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6話
しおりを挟む口づけをしようと、アレッサンドに顔をぐっと近付けたパトリツィアだった──が、唇が触れ合いそうになる寸前で彼女の身体は硬直してしまった。
アレッサンドは瞼をゆっくりと開き、唇を突き出したまま固まっているパトリツィアを見て、深い溜め息を吐き出した。
「……殿下。無理はなされない方が宜しいかと。私を抱き締めた時ですら顔が強張るくらいですから」
「っ……!」
パトリツィアの黄金の瞳が揺らぎ、次第に潤み始める。アレッサンドが両肩に置かれた彼女の手をゆっくりと剥がした刹那、とうとうパトリツィアの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「わ、わたくしは、わたくしは、ただ……!」
咽び泣き始めた王女に、謁見の間が再びざわめき始める。パトリツィアはアレッサンドから身体を離すと、彼女を慰めようと両腕を広げていた国王──の前を綺麗に通り過ぎ、レベッカの元へ走った。
「ひ、姫様……」
「レベッカ!」
レベッカの胸に飛び込むようにして抱き付くパトリツィア。わぁわぁと声に出して泣く彼女を目の前に、レベッカは困ったように眉を下げた。
「どうなされたのですか。姫様」
「わ、わたくしは、レベッカに結婚なんてして欲しくなかっただけなの。だって、だって、結婚したら、前みたいに一緒に過ごせなくなってしまうじゃない」
「姫様……」
パトリツィアはレベッカをぎゅうっ、と抱き締めながら顔を上げ、鼻を小さく啜る。涙で目の下は赤く腫れ、鼻先も微かに赤く染まっていた。その姿は紛れもなく、今までレベッカが目にしてきた泣き虫王女の姿なわけで。
「舞踏会の日にね、ひっく、貴方達二人を見て、もしわたくしがアレッサンドと結婚したら、んっ、レベッカは独り身になるから、ひっ、専属騎士に戻って貰って、んっ、また一緒にいれると思ったの。だからね、それを今日は話そうと、思って……。許して、レベッカ……」
宝石を鏤めたような瞳を向けながら、パトリツィアは一生懸命に言葉を紡ぐ。
彼女のせいで、愛する婚約者と引き離されそうになって、心が抉られてしまうような辛い思いをした。婚約解消が決まってから来る日も来る日も泣いていた。
簡単に許すことなんて出来ない。しかしだからと言って、自分が昔から騎士として護ってきた姫に泣いて縋られたら、きつく叱ることなんて出来なかった。
「……姫様。今回の件で、私は酷く心を痛めました。私だけではありません、アレッサンド、私の家、アレッサンドの家、皆が戸惑い、混乱したのですよ。分かりますね?」
「……ごめんなさ、い。許し、て」
パトリツィアの声が消え入りそうなほどに小さくなる。吃逆を繰り返しながら肩を揺らす王女にレベッカは溜め息を吐き、そっと彼女から身体の距離を取った。
「それでは、姫様。私からお願い事が二つあります。聞いて頂けますか?」
「……なに?」
小さく首を傾げるパトリツィア。レベッカは彼女の白い手をそっと自分の両手で包み込み、大理石の床に跪く。その姿は、服装は違えども嘗て王女に忠誠を尽くしてきた女騎士レベッカそのものだった。
「……まず一つ目に、私とアレッサンドの婚約関係を認めて頂きたいのです。もしアレッサンドが姫様と結婚するとなれば、私は他の男性を婿として迎える身となります。そうなると、今以上に姫様と会えなくなるかもしれません」
「っ……! 嫌よ、それは嫌っ! 婚約解消は無かったことにするわ! わたくし、アレッサンドとは結婚しない!」
首を必死に振りながら答えるパトリツィアに、レベッカは安堵したように笑みを綻ばす。これで、アレッサンドとの婚約関係は再び結ばれることが約束された。あとはもう一つ──レベッカはささやかな願いをそっと口にした。
「……二つ目にもし可能であれば、月に一度の城のお茶会に呼んで頂けますか? 遠くからでも必ず、姫様の元に駆け付けます」
「……レベッ、カ」
一瞬涙が止まりかけていたパトリツィアの頬を、再び透明な露が伝う。パトリツィアの可愛らしい顔は忽ち崩れていき、彼女は屈んだままのレベッカにぎゅっと抱き付いた。
「うん、絶対に呼ぶわ。だから、会いに来て」
「勿論です、姫様」
黄金の髪を梳かすように優しく撫でれば、パトリツィアは腕を回す力を強め、レベッカの頬に何度もキスをした。甘えて縋るその姿に、出会ったばかりの頃の王女を思い出してしまい。こんなことがあっても妹のように王女を可愛く思ってしまう自分に、レベッカが微笑みを溢したその時──二人を大きな影がすっぽりと覆った。
「……パトリツィア。お前という奴は……」
唸るような低い声に、パトリツィアは小さな悲鳴を上げてレベッカにしがみつく。顔を上げたその先には、鬼のように恐ろしい形相を浮かべた国王の姿があった。
「……そんな我が儘で多くの人々を振り回して……少し、甘やかし過ぎたようだな」
長い髪を揺らめかせ、迫り来る魔王──ではなく国王に、パトリツィアはレベッカに助けを求めるように上目で見つめる。
「やっ! レベッカ、守って!」
「……姫様。一度、お叱りを受けるのも手かもしれません」
「そんなっ! ああっ! お尻叩きはいやっ!」
パトリツィアの身体は呆気なく国王の手によって抱き上げられ、謁見の間の外へ。扉が閉められるまで「助けて! レベッカ!」という王女の叫び声が聞こえ、レベッカは苦笑いを溢した──その時だった。
「……レベッカ。優しいな、お前は」
二人が去っていった扉を見つめていた最中、ふと頭上から落ちてきた優しい声。顔を上げると、愛しい婚約者──アレッサンドが穏やかな表情で微笑んでいた。
「アレッサンド」
アレッサンドに腕を掴まれ、レベッカは引き寄せられるように立ち上がる。そして二人は柔らかな表情で見つめ合い、笑みを溢し、温もりを分かちあうように抱きしめ合った。
「……アレッサンドは姫様のお気持ちに気付いていたのですか?」
広い背中に腕を回したまま尋ねるレベッカに、アレッサンドは彼女の頭を撫でながら小さく頷く。
「ああ。殿下は一目惚れと言っていたが、昔、一度だけお会いしたことがある。その時点でおかしいとは思ったんだが……今日やっと、確信を得られた」
「まぁ。もし姫様が本当にアレッサンドを好きだったら、どうされるおつもりだったんですか?」
「……その時は、お前しか愛せないことを陛下に伝えるつもりだった」
小さな声でアレッサンドは呟く。
自分を包み込む婚約者の身体と声は微かに震えていて。
馬車で取った自分と父に対する行動も、下手をすれば首が飛びかねない王女と国王に対するあの行動も。彼なりに精一杯やったことなのかもしれない。
──なんて愚直で不器用で、愛おしい。
レベッカは堪らずアレッサンドの頬に口づけた。愛しい愛しい、婚約者。もう二度と、離れたくないと。自分の愛を伝えるように。
アレッサンドは肌を伝う柔らかな感触に笑みを溢すと、僅かに腕の力を緩めて身体を離し、レベッカに真っ直ぐな眼差しを向けた。
「レベッカ、愛している。私と結婚してくれ」
「……勿論です。アレッサンド」
改めて紡がれる愛の契りに、レベッカの頬を涙が伝う。アレッサンドはレベッカを愛おしむように瞳を細めると、そっと彼女の唇に自分の唇(それ)を重ねた。
唇から伝わる温もりに、レベッカはまた涙を流し──ただただ今の幸せを噛み締めた。
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