸籍の名で呼ばれていたが【月読】を継いだ時、名跡も襲名した。以来月読と名乗っている。当時、母とは週に数回ほどしか会わず、父は幼い時分に交通事故で亡くなっている。きわめて特殊な家庭に育ったと思いを馳せる。
分家の前ノ坊一進は、面倒見のよい父のようであり師でもあった。幼い頃は烏の屋敷へ出入りしていたけど、月読となってからは今の屋敷に住んでいる。
久しぶりに烏の屋敷へ足を運んだ。
「あんれまあ、月読様! よくいらっしゃった」
玄関先で掃除をしていた門徒の爺さまが嬉しそうな声で迎える。
「戸塚さん、お久しぶりです。一進殿はいますか? 」
「一進様なら、さっきから首を長くして待ってますぞ」
いきなり見知った顔が現われ、月読の口調は軽くなる。
戸塚の爺さまが玄関を開けた。屋敷の中は多数の人がいる気配がして相も変わらず賑やか。
「誰かぁ、おらんかぁ! 」
爺さまが玄関で大きな声を張りあげたら、はぁーいと1人の若者が飛ぶように走ってきた。高校生くらいの若者がポカンとした顔で月読を見上げるので、早く案内するよう戸塚の爺さまは発破をかける。若者に案内され一進の書斎へと足を踏み入れる。礼をした若者はもう1度月読の顔を見上げ、ぴゅっと早足で去った。
「月読殿、よくお出でになった。さあさあどうぞ此方へ」
快活で貫禄のある声が座るように促す。
「随分久しい、4年ぶりくらいかね」
一進が目を細くして迎えた。月読がここへ最後に来たのは18の時だった。まるで放蕩息子になった気分になり、心の中がそわそわとする。
「それで月読殿、新しい【烏】の当主はどうでしたか? 」
急に真面目な顔つきになった一進が尋ねる。
九郎は実に優秀だった。本人の運動能力はさることながら、リスクを考えて余地を残した作戦、烏達を統制する卓越さ――――だがしかし。
「……取り合えずは及第点と言ったところかと。これから研鑽を積めば、良い当主になるかもしれません」
月読はある目的をもって辛口の評価を述べた。一進は闊達に笑い、世話役の件について切り出した。
――――来たか。
「一進殿、それについて本日は断るつもりで来ました。烏の当主である九郎に世話役をさせる必要も感じない」
スゥッと表情をかえた月読は冷淡な言葉で突き放す。
放したはずだった。
5時間後。
魂の抜けた顔の月読は座卓へ突っ伏していた。帰宅したばかりで身形はキチンとしてるのに、やつれた顔と萎びた野菜のような姿。それを見た加茂がこらえながらも笑っている。
「月読様……その様子だと、完全に押し切られたのですね」
「敵わないなぁ……」
烏の前当主はつよかった。
あれから5時間、延々と説得されて根負けした月読は世話役を了承させられてしまった。5時間にも及ぶ説得中になぜか全く関係のない昔話が追加され、観客が月読1人の一進人生トークリサイタル会場となっていた気がする。
「いったい何を聞かされていたんだろう……」
よほど萎びていたのか、加茂がお茶と茶菓子を優しげに置いていった。
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もろもろの用語説明です。
※神楽殿…神に奉納する歌舞を奏する殿。
※欄干…橋や建物の廊下、階段へ設置された落下を防ぐ手すり柵。
※籐…ラタン。ヤシ科の植物で家具などに利用される。
※外郎…和菓子。上新粉などに砂糖と水を加えて練り蒸した物。
※十二単…古代女官の何層にも重ねられた衣服。四季の移ろいを鮮やかな色を重ねて表現している。
※仕来たり…昔からの習慣。慣例。
※叡山…比叡山のこと。県境にまたがる山で大きな寺が在る。
※名跡…代々受け継がれていく家名。同一の血族集団を表わす名称のこと。
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