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第1章 冴えない夫
6話
しおりを挟むやってしまった。
一番してはいけないことをしてしまった。
頭の中は真っ白。馬も乗らずに街の大通りを走る中、過ぎゆく人々が小さな悲鳴をあげていることなど、もうどうでもよかった。
「せ、誓約書……誓約書……」
アルフィーは屋敷に帰るなり、朝帰りした自分に驚く使用人達には目もくれず、地下へと走った。普段はエイヴァしか使わない書庫の鍵を開き、山ほど積み上げられた書類を漁りに漁りまくる。
確か、婚約関係を結ぶときに両家で取り決めを設けていたはずだ。エイヴァとの婚約に浮かれていたせいですべての内容を覚えてはいないが、はっきりと署名した記憶はある。
その一。本契約の期限は、本契約締結日から永年続くものとする。ただし、両家の責任者、若しくは夫婦どちらからも契約終了の申し出があった場合は、この限りを問わない。
そのニ。各家が多大な損害を及ぶ事態に陥り、夫婦生活を続けることで不利益を被る場合は、理由を問わず離縁できるものとする。但し、違約金の負担に関しては別書の通りとすること。
その三。夫婦どちらかが倫理を欠く行為、若しくは不義を働いた場合は──
「旦那様。何をしているのですか」
「ひぅっ」
首筋に当たった生温かな感覚と、鋭く冷たい声。アルフィーは無駄に声と身体を震わせ、人一人入れるかも危うい本棚と本棚の隙間に隠れこんだ。尚、外套の下は言わずもがな裸である。
「旦那様、おかえりなさい」
「……え、エイヴァ……」
振り返った先にいたのは、上品に佇むエイヴァだった。もう鼻の穴に詰め物は入れていない。
「旦那様、おかえりなさい」
「エイヴァ、どうしてここに」
「いつもなら屋敷に帰ったら真っ先に私にただいまと言ってくれるのに、今日は来てくれなかったので、つい……その」
追いかけてきてしまいました、とエイヴァはほんのりと顔を赤らめて小さな声で続ける。いつもより可愛く見えるその姿に、思わず抱き締めたくなった──が、今のアルフィーにその資格はない。
と言うか、なぜ今日という今日に限って無愛想な態度を取らないのか。素っ気ない表情を見せないのか。アルフィーは泣きたい気持ちになりながら、胸の内と裸を隠すように外套の裾を握り締めた。
「ご、ごめん、帰るのが遅くなって……その」
「仕事でしょう。仕方がないです。朝食の用意が整っていますから上に行きましょう」
「あっ、やめ」
不意打ちで片腕を引っ張られ、身体のバランスを崩すアルフィー。それまでいい感じで裸を隠していた外套がはらりと捲れてしまった。
「え?」
「み、見ないでくれ!」
絶妙なタイミングで振り返ってしまったエイヴァに、アルフィーは顔を真っ赤にして床に身を埋める。その反動か、目尻からぶわりと涙が溢れ出してしまった。
情けない。情けないにも程がある。調子に乗って慣れない酒を飲みまくり、挙句の果てには知らない女と不貞を働いてしまった。終いにはこんな破廉恥な姿を妻に見られてしまうとは。
こんな冴えない自分はエイヴァの夫でいる資格はない。
「エイヴァ様……」
「何ですか、その呼び……」
「俺と、別れてください」
時が止まった、かのように思えた。
先ほどまでは自分達の声だけしか聞こえていなかったが、蠢くような地響きが感じられる。外で雨が降っているのか、それとも近くに雷でも落ちたのか。
ただ一つ、言えることは。頭上からただならぬ圧力を感じることだ。身体が石と化してしまうような恐ろしい威圧感を。
アルフィーは今すぐにでも逃げ出したかったが、ここまで来たらもう同じ。死を覚悟して言葉を続けた。
「お、俺は、エイヴァの意に反する行為を働いてしまった。あれほど注意しておけと言われたのに酒を呑んでしまいました。副騎士団長の顔に吐瀉物までぶちまけてしまいました。騎士団追放はきっと免れません……!」
エイヴァは言葉を返さない。ため息一つこぼさない。呼吸の音すら聞こえない。無言のままだ。
アルフィーは恐ろしさで顔を上げられない。エイヴァの顔なんて到底見ることができない。
地獄のような時間は続く。
「し、しかも、酒飲んで、気絶して、気づいたら、寝てしまいました。隣には女がいました、裸でした、俺も裸でした、裸で抱き合って寝てました、た、たぶん、いや、恐らく、そういうことをしてしまいました、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、責任は取ります、ただ、俺の家には迷惑を掛けたくないんです、一生奴隷として働くから、許して、許してください……!」
こんなにも果敢ない懺悔をしたことが今までにあっただろうか。いや、ない。しかも素っ裸で。
アルフィーはめそめそと泣きながら額を地面に擦らせる。両拳を握り締める。もう一生このままの体勢でいたいとさえ思ったが、エイヴァの一声が沈黙を打ち破った。
「旦那様、顔を上げてください」
「……い、いや」
「顔を上げろと命令しているのです、早く」
「は、はい!」
アルフィーは声を裏返しながらも咄嗟に顔を上げる。と、その瞬間、アルフィーの目に映る光景がひっくり返った。
「……え?」
目の前にいるのは酷く冷たい表情を浮かべたエイヴァ。そして勘違いでなければ、自分はその彼女に押し倒されている。
アルフィーが訳もわからず瞬きを繰り返す最中、エイヴァは獲物を喰らう前の猛獣のように目をゆっくりと見開く。
「寝たのですね?」
「は、はひ……」
「どこぞの誰とも分かっていない女と」
「ご、ごめんなさ……」
「謝れと言っているのではありません! 私はただ貴方に問い掛けているのです!」
「ご、ごめんなさい! あっ、違う。そうです、エイヴァの匂いがする黒髪の女性と寝てしまいました!」
もう何から何まで正直に打ち明けてしまった。
再び始まる沈黙の時間に、アルフィーが懲りずにまた小さな声でごめんなさいごめんなさいと泣きながら繰り返したそのとき、ふにゃっと唇が柔らかい感覚に押し潰された。
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